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1971年滋賀県大津市生まれ。大阪外国語大学ロシア語科除籍。IT業界で働きつつ、2006年よりチェルノブイリ被災地で「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」、被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材。

キエフ・マイダン続き 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』

 マイダンの続きです。

マイダン横の祭壇
マイダンの花時計の下に設けられた祭壇

 マイダン横の亡くなった方たちの遺影のある道を歩いていると、花時計のところに祭壇が設けられていて、たくさんの花が手向けられていた。たまたまそこを通りかかったとき、石碑の碑文を読んでいた男性がハンカチで涙を拭いていた。

マイダン石碑
Мамо, не плач. Я повернусь весною. (ママ、泣かないで、春には戻るよ)

 我々は急いでいて、碑文を読む余裕はなかったが、そしてウクライナ語で書かれていたので、読んでも意味がちゃんと理解出来なかったかもしれないのだが、写真に撮り、帰国してから読むと男性が涙していた理由がわかった気がした。以下に訳してみます。


自由なウクライナのために殉じた人々は
天の百人と呼ばれるようになった。
最高齢は83歳だった。
最年少はまだほんの17歳だった。
殺人者の弾丸や棍棒で3人の女性が亡くなった。
産み、子を育て、孫と楽しむ母たちだった。
親を失くした子供が残された。
夫を失くした妊婦が残された。
高齢の親、兄弟姉妹、友人、職場の同僚が残された。
執筆途中の卒業論文や博士論文、
建築途中の家、花が咲いたことがない庭、
キスをまだしていない恋人、
数えきれない天の星々が残された・・・。
そして、すべてのその永遠の高き世界の下に
悲嘆に暮れる母たちの涙がある


 ちょうど今、御嶽山の噴火で亡くなられた方々の身元が判明し、それぞれの方がどんな方で、最後の日にどのようなことをしていたかが報道されている。ただ「○人死亡」と聞いてももはや慣れっこになって一ニュースとして流れていくだけだが、こうして一人一人のことを知ると感情が動く。

 マイダンでも同様で、一人一人の遺影を見つめ、碑文を読むとこみ上げるものがある。

 そして、上の文章の続きに『ママ、泣かないで、春には戻るよ』という題の詩が刻まれている。

 ユーロマイダンは11月から始まり、遠方からも多くの人々がこの広場に集結した。その中にはいてもたってもいられず、反対する近親者に「春になったら戻るから」と出て行った人たちも大勢いたことだろう。

 今回、チェルノブイリ被災者互助団体・ゼムリャキの事務所に日本の支援団体であるえんどうまめやジュノーの会からの支援金を渡してきたのであるが、いろんな話をするうち、どうしても東部に行って義勇兵として戦闘に参加するといってきかない近親者がいる方がいて、家族中でなんとかなだめている、という話も聞いた。

 今のところ、呼ばれているのは軍関係者で一般の若者に対する招集命令が来るところまではいっていない、とのことだったが、まさに戦争中の国にいることを実感したのだった。

 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』は、調べると歌があり、英語バージョンもあるので、関心のある方は聞いてみてください。

●ウクライナ語版
“Мамо, не плач. Я повернусь весною”

●英語版
“Mama, Don’t Cry”

2014年秋のキエフ・マイダン

 あまり時間は取れず、ざっと歩いただけですが、現在のキエフのマイダン(独立広場・ユーロマイダン)の様子を簡単にご紹介しておきます。

マイダン01

 キエフの人に聞くと、街はすっかり平穏を取り戻している、とのことで、実際、多数の死者が出た独立広場も警官の数がいつもより多いものの、雰囲気は平常に戻っている。

マイダン02

 広場には立て看板で写真の展示があり、多くの人々が見入っていた。

マイダン03

 まだ記憶に新しい当時の広場の様子。

マイダン04

 東部の様子を伝える写真も。

マイダン03

 ガラスはまだ割れたまま。

マイダン04

 割れたガラスの前でキスを交わすカップルの姿も。

マイダン05

 広場横の真っ黒に焦げた壁の建物は修理中。

マイダン06

 広場に隣接する中央郵便局の柱にはオレンジ革命当時の落書きが保存されているが、

マイダン07

 その隣の柱にはЕС(EU)という文字が踊る新しい落書きがそのままになっている。

マイダン08

 ATO(反テロ作戦)に寄付金を募る男性。

マイダン09

 ドンバス大隊の人道支援募集。

マイダン10

 なぜかヤヌコーヴィチ元大統領邸へのマイクロバスの発着地点になっているようで、すでに入場料を支払えば入れる観光地となっている。

マイダン11

 広場横の道沿いに亡くなられた方一人一人のための一角がある。

マイダン12

 石油パイプラインの労働者だった23歳の男性。

マイダン13

 ドネツクの学生。東部からもキエフに少なくない人々が来ていた。

マイダン14

 テルノーピリの学生。享年17。

マイダン15

 グルジアの方も何人も亡くなられた。

マイダン16

 道路東側の木々にも亡くなられた方の写真が多数置かれていた。

マイダン17

 マイダンから北に伸びるインスティトゥーツカ通りを”вулиця Героїв Небесної Сотні”(天の数百の英雄通り)と改名するという話が出てたがその後、どうなったか

マイダン18

 ヘルメットや盾と共に・・・

マイダン19

 若木の街路樹が植えられ、街は再生する。

チェルノブイリ博物館・福島展、未だ続行中

 ウクライナから帰ってきて1週間経過した。いつもは行ったら行きっぱなしで映像整理はもちろん写真整理もままならなうちに日々の生活に突入してしまうが、新鮮なうちに可能な範囲で諸々書き残しておこうと思う。

 というわけで、まずはチェルノブイリ博物館のことから。今回の渡航目的の一つに福島展の展示のために福島県の方からお借りした展示物を持ち帰る、というのがあり、特に法螺貝は持ち運びに気を遣ったが無事持ち帰ることができた。快く持ち出しを許可していただいた福島のWさんにお礼申し上げます。

チェルノブイリ博物館福島展
チェルノブイリ博物館の入り口の福島展ポスター

 福島展は去年夏頃から今年の上旬まで展示されていたようだが、今も1階の一部のコーナーで展示が続いている。

鯉のぼりと七夕の短冊
鯉のぼりと、「東京を支えてきた福島原発の本当のことが伝わりますように」という短冊

 福島のあぶどらさん(@datechibu)やバグパイパーのかとけんさん(@katokenjiro)の写真などが今も展示中です。

二本松の提灯と鯉のぼり
天井にはまだ鯉のぼりが泳いでおり、二本松市より提供いただいた提灯もぶら下がっております

 今の1階のメインテーマはチェルノブイリ周辺の野生生物で、剥製や写真、様々な地図や説明などが展示されている。

チェルノブイリ原発周辺の野生生物の放射能汚染地図
1996年10月1日時点のチェルノブイリ原発周辺の野生生物の放射能汚染地図

 上は事故から10年後の動物の汚染マップで、30000Bq/kgを超える生物がいたことがわかる。

チェルノブイリ立入禁止区域
チェルノブイリ立入禁止区域はルクセンブルク一国分の面積に当たるのだとか

 いつものように、ウクライナの子供たちがチェルノブイリ博物館に課外学習に来ていた。

チェルノブイリ博物館での課外学習
チェルノブイリ博物館に課外学習に来る子どもたち。手前は我が息子をあやすアンナさんw

 この柱の写真はアンナ・コロレフスカ副館長が特にこだわった写真で、木に結びつけたリボンを見つめる女性の写真。

リボンを見つめる女性
リボンを見つめる女性

 種明かしをしてしまうと、この女性はとある行政長の奥様でリボンで風向きを調べているのだが、見るものに問いかける何かがあるとのことで、この柱のこの位置に展示されることになった。この写真は博物館入口からは見えない位置にあり、ひと通り一階の展示物を見ても気づかずに二階に行ってしまうことが多いようで、階段から降りてきたときに初めてこの写真を目にすることになるのだという。階段から降りてきた来館者はここで初めてこの写真を見て、「これはなんだろう?」と思いを巡らせることになる、という仕掛け。

 この建物は元々博物館にするために設計されたわけではなく、ずいぶんと「らしくない」空間だったりするが、その中で来館者がどのように行動するか、その動線を知り尽くしている方ならでは配置の妙で、うならされたのだった。というか、鯉のぼりが天井を泳いでいるのを見た時も度肝を抜かれたが。

 チェルノブイリ博物館では音声ガイドも用意され、日本語のもありますので、訪問された際は是非どうぞ。(というか、イタリア語のとか前見たときより増えてるし!)

チェルノブイリ博物館・音声ガイド
チェルノブイリ博物館・音声ガイド(英日ロウ独伊仏語に対応)

ポロシェンコの14項目の和平案

 どうでもええ身辺雑記しかないブログではあるが、ちょっとは役に立つ記事も入れていきましょう。

 というわけで、ウクライナのウニアン通信社のサイトにポロシェンコの和平案が出てたので、ざっと訳してみました。(誤訳指摘歓迎)

  1. 全交渉参加者の安全の保証
  2. 武器を置いた者、重犯罪を犯していない者への刑事責任の免除
  3. 人質の解放
  4. ウクライナ・ロシア国境間に10kmの緩衝地帯を設置。非合法武装集団の撤退。
  5. ロシアとウクライナの傭兵が退去するために保証された回廊
  6. 武装解除
  7. 共同監視を実施するために内務省の組織に部門を設立
  8. 不法に占拠されたドネツク州とルガンスク州の行政庁舎の解放
  9. 地方行政の再開
  10. ドネツク州とルガンスク州の中央テレビ・ラジオ放送の再開
  11. 地方分権(実行委員会選出による、ロシア語の保護、憲法改正の草案)
  12. ドンバス代表者との選挙までの知事の合意(単一の候補者の合意の条件で、合意できない場合は大統領が解決)
  13. 期限までに地方・国会議員を選挙
  14. 地域での雇用の場所を創設するプログラム

 11、12あたりは、いまいちちゃんと理解しきれずに訳してるため、モヤモヤする日本語になっているが、親ロ派はあくまで独立が目的だと表明してたんじゃなかったっけ? 現在、当地を実効支配をしてる親ロ派が、連邦制であれ、ウクライナ国内という位置づけでの選挙に応じるのかどうか。勝手に独立を問う住民投票とかやりだしたりはしないか。

 一応、「ポロシェンコはミンスク停戦合意は氏の和平プランに基づくと述べた」という記事が出ていて、このプランが元になったみたいだが、合意は12項目という話もあるようなんで、親ロ派がすべてに合意したわけではないのかも。

 結局のところ、住民がどう考えているのかが重要なのだと思うが、ひとまず住民の念願であった戦争状態の収束が実現する可能性が出てきたことで、次の段階に進めるとなると、今後どのように事態が進むのか。

 個人的には東ウクライナで公用語がウクライナ語だけとか、元々ちょっと無理筋な話で、今回こうしてロシア語の保護を打ち出すなど、政府も現実的な対応をしようとしてることもあって、住民はウクライナに留まりつつも自治権拡大を求める、あたりを落とし所とするんかな、とか思ってるが、そうすると今度はウクライナ国内の反ロシア派が黙ってないだろうし、停戦合意が実現できたとしても、今後も茨の道が続きそう。。。

赤子が電車内で大量にミルクを吐く事案が発生

 ウクライナ情勢が目を離せず、ブログ更新が滞っているが、昨日、初めてのプチ父子旅行をしたので、まだ新鮮なうちにそのことを記しておきます。

 プチ旅行といっても京都まで往復しただけだが、滋賀北部までは2回乗り換えが発生する場合があり、今回の帰りは特に、割りと丈夫だと思っていた赤子が電車内で急変し、この距離の遠さ、時間経過の遅さにやきもきしたのだった。

 結論から言うと、普段飲みなれない粉ミルクの授乳の仕方に問題があり、電車内で大量吐乳と相成った。もう6ヶ月近くになる赤子だが、まだ授乳後にいくらか吐くことがあり、普段から少々飲み過ぎる気があること、粉ミルクの場合は適切に量と時間を調整しないといけない、ということを失念していたせいだった。

 だいたい赤子とお出かけするときは、家を出る直前に授乳することが多く、今回もそうした。電車に乗り、流れる景色を見たり、車内を見回したり、割りとゴキゲンなまま京都到着。まず駅前のヨドバシカメラに立ち寄り、トイレにいってオムツチェックをしていると、早速グズったので、一回目の授乳(200ml)。前の授乳から三時間ほど経過していたものの、結果として、これがそもそも早すぎたようだ。

 その後、ひと通り必要な買い物をし、書店に入って、さあ立ち読みタイムだといろいろと物色しようとしたら、またグズりだしたので、前の授乳から結構時間も経過していたこともあり、トイレに行って二回めの授乳。これも自分としては十分時間が経ったと思っていたが、久々に都会に出てきて、人やモノに酔って感覚が麻痺してたのか、三時間も経ってなかったようだ。多すぎるかもと思ったが、200mlをあっさり飲み切る。

 この200mlについては、粉ミルクの単位が100ml分で小袋になっており、100mlではいつも足らないので、200mlでやってしまうのだが、そもそもこの200mlも多すぎ、という話も。途中で止めればいいのだが、自分でもういいと離すこともあり、タイミングは未だにようわからん。

 今回、授乳準備やオムツ替えにはヨドバシカメラの多目的トイレを使わせてもらった。最初に行った階のが、我ら懐事情の厳しい親御さんの味方・西松屋のすぐ隣にあって、いつまでも使用中で空く気配がなく、ちょうど清掃のおばさんが出てきたので尋ねると、上の階にもあるとのことで、さっそく行こうとするが、ベビーカーでひとつ上に上がるためにまたエレベーターに乗るしかないのか、エスカレーターを横目に見ながらしばし迷っていたところ、ちょうどベビーカーでエスカレーターをあがる人がいて、やっぱそりゃやるわな、と自分もそのまま乗る。そうして上階の多目的トイレに直行すると、ちょうどさっきの清掃のおばさんが掃除を終えて出てきたところで、うまい具合に空いていた。

 今回、授乳目的なので、こういう場合、授乳室を使うもんなんか、と一瞬思ったが、授乳室というのは母子のための部屋で女子トイレのテリトリーにあり、自分はそこを使ってはいけない側の人間であることを知る。まあ当たり前だわな。

 ちなみに京都のヨドバシカメラでは多目的トイレは4階から7階にしかないのだが、多分何か理由があるんだろう。あと、階によって多目的トイレのレイアウトが違い、レストラン街の階のには嘔吐専用と思われるトイレも併設されているとか、オムツ交換台も縦開きのと横開きのがあるとか、一般的にはどうでもいいだろうけど、自分的にはちょっと興味深い発見があった。また、授乳自体もその部屋でやってもいいが、各階に一部屋しかないので、トイレを出たとこの待合コーナーとかでやるのがよさそう、というのも小さな気付き。

 買い物中は概ねゴキゲンで時々寝入ったりもして、ちょっと遅くなったか、と思ったが、電車に乗って、帰途につく。車内は混雑というほどではないが、ベビーカーの置き場にやや困る程度には混んでいて、折りたたんで乗るべきだったと思ったが、もう身動き取れず、自分自身を折りたたんでしまいたくなった。しかし、そうするうちに座席にも空きが出てきて、ベビーカーだと出入口そばが便利なのだが、そこは空く気配がなく、車両連結部近くの座席を確保。

 さて、買ってきた本でも読むかと思いながらボーっとしたりしていたところ、突如赤子がマーライオンのごとく白い液体を大量に吐く。思わず「ウワー、大丈夫か」などと静かな車内で声を上げるほど狼狽し、赤子もベビーカーもビショビショ、立ち上がって正面に立った私も2発目をまともに受け、お腹あたりにそれなりに浴びる。ちょうど電車が駅に到着したところだったので、かばんをひっつかみ、途中下車。とっさに座席に置き忘れた本を届けてくれた高校生ぐらいの方、ありがとう。床もいくらか白濁させてしまったのにそのまま下車してしまい、残った方やJRの方にはご迷惑をおかけしたことと思います。申し訳ございません。

ベビーカーについた吐乳
ベビーカーについた吐乳

 初めての事態で大いにパニクったが、何はともあれ嫁さんに電話。話しているうちに、熱はないし、赤子の具合もぐったりしてるとかはなく、おとなしいときの赤子の普段の様子で案外普通にしているので、このまま病院に直行とかも考えたが、ひとまず帰宅することにする。

 次の電車まで10分、駅の多目的トイレに行ってる時間はなさそうで、そのままプラットホームの椅子にオムツ替えシートを敷いて、裸にして身体をタオルで拭いてやり、なんとか着替えが終わったところで電車が来て飛び乗る。

 今回、着替えは一度させていたが、もう一枚念のため持ってきていたのが役に立った。あと、これはいらんやろと思いつつも持ってきた抱っこひももベビーカーがびしょ濡れになったため、出番がやってきて、活躍。こちらが心配する様子が伝わったのか、赤子は神妙な顔つきをしていたが、そのまま変化なく長浜まで到着。

 長浜からの電車は結構混雑していたが、まずいことに赤子がグズりだした。隣の男性がちらちらとこちらや赤子を見たりしているのを目の端で確認しつつ、かばんの中のアイテムを探すと、先ほど作っておいた麦茶を薄めた哺乳瓶が見つかり、とりあえず咥えさせると静まった。また吐くといけないので、途中で離すとまたグズりだすを2,3度繰り返し、結局、100mlを完飲。

 そうするうちに駅につき、周囲の人に謝りつつ、下車し、帰宅。家に帰って、まずは身体を洗い、授乳してもらうとまた大量に吐いた。しかし、母子はうろたえることなく、淡々と事態を処理。赤子も再度洗ってもらい、上がって着替えて、いつものように飛行機ブーンをしたり、あちこち転がりまわってしてくつろいでいたのだった。

 やっぱり母は偉大なり、ということで。

<<本日の教訓>>

・いつもと違うことをするときはそれなりの準備をせよ。
粉ミルクの量と時間間隔は守るべし。一方、多めにグッズを持っていったのは正解だった。

・こういうこともあるので、赤子を公共スペースに連れて行く時は赤子の向きに注意を払うべし。
いきなり吐くことがあるので、特に電車内では人がいる方向に向かわせず、汚い髭面で抱っこひもで自分に向けておくのが無難かも。