宮腰吉郎 MIYAGOSHI, Yoshiro
1971年2月滋賀県大津市生まれ野洲育ち。サラリーマン家庭で5人兄弟の4番目として育つ。
中学まで地元の学校、高校は膳所高に通う。中高とサッカー部に所属。
高二の途中で突如文化系に目覚め、小説や漫画を読みふけったり、土曜は授業を抜けだして映画を見に行ったりするようになる。『ゆきゆきて、神軍』やチェルノブイリ原発事故関連のドキュメンタリー映画を見たのもこの頃。本の中で世界一周をし、冷たい社会主義の国なのに人々が温かそうでタルコフスキイなども輩出する謎の隣国ソ連に興味を持ち、ちょうどゴルバチョフのペレストロイカが進んでいた時期でロシア語を習得してみたいと強く思うようになり、大阪外国語大学外国語学部ロシア語学科に入学。
大学に入学した1989年には天安門事件やベルリンの壁崩壊、米ソ冷戦終結など歴史的事件が次々に起こり、ほどなくソ連が崩壊、ロシア語で食べていくには狭き門に人が殺到するという図式になりそうだと早々に見切り、ロシア語関連の職に就くのを諦める。授業にはあまり出ず、映画を見に行ったり、本を読んだり、生活費を稼ぐためにせっせとバイトに精を出すような日々を送る。夜のシフトでレンタルビデオ店でバイトをし、毎日のように無料でビデオを借りて様々な映画を見つつ、昼間は短期・中期のバイトを入れ、20代半ばまでに100近いアルバイトや職を経験する。
大学では映画研究会に所属し、仲間内での8mm映画やビデオ制作に関わっていたが、20歳の時に休学し、ドキュメンタリー映画会社でADとして働く。当時すでに少なくなっていた16mmフィルムでの映像制作の現場は興味深い面もあったが、某電力会社他のPR映画制作がメインで、仕事そのものは若かりし当時の自分には興味深いものではなく、また当時から原発に対して否定的でもあったため、悩んだ末、数ヶ月で離職。
復学後は授業に出るようになり、卒論以外の単位はすべて取得、最終年を卒論だけに充てる目論見だったが、休学期間を計算間違いする、という痛恨のミス発覚で除籍扱いになったため、学歴としては高卒となった。
インターネット普及期の1995年より京都の弱小プロバイダで働き、ネットの急成長を間近で目撃する。社員ゼロでバイトだけで業務を回すようなところだったが、バイト仲間は自分以外は全員京大理系の秀才たちで、学生ながら雑誌に記事を執筆したり、後に某検索大手で日本語処理を担当することになるような仲間に囲まれ、大いに刺激を受けるも、途中から乗り込んできた新経営者と反りが合わず離脱。
その頃、一人暮らしだった祖母が病み上がりで、その祖母から同居を請われ、ハッタリが跋扈するネット業界に嫌気がさしていたこともあり、田舎での生活も悪くないだろうと、滋賀の山奥で高齢の祖母と二人住みつつ、業務アプリのプログラマとして生計を立て始める。静かな田舎での暮らしは性に合っていたが、2000年問題に起因するデスマで連日の残業生活に陥り、東京の客先の小部屋に常駐、パイプ椅子に長机でコーディングするような生活で大いに疲弊する。すぐにでも離職したかったが、ごっそり基幹社員が抜け、一人の離職が客先に与える影響がでかすぎる状況になっており、これも何かの縁だろうと、もう少し居残ることにし、業務が再び軌道に乗るのを見届け、円満退社する。
何のために仕事をするのか、改めて自分を見つめなおすため、国内各地を自転車などで長期旅行する。47都道府県すべて制覇後、初めての海外旅行でモスクワに行き、引き続きアメリカ・韓国・中国・極東ロシアなど近隣諸国をそれぞれ二週間から一ヶ月程度旅行し、見聞を広める。
2003年山形国際ドキュメンタリー映画祭に初めて出かけ、『鉄西区』や『生命』など中国や台湾の映画に衝撃を受け、個人での映画作りが可能となった現実を思い知る。
2006年、名古屋のNPO団体チェルノブイリ救援・中部主催のチェルノブイリ・スタディツアーに参加、菜の花で放射能に汚染された大地を浄化する、というアイデアの「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」が企画されていることを知り、特に取材するマスコミもいないことから、継続取材をすることに決め、フリーのプログラマとしてIT業界で糊口をしのぎつつ、一年のうち三ヶ月程度ウクライナに滞在する生活を始める。2009年には、宇部市の平和を願う草の根グループえんどうまめの依頼でキエフのチェルノブイリ被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材し、農村部・都市部双方での放射能被害の実態を徐々に理解し始める。
2011年2月末、十何回目かのウクライナ滞在を終えて帰国。菜の花プロジェクトも終わりが見え始め、長年のウクライナ通いで貯金が底をついてしまったこともあり、周囲にリーマンに戻って生活再建しながら、撮りためた映像の編集に着手すると宣言し始めた矢先に福島原発事故が発生。チェルノブイリの現状を知る者の一人として、何か出来ないかと福島にも通い始める。
そうした中、要介護度5になった祖母をどうするかで大揉めに揉め、結果、自分が主導する形での在宅介護生活が始まる。ケアマネさんや訪問看護師、ヘルパーさんたちに大いに助けてもらいつつも、病状の進行に伴う胃瘻造設など苦渋の決断を迫られ、精神的に大変な日々が続く中、私の結婚を誰よりも望んでいた祖母に自身の結婚の報告をする。祖母は安心したのか、その3週間後に息を引き取った。
葬儀では喪主を務め、その後も、様々な事務手続きや法事、祖母の家の整理などをし、引き続き、勤め人生活再開、息子の誕生などなど、私生活の激変が続き、なかなか着手できずにいるが、チェルノブイリ事情を日本に、福島の事情をチェルノブイリ被災地にもっと伝えられないか、頭を捻っているところで、このウェブサイトを始めたのもその一環のつもりなのでございます。
というわけで、よろしければ、時々訪問していただければと思っております(ペコリ)。