若手官僚ペーパーにあった「若い世代には、そんな日本を見限って、生活の場を海外に移す動きも出てきている」は本当か。そして、移民は現実的に可能なのか。

 もうすぐ二人目の子供が生まれてくる。そのための準備をしつつ、一人目の子もまだまだ甘えたい年頃で、いろいろ個人的に先を見据えた勉強を始めているのだが、なかなか進まない。

 ここのところずっと考えているのは、子供のためにこのまま日本で暮らし続けるのがいいのかどうか、ということ。私は家族を持つ前から常に自分が80になる2050年ぐらいまでの日本の人口ピラミッドを念頭に置いて生きてきたのだが、私が高齢者となる時代の完全な逆三角形人口ピラミッド下の日本で下の世代に負担をかけて生きながらえるのは忍びないなぁ、となんとなく思っていた。もちろんそのために自殺するようなことはしないし、そもそもそんなに丈夫な方ではないので長生きする心配はしなくてもいいのかもしれんのだが、それでも生きながらえてしまった暁には、せめて出来る範囲で自給自足でもしてあまり社会インフラに頼らない生き方ができるように準備しとかんといかんなぁ、なんて考えていた。

 その後、家族を持ち、子供が生まれ、さらにもう一人子供が生まれてくる。自分一人ならなんとでもなるが、子供の人生を考えた時、日本に居続ける選択をした場合のリスク、というものを考えざるを得なくなってきた。私は外国に少し滞在した経験から、他国ではそう味わえるものではない日本での生活の快適さをそれなりに理解している方だと思っているが、このレベルの快適さの維持が本当に必要なのか、と思うこともある。そのためにどんだけ無駄なコストがかかってるか、なんとなくみんな思ってるけど、まだお尻に火がついてないから、このままぬるま湯で少しずつ劣化していくのを日本全体で受容していくのだろうなぁ、と考えたりしている。

 少し前に話題になった若手官僚のペーパーに「若い世代には、そんな日本を見限って、生活の場を海外に移す動きも出てきている」とあるが、実際のところ、数字としてどれぐらいの割合なのだろうか。近い話として、若者の都市部から田舎への流れ、というのがあるが、これは実際に起きているものの、割合としてはとても少ない、というのと似ていて、海外脱出組というのも実数としてはまだまだ極少数派に留まっているのではないかと思う。一応、外国語大学出身というのもあり、そもそも外国暮らしをしている人に接することが一般よりは多い方だと思うが、少なくとも私の周りで最近脱出したというような話はあまり聞かない。

 日本のぬるま湯というのは本当に心地よく、暖かいコタツからなかなか出られないように、自らしんどい思いをしてまで挑戦しようという人はなかなかいるものではないが、今の日本の閉塞感とそこから派生する様々な軋轢はより若い層に圧をかけるものとなるだろうから、若手官僚が属するような首都圏のエリート層の若い世代にそういう動きが出ている、ということはあるのかもしれない。

 既得権益を享受する側には実感として理解し難いのかもしれないが、既得権益とまるで縁のない私にもそうした感覚は実感として理解できていると思っている。既得権益層とは代々受け継いできた、または相応の努力をして獲得した権益を保持しようとしている特定の集団や資産家がイメージされ、概ね大金持ちだったり小金持ちだったりして、政官財とよろしくやってる連中って感じだが、私が思う現代の既得権益層とは、あまりはっきりゆうと角が立つけど、具体的には、高齢者であったり、正社員であったり、大都市圏(とりわけ首都圏の中心寄り)居住者であったり、あるいはそれらを併せ持つ人たち、というイメージで、必ずしも金持ちではないが、従来からの法律や慣習に守られて、なんとかかんとか将来不安を相対的により少なく生きている人たちのことをイメージしているようだ(書いている今、気づいた)。

 しかし、この人たちは決して将来不安がないわけではないだろう。というか、むしろ、ささやかながらも保持しているアドバンテージを維持したいがゆえに、将来不安を相対的により多く持つ、自分が属さない集団・層への思いやりある眼差しを持つ余裕がなくなってきているように思う。

 ここで、現代の既得権益層と想定した人たちの立場に自分がなったことを想像してみる。自分が子育て世代だったりすると、自分の子供を守るため、という大義名分に自分が逆らえずにいることを自覚する。

 正社員についていうと、働き方改革の一丁目一番地は正社員の牙城を崩すことだと私は思っている。日本経済というパイ自体が小さくなっているのに正社員に割り当たるパイの大きさはそのまま、ということになるとしわ寄せは当然正社員以外に向けられ、その小さくなったパイを急増する正社員以外の人たちで小さく奪い合うという構図。そういう中で正社員という立場を今、持っているのであれば、よほどの大きなミスをしない限りは解雇されることはないので、そういうマインドで日々大過なく過ごすことを余儀なくされるだろう。正社員以外の待遇にいくらか心を痛めないわけではないが、自分の家族を守るため、という大義名分の前には、そんな憐憫の情は吹き飛んでしまう。

 高齢者についても同様、自分が今の時代に高齢者だったとしたら、下の世代に申し訳ない気持ちを持ちつつも、年金はありがたくも満額受領するし、様々な高齢者優遇の恩恵は最大限享受することだろう。たとえ、それが税金が原資であったとしても、そういうシステムになっている以上、享受しないわけにはいかないだろう。

 首都圏の住人だったとしたら、あまり、これについては想像するのが難しいのだが、ただでさえ人多すぎ状態が慢性的に続いているのに、これ以上、地方の連中にゾロゾロと流入してもらうのは願い下げ、と思ってしまうのではないだろうか。口が裂けてもそうした本音は地方出身者には言えないだろうけれども。

 こうした課題を日本が近い将来(遠い将来も?)解決できる見通しはあるのだろうか。解決するには、相対的に恵まれたポジションにある人たちの収入を減らしてでも対応するのだというような国民的な合意が必要だが、自己責任論などで明らかなように、自分たちが相応の努力をしてそのポジションを獲得・維持していると当人たちが考えている以上、ちょっと厳しいんじゃないかと私は思っている。

 そんなわけで、移民という話が出て来るのだが、それなりに調べて検討してみたものの、様々な難題が立ちはだかってきて、やっぱ日本がええなぁ、という結論になったりするもので、海外で使えるような学歴もなく、職を得るのに役立つスキルについて、IT系の一部の知識が使えなくはないものの、言葉の壁もあって、私個人に関しては非常に困難と言わざるをえない。それに加えて、移民というのは、移民先の国に貢献することが求められるわけなので、そういうのがないと現実的には諦めが先に立つ。

 もっとも、それでも日本人というだけで世界全体として考えれば恵まれている位置にいる。今、トランプ支持層の白人低所得者層の世界を描いた「ヒルビリー・エレジー」を読んでるが、母親がペプシコーラで授乳したり、尿検査のために息子の尿をよこせ(ドラッグ中毒を隠すため)と要求してくるような家庭環境から著者はイラクの戦場に赴き、イラクの現状を目の当たりにして「地上で一番偉大な国」アメリカでの愛に囲まれた便利な生活を発見する。どうしても国内だけ見ていると、身近に見えるきらびやかな世界に比べて自分たちがみじめに思えてくるが、それでも世界全体としては先進国に生まれた、というだけで、非常に恵まれているのは確か。私も当時はそうは思わなかったけれども、ウクライナの農村の貧困を目の当たりにしたことも自分の人生観に大きく影響を与えたようで、貧困状態にあっても人は楽しく有意義に生きられることを知っているのと知らないのとでは大きく差がある。

 そういう意味では今の快適な生活を死守しようとする人たちがもっともタチが悪いように私には見えるのだが、そこを掘り進めるとさらに字数が無駄に増えてしまうので、今日はこれぐらいにしておこう。

一箱古本市に初めて参加して思ったこと。やはり、本の選定が肝だが、見せ方や値付けなどの工夫も必要だとわかった。

 滋賀北部の木之本で一箱古本市があると知り、参加出来るかどうかわからなかったので、締め切りギリギリまで待って問い合わせると、すべて席が埋まっているとのことで一度は参加を諦めた。実際のところ、準備も出来てなかったし、第一回と銘打っているので、第二回もあるだろうから、次回のために準備しておこうか、などと思っていた。ところが、開催日の数日前に主催者の方から、キャンセルが出たとのお知らせを受け、急遽参加することになった。

 本の選定については、時間もないので、ネット価格は安いけど、ランキングは高い本にすることに決めた。一応、少し前にそういう本を集めてあった。しかし、何冊ぐらい出せる/出してもいいのか、最初は皆目検討がつかず、とても困った。ネットで「一箱古本市」で検索すると、段ボール箱一箱に限るのだ、それがその人の宇宙を表すのだから、というような主旨が書いてあるサイトがあり、新参者がそういう雰囲気を破るといろいろよくないのかもな、ああどうしようかいなと悩んだりした。

 問い合わせると、やはり別に一箱に限らないとのこと。本棚を持ってくる人もいる、と聞き、「へ~そんなことしてもええのか!」と目からウロコで、75cm程度のテーブルを準備し、その上に段ボール箱を、そしてテーブルの前とサイドに背の低い本棚を置くことにした。こちらとしては、とにかくたくさん出したいのでこのようにしたのだが、周囲が慎ましく段ボール箱1,2箱だったら浮くだろうな~、とか考えたりした。

 行ってみると、いやいや、みなさんかなり自由にレイアウトしていて、背の高い本棚を複数持ち込んでる人もいて、拍子抜け。もっとも、地べたに敷いたシートの上に選りすぐりの本や雑貨を置いてる方もおり、冊数的には私は多い方ではあったが、楽器を置いて演奏したりする方もいて、雰囲気としてはフリマに近いように感じた。

 開始時にはまだ値付けは決めてなくて、当初はアイキャッチのために持ってきた何冊か以外は1冊200円、3冊500円にしようかと思っていた。そのうち、アイキャッチのための本がどんどん売れていって、他はなかなか売れそうにないように思えてきたので、1冊100円にすることにした。

 しかし、その後、わかったのは、1冊100円じゃなくても売れたということだった。前半は値札は出さずに聞かれたら100円と答えることにしていたのだが、みな一様に「えっ」と絶句され、「本当に100円でいいんですか」なんて聞かれる始末。そのうち、「この本を100円で売ってはいけませんよ」と忠告する方も複数出てきて、あ~、失敗したなぁ、と思ったが、後の祭り。おそらく、本によってはもっと値段を上げても買う人は買っただろうことが推測された。

 私としては、良い本だが私の手元に置いておいても有効活用されず、かといって、ブックオフに持ち込むのは気が引けるような本を大量に抱えていて、処分に困っていることもあり、100円にしたのだが、次回は当初の予定通り1冊200か300円にしようと思っている。その代わり、ネット価格が安くない本も混ぜようとも思っている。

 今回、お隣さんが一箱古本市の常連さんでとてもお世話になった。トイレとか用事がある時に、店番してくれはったり、コツを教えてくれたり。本の選定と値付けは一番おもしろくも難しいところだが、その方曰く、自分的に価値があっても、買い手には価値がないかもしれないし、その逆もあったりで、値付けは経験を積んでも難しいものらしい。

 その他、自分的に思ったことを羅列しておくと

・見せ方は重要
 いい位置に良い本(値段高めでもいい)を置いておくと足を止めて、見てくれるみたい。

・コーナーを作る
 雑多な本でもいくつかコーナーを作っておくと、見やすいし、買ってもらいやすくなる。

・複数のテーマ、しかし、多すぎず
 子供から高齢者までいろんな年齢層の人が来るので、幅広くラインナップしておくのもよさそう。でも、得意分野というものがあるので、あまり広くしすぎても散漫になるだけなんで、数分野程度におさめておくのがよさそう。

 買う側として、店主と話すのが面白かったりするが、なるほど、いろんな人が来るもので、そういう人たちとのコミュニケーションを楽しむ場でもあることもわかった。地方開催とはいえ、本の目利きも来るので、面白い。普通値下げ交渉するものだが、こちらの言い値より高めに買ってくれる人が数人もいて、こういうのはリアル書店ならではだろう。ネットでも顔見知りの方などはそういうことをしてくださる方も稀にいるが、概ね買い叩く方向に向かいがち。

 今回、第一回目だったが、二回目も検討しているとのこと。今回は自分的には試験的にやってみたところもあるが、次回参加する機会があれば、もう少し売ることをちゃんと考えて臨もうと思う。

第一回木之本ひとはこ古本市
第一回木之本ひとはこ古本市

アレクセイ・バターロフ出演の放射能の危険性を描いた映画『一年の九日』や『鶴は翔んでゆく』について

 バターロフが亡くなった。私がバターロフを初めて見たのは「一年の九日」だったと思う。1年のうちの9日に焦点を当てたもので、監督はタルコフスキーの師匠のミハイル・ロンム。この映画は放射能の危険性を描いた映画でもあり、ロシア映画社の一年の九日(ДЕВЯТЬ ДНЕЙ ОДНОГО ГОДА)の記述のネタバレにならない部分を以下に引用しておく。

1960年代、シベリアの地方都市にある原子力研究所。核融合の重要な実験が進行している。この実験は危険と隣り合わせで、有名な物理学者シンツォフも実験中に浴びた放射能が原因で命を落す。彼のもとで研究活動を続けている若い物理学者グーセフにしても同じ危険にさらされている。

 1961年の作品でちょうど大気圏核実験が盛んな頃であり、その翌年にはキューバ危機があった。核戦争の危機がリアルに迫っていた時代の映画で、ソ連側でもこのような映画が作られていたのだった。

 劇場で一度見たきりなので、また機会があれば見てみたいと思う。ちなみに、この映画は学生時代に日本橋の映画館で見たのだが、ロシア語を勉強中でこんなことしたらあかんのだが、館主に無理を言って、カセットテープを持ち込んで録音させてもらった、という記憶がある。今のご時世、こんなことは認められんだろうけど。

 バターロフは「鶴は翔んでゆく」にも主演俳優として出ている。この映画のカメラワークは有名だが、やはりすごいもので、ストーリーも私の好きな部類の話。以下に、10年前に見た時のメモ書きをそのまま載せておく(ネタバレ危険につき、未見の方は読まないで!)。

かなり昔に見た記憶があるが、流麗なカメラワークに目を奪われ、内容の方は昔の邦題の「戦争と貞操」の話なんだな、程度の感想しかもてなかった。しかし、それなりに年を取った今、内容の方に注意が行く傾向が出てきたようで、主人公の悲劇がやるせなく、しかも最後にはその死が確定してしまい、その後彼女はいったいどのようにして生きていくのか、というところで、彼の戦友が「勝利の陰には死んでいったものたちがいることを忘れてはならない」という感動的な演説をし、未来の夫になるはずの許婚のために持ってきた花を隣に居合わせた初老の男性に言われて周囲の人々に渡していく様子は涙なくしては見られない場面だ。こういう話には弱い。カメラワークはもちろん、奇抜なカメラアングルもよく、「誓いの休暇」と共にこれから何度か見ることになるだろう。

 バターロフは他にもロシア語圏で大変好まれている「モスクワは涙を信じない」にも出ており、かなりな重鎮と言って良い存在だった。今、ざっとリアルタイム検索してみると、そんなには話題に上がっていないようなのだが、日本でも人気俳優だったはずで、回顧上映なんかがされるといいな。

オデッサのユダヤ博物館

 前回前々回のエントリーでオデッサのユダヤ系の血を引くボブ・ディランとバルバラのことを書いたので、ついでに以前訪れたことのあるオデッサのユダヤ博物館の記事を書いておきます。

 オデッサにはかつてこの辺りで最大のユダヤ人コミュニティが存在していたが、戦中戦後を経て、今はかなり少なくなっている。ただ、今でもオデッサの街の雰囲気はスラブ人以外にもギリシャ系その他、黒海周辺の系統の人々も多数居住しており、他のウクライナの街と比べるとアジア系の容姿で街を歩いていてもジロジロ見られることが少なく、港町らしい開放感がある。

 以下、当時の写真に沿って、コメントつけておきます。

ユダヤ博物館の表札
ユダヤ博物館の表札。通りから見ると非常に小さくてまず読めない。粗暴な集団避けなのだろうか。
オデッサ・ユダヤ歴史博物館の入り口
オデッサ・ユダヤ歴史博物館の入り口。鍵がかかっているので、電話等で来館の意を伝える必要がある(今もそうかは不明)。
オデッサのユダヤ人の数と割合
オデッサのユダヤ人の数と割合。数では1912年の20万人が、割合だと1920年の44.4%が最大。1939年から1959年までに半数になり、その後、さらに減り続けている。戦後についてはイスラエルへの移民によるものだと思われる。
20世紀初頭のヨーロッパ各都市のユダヤ人の人口
20世紀初頭のヨーロッパ各都市のユダヤ人の人口。多い順にオデッサ(14万人)、ワルシャワ(13万人)、ベルリン(9.4万人)、キエフ(8.1万人)、ビリニュス(6.4万人)、パリ(6万人)。
1941-1944の間の死の収容所とゲットー(ドニエストル川左岸とオデッサ、ヴィンニツアの一部)
1941-1944の間の死の収容所とゲットー(ドニエストル川左岸とオデッサ、ヴィンニツアの一部)
ユダヤ博物館展示品
ユダヤ博物館展示品。実際にかけてもらえる。
ユダヤ博物館にて記念撮影
ユダヤ博物館にて記念撮影
オデッサのシナゴーグ近くのユダヤ料理店にて
オデッサのシナゴーグ近くのユダヤ料理店にて

 (上記の情報は2014年9月時点のものです。)

今年はシャンソン歌手バルバラの死後20周年、そして今日はバルバラの誕生日

 今、フランス語がマイブームで、学生時代から離れていたシャンソンを聞いてるが、当時良く聞いていた歌手の一人にバルバラがいる。日本でも「黒い鷲」などで知られていて、クミコの「わが麗しき恋物語」の原曲の作者ということでも知られている。

 私がバルバラを初めて聞いたのは、シャンソン集の中のジャック・ブレルの「行かないで」のカバーで、その歌い方は何か居住まいを正さずにはいられない迫力に満ちていて、バルバラ・ベスト盤などを買い求めるようになった。ちなみに「行かないで」は様々な歌手に歌われていて、フランス語版Wikipediaを見ると30人ぐらいにカバーされているようで、英語やヨーロッパ諸言語はもちろん、行かないで_(ジャック・ブレルの曲)を見ると日本語でも歌われている。また、フィギュア・スケートの曲としても時々使われているようだ。

 前の投稿でボブ・ディランについて書いたが、バルバラもボブ・ディラン同様にユダヤ系で、バルバラはヨーロッパということもあり、ナチスのホロコーストの脅威を直接受けており、その歌詞には死が常にまとわりついている。

 バルバラもボブ・ディラン同様、本名は別にあってモニック・アンドレ・セールという。セール(Serf)とはフランス語で封建時代の農奴を指すみたいだが、この姓がユダヤ系を示すのかどうかはわからない。また、バルバラの母方の祖母はオデッサ生まれのようで、Varvara Brotdsky(ヴァーヴァラ・ブロツキー)という名前だったとのこと。ボブ・ディランの祖母もオデッサ出身だったが、オデッサでボブ・ディランとバルバラがつながるとはなんというか、自分的にとても意表を突かれた感じ。

 バルバラには名曲が多いが、『小さなカンタータ』という曲が今のマイ・フェイバリット。2分程度の曲で、小品という印象だが、「シ・ミ・ラ・レ・ソル・ド・ファ」という印象的なフレーズが繰り返される中、亡くなった親友とのピアノを通じたやり取りが歌われる。歌詞は、親友の死後、一緒に弾いていた曲を弾くが、親友のように流麗には弾けないと嘆きつつ、親友のセリフとして「ほら、私が弾くから、あんたはさあ歌って、歌って、私のために」という歌詞がこの歌の中ではやや異質なささやくような声で歌われたりして、感情が揺さぶられる。他にも様々な趣向が凝らしてあって、技巧的にも素晴らしいと感じられる。

 ボブ・ディランが今回のノーベル賞受賞講演で述べた「音楽は人を感動させることがすべて(If a song moves you, that’s all that’s important.)」という言はまったくそうで、バルバラの曲や歌い方は人を感動させずにはいられないものがあって、「イージーリスニング」とは対極にあり、あまり気軽に聞けないのだが、それでも、こうした感動を求めて、これからも何度と聞くことになるだろう。

 ゴダールの『気狂いピエロ』で映画とは何かを聞かれたサミュエル・フラーは「一言でいえば、感動だ(In one word, Emotion)」と答えるのだが、歌にかぎらず、様々な表現行為はつまるところ、ここを求めるものなのだろう。

 もっとも、私の場合、日々感動してたら身が持たないので、何かにつけ「イージーリスニング」的なのに流れがちで、あまり最近はこうした創作物に触れる機会が少なくなっているが、それでもボチボチと触れていきたいと思っている。

 こちらは「小さなカンタータ(Une Petite Cantate)」を歌うバルバラの映像。関心のある方はどうぞ。