『日本の中でイスラム教を信じる』(佐藤兼永著)の読書感想文

 「日本人ムスリムの姿から、大切な「当たり前」を再確認する」 という記事が出ていた。この記事で言及されている本について、私も少し前に読んだところだったので、感想文を書いておきます。

 日本に暮らすイスラム教徒への取材が丹念になされていて、あまり実態が伝えられることのない日本人のイスラム教徒についても半分かそれ以上にわたって言及がなされていて、世界のイスラム教徒の多様性同様、日本国内の日本人イスラム教徒も日々イスラム法に則った厳格な生活をする方から、割りとアバウトな方まで多様である実態が描かれている。

 この本では日本在住のイスラム教徒の推定人数として11万人という数字を挙げているが、日本の宗教人口は二億人という数値もある通り、実態は不明というのが通り相場である。ただ、他の宗教とは異なり、イスラム教の場合、その多く(9割以上?)は外国人であり、日本人イスラム教徒は多くの場合、配偶者(主に夫)がイスラム教徒であり、結婚するときに改宗(または入信)することが多いとされている。また、イスラム教徒の場合の特殊事例として、日本国内だと「イスラム教=テロ=怖い」というイメージが流布されており、以前、ウィキリークス経由で漏れたように、公安がその人がイスラム教徒というだけで監視対象にするような社会であり、無駄に誤解される恐れがあるので、隠れキリシタンならぬ、「隠れムスリム」(女性の場合、「隠れムスリマ」)がそれなりの数いると思われるが、日本人イスラム教徒はざっくり1万人程度ではないかと言われる。

 その中でもカップルいずれもが日本人というのは、かなりの少数派だろう。この本の中ではそういう少数派の話も出てきて、日本の特殊事情が垣間見え、興味深く読んだ。以下は、日本人カップルが子どもの出産時に医師から言われたことに言及している箇所である。

「『おめでとう』とか『頑張ったね』とか、ねぎらいの言葉は何もありませんでした。『この子も大きくなったらイスラム教徒にしちゃうの? 可哀想ね』と言われ、ほんと唖然としました」

 これほどの例がゴロゴロしてるわけではないだろうし、この本でも「宗教を理由に実生活であからさまな差別や偏見にさらされた経験があるという人は、意外にも少ない」と述べられているが、相手がもしかしたら偏見を持っているのではないか、ということで、注意しているという日本人イスラム教徒の話も紹介されている。

 その続きで、イスラム教への偏見でしばしば言及される一夫多妻制についても述べられていて、これもそれに対する説明でしばしば述べられる通り、複数の妻を平等に扱えないのであれば、一夫一婦が推奨されることが紹介されている。

 ついでに述べておくと、コーランでは「孤児」の扱いの句の中でこの一夫多妻について書かれており、そもそも結婚全般には適応できない、とする意見もある。そういう中で、この句を「都合よく」解釈して、公平に扱うつもりもないのに、複数の妻を持つムスリムがいるのも、どうやら事実のようであり、そういう部分をことさらに強調してイスラム教に対する憎悪を助長する一群もいるようだが、どんな集団にも善き人と悪しき人がいるわけで、そういう面を取り上げて揚げ足取りをするのもどうかと思う。

 本の話に戻ると、日本人ムスリマでちょっと強烈な言を吐く方が出てきてて、イスラム社会で非常に重要な役割を果たしているイスラム法学者について、学識は備えているのだろうが、人間としてのバランス感覚に欠けているように思えるとして、以下のように言う。

「『お前の考えに従えるか、クソじじい』って感じですよね。でも、それホントの気持ち。『たとえ何百年の歴史があろうとも、本に埋もれた本の虫の言ったことなんか(現実の)世界とちっとも関係ねーんだよ』と思えるようになった」

 もっとも、この言を述べた方はイスラム教について、神に対する見方とか、神の教えに近づくやり方がいくつもある中で「割といい線いってんじゃないの」と述べ、さらにイスラム教に助けてもらったことから、ムスリマであることは死ぬまでやめるつもりはないし、「法学者の見解はイスラム教の解釈のスタンダードとして必要だと考えている」ともあり、著者もそういう姿を通して「ものすごく考えて、自分で一個ずつ答えを出してきた」ことでたどりついた境地だと述べている。

 こうした意見は女性側から出されることが多いようで、『イスラーム化する世界』という本で知ったのだが、アメリカでは知る人ぞ知る存在で、論争の多い著作「クルアーンと女性」という本を書いたワドゥードというアフリカ系アメリカ人フェミニストはコーラン解釈の男性中心性とアラブ中心性を批判している。

 氏が依拠するのはファズルル・ラフマーンの「二重運動」という解釈理論で、コーランでは一般的法則はあまり見られず、当時の個別具体的な事柄への言及が多い、として、先の著作から引用すると

そこで必要なのが、二つの運動であるという。「第一の運動」は、クルアーンで述べられている具体的な事柄から、当時の社会状況を考慮しながら一般的法則へと移す「運動」である。そして「第二の運動」とは、この一般的レベルから、現在の社会状況を考慮しながら、具体的な立法作業に戻るという「運動」であるという。(P66)

 こうした二重運動を経て、コーランの意図を抽出し、個別事例に適用していく、というもので、コーランの時代のアラビア半島の家父長的要素を削ぎ落とすことで、様々な社会の文脈に適応できるようになるのだとする。

 さらに、氏は踏み込んで、解釈には個人のバックグラウンドによる影響を取り除くことは出来ないとする立場から解釈に個人見解を認める方向に向かっているらしいのだが、この著作の日本語訳は出ておらず、私はなんともよくわからないので、この辺りで留めておく。

 イスラム教が北アフリカから東南アジアの多くの地域で信仰されていることは知られているが、例えば、国連五大国の各国でもイスラム教と決して縁遠いわけでない、というのは意外と知られていないのではないか。アメリカの場合だと、奴隷として連れて来られたアフリカ人の多くがイスラム教徒だった可能性がある、とのことで、マルコムXがイスラム教に回帰したことが知られているし、ロシア(旧ソ連)は言うまでもなく、多くのイスラム教徒が居住している。中国も同様で、最近よくニュースで出るウイグル人以外でも回族などイスラムコミュニティがあるようで、ヨーロッパの大航海時代に先駆けて中国からアフリカまで到達した鄭和もムスリムだった。フランスは北アフリカ移民が多く、シャルリー・エブド事件が発生したわけだし、イギリスも5%程度はイスラム教徒だとされ、ジハーディ・ジョンと呼ばれる青年が育ったロンドンでは9%がイスラム教徒とも言われているようだ。

 元の本の紹介からは大いに脱線したが、こうした国々同様、日本にイスラムが根付く可能性については、小室直樹氏が『日本人のためのイスラム原論』で述べていた言を借りると、こういうことになる。

「なぜ、日本人はイスラム教の教えに感化されないのか」「答えは規範なのである。つまり、日本人とは本来、規範が大嫌いな民族なのである」「だからこそ、無規範宗教のキリスト教は入ってこれたが、規範だらけのイスラム教は受け付けられなかった」

 ちなみに、小室氏は様々な宗教を研究した結果、入信するならイスラム教だというほど、その教義の「出来の良さ」を賞賛している(実際には入信してないけど)。

 キリスト教だとカトリックに対するプロテスタントの対抗運動が出てきて、ウェーバーが述べたように資本主義の精神が醸成され、今、主にキリスト教をバックグラウンドに持つ資本主義体制の社会が栄華を誇っている(ように見える)わけであるが、かつて、私が外大生の時にアラビア語学科の人が言っていた「終わっている」イスラム教圏も、もしかしたら、そうした運動を経て、再び栄華に包まれる可能性はあるんじゃないか、と思ったりすることがある。2100年には宗教人口でイスラム教徒の数がキリスト教徒の数を抜いて、世界一となる、という予測も出ており、中国が名実ともに大国となった最大の理由はなんだかんだいって人口であるわけで、人口というファクターは侮れない。

 日本もキリスト教がバックグラウンドにある今の「グローバル経済」社会とは相容れない国であることが少しずつ見え始めているように思っているのだが、どうだろうか。ただ、リアルに考えると、21世紀中はそういうことにはならず、まだまだアメリカの世紀が続くような気がするが、こうした転換期にあって、イスラムの視点で再考してみるのも、違った見解が得られて、より深みのある視点が得られるのではないだろうか。

「学童集団疎開」とその諸問題。(4) まとめ

(つづき)

 引き続き、「学童集団疎開」を読んでの感想文です。

    「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて
    「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い
    「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

 最近、あまり読書が出来ないためか、久々に本を読んで蒙が啓かれた気がして、一つの本で3つもエントリーを書いてしまったが、最後にざっくりまとめておきます。

 今という時代に学童集団疎開が可能かどうか、という問題意識を持ちつつ読んだが、著者が繰り返し述べているように「家庭あっての子どもの生活」なのであり、家庭から引き離されて、終わりが見えない中で子供だけで避難生活を継続するのは大変困難だろう、という印象を持った。また、子どもは避難させるが、大人はそのままそこで生活する、というのも、よくよく考えると理不尽な面があるように思える。学童集団疎開を実施するのであれば、精神的影響を考慮して、地域まるごと移住の方がよほどよい、ということになるのではないか。地域まるごと移住は、大人にとっても都合がよく、地域内であれば、人間関係ができているし、それぞれどういう点に注意すべきかについて、ある程度、お互い分かり合っているというのが大きく、もし人間関係を損なうような出来事があっても、双方を知る関係者の仲裁が期待できるので、大きな問題にはならないはずなので。

 チェルノブイリ原発事故の時もキエフで子どもの集団疎開が実施されたが、ソ連の場合、もともとサナトリウムなどで保養する文化がある上に、ソ連版ボーイスカウト(ガールスカウト)のピオネールの伝統もあり、子どもたちが集団で生活するのに慣れていた、という面があったため、比較的スムーズにいったのではないか。期間も3ヶ月程度と1年以上に亘った日本の戦時中の学童疎開に比べると短く、また、その期間はちょうど春から夏にかけてであり、子どもたちが過ごす季節としては良い季節だった、ということもあるように思う。

 原発事故では初期被ばくを抑える、という意味で出来るだけ早く避難を実施するべきなのであるが、チェルノブイリの場合も、実際のところ、集団疎開が実行されたのは、初期被ばくを相当に受けてからだった(一説によると、疎開前に75%被ばくを受けてしまっていて、疎開することで防げたのは25%程度だった、という話もあったような)。再稼働に向けて、様々な動きがある中、今一度、事故が起きたときにありえる出来事をリアルに想像し、どのようにして被ばくを防ぐのか、再稼働を認めない、というスタンスであっても、再稼働賛成側であっても、被ばくを出来るだけ少なくしたいという思いは同じはずで、思考停止状態に陥ることのないよう、常に思いを巡らせ続けておかないといけない、と改めて思ったことだった。

「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の感想文です。学童集団疎開について、いじめ都市と農村を題材に書いてきましたが、その他、個人的に興味を引いた点をあげておきます。

 学童集団疎開は実際に実施される前から話は出ていたが、著者によると「都内30万の学童を収容できる宿舎は絶対にありえない」「短期間中に輸送できる能力を、現在の国鉄がもっているはずはない」とのことで、現実的ではないだろう、という見通しが現場では立っていたようだ。それが実施されたということは、逆に言えば、1944年夏頃にはそれほど戦局が悪化していた、ということになるのだろう。

 集団疎開は引率教師にとっても大変な負担で、「自分の担任児童の大部分が集団疎開するというのに、自分だけ学校に残留するということは、まったく意味のないことであったが、家庭の事情、身体的故障などで、参加できないということも当然ありうることだし、ことに家庭をもっている女教師にとっては、まったく不可能なことであった」とあり、担任教師が同行できない場合もあったことが伺える。

 児童にはそれぞれ注意すべき点があって、担任であれば、それを把握できているが、担任でないものは、一からそれを知らなければならない。私自身、子どもだけを預かる保養プログラムに支援スタッフ側で参加したことがあるが、関係性が出来上がるまでそれなりに時間はかかるし、何か問題が起きたときに親の協力を得られない、というのは、大変大きな困難で、担任が参加できなかったクラスの児童はただでさえ大変だった集団疎開で、さらに大変な目にあったことだろう。

 今回の福島第一原発事故の場合でも飯舘村の方々が飯坂温泉などの旅館に一時的に滞在された例もあったが、この本のケースでも疎開先が温泉旅館となった。寒い長野の冬にいつでも温泉に入れる、という良い面もあったが、「学童集団疎開は徹底的な欠乏の生活であった。食糧難が最後までこの生活につきまとい、食べ盛りの子どもたちを悩ませ続けた」「金にあかした山海の美膳が子どもたちの目の前を素通りする刺激は、たえ難いものがあった」とあり、さらに、配給品を巡って旅館側への不信感が募っていったこと、旅館に宿泊する軍人たちが子供をからかったり、どんちゃん騒ぎをして、猥雑な歌をうたったりすること、などの理由から「温泉旅館は教育の場として不適格」であると判断し、一度身を落ち着けた場所からの再疎開は普通は億劫になるものだが、さらに山奥の農村の寺への再疎開を歓迎すべきものとして受け入れられている。

 当時は日本中どこでもそうだったようだが、蚤・虱の問題は解消のしようがなく、子どもたちは常にボリボリと身体をひっかいて、安眠もかなわない状態だったらしい。著者は蚤退治の薬を買ってみたもののまったく効果はなく、「蚤取粉と称するもののインチキぶりに、これほど腹がたったことはなかった」「わたくしはこの時ほど、日本という国の非科学性、非文明性をうらめしく思ったことはない」と書いている。

 大事な子どもを預かる立場というのは、大変な精神的負担があり、特に冬期に心臓麻痺を起こして死亡した子供が一人出てしまい、その後はさらに子どもたちの健康維持に対し神経質になったとある。しかし、病気が治らず医師に受診しても、こんなのは病気でないと言われる始末で医師に頼れない状態だったらしく、しかも栄養も十分でないため、大変困難な状況だったようだ。

 病気の場合、やむなく親に引き取りに来てもらう、ということになっていたようだが、それを「利用」して病気になったことにして、どこからか診断書を入手してきて子どもを引き取る親も続出したとのこと。親の言うことを聞いてそのまま帰る子もいたが、頑として戻らないという子どもも数多くいたとあり、理由として著者は、子どもたち自身が自らを精神拘束していたためではないかと推測している。

 この本で印象深かったエピソードとして、上級生のいじめに耐えかねたある児童が非常によく出来た作り話をして、東京に単身で逃げることに成功したという話があった。作り話の内容は、知らないおじさんが親に頼まれて迎えに来たのだと自分を連れて行ったが、行き先が名古屋だったので不審に思い、とっさに逃げ出して東京方面の電車に飛び乗って振り切った、というのもので、細部がよく作りこまれていて、当初、校長をはじめ、皆その話が本当だと思ったが、作り話だと後にわかったそうだ。

 また、1945年3月に入学試験準備のために6年生を東京へ返したことで、爆撃にあって死亡した子どもが多数いたことも述べられており、こうした時局であっても、難しい判断を迫られ、1945年8月の終戦まであと数ヶ月だと分かっている今の目から見ると、返すべきではなかったということになるだろうが、いつ戦争が終わるかまったく見通しの立たない中で判断で、当時の感覚ではそれが子どもにとってよかれと思ってなされた選択だったのだろう。

(つづく)

「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の読後感想文。

 前回は学童集団疎開で発生したいじめの問題を主に取り上げたが、この本で私が興味深く読んだところは都会と農村を巡る部分だった。著者の浜館菊雄氏は1902年青森県生まれで青森の師範学校卒だが、1934年に東京へ移り、その後ずっと東京住まいで、主に音楽専科教師をつとめたと奥付にある。つまり、東京以外で生まれ育ち、東京に移って10年ほどでこの学童集団疎開に立ち会ったことになる。都会育ちではないため、都会に対し辛めの感覚を持っていた可能性はあるが、都会しか知らない人や田舎しか知らない人ならともかく、両者を知っている人は、双方の悪い部分も知っており、それを踏まえた感覚であるので、特に偏っているわけではないだろう。

 著者は最終章で学童集団疎開事業を振り返り、以下のように述べている。

 「とくにわたしくは、農村婦人会のかたがたの誠意と愛情を忘れることはできない。それはもっとも純粋なヒューマニズムの現われであった。わたくしたちは、副食物について、調味料について、間食について、万策つきた時は、この人たちの愛情、この人たちの母性愛に訴えるしかなかった。わたくしたちは、しばしばこの人たちによって急場を救われたのであった」

 疎開中、食料配給を待っていたのでは飢えるばかりであるため、荒れ地を開墾したり、馬も食べない毒草と地元で思われているギシギシという野草をみんなで集めて食べるなど、子どもたちを生き延びさせるため出来る事はすべてやったという感じだが、結局、どれも腹の足しにはならず、最終的には地元の方の好意に甘える以外に方策はなかった、ということだったようだ。

 もちろん、農村部の人々とて、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、それぞれが出来る範囲でしか出来ず、積極的に支援しなかった人の方が大勢であったろうし、農村部の人たちが素朴に全員善人だったわけでもないだろう。ただ、こうした難局にあって、人間性がモロに出る、という面はあり、都会の親御さんについて、著者は「疎開児童の父兄の態度、物の考え方は、じつに徹底した個人主義の現われであった。自分の子ども以外にほかを省みる精神的余裕はまったくなかった」と述べており、農村部の好意と好対照をなしていると言わざるをえない状況があったことがわかる。

 また、親であれば、自分の子どもと面会を希望するのは当然であるが、一度に全員の親が揃って面会出来るならともかく、そんなことは出来ないため、子どもへの悪影響が大きく、順番制となっていたようだが、「もぐり」で来る人が後を絶たず、禁令を破って、こっそり食料を渡す親が出たり、面会後、帰京して悪い噂を流す親も相当いたようで、著者は以下のように述べている。

「面会していった父兄たちの現地報告はきまって良くなかった」「その人たちの語るところは、流言となって広がるのであった。根拠のある話よりも、根拠のない話のほうがかえって真実性があるかのように伝わるのは、このような時局にありがちなことであった」

 こうした「もぐり」面会については教師の間で許可すべきでないと主張する強硬派もいたようだが、来た親を無碍に追い返すわけにもいかないので、本人に気づかれないように、寝ているところや、登校の様子を隠れて見る、ということで著者と親が折り合いを付ける場面など、毎日襲い掛かってくる難局を工夫して乗り切る様子が描かれている。

 また、通信の検閲が実施され、検閲というと、今や表現の自由を犯す悪いものの代名詞であるが、子どもが子どもの表現で実態とは異なる実情を述べることで家庭に不安を与えるのを防止する、という目的があり、これはこれで分からないではない。実際、ありもしないことを子どもが手紙で書いて問題になることが多かったため、検閲が実施されたようなのだが、「手紙を検閲して都合の悪いことを書かせない」との不信感を生んだようだ。

 都市部と農村部の子どもの違いについて、著者は「勤労作業の根底をなすものは、協力精神である。都会の子どもには、この精神がかけている。このような境遇におかれてすら、かれらに精神的な融和、団結ができなかった」と述べ、また「わたくしは村の子どもが、勤労作業中に疎開の子どもに示した心からの親切、同情の表われをたびたび目撃している」とも述べており、農村部と比較して、都市部の子どもがより個人主義的な行動を取っていたことが報告されている。

 私事にわたる話だが、都市部と農村部のこうした違いについて私が興味を抱いたのは、私の祖母が当事者として、このような狭間に立たされたことを話していたことがあったからだった。私の親世代は戦中時代をよく覚えており、子どものときから、さつまいものつるなどを食べてしのいでいたことをなどを聞いていて、農村部といえど、食料供出で多くを持って行かれてしまう中で、苦労していたことを聞いていたが、晩年の祖母の話によると、都市部の遠い親戚が子連れでやってきて、子どもがひもじそうにする姿を見せつけて、自分の子どもに与える食料もないのに、残り少ない食料を奪うようにして持っていった、ということがあったらしかった。その都市部の遠い親戚は戦前に法事でやってきたときに自分の「モダン」ぶりを自慢して田舎をバカにしていたらしく、その悔しさがあったようで、戦後、特に「あのときはおおきに」的なことをゆうてくるでもなく、音沙汰がなくなった、とも言っていたのだった。

 これは極端な例であるかもしれないが、そんなこんなで都市部の人が農村部に関わる問題に上から目線で口を挟むことに対し私は大変腹立たしく感じるようになってしまった。私自身もどちらかといえば、都市部の感覚強めの人間なので、こんなことを田舎側に立って述べる資格はないのかもしれないが、いざというときに都市部の人間はこうした行動をする、ということは、私の深いところに刻み込まれたようで、農村部を大事にしない人のことは基本的には信用できない。昔、大阪に住んでいた時、「この前、電車で滋賀に行ったけど、ずっと田んぼ田んぼ田んぼで田んぼばっかやな」と言われ、その「田んぼ」の言い方がいかにもバカにしきった言い方だったので、カチンと来て、食糧難になってもお前には絶対分けたらんからな、と深く心に誓ったのだった。

 ちょっと話が脱線してしまったが・・・、次回は、それ以外に興味深かった点に触れてみようと思います。

(つづく)

「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて

 浜館菊雄著「学童集団疎開」という本を読んだ。

 いじめにより、子どもが自殺するという痛ましい報道がつい最近もあったところであるが、子どもの陰湿ないじめは戦後の高度成長が一段落し、皆がある程度豊かになった辺りから出てきた問題かとなんとなく思っていたが、この本を読んで、戦中からすでにあったことを知った。軍隊での新兵いじめの話は映画や小説などでよく出る題材でそういうのが日常あったことは知っていたが、子どもの間で仲間はずれにしたりして精神的に追い詰めるようないじめが戦中からあったことをこの本を読んで初めて知った。

 この本は某古書店で100円で売ってるのを見かけてなんとなく買った本だった。福島第一事故直後、集団疎開を提案する動きが出はじめ、私たちが初めて2011年4月に福島入りしたときも、主目的の一つは集団疎開は無理としても、希望者だけでも子どもたちの一時避難ができないか、という件で現地の意向を聞きに行く、ということであって、自治体の社協などを訪れたりしたのであるが、その後もずっと疎開について、あの状況で可能だったのか無理だったのか、しなかったのは正解だったのか、した方がよかったのか、私の中でも未だ結論は出ていない。ただ、今後、原発事故など想定外の事態に対し、集団疎開が今の時代に現実的なのかどうか考えておきたい、という気持ちはずっとあって、ここのところ、育児の合間にちびちびと読んでいたのだった。

 読後感として、疎開は様々な問題が噴出し、大人にも子どもにも大変な肉体的・精神的苦痛を与えるものだ、ということがよくわかった。特に子どもの精神的動揺の問題は大変大きく、担任として子どもと直に接してきた著者は以下のように述べている。

「わたくしは疎開の頭初には、その訓育的効果に期待をもっていたのだった。(中略)。わたくしは、ある理想をいだいて臨んだのであった。しかし、事実はより以上に厳しく、環境と生活状態の急変による子どもたちの精神的動揺は、わたしくにとっても大きな動揺であった。わたくしの夢は破れ、きゅうきゅうとして子どもたちの精神を平静にし、その心に喜びの灯をともしてやりたいという消極的な仕事に終始してしまった」

 そして、食料調達の問題も大変大きく、そのことがいじめの問題に大きく影響したこと、また、父兄との信頼関係がゆらぎ、いくつものデマが生まれ、相互不信状態に陥り、中途で子どもを集団疎開生活から離脱させる親が続出したことなども疎開が簡単ではないことを物語っている。

 この本で描かれている疎開について述べておくと、世田谷区の小学校児童が長野県に疎開にいったときの記録で、1944年7月17日に疎開通達があり、翌々日には疎開列車に乗っている翌々日までに参加するかどうか決めるように言い渡された。そして、約1ヶ月後の8月12日に出発している。この猶予のなさについて、著者は時間を与えてしまうと疎開自体がうまくいかなくなるため、当局がそのように設定したのだろうという推測を述べている。

 疎開はまず旅館に寝泊まりし、その旅館の部屋で授業が行われた。その後、工場移転に伴う危険を避けるため、再疎開が行われ、より山深い農村の寺に宿泊することになり、そこで終戦を迎えることになる。学級は3年から6年を男女別8つに分けられ、担任もそのままという形で行われたので、教師と児童の間の問題は少なかったようだ。

 1945年4月から東京では学校が閉鎖され、低学年の児童も疎開組に入ることになり、ただでさえ「疎開病」という精神的退行状態に陥る子どもが多い中でさらに困難が増した。勤労奉仕で飛行場建設現場に行ったり、農作業や薪運搬作業に駆り出され、教育が満足に行えない状態が続く中、玉音放送が流れ、その後すぐ続けて流された解説放送で、集団疎開は来年3月まで続行とアナウンスされたが、実際には11月1日に帰京できた、とある。

 この本を読む前の私の疎開のイメージは、都会の子が田舎に行き、村の子どもたちにいじめられる、というものだったが、この本を読むと、むしろ疎開児童同士の間のいじめがひどく、村の子どもとはそんなに深い交流があったわけではなかったことが伺えた。ただし、これは集団と単独の疎開の違いでもあるかもしれず、親に連れられての疎開の場合はまた別の話かもしれない。

 著者によると「本書の刊行を思いたったのも、この子どもたちの内面的な苦悩の姿を幾分でも表わしたいという願望があったから」とのことで、いじめのことを「特殊な異常行為」と表現していることから、当時としてはこの問題が異例であったことが伺われる。

 この本には22の章があるが、10章目に「教育の盲点」という章があり、それがいじめの報告となっている。ちょうど重松清の「ナイフ」の「ある日突然、クラスメイト全員が敵になる」みたいなのが、この時代にすでにあったことが描かれている。教師も含め大人がまったく見抜けなかったとあるので、この時代では子供同士でこうしたいじめがあることは稀だった、ということだろう。そして、「子供の精神衛生面を重要視できなかったといことが、決定的な落度といわなければならないのではなかったか」と述べている。

 上級生が下級生をいじめる例が多かったようで、少ない食べ物をめぐっての争いで上級生が巻き上げるなどがあったとのことで、面会の折に親がこっそり渡す食物も上納しないといけないなどの厳しいルールがあったようだ。また、みんなで一人を無視するいじめもあり、無視の仲間に入らないと今度は自分が標的になる、という点も今のいじめと同じで、集団生活で生じるいじめに時代は関係ないようだ。また、男児より女児に排他性・残忍性が強く出たとあるが、今の集団生活は多くの場合、男女別でないので、どうなんだろうか。

 本書ではこうしたいじめが起きた原因の一つとして、班編成にあった可能性が示唆されており、隣組での班編成が基本であったが、どうしても部屋によって、あぶれる場合も出てきて、その場合、意地悪な子が敬遠される傾向があって、そうした「問題児たち」がいじめる側に回ることが多かった、という事情があったようだ。

 そうした閉鎖空間にあって「疎開病」になり、精神的不安の蓄積が肉体に影響して病弱になる子どもが続出した、とのことで、そうした子どもは、親元へ戻すとただちに「疎開病」が治ることが記されている。このことについて、著者は以下のように書いている。「子どもたちの日ごろの元気の根源というものは、家庭生活にあるのだということを、しみじみと観ぜざるをえないのである。まことに、家庭こそ子供の魂の宿るところなのである」

(つづく)