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不在地主の自治会費をどうするか問題が発生、今年はひとまず半額に減額ということになったが……

 さて、子供にはDVDを見てもらっているところで、最近の出来事で何か書くことあるかな、と思い巡らせてみて、自治会費というのが思い浮かんだので、書いてみる。

 引っ越したにも関わらず、先日、以前の自治会の総会に出席させてもらった。例年のごとく、いろいろと問題が噴出する中、今年紛糾した議題の一つが不在地主の自治会費問題だった。

 我が集落の高齢化率は去年の時点でついに50%いってもうたようで、これまで「ほぼほぼ限界集落」ゆうてきたが、晴れて「ほぼほぼ」を取ることが出来るようになった(おい)。

 主要因はやはり人が出ていってしまって帰ってこないこと。帰ってくる方もおられるのだが、それでも帰ってこない家が多く、基本的には減る一方である。そうした中、今まで自治会費は皆、同一金額を支払っていたが、不在地主側から減額してほしいという要望が出てきていて、払わないという方も出てきたそうで、いよいよ集落として着手することになった、というのが経緯。

 そんなわけで、ではいくらにすべきか、というところで紛糾、私が立場上、不在地主側の意見を代弁する形となり、いやはやすっかり困ってしまった。まだ不在地主歴1ヶ月のペーペーが代弁するわけにはいかないのだが、それでも他の不在地主の皆さんは出席要請されてもなかなか総会に出席できないようで、私が立場上、「応戦」する形となったのだった。

 都市部住人には信じがたいことであろうが、少し前まで自治会費は月額1万円だった。年額ではない。月額である。なぜこんなにもかかるのかといえば、テレビアンテナだとか上下水道の整備とかにゼニがかかっていたため。なんでインフラに、と疑問に思ったものだが、こうした設備には幾ばくかの個人負担が必要なことがままあり、こうした小さな集落だと分母が小さいため、一人頭の金額がべらぼうに高くなることがある、ということだったかと思う。

 ただ、今はそうした高額な個人負担がかかってくるような事業が近い将来あるわけではない、ということで、月額5千円に減額されたところで、今後、さらに減額される可能性はあるものの、世知辛い世相で個人負担率があがることもありうるだろうから、なんともいえないとしかいえないのが実情。

 そんなわけで今の一世帯当たり月額5千円(年額で6万円にもなる!)という金額のうち、どれぐらい不在地主が負担しなくてはならないのかの議論が始まったのだが、詰まるところはその根拠がはっきりし、不在地主が恩恵を受けられない部分は減額し、恩恵を受ける部分は負担してもらう、という形にするとお互い納得感が得られるのではないか、と思ったのだが、なかなか判断が難しく、今年はとりあえず半額にしようということになった。実際のところ、周辺集落で半額にしてるから右へ倣えしたわけなのだがw

 個人的感覚として、半額というのはまだ高すぎるように思うが、様々な管理を委託しているという面も実際にはあるわけで、負担ゼロというわけにもいかない。一体どれぐらいが適切なのか、各集落で事情はいろいろだろうが、私も思いきし当事者になってもうたので、折を見て調べていこうかと思っている。

 そもそもなんでこんなにも自治会費が高いのか、という点については、やはり住人の分母をあげる方策を見つけるのがセオリーであって、都市住人の移住を期待するしかないのか、と考えるが、それがうまくいかないようなら、集落移転などをいつかは考えざるをえないのではないかと個人的には思っている。数人しかいなくなった集落にも数千人の集落と同等の行政サービスが受けられるように整備すべきなのか、という問題があり、今後日本は衰退するわけで余裕もなくなってくるだろうから、まだ手の打てる今のうちに着手すべき、という発想。

 こうした点について、「撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編」という本があるのだが、この本では「集落移転」の他にも「荒れた人工林を自然林に」「放棄された水田を放牧地に」など、そこだけ切り取ったのでは現住人の気持ちを踏みにじるかのような言葉が出てくるのだが、この本は「選択と集中」とかいう中央官僚による数値を弄ぶようなゲーム感覚の机上の戯言とは違って、すっと腑に落ちるところがある。「集落移転」というと震災後におなじみのフレーズとなったが、この本は東日本大震災の前に出版されており、今読んでもまったく違和感はない。現時点ではちょっと想像しがたいけど一つの有力で現実的な解ではあるなぁ、というのが一読した印象で、この問題に関心がある向きには一読をお勧めする。

東京に住んだことのない田舎者は東京のリアリティがわからない(たぶん)

 昨日のエントリーで都市部の住人は田舎のリアリティがわからない、と書いたけれども、逆に田舎者は都会のリアリティが本当に分かっているのか、というと、私個人の話としては、京阪神とか名古屋についてはわからないではないが、東京のリアリティは正直なところよく分からない。(私が果たして田舎者なのかどうか、という件についてはここでは脇に置いといてください)

 私は東京に住んだことがないため、東京から一歩も出たことがないタイプの東京人の知り合いがほとんどいない。そのためか、私の東京のイメージは、メディア等からよりも、リアル知人から聞く東京の話に影響されているようだ。私は関西圏が出たことがないため、東京に住んだことのある/住んでいる関西人からの話を聞くことが多いのだが、一般に関西人は東京をあまり好ましく思っておらず、ややネガティブな印象を持ちがちとされていて、さらには話を盛ったりしがちでもあってw、東京は冷たいとかいう話を自身の数少ない経験からも、まあそんなもんかなぁ、と思ってしまっている。

 ただ、東京は一般に田舎者の集まりだとも言われていて、今や日本のみならず世界中から人を集める世界有数のメガロポリスであり、たまに行くとその多種多様な人々の群れに圧倒されてしまう。子供のときからこうした文化の中で生きていくということが何を意味するのか、小学生時代の一時期だけ東京に住んでいた知人曰く、「小学生時代から大人顔負けの情報のやり取りを普通にやっていて、ついていけんかった」のだそうで、今でも東京の人と話してて思うのは、手持ちの情報を互いに出し合うやり取りが多いなぁ、という印象を持ったりしている。関西圏だと話にオチをつけることが多いのだが、東京人の会話はそういうオチは目指さずに互いに情報をやり取りすることに面白みを感じている人が多いイメージ。

 よく言われるように東京人には生粋の東京人と上京してきた東京人の大きく二種類あって、想像するに、それぞれ交わりは当然あるだろうけど、居心地のよさを感じるのは同じ境遇の者同士ではないかと思われる。そして、上京東京人と生粋東京人の間にある壁は実は巨大で文化資本から何から圧倒的に差があって、生粋東京人の真似は上京東京人にはよほど無駄に苦労を一杯しないと無理なのではないかと思われる。

 今、育児中ということで思うのは生粋東京人の育児は上京東京人の育児と違って、実親が頼れる、という非常に大きなアドバンテージがあり、つい先日も子供の風邪が親に移って、大変だったのだが、そういう場合に無条件に子供に愛情を持って無料で見てくれる人が近くにいる、という安心感があるのとないのとでは大きな差がある。親が近くにいると保育園入所ポイントがいくらか下がるのだろうが、それでも入れる場合が多いだろうし、その辺り、情強ぶりをいかんなく発揮して、うまく立ち回ってるんだろうなぁ、と想像というか妄想してしまう。

 一口の東京といっても、区によって大きく雰囲気は異なっており、俗に山手線の内側云々の話があるが、区ごとにそうした細かいイメージの違いがあるものと想像される(私はそうした話を知識としてちょっとは知っているがたいていは何の生産性もない話に落ち着くので、積極的に知りたいとは思わないけれども)。

 東京人の弱みという点では、周囲にすごい人や環境がありすぎて、良くも悪くも「井の中の蛙」になれず、無知の強みが発揮できない点にあるのではないかと思っている。生粋東京人からすると上京東京人がガツガツしてて怖いみたいなイメージがあるみたいだが、良くも悪くも洗練されているが故の弱さのようなものがあるように思う。

 巨大で強いものは多少ディスってもいい、というのはちょっとあって、東京disも多少入れつつ、縷々述べてまいりましたが、毎度言うことだが、東京の人は多様であり、例外だらけと言ってもよく、母数が私の数少ない東京体験という、頼りない統計であり、あまり特段述べることもないのだが、なんとなく昨日の流れで書いてみました。

 あと、東日本への引越を検討中ということもあり、行く前に東京について覚書的に書いておこうかな、というのもあって。

 嫁さんは東日本の人で、しばらく関西で「我慢」してもらったこともあり、ホーム&アウェイで私が我慢する期間もあっていいのでは、と前から考えていたのでした。仕事を滋賀南部ですることを検討していたんですけど、一旦ここでの仕事探しを中止し、東日本での仕事を探そうと思っております。なんかいい話あったら、ご一報いただければうれしいです。

トランプ大統領誕生で思ったこと ~ 大都市圏で生まれ育ち、そこから一歩も外に出たことがない人は田舎のリアリティがわからない

 ドナルド・トランプ氏が第45代アメリカ合衆国大統領に当選した。その背景は様々に言われており、どれもその通りなんだろうと思う。

 今回、特に多くのメディアなり識者がクリントン大統領誕生を予想していたが外れた、という点を興味深く思った。背景として、彼らが隠れトランプ支持者の数を読み誤った、ということがあるようだ。

 CNN出口調査を見ていて興味深いと思った点をあげていくと、人種では白人と非白人での支持率の違いが鮮明で、非白人の74%がクリントン支持、21%がトランプ支持であるのに対し、白人の58%がトランプ支持、37%がクリントン支持となっている。今回の調査での白人率は70%であるので、全回答者24537人中、白人のトランプ支持者が約10000人に対し、非白人のクリントン支持者は5000人強であり、いくら移民の国とはいえ、まだまだアメリカが白人マジョリティの国であることを思い出させてくれる。

 概ね女性はどの人種でもクリントン支持に回ったようだが、黒人女性に至っては94%がクリントン支持とのことで、トランプ忌避心理の大きさを物語っている。

 普段選挙に行かない人がトランプに投票した、という話があるが、初めて選挙に行った人は全体の1割、そのうち56%がクリントンに投票となっている。若年層はクリントンに投票したようなので、その影響が強いのかもしれない。

 クリントンもトランプも嫌だ、という人が多いと聞いていたが、「opinion of clinton and trump」に対し、18%だけがどちらも「unfavorable(好ましくない)」と答えている。

 私の関心分野の都市と田舎については、以下の通り

 都市部在住者が全体の34%でそのうちクリントン支持が59%、トランプ支持が35%
 都市郊外在住者が全体の45%でそのうちクリントン支持が45%、トランプ支持が50%
 田舎在住者が全体の17%でそのうちクリントン支持が34%、トランプ支持が62%

 都市部はクリントン、郊外と田舎はトランプということになるだろう。メディアや識者の多くが居住する都市部ではクリントン支持者が多い、という点が今回予測を見誤った大きな要因といえるのではないか。

 これはアメリカに限った話でなく、日本でも同様だと思う。田舎からは都市部の有り様はある程度わかる。住んだことがあったりするし、メディア等で様々な角度からの情報が流れてくるので嫌でも知ることになる。一方、都市部居住者は関心がある人以外は田舎のことを知る機会に乏しい。知らなくても普通に生活できてしまう。スーパーの野菜売り場などは数少ない接点じゃないかと思うが、最近高くなってきたなぁ、とか、ほとんど値段しか関心を持てないのではないか。あとは放射能騒動のときに顕になったように、産地表示は関心は持たれているだろうが、誰がどういう思いを持って作っているかとか、なかなか想像しづらい。

 私は常々、様々な政策を実質実行している中央の行政担当者の多くが大都市圏で生まれ育ち、そこから一歩も外に出たことがないような人たちで構成されているのではないか、とにらんでいる。特に50代より下で。裏付けるデータは見たことがないので、確定的なことはいえないが、大きくは外していないと思う。

 都市部居住者には田舎のリアリティを知るようにしてほしいと願うのだが、中国の文革時代の下放みたいなことは出来ないだろうし、何か妙案はないものか。やはり、こうした「地方からのしっぺ返し」がないとどないも動かないのかもな。

土人について

 沖縄での機動隊員による土人発言が物議を醸している。

 この発言自体が沖縄への差別意識の現われであり、こうした発言自体許されないと思うが、私が違和感を覚えるのは、この機動隊員を何とか擁護しようとする動きが政治家の間で見られたことで、どういうことなのか、と測りかねている。例えば、以下の記事など。

大阪知事、「土人」発言の機動隊員に「出張ご苦労様」
「土人」発言、鶴保沖縄相「間違いと言う立場にない」

 土人といえば、浅田彰がかつて天皇崩御の際に「連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという『土人』の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです」と述べたことがあるが、彼らに共通するのは、自分が土人ではないという立ち位置で発言している点で、さらに発言主体の多くが関西人である点にも注目したい。

 かの大阪府の機動隊員がどこの出身か知らないが、話している関西弁からおそらくは大阪か大阪周辺だろう。また、松井大阪府知事も鶴保沖縄相も大阪出身のようであるし、浅田彰は生粋の京都人だ。彼らは関西の都市部の人たちで、自分たちがゆめ土人の側にいるとは考えていないのであろう。

 「土人」発言は何が問題なのか 大阪で沖縄女性らが見せ物にされた人類館事件という記事によると、大阪でかつて「7種の土人」として、沖縄やアイヌなどの人々が展示されたことがあるとのこと。

 私は京阪神の都市部出身の人たちと話していて、自分がむしろ「土人」寄りの人間であることを感じざるを得ないときがある。土人と言われる側はやはりこの言葉が上から下への目線でなされていることが分かるので、気分のよいものではない。

 土人とは元々「土地の人」ぐらいの意味だったようだが、明治時代にアイヌへの同化政策として制定された「北海道旧土人保護法」という法律の名称にもあるように、明治期の文明開化の恩恵を受けていない人々=未開の人々という意味付けがなされたようで、今や元の意味から転じて「未開地域の原始的な生活をしている住民を侮蔑していった語」という意味をも持っており、不用意に使うべきでない言葉となっている。

 件の機動隊員は記事によると「(抗議する人が)体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」と述べているそうで、「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」のだそうだが、そんなわけないやろと思いつつ、カメラの前で堂々と述べており、ここまで強い反応が来ることは予想していなかったのであろう。

 朝日の記事で中川淳一郎という人が「『土人』という言葉はネット上で沖縄と福島の人に対して使われることが多い」と述べている。2ちゃんねるなどでそうした書き込みがいくらかあるのであろうが、ネットスラングでは自分たちとは違う文化圏で文化的でない振る舞いをすると彼らが思う特定の地域の人々を土人と名指す傾向があるのではないかと思う。

 ちなみに、私はネットスラングに通じているわけではないが「福島土人」でフレーズ検索すると、今日時点でせいぜい9440件であり、沖縄土人の119000件を大きく下回っていることは指摘しておきたい。さらには「大阪土人」は29800件で、むしろ福島土人より多いことも指摘しておこう。ついでに、「滋賀土人」は868件で、関西圏では馬鹿にされがちな県であるが、要するに関心の外にある地味な都道府県はこうした侮蔑対象にも上がらないってことのようで。

 かつて、夏目漱石は「現代日本の開化」という題目での講演で当時の明治日本の文明開化を「皮相上滑りの開化」と述べた。英国帰りの漱石の目には文明開化したとされる日本がただ上っ面だけ開化したように見せかけているだけで、いわば日本は未開の国なのだと述べたと言ってよいだろう。

 あちこち話が飛んでしまったが、要するに私が述べたいのは、いつもの話になるが、明治の文明開化が「キリスト教をバックグラウンドに持つ先進文化への同化」だったとすると、全く別の文化圏に属していた当時の日本には土台無理な話だったのであり、明治の文明開化から一世紀半を経た今、そうした方向性の限界が見えつつあるのではないか、という話。

 そして、土人についていうなら、現代にあっても、明治期のお手本であった欧米社会の目から見ると、日本人というだけで「非キリスト教文化圏の未開人=土人」にカテゴライズされる可能性がある、ということで、欧米に行ったことがある人なら、一度ならず嫌な目に会ったことがあるはずだが、今もそうした差別は厳然とある。

 というわけで、土人と蔑む言葉を口にするのはやめた方がいいと思うし、未開の側を開化済と思っている側が蔑むこと自体も回り回って自分に返ってくる可能性があるので、やめた方がいいだろう。土人といった本人が「大阪土人」と揶揄されているのだとしたら。また日本人の土人ぶりにゾッとした浅田彰が欧米で未開人=土人扱いを受けたことがあるのだとしたら。

 ところで、浅田彰は彼の言う土人の作った食物を食べて大きくなったことをどう自分の中で消化しているのだろうか。彼などはソイレント・グリーン的な完全栄養食を好んで食ってそうだが(すんません、イメージでゆうてますw)、今も浅田彰はそうした土人の国に住んでて、京都にお住まいになっているようで。この土人騒動をどう見てるのか、ちょっと気になる。

 しかし、かのスキゾキッズ浅田彰も来年で還暦か。自分も年をとったもんだな……。

「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の読後感想文。

 前回は学童集団疎開で発生したいじめの問題を主に取り上げたが、この本で私が興味深く読んだところは都会と農村を巡る部分だった。著者の浜館菊雄氏は1902年青森県生まれで青森の師範学校卒だが、1934年に東京へ移り、その後ずっと東京住まいで、主に音楽専科教師をつとめたと奥付にある。つまり、東京以外で生まれ育ち、東京に移って10年ほどでこの学童集団疎開に立ち会ったことになる。都会育ちではないため、都会に対し辛めの感覚を持っていた可能性はあるが、都会しか知らない人や田舎しか知らない人ならともかく、両者を知っている人は、双方の悪い部分も知っており、それを踏まえた感覚であるので、特に偏っているわけではないだろう。

 著者は最終章で学童集団疎開事業を振り返り、以下のように述べている。

 「とくにわたしくは、農村婦人会のかたがたの誠意と愛情を忘れることはできない。それはもっとも純粋なヒューマニズムの現われであった。わたくしたちは、副食物について、調味料について、間食について、万策つきた時は、この人たちの愛情、この人たちの母性愛に訴えるしかなかった。わたくしたちは、しばしばこの人たちによって急場を救われたのであった」

 疎開中、食料配給を待っていたのでは飢えるばかりであるため、荒れ地を開墾したり、馬も食べない毒草と地元で思われているギシギシという野草をみんなで集めて食べるなど、子どもたちを生き延びさせるため出来る事はすべてやったという感じだが、結局、どれも腹の足しにはならず、最終的には地元の方の好意に甘える以外に方策はなかった、ということだったようだ。

 もちろん、農村部の人々とて、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、それぞれが出来る範囲でしか出来ず、積極的に支援しなかった人の方が大勢であったろうし、農村部の人たちが素朴に全員善人だったわけでもないだろう。ただ、こうした難局にあって、人間性がモロに出る、という面はあり、都会の親御さんについて、著者は「疎開児童の父兄の態度、物の考え方は、じつに徹底した個人主義の現われであった。自分の子ども以外にほかを省みる精神的余裕はまったくなかった」と述べており、農村部の好意と好対照をなしていると言わざるをえない状況があったことがわかる。

 また、親であれば、自分の子どもと面会を希望するのは当然であるが、一度に全員の親が揃って面会出来るならともかく、そんなことは出来ないため、子どもへの悪影響が大きく、順番制となっていたようだが、「もぐり」で来る人が後を絶たず、禁令を破って、こっそり食料を渡す親が出たり、面会後、帰京して悪い噂を流す親も相当いたようで、著者は以下のように述べている。

「面会していった父兄たちの現地報告はきまって良くなかった」「その人たちの語るところは、流言となって広がるのであった。根拠のある話よりも、根拠のない話のほうがかえって真実性があるかのように伝わるのは、このような時局にありがちなことであった」

 こうした「もぐり」面会については教師の間で許可すべきでないと主張する強硬派もいたようだが、来た親を無碍に追い返すわけにもいかないので、本人に気づかれないように、寝ているところや、登校の様子を隠れて見る、ということで著者と親が折り合いを付ける場面など、毎日襲い掛かってくる難局を工夫して乗り切る様子が描かれている。

 また、通信の検閲が実施され、検閲というと、今や表現の自由を犯す悪いものの代名詞であるが、子どもが子どもの表現で実態とは異なる実情を述べることで家庭に不安を与えるのを防止する、という目的があり、これはこれで分からないではない。実際、ありもしないことを子どもが手紙で書いて問題になることが多かったため、検閲が実施されたようなのだが、「手紙を検閲して都合の悪いことを書かせない」との不信感を生んだようだ。

 都市部と農村部の子どもの違いについて、著者は「勤労作業の根底をなすものは、協力精神である。都会の子どもには、この精神がかけている。このような境遇におかれてすら、かれらに精神的な融和、団結ができなかった」と述べ、また「わたくしは村の子どもが、勤労作業中に疎開の子どもに示した心からの親切、同情の表われをたびたび目撃している」とも述べており、農村部と比較して、都市部の子どもがより個人主義的な行動を取っていたことが報告されている。

 私事にわたる話だが、都市部と農村部のこうした違いについて私が興味を抱いたのは、私の祖母が当事者として、このような狭間に立たされたことを話していたことがあったからだった。私の親世代は戦中時代をよく覚えており、子どものときから、さつまいものつるなどを食べてしのいでいたことをなどを聞いていて、農村部といえど、食料供出で多くを持って行かれてしまう中で、苦労していたことを聞いていたが、晩年の祖母の話によると、都市部の遠い親戚が子連れでやってきて、子どもがひもじそうにする姿を見せつけて、自分の子どもに与える食料もないのに、残り少ない食料を奪うようにして持っていった、ということがあったらしかった。その都市部の遠い親戚は戦前に法事でやってきたときに自分の「モダン」ぶりを自慢して田舎をバカにしていたらしく、その悔しさがあったようで、戦後、特に「あのときはおおきに」的なことをゆうてくるでもなく、音沙汰がなくなった、とも言っていたのだった。

 これは極端な例であるかもしれないが、そんなこんなで都市部の人が農村部に関わる問題に上から目線で口を挟むことに対し私は大変腹立たしく感じるようになってしまった。私自身もどちらかといえば、都市部の感覚強めの人間なので、こんなことを田舎側に立って述べる資格はないのかもしれないが、いざというときに都市部の人間はこうした行動をする、ということは、私の深いところに刻み込まれたようで、農村部を大事にしない人のことは基本的には信用できない。昔、大阪に住んでいた時、「この前、電車で滋賀に行ったけど、ずっと田んぼ田んぼ田んぼで田んぼばっかやな」と言われ、その「田んぼ」の言い方がいかにもバカにしきった言い方だったので、カチンと来て、食糧難になってもお前には絶対分けたらんからな、と深く心に誓ったのだった。

 ちょっと話が脱線してしまったが・・・、次回は、それ以外に興味深かった点に触れてみようと思います。

(つづく)