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富山から神戸に運ばれた「世界一のクリスマスツリー」について思ったこと

 11月も下旬に入り、一つもブログ書けてないので、何か書いてみようと思い、いろいろ書きたいことはあるのだが、昨日辺りから話題になってる世界一のクリスマスツリーの話を書いてみる。

 経緯などはこちらとかこちら主催者側のプレスリリースなどを読んでもらうとして、少し林業について詳しくなった私の感想としては、多くの人が木を伐採・加工することに対して、ネガティブな印象を持っていることに改めて気付かされた、というのが第一点。私もつい最近までそうだったはずなのだが、昨年は週末、山に入って木を切りまくってたので、ちょっと感覚が麻痺してるらしい。

 あと、原発観光が話題になったときも思ったけど、議論喚起目的のプロジェクトというのは動機が不純であまり好きではないのだけれども、結局、そこに嵌ってしまう面があって、こうして自分もブログネタにチョイスしてしまってたりもして、ちょっと悔しいというかw

 多分、ニュースで見ただけとかだったら、このプロジェクトに対して、酔狂な人がおるなぁ、ぐらいで私の中で流れていった出来事だったと思うが、人々の批判の方向が興味深く、以下、ちょっとググっただけだが、気になったところを書いてみる。

 その前にこのプロジェクトについて書いておくと、私自身もちょっと支持する気にはなれない。まず、アスナロを選んだ理由についてだが、こちらを読むと「メッセージを伝えたい」という割に言葉が雑だなぁ、というのが第一印象。

あすなろは、「あす」はヒノキに「なろ」うの樹といわれ、ヒノキになりたくてもなれないとしてレッテルを貼られ、木材としてもヒノキより格下、いわば落ちこぼれの樹として扱われています

 滋賀北部でアスナロはアテと呼ばれてるのだが、アテは確かに人工林の木としてスギやヒノキほど扱いやすい木というわけではないようだが、殺菌力が高く、防虫・防腐の性質があることから、浴室の材などに利用されていて、まな板の材としては最高級とされる。うちでは内祝いに青森のヒバ(これもアスナロ)のまな板を送ったりもしたのだった。あと、アスナロの葉には薬効があり、利用価値が再認識され始めてるとも聞いたことがあるし、決して「落ちこぼれの木」というわけではない。

 文学作品でアスナロが「落ちこぼれの樹」的に扱われることがあったとはいえ、植物のプロが雑に「落ちこぼれの樹」とかゆうたらあかんのんとちゃうのん?

 この木は富山から運んだようで、ググルと富山でもアスナロはアテと呼ばれてるみたいなのだが、そのアテの由来をググルと、こちらのサイトに以下のように書かれていた。

「アテ」は古代語では貴いという意味で、言葉がなまって「アテヒ」となり「貴いひのき」という意味があります。

 落ちこぼれの逆やないかーい! 富山で作業したときとかにそういう話は聞かなかったのだろうか。

 他、鎮魂のためといいつつ、ギネス目指すとか、なんだかよくわからないプロジェクトになってて、カオスな感じで、もうこの辺でこのプロジェクト自体についての言及はやめておこうと思う。

 それよりも私の興味を引いたのは、冒頭にも書いたが、伐採することに対する人々のネガティブな感覚の方。150年というのは、ちょっと微妙な年数だが、この樹齢の木というのは、人工林の場合、ざらにあるわけではないだろうが、里山の木としては全然珍しくはないと思う。環境保護というと木を伐採しない方向に向いがちだが、特に人工林や里山の場合、人間が伐採して使っていってなんぼというところがある。

 この木の場合、富山県氷見市一刎という地区にあり、場所を調べてみると、ストリートビューがない場所で特定が難航したが、多分、Google Earthでこの木かその周辺の木だろうというところまでは特定できた(こちら)

 山中から持ってきた、というので、随分山奥からと思っていたが、普通に集落内にあり、集落のお寺の道路を隔てた向かいにある木だったようだ。寺は集落の中心部にある浄念寺というお寺だが、北陸という真宗地帯にある寺らしく真宗大谷派の寺であり、寺での行事もよくあるだろうから、住民にとってはなじみのある木だったことだろう。

 ほんで、地元住民の声はというと「誇りに思う」とか「神戸の住民にこちらに来てもらって観光につなげられないか」(ブログ記事)といった意見があるようだった。ゆうたらなんだが、こうした山間地域は過疎化に悩まされているはずで、どんなイベントであれ、地域が活性化するなら歓迎なはず。この話もすぐに飽きられて話題にされなくなると思うけど、これきっかけで交流イベントが続いたりするといいのにとか思った。

 あと思ったのは、この件、イベント後の用途がもう少しマシなものだったら、人々の受け取り方も随分違ったんじゃないかと思える。この木が150年ものではなかったのだったら、生木ではなかったのだったら、富山から運んだものではなかったのだったら、などなど、色々と思うことはあるが、諸々炎上しても仕方のない案件だったかなと思える。

 氷見-一刎-プチお散歩というブログ記事に在りし日の(?)あすなろを撮影した写真があった。とりわけ巨木というわけではないと思うのだが。。。多分、世界一の高さといえる150年の樹齢の木を探してて、ここにたまたまあったこの木をチョイスしたもので、アスナロ云々は後付けなんだろうなぁなどと思ったが、穿ち過ぎかな。。。

不在地主の自治会費をどうするか問題が発生、今年はひとまず半額に減額ということになったが……

 さて、子供にはDVDを見てもらっているところで、最近の出来事で何か書くことあるかな、と思い巡らせてみて、自治会費というのが思い浮かんだので、書いてみる。

 引っ越したにも関わらず、先日、以前の自治会の総会に出席させてもらった。例年のごとく、いろいろと問題が噴出する中、今年紛糾した議題の一つが不在地主の自治会費問題だった。

 我が集落の高齢化率は去年の時点でついに50%いってもうたようで、これまで「ほぼほぼ限界集落」ゆうてきたが、晴れて「ほぼほぼ」を取ることが出来るようになった(おい)。

 主要因はやはり人が出ていってしまって帰ってこないこと。帰ってくる方もおられるのだが、それでも帰ってこない家が多く、基本的には減る一方である。そうした中、今まで自治会費は皆、同一金額を支払っていたが、不在地主側から減額してほしいという要望が出てきていて、払わないという方も出てきたそうで、いよいよ集落として着手することになった、というのが経緯。

 そんなわけで、ではいくらにすべきか、というところで紛糾、私が立場上、不在地主側の意見を代弁する形となり、いやはやすっかり困ってしまった。まだ不在地主歴1ヶ月のペーペーが代弁するわけにはいかないのだが、それでも他の不在地主の皆さんは出席要請されてもなかなか総会に出席できないようで、私が立場上、「応戦」する形となったのだった。

 都市部住人には信じがたいことであろうが、少し前まで自治会費は月額1万円だった。年額ではない。月額である。なぜこんなにもかかるのかといえば、テレビアンテナだとか上下水道の整備とかにゼニがかかっていたため。なんでインフラに、と疑問に思ったものだが、こうした設備には幾ばくかの個人負担が必要なことがままあり、こうした小さな集落だと分母が小さいため、一人頭の金額がべらぼうに高くなることがある、ということだったかと思う。

 ただ、今はそうした高額な個人負担がかかってくるような事業が近い将来あるわけではない、ということで、月額5千円に減額されたところで、今後、さらに減額される可能性はあるものの、世知辛い世相で個人負担率があがることもありうるだろうから、なんともいえないとしかいえないのが実情。

 そんなわけで今の一世帯当たり月額5千円(年額で6万円にもなる!)という金額のうち、どれぐらい不在地主が負担しなくてはならないのかの議論が始まったのだが、詰まるところはその根拠がはっきりし、不在地主が恩恵を受けられない部分は減額し、恩恵を受ける部分は負担してもらう、という形にするとお互い納得感が得られるのではないか、と思ったのだが、なかなか判断が難しく、今年はとりあえず半額にしようということになった。実際のところ、周辺集落で半額にしてるから右へ倣えしたわけなのだがw

 個人的感覚として、半額というのはまだ高すぎるように思うが、様々な管理を委託しているという面も実際にはあるわけで、負担ゼロというわけにもいかない。一体どれぐらいが適切なのか、各集落で事情はいろいろだろうが、私も思いきし当事者になってもうたので、折を見て調べていこうかと思っている。

 そもそもなんでこんなにも自治会費が高いのか、という点については、やはり住人の分母をあげる方策を見つけるのがセオリーであって、都市住人の移住を期待するしかないのか、と考えるが、それがうまくいかないようなら、集落移転などをいつかは考えざるをえないのではないかと個人的には思っている。数人しかいなくなった集落にも数千人の集落と同等の行政サービスが受けられるように整備すべきなのか、という問題があり、今後日本は衰退するわけで余裕もなくなってくるだろうから、まだ手の打てる今のうちに着手すべき、という発想。

 こうした点について、「撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編」という本があるのだが、この本では「集落移転」の他にも「荒れた人工林を自然林に」「放棄された水田を放牧地に」など、そこだけ切り取ったのでは現住人の気持ちを踏みにじるかのような言葉が出てくるのだが、この本は「選択と集中」とかいう中央官僚による数値を弄ぶようなゲーム感覚の机上の戯言とは違って、すっと腑に落ちるところがある。「集落移転」というと震災後におなじみのフレーズとなったが、この本は東日本大震災の前に出版されており、今読んでもまったく違和感はない。現時点ではちょっと想像しがたいけど一つの有力で現実的な解ではあるなぁ、というのが一読した印象で、この問題に関心がある向きには一読をお勧めする。

近江県、琵琶湖県? 滋賀県の県名変更についての個人的意見

 私の住む滋賀県の県名変更が話題になっている。

滋賀が「近江県」に? 県名変更案に県は複雑

 しかし、私の周囲で話題になっているのは聞いたことなく、個人的にはあまり関心が持てない。というのも、私は滋賀県最北部に居住しているが、県立図書館など、県立の施設は最南部に集中していて、正直なところ、滋賀県民であることのメリットはほとんど感じられない。最北部県民としては、県名変更などどうでもいいから、この南北格差をどないかしてくれ、というのが本音だ。

 首都移転の話だと、候補として出てくるのは、岐阜、三重などなどで、根拠はやはり真ん中だから、というもの。それでいくと、県庁は真ん中当たりがよいわけで。彦根ぐらいなら、下道で一時間程度でいけるので我慢できるが、大津までは南部の渋滞もあって、ちょっと車で行く気になれない。ついでにいうと、鉄道だと大津で下車する理由はなく、大阪や京都まで行くことになる。

 もっとも、大津に県庁所在地が置かれたのは、明治新政府の彦根藩への嫌がらせ、という話もあり、また、ネット情報では、別の説として、新幹線の駅を設置させなかった彦根在住勢力の陰謀なんて話もあるが、この辺りはちょっとよくわからない。

 先日、神戸の北、兵庫県の中山間部に行ってきたのだが、行き交う車も少なく、人影もまばらで、京阪神地区のベッドタウンとして発展を遂げる滋賀県南部なんかよりも、「同じ境遇」にある感じがしたものだ。多数決が支配する今の世の中では過疎地域の声はかき消されてしまうので、こういう地域同士で連帯していかないといけない時代なんじゃないかと思ったりしつつ。

篠山の武家屋敷群
人影もまばらな篠山の武家屋敷群・・・

 ここで、道州制、という話になるわけだが、道州制になると、過疎化に拍車がかかるという話も確かにある。しかし、いずれにしても、このままでは未来が見えないわけで、コストが膨大にかかるだろうが、個人的には長い目で見て行政コストが削減される道州制には賛成かな。今の時代、都道府県という単位はちょっと中途半端な大きさなようにも思うし。

 とはいえ、当面、そう簡単に道州制に移行できるとは思えないし、現実的に都道府県という単位はそれなりに機能し続けていくことになり、この中でなんとか解決策を見出していくしかないだろう。書いてて途中で気づいたが、明日は県議会選挙だった。現状追認するだけのような候補者でない未来を見据えた候補者に投票したいもので。

 候補者の皆様のご健闘をお祈りいたします。

篠山線廃線跡
一部にレールがまだ残る篠山線の廃線跡