スカイプについての話

 前回、Microsoftについて、ちらっと書いたが、ちょうど、こんな記事が出てたので、その辺りを少し。

Skypeの通信はすべてリアルタイムで盗聴可能だったことが明らかに

 スノーデンによるNSAのネット上でのデータ収集の実態の暴露が問題となったが、スノーデン・ファイルを託された記者の著書『暴露』を読むとスカイプに限らず、もはやNSAに覗かれずにインターネット上で何かをやり取りするのは不可能ではないか、と思わせるほどで、通話ソフトはスカイプ以外にもいくつもあるが、結局、同じことではないかと思ったり。

 スカイプはP2P音声通話ソフトの老舗といったところで、開発拠点はエストニアにあり、ルクセンブルクの会社で、eBay傘下になったりしたが、2013年にマイクロソフトに買収された。この時は、そろそろスカイプとも別れ時なんかもと思ったが、多くの人がインストールしているソフトで手軽であり、今も時々使っている。

 ただし、以下の様な事実を知った上で使う、というのは嫌なものだ。上記記事や関連記事にもあるが、先の『暴露』にもこんな記述がある。「NSAと民間企業の蜜月ぶりはマイクロソフトについての内部文書に最も顕著に表れている」「スカイプとスカイドライブとアウトルックへのNSAのアクセスについて、同社が積極的に協力していた」。また、p176には内部文書の記述として、NSAがスカイプの別アカでのログインに対応し、2013年4月時点ではMSメアドによるログイン以外には対応出来ていないが、同年夏までに対応する旨の記述があり、「以前なら見逃すことになっていたであろう情報の収集に成功」とある。

 スカイプはその性質上、盗聴は困難だと思っていたが、開発元が協力したのでは、そりゃもう簡単に出来てしまうわけで。

 以前、私は以下のような体験をしたことがある。もう5年以上前だと思うので、マイクロソフト買収前だが、中国国内にいる人とスカイプのテキストチャット(言語は英語だったはず)でやりとりしているとき、チベットという言葉を出した瞬間、相手の様子がおかしくなり、こちらに対して、「お前は何を言っているのか」などと言い始めた。誰かが通信に割って入って、私になりすまして発言しているようだった。相手が私をからかった可能性はあるが、そういうことをしそうにないタイプの人だったし、中国当局はスカイプ通信を傍受出来てるんかも!? と驚いた次第。(今、調べると「Skype、中国でのIM検閲を認める」という記事が出ていて、「テキストチャットの特定のキーワードを取り出せる」とあり、まさに私のケースだった!)

 実際、自分自身でそのような体験をしたので、スカイプにそうしたバックドアはあるんだろうな、ぐらいには思っていたし、他の著名なIT企業も当然情報提供していると考えておいた方がよさそうで。もちろん、私の通信を傍受したところで、何も得るものはないんだが、『暴露』にはこんな記述がある。

 「監視システムが効果的に人の行動を統制出来るのは、自分の言動が監視されている “かもしれない” という認識を人々に植えつけるからだ」(p261)

「ユビキタス監視は監視機関に権力を付与し、人々に服従を強制するだけでなく、個人の内に監視人を生み出す効果がある。コントロールされていることにも気づかず、人々は無意識のうちに監視人が望むとおりの行動を取るようになる」(p262)

 そういうわけで、可能な限り、そうしたソフトは使うべきではない、ということはいえそう。もっとも、必要に迫られて使ってしまう私なのであるが。。。

私がWindowsを使い続ける理由

 連休中、近所のおっちゃんから「うちのパソコン不調なんで見てくれ」と連絡があり、赤子を連れて訪問。あやしてもらいながら見てみるともういろいろとあかんので、Tさんにあげたけど戻ってきたXpのノートPCを使ってもらうことにした。ネットには接続しない、とのことだったので。

 この方とは、現代版の「結」のような間柄にいつの間にかなっていて、私がITとかそういうのを見る代わりに、田舎での生活のことなどを教えてもらったりしている。

 私はこれでも「パソコンに詳しい人」ということになっているので、パソコンにまつわる様々な質問を受けることがある。そういう場合、OSはWindowsであることがほとんどで、MacやらLinuxやら、最近だとChromebookなんてのもあるが、概ね、今も多くの人達はOSがWindowsであるようなパソコンを購入しているようだ。2014年11月時点のOSシェアでもWindowsは9割を占めている。

 私は初めて触れたパソコンがMacだったこともあり、初めて買うパソコンをマックにするかWindowsにするか迷い、三日三晩考え続けた。今となっては信じられないことだが、この判断の前に「ワープロにするか、パソコンにするか」という前段階があったことも付け加えておく。そして、主にワープロ用途だが、他にもできることがある、ということで、パソコンにし、OSはやや価格が安かったこともあり、Windowsに決めた。スマホ選びでもiPhoneを選ばなかった大きな理由が価格だったのでこういう行動原理は変わらないようで。バージョンはまだWindows3.1だったが、ちょうどWindows95が発売される前でWindows95の無料アップデート権がついていた。

 その後、たまたまプロバイダでバイトすることになって、サーバ管理などでUnix文化に触れ、そちらの方に惹かれるものはあったが、ずっとWindowsを使い続けている。さらに、なぜかプログラム作成を生業とすることになってしまい、主にクライアントがWindowsであるようなサーバ・クライアント・システムの構築に携わることが多く、そういう場合、エンドユーザーのOSはWindowsだったりするので、Microsoftのえげつない商売のやり方は嫌いだったが、結局、ずっとWindowsから離れられずにいる。

 もっとも、WindowsXp辺りからMicrosoftはそれなりに社会的責任を意識しているように思うし、Googleなどの台頭でかつての一強時代でもなくなり、今はそれほど嫌悪感はなくなったが。

 私がWindowsを使い続ける理由としては、Windows以外のOSには対応しないソフトウェアが結構あること、それに前記の理由により、ひと通り、Windowsについては知っておく必要性があること、というのが大きい。Macについては、優れたUIにより、なんとなく使えてしまうし。(その逆は難しいらしいが・・・)

 そうした理由がなくなれば、私は多分、メインマシンはLinuxにすると思うが、今のところ、その予定はない。というわけで、今後もWindowsをしばらくはメインで使い続けることになってしまいそう。

「シャルリー・エブド」襲撃事件で思ったこと

 さて、今日は朝から赤子の世話係でうんち処理や洗濯食器洗いをし、離乳食を食べさせたところ。せなあかんことが山積みだが、今回のフランスでの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件で思ったことを少し書いておきます。

 あまり今回の件についての言説を追ってないので、その背景などはよく知らないのだが、一般論として、たまたま目にした酒井啓子氏の「嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界」内の以下の様な発言に同意する。

 今回の件は世界中で話題になっているが、日本でもかなり話題になっていることに個人的にはやや驚いている。十字軍からの犬猿の仲で、さらに、仏テロ連鎖:ユダヤ社会衝撃 イスラエルへ「脱出」加速も というような報道もあり、一神教のバックボーンがない日本ではなかなか理解が難しい面があるはずなので。先日、祖母の法事でご縁さんが「実は浄土真宗も一神教的なところがある」みたいなことを言ってて、必ずしもないとは言い切れないのだけれども。

 日本でも同様の事件は過去にあり、例えば、風流夢譚事件(嶋中事件)というのがあった。私はかつて作者の深沢七郎の本を愛読していて、『風流夢譚』を読んでみたくなり、掲載誌「群像」を図書館で閲覧し、すべて模写したことがある。(今なら電子書籍で読める)。

 作品自体は私は正直なところ好きではないが、この事件では、無関係である中央公論社社長宅の家政婦が亡くなっており、事件後、深沢七郎自身も農場にすっこんだりし、また、天皇への言及がしにくい状況が出現した。

 思うのは、表現の自由を根拠に自分が大事にしてるものにケチをつけられることは許容するから、他の人も許容しろ、というのをすべての人に求められるのか、ということで、世の中には様々な思想的宗教的背景を持つ人がおり、現実にそうした「触れるとヤケドをする事柄」がある以上、そうした表現を一定数のスタッフを抱える組織で商業ベースでやることに異を唱える人は世の中がどれだけ進んでも一定数はいるので、そうした表現に踏み込む場合、そうした作品の発表の仕方は、今だとAmazonで個人で書籍化したりもできるわけで、そういう方向性の模索があってもいいのではないんだろうか。今回、編集長は強い意志を持って作品を掲載していたようだが、結果として、たまたま出入りしていたような人も亡くなっているようだ。実際上、個人でやっても「影響力」という点などで「見劣り」するので、どうしても組織を絡めてやりたい、ということなのだろうか。

 あと、フランスにはセリーヌという作家がいて、彼の第一作「夜の果ての旅」は日本でも生田耕作による翻訳がよく、私は繰り返し読んできた本だ。この作品は第一次世界大戦に巻き込まれて戦争に参加していくシーンから始まり、彼が戦争の本質を理解していることは本を読めば自明なのだが、彼はその後、激烈な反ユダヤパンフレットを発表し続け、対独協力者として、流浪の旅をすることになる。例えば、『虫けらどもをひねりつぶせ』という本があり、日本では国書刊行会より出ているのだが、なんとフランスではこの本は刊行されていないらしい(最新の状況は知らない)。こうした、事実上の「発禁本」があるフランスで「表現の自由」というときのダブルスタンダードは意識しておきたいところ。

 ちょっと、赤子がグズりだしたので、ひとまずこの辺で。

47都道府県を踏破した私の生涯経県値

 私が学生だった頃はまだ今ほどは海外旅行は当たり前ではなかったと記憶するが、外国語大学に行っていたこともあって、私の周囲には海外長期滞在経験のある人が普通にいた。話を聞いてると、そういう人の多くが日本のことをより深く知ろうとしているように感じられ、それなら先に日本のことを知ってから海外に行く人がいてもいいじゃないか、と思ってしまって、あるとき、私は47都道府県すべてに足を踏み入れてから外国に行くことに決めてしまった。気軽に海外に行ける時代にこんなことをしても何のメリットもないと思うので、若い人にはおすすめしないが、実際のところ、学生時代の私は、お金がなくなったら働く、というような生活をしていて、格安海外旅行がまだ一般的ではなかった時代の当時の私にはそれだけのお金をかける価値が海外旅行にはなかった、というのが大きかったように思う。

 そういうわけで、47都道府県すべて踏破したのが30歳のときだった。出張で山梨に出かけたとき全都道府県踏破するためだけにわざわざ首都圏を横断して最後の未踏破県であった茨城県に行ったのだった。その1年後、初海外でロシアに行き、その後は毎年のように外国に行くようになったが、子供が生まれ、こういう生活もできなくなりそうで。47都道府県すべて踏破したといっても、やはり通っただけという県は印象が薄く、国内旅行もしていきたいと思う今日この頃。

 自分的にちゃんと訪問できてない県を調べるには「経県値」というサイトが役に立つ。私の生涯経県値はこんな感じで
「184点」となっている。

 ほとんどの県が「4:宿泊」の県で、「0:未踏」も「1:通過」もないが、「2:接地」の県が一つだけあり、それが宮崎県。「3:訪問」(宿泊なし)の県は秋田・群馬・鳥取・佐賀の各県。目的地への通過県が多いような。滋賀県も多くの人にとってはそんな感じの県なんかも。

 経県値をはじき出すのにちょっと時間はかかるが、やってみると改めてこうしてちゃんと訪問してない県が浮かび上がるので、空き時間のあるときにでも調べてみてはいかがだろうか。

「限界集落維持のコストは 国土交通省が検証へ」の記事の感想

 年末年始は10ヶ月の赤子が初めての風邪をひいて、その世話をしたりしていたのだが、さらに手押し車を使ってあちこち暴走ならぬ「暴歩」を初めており、ひとり歩きする日も近そうで、去年の年末年始同様、部屋の模様替えと掃除で終わってしまった。そんな中、こんなニュースが出てたので、日頃思ってることなどをつらつら書いてみます。

限界集落維持のコストは 国土交通省が検証へ(NHK) 1月2日 4時13分

限界集落維持のコストは 国土交通省が検証へ
人口減少が深刻な過疎地で持続可能な集落の在り方を探ろうと、国土交通省は東北の4地区をモデルに集落を中心部に移した場合に維持する場合と比べてコストがどれだけ節約できるかを具体的に検証することになりました。

住民の半数以上を高齢者が占め、存続が危ぶまれているいわゆる「限界集落」は国の調査で全国400か所以上に上り、中でも東北地方は50か所と中国・四国地方に次いで人口減少が深刻な過疎地が多く、集落維持のコストが課題となっています。
このため国土交通省は、集落を維持する場合と中心部に移しコンパクトな街づくりを進める場合のコストを比較し、実際の集落をモデルに検証することになりました。
具体的には集落の維持にかかる道路や上下水道の費用やバスやゴミ収集車などのコストと、集落の移転に伴う費用を比較し移転でどれだけ節約できるのかを分析することにしています。
モデルとなるのは宮城県栗原市、青森県むつ市、秋田県湯沢市、それに山形県小国町の4地区で、国土交通省は現地調査をし、ことし3月までに報告をまとめます。
こうした検証は全国で初めてだということで、東北地方整備局の安田吾郎企画部長は、「限界集落の問題は、住民の合意形成が難しくなかなか解決に向かわないが、『コスト』を見える形にすることで、集落再編を進める貴重なデータにしたい」と話しています。

 ちょうど最寄りの数少ない新刊がいくらか読める書店に『地方消滅の罠』という本があって、著者の山下祐介氏の『東北発の震災論』を興味深く読んだものとして、関心分野でもあり、購入して、半分ほど読んだところなのだが、『限界集落の真実』の著者でもある氏の問題意識は自分には何かと示唆に富んでおり、興味深く読んでいるところ。

 この本では主に元岩手県知事の増田寛也氏の話題の著書『地方消滅』に対する批判という形で論が展開されているのだが、「選択と集中」という言葉に潜む「選民意識」をあぶりだした上で、対案として「多様性の共生」という概念が提出されている。過疎地の住民として、著者の問題意識はほぼ共感できるものなのだが、いかんせん「多勢に無勢」感が強く、結局のところ、現代日本で多くの人が住む首都圏をはじめとする都市部、さらに言えば、東京在住の人たちの耳にはほとんど届かないか、届いても実感を持って共感されるものとはならないのではないか、という諦めにも似た気持ちを抱かざるをえない。

 私は東京に住んだ経験がなく、東京から出たことがないというリアル知人が非常に少ないため、たまに、そうした人と会って話したりすると、地方人の常識との乖離に驚くことがある。とはいえ、そういうずっと東京に住んでいた人に地方の実態を把握してほしい、というのもちょっと無理な注文なんじゃないかと思ったりもする。

 昨年末、「またまたエコノミストの予測外れる GDP下方修正発表に記者からどよめき」というようなニュースがあり、様々な「大人の」制約でこうした予想がなされた、という話もあるが、エコノミストの多くが東京在住で地方の実態が見えてないからじゃないか、と言われたりしていた。

 今回の記事も地方の実態など眼中にない中央官僚の「限界集落は国を維持していく上でコストがかかって邪魔なので、とっとと移住しろ、田舎者ども!」という考えが背景にあるのではないか。いや、まあ、官僚の秀才の皆さんもそこまで意識的に悪意を持って考えてるわけではないんだろうけど、こうした住んでいる人の気持ちなどお構いなしに「コスト」で測るという発想は「選択と集中」の「選ぶ側」に立つもの特有の何か(要するに先の著者もいっていたが「エリート主義」)が見え隠れする。

 増田寛也という人物については官僚出身だが、岩手県知事をやってたぐらいなんで、地方出身者なんだろうな、と勝手に思ってたが、どうも東京生まれ東京育ちの生粋の東京人のようだ。(Wikipedia 増田寛也

 私は全都道府県に足を踏み入れたことがあり、結果、一番変わった人が多いところが東京で、別の言い方をすれば、東京は日本で最も多様性に富んだ街という、「日本の首都は東京です」以上ではない感想を抱いたのだが、東京人を集団としてみたときに、エゴイズムをむき出しにする都会人の集まりに見えてしまうのは地方人の僻みなのか。

 滋賀県には一部「三大都市圏」に入らない地域があるのだが、私はその地域に住んでいる。とはいえ、京都・大阪・神戸、さらに名古屋に普通列車で日帰りできるところに住んでおり、これで田舎もんとは片腹痛いわ、と突っ込まれることもあり、私が中国・四国地方や東北の限界集落の実態を本当に理解できているか心許ないのではあるが、こうした中央から忍び寄る魔の手から逃れ、いかに生き延びるか、我々地方人もそれぞれの立ち位置でできることをしていかないといけないんじゃないかと思う。