「時事」カテゴリーアーカイブ

ラトビアの下町ボブスレー・BTC社とは?

 ネット上で下町ボブスレーが話題になっている。例えばこちらなど。その中でラトビアの下町ボブスレーとして言及されているのがBTC社であるが、英語記事がほとんどないとのことで、ロシア語記事で何かないか探してみたが、やっぱりほぼない。ただ、こちらに少し情報があったので、以下に雑に訳しておきます。

 ボブスレー技術センター(BTC)は2000年にラトビアの首都リガで設立され、ボブスレーの製造をしている。ラトビアのソリ製造の歴史はソ連時代の1980年代初頭に遡り、リガの自動車工場でソ連代表チームのために技術を提供していた。これまでにボブ(車台)はロシア、アメリカ、日本、ポーランド、スロベニア、イギリス、オーストラリアのチームに、スレー(ソリ)はドイツ、スイス、カナダ、オランダに供給されている。

 こちらによると「ボブスレーbobsleighの名前の由来は、スピードが増すにつれて選手の上体が前後左右に振れる(ボブbob)そり(スレーsleigh)ということから名づけられたとされる」とのことだが、原文ではボブとスレー(?)の供給先が別々に列挙されているのが謎。そういうもんなんか。

 記事は2013年のものだが、BTC社から日本にも提供されているとあり、別に昨日今日ではなく、実績あるメーカーだったのではないか。

 こちらは2013年のラトビア語の記事で、ラトビア語は全くわからないが、Google翻訳をかましてナナメ読みしたところ、同じく2000年にリガのElvira通りで設立されたとあり、この時点で従業員は5人(日本語記事だと6人とあるので、この間に一人増えた?)でソチ五輪では6チームに供給したとあり、年間製造数はせいぜい4台なのだとか(間違っている可能性あるので注意!)。

 ちなみに前の記事は各国でどのメーカーのボブスレーが使われているかが列挙されており、2013/2014シーズンではBTCがベルギー、イギリス、ラトビア、そして日本で使用されていることが記されている。BTCが席巻しているという情報があったが、見ているとオーストリアのStampfer、ドイツ・バイエルンのSingerなどからも提供されており、各国しのぎを削っている様子がわかる。また、一つのメーカーだけの国もあれば、複数のメーカーのを使っている国もあることがわかる。

 Shitamachiも記されているが、提供先は日本のみとなっている(2013/14シーズンの話です。為念)。一番下にShitamachiの説明もあったのでざっと訳しておきます。

 Shitamachi これは日本のダウンタウンを訳した言葉で、Junichi Hosogai氏が率いる純粋に日本のプロジェクトである。日本ではボブスレー人気はまったくないが、このことは東京のエンスーたちがボブスレー2を作るのを妨げなかった。2013/14シーズンの初めまでにすでに第二世代のボブスレーを制作している。プロジェクトの主目標は2018年のオリンピックでよい結果を残すことである。

 すでに以前からこのプロジェクトは2018年の成功が主目的のプロジェクトであることが世界的にも周知されていた模様。なので、それが叶わなくなる、というのは、プロジェクトが大失敗であることを内外に示すことになり、なりふり構わず訴訟沙汰にしてジャマイカチームにせめて使ってもらうだけでも、という動きを見せたが、結果として、こうして日本中にここに至る背景、特にボブスレーへの愛もないままに突っ走っていたことが露見してしまい、大炎上してしまった。

 うかうかしてると日本がまるごと下町ボブスレー化するぞ、などとうまいことを言っている人がいたが、本当にそう思う。いろいろと今の日本を象徴している出来事だったと思う。

『もし私が10歳の日本人なら…世界的投資家の「驚愕の問いと答え」』という記事を読んでの感想など

 12月も中旬になった。今月もほぼ余裕がなく、ブログなど書いてる暇などないのだが、もし私が10歳の日本人なら…世界的投資家の「驚愕の問いと答え」という記事があったので、感想を書いてみる。この投資家氏は「もし私がいま10歳の日本人ならばAK-47を購入するか、この国を去ることを選ぶ」とのことで理由として以下のようなことを述べている。

日本はいまGDPの240%、じつに1000兆円を超す巨額赤字を抱えています。そのうえ、猛烈なペースで進む人口減少社会に突入してきたため、とてもじゃないがこの借金を返済することはできない状況になってきました。

いま50歳前後の中年の日本人であれば、30年後は80歳ですから、誰かがケアしてくれるかもしれません。日本の国庫には、老齢人口を支えるおカネはまだ残っているでしょう。しかし、30年後に40歳になる日本人には、老後を支えてくれる人もカネもない。

このままいけば、いま日本人の10歳の子どもが40歳になる頃には、日本は大変なトラブルを抱えていることでしょう。小さな子どもの日本人にとって、未来はすでに『短い』わけです

 日本国内在住の読者を相手にしている経済評論家の肩書を持つ人たちの意見をネットやニュースなどで見ることがあるが、比較的短期的な対策は得意でもこういう大前提の当たり前の話は読者の耳に痛いため、なかなか言われないもので。

 ほんで、こうした状況は高齢者層から若い人たちまでかなり前から共有されていたはずで、その時点でも手遅れ感が強かったのだが、結局、人口構成上もう手を打つには遅すぎる段階に来てしまって、破産待ち状態がズルズルと続いていくことになるのだろう。

 当面はソフトランディングを目指してなんとかかんとかごまかしつつやっていくのだろうけど、私は最近、ハードランディングを目指した方が長い目で見て未来のためになるんじゃないかと思ったりすることがある。

 楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。人生のバランス上、戦争という艱難辛苦を経た戦争体験者以上の世代は後年に楽をしていただいて大いに結構だったと思うが、さして世代として苦労をしてきたとは思えない今の高齢世代はこの状況を放置してきた責任が・・・あるとはいえないけれども、後の世代のことを少しでもいいから想像して、今出来ることをしてほしいものだと期待したいのだが、ちょっとそれも無理なのかなと最近は思っていて、破産を早めたほうがいいんじゃないのか、云々。

 というのも、私の身近な高齢世代を見ると、もう信じがたく手前勝手な人がいて、後の世代のことなんて、これっぽっちも考えてなくて、自分の生活が第一で、金はたんまり持っていても露骨に負担を後続世代に押し付けてきたりする。もちろん心ある高齢者も多いのだけれど、そういう高齢者に接すると「地獄に落ちやがれ」ぐらいに思うのも無理ないってもんで。

 そんなわけで、私はもう諦めて、この記事にあるように子どものために国外に移住することを検討しはじめているのだが、現実にはめちゃめちゃ厳しい。学士もなく、コネもなく、語学もビジネスレベルにはない私には、とてもじゃないが海外で仕事を続けていくのは無理だと思う。先日、アメリカで長らく働いて、今日本に戻っている方からいろいろ興味深い話を伺ったが、クビにならないために周到に振る舞い続ける必要性があることがよくわかり、その方は私などよりも遥かに素養もあって、海外暮らしが楽にできそうに見えるのだが、それでも厳しい状況があるようだ。

 そんなわけで、いつものように堂々巡りをしているのだが、今はとりあえず子どもたちを当座養えるだけの仕事があれば、どこへでも行って働く、ぐらいの気持ちでいる。子どもたちを国外に置いておいて、自分だけ日本に出稼ぎに来る、とかも検討する必要があるのかもな、とか考えているところ。

 年を取ると健康不安も出てくるだろうが、アメリカなどのように高額治療が必要な病気になったら即破産みたいなのに比べ、日本のようにいざという時に健康保険で高額治療を受けられるのはいいなぁ、などなど、改めて今の日本の「暮らしやすさ」の捨てがたさを感じる今日この頃。

 でも、それでも、出ていきたい、という気持ちも同時に強くなるばかりだ。ああ、どうしたらいいのだろう……。

日本ではもうロスジェネ以降の世代が各界で決定権を握るまでは身を切るような改革は無理なんじゃないか

 「「期待されてない……」育休明けに落ち込むワーママへ キャリアカウンセリングから脱出策を考える」という記事でこんなことが書かれていた。

会社側の問題としては、各職場の管理職がダイバーシティ思考に変化できていないことが挙げられると思います。かつ、そのような会社の管理職はこれまでの成功体験や価値観が根強く、簡単には変化しないことも考えられます。

 その昔、バブルという時代があって、その時期に、人によって大きく差はあるものの、概ねいい思いをしてるのをなんとなく私は知っている。すぐに分かる例は就職についてのことで、私が大学に入学したあたりぐらいがバブル絶頂期で大学の先輩方は内定取り放題で選ぶのに苦労する、という今からすると信じがたい時代を目撃している。また、1990年前後だったと思うが、たまたま人伝に紹介してもらったイベント設営のバイトで時給2000円(それだけでも私の中では破格)で22時間連チャンで働き(というかそんなことは出来ないので最後はみんな寝ていたが)、一日で44000円稼いだことがある。私は学生時代、バイトばかりしてたものの、こういうバブルっぽいのからほど遠い底辺バイトばかりしてたので、こうした経験はほとんどないのだが、バブル期にがっぽり稼いでうまく売り抜けたような人が「いろいろと狂っていた時代だった」というのを何度か聞いたことがある。

 人は20代、30代に培った経験を元にその後の人生を生きていくものだが、ざっくりバブル頂点の1990年に20歳から40歳だった人というと1950年から1970年生まれの人が当てはまり、そして、今、各界で決定権を握っているのがざっくり50歳から70歳ぐらいと仮定すると、だいたい1947年から1967年ぐらいとなり、バブルで若い時期においしい思いをした世代とかぶることになる。

 数値的裏付けなどないし、世代としてくくってもそこからこぼれ落ちる人が山ほどいるのも承知しているが、概ねバブル期にいい思いをした世代は自分が死ぬまで日本がなんとか今の状態を保ってくれたらいい、というような逃げ切りマインドになっていて、自分の身が切られるような変革を拒む傾向があるように思う。時代の追い風があったという認識はあったとしても、自らの成功体験が何となく価値観のベースにがっちりと敷かれていて、ダイバーシティの必要性を頭では分かっていても、実際の施策として採用されない、というようなことがあちこちで起こっている。

 そんなわけで、最近、タイトルに書いた「日本ではもうロスジェネ以降の世代が各界で決定権を握るまでは身を切るような改革は無理なんじゃないか」と思うことが多くなった。(ちなみにロスジェネ世代は1971年から1981年を指すのだとか。私はロスジェネは自分よりもう少し下だと思ってたが、自分もロスジェネにギリギリ入ってると初めて知った次第。)

 しかし、それまで何年待たなくてはならないのか。そんなわけで移民という話が出てくるわけだが、前回、移民についての記事を書いたところ、私より若い世代の方がリアクションくれて、周囲でも移民の話になるんだという。実際、日本からなかなか出られない、って結論になったりするようではあるものの、日本でも頭脳流出が現実味を帯びて来始めているのかもしれない。

アレクセイ・バターロフ出演の放射能の危険性を描いた映画『一年の九日』や『鶴は翔んでゆく』について

 バターロフが亡くなった。私がバターロフを初めて見たのは「一年の九日」だったと思う。1年のうちの9日に焦点を当てたもので、監督はタルコフスキーの師匠のミハイル・ロンム。この映画は放射能の危険性を描いた映画でもあり、ロシア映画社の一年の九日(ДЕВЯТЬ ДНЕЙ ОДНОГО ГОДА)の記述のネタバレにならない部分を以下に引用しておく。

1960年代、シベリアの地方都市にある原子力研究所。核融合の重要な実験が進行している。この実験は危険と隣り合わせで、有名な物理学者シンツォフも実験中に浴びた放射能が原因で命を落す。彼のもとで研究活動を続けている若い物理学者グーセフにしても同じ危険にさらされている。

 1961年の作品でちょうど大気圏核実験が盛んな頃であり、その翌年にはキューバ危機があった。核戦争の危機がリアルに迫っていた時代の映画で、ソ連側でもこのような映画が作られていたのだった。

 劇場で一度見たきりなので、また機会があれば見てみたいと思う。ちなみに、この映画は学生時代に日本橋の映画館で見たのだが、ロシア語を勉強中でこんなことしたらあかんのだが、館主に無理を言って、カセットテープを持ち込んで録音させてもらった、という記憶がある。今のご時世、こんなことは認められんだろうけど。

 バターロフは「鶴は翔んでゆく」にも主演俳優として出ている。この映画のカメラワークは有名だが、やはりすごいもので、ストーリーも私の好きな部類の話。以下に、10年前に見た時のメモ書きをそのまま載せておく(ネタバレ危険につき、未見の方は読まないで!)。

かなり昔に見た記憶があるが、流麗なカメラワークに目を奪われ、内容の方は昔の邦題の「戦争と貞操」の話なんだな、程度の感想しかもてなかった。しかし、それなりに年を取った今、内容の方に注意が行く傾向が出てきたようで、主人公の悲劇がやるせなく、しかも最後にはその死が確定してしまい、その後彼女はいったいどのようにして生きていくのか、というところで、彼の戦友が「勝利の陰には死んでいったものたちがいることを忘れてはならない」という感動的な演説をし、未来の夫になるはずの許婚のために持ってきた花を隣に居合わせた初老の男性に言われて周囲の人々に渡していく様子は涙なくしては見られない場面だ。こういう話には弱い。カメラワークはもちろん、奇抜なカメラアングルもよく、「誓いの休暇」と共にこれから何度か見ることになるだろう。

 バターロフは他にもロシア語圏で大変好まれている「モスクワは涙を信じない」にも出ており、かなりな重鎮と言って良い存在だった。今、ざっとリアルタイム検索してみると、そんなには話題に上がっていないようなのだが、日本でも人気俳優だったはずで、回顧上映なんかがされるといいな。

今年はシャンソン歌手バルバラの死後20周年、そして今日はバルバラの誕生日

 今、フランス語がマイブームで、学生時代から離れていたシャンソンを聞いてるが、当時良く聞いていた歌手の一人にバルバラがいる。日本でも「黒い鷲」などで知られていて、クミコの「わが麗しき恋物語」の原曲の作者ということでも知られている。

 私がバルバラを初めて聞いたのは、シャンソン集の中のジャック・ブレルの「行かないで」のカバーで、その歌い方は何か居住まいを正さずにはいられない迫力に満ちていて、バルバラ・ベスト盤などを買い求めるようになった。ちなみに「行かないで」は様々な歌手に歌われていて、フランス語版Wikipediaを見ると30人ぐらいにカバーされているようで、英語やヨーロッパ諸言語はもちろん、行かないで_(ジャック・ブレルの曲)を見ると日本語でも歌われている。また、フィギュア・スケートの曲としても時々使われているようだ。

 前の投稿でボブ・ディランについて書いたが、バルバラもボブ・ディラン同様にユダヤ系で、バルバラはヨーロッパということもあり、ナチスのホロコーストの脅威を直接受けており、その歌詞には死が常にまとわりついている。

 バルバラもボブ・ディラン同様、本名は別にあってモニック・アンドレ・セールという。セール(Serf)とはフランス語で封建時代の農奴を指すみたいだが、この姓がユダヤ系を示すのかどうかはわからない。また、バルバラの母方の祖母はオデッサ生まれのようで、Varvara Brotdsky(ヴァーヴァラ・ブロツキー)という名前だったとのこと。ボブ・ディランの祖母もオデッサ出身だったが、オデッサでボブ・ディランとバルバラがつながるとはなんというか、自分的にとても意表を突かれた感じ。

 バルバラには名曲が多いが、『小さなカンタータ』という曲が今のマイ・フェイバリット。2分程度の曲で、小品という印象だが、「シ・ミ・ラ・レ・ソル・ド・ファ」という印象的なフレーズが繰り返される中、亡くなった親友とのピアノを通じたやり取りが歌われる。歌詞は、親友の死後、一緒に弾いていた曲を弾くが、親友のように流麗には弾けないと嘆きつつ、親友のセリフとして「ほら、私が弾くから、あんたはさあ歌って、歌って、私のために」という歌詞がこの歌の中ではやや異質なささやくような声で歌われたりして、感情が揺さぶられる。他にも様々な趣向が凝らしてあって、技巧的にも素晴らしいと感じられる。

 ボブ・ディランが今回のノーベル賞受賞講演で述べた「音楽は人を感動させることがすべて(If a song moves you, that’s all that’s important.)」という言はまったくそうで、バルバラの曲や歌い方は人を感動させずにはいられないものがあって、「イージーリスニング」とは対極にあり、あまり気軽に聞けないのだが、それでも、こうした感動を求めて、これからも何度と聞くことになるだろう。

 ゴダールの『気狂いピエロ』で映画とは何かを聞かれたサミュエル・フラーは「一言でいえば、感動だ(In one word, Emotion)」と答えるのだが、歌にかぎらず、様々な表現行為はつまるところ、ここを求めるものなのだろう。

 もっとも、私の場合、日々感動してたら身が持たないので、何かにつけ「イージーリスニング」的なのに流れがちで、あまり最近はこうした創作物に触れる機会が少なくなっているが、それでもボチボチと触れていきたいと思っている。

 こちらは「小さなカンタータ(Une Petite Cantate)」を歌うバルバラの映像。関心のある方はどうぞ。