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フリージャーナリスト礼賛

 昨日、岩上安身さんが連続ツイートをされていたのを読んだが「【岩上安身のツイ録】眠れない日々 ~僕が交感神経優位になってしまった理由」、ジャーナリストは本当に大変な職業だと思う。特に組織に所属していないフリージャーナリストは収入面で大変なようで、本来業務とは関係無いようなアルバイト的な仕事をしてる方も少なくないと聞く。

 ジャーナリストが有料メルマガを始めた頃、「信者ビジネス」などと揶揄する向きがあったが、佐々木俊尚氏が「なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?」という記事で指摘していた通り、まだ世間ではジャーナリストが「公共圏の担い手」として期待されていることの証左といえるのかもしれない。

 私自身のことをいうと、震災後しばらくはジャーナリストにカテゴライズされることもあったが、主な収入源は別であって、ジャーナリストで食べていこうと思ったことはない。現実的に考えて、食べていけるとはとても思えないからだ。なので、私のようなものからすると、信者ビジネスであれ、食べていけている人はそれだけで十分すごいと思うし、本音を言えば、ちょっと羨ましいし、それを元手に大手メディアが出来ないような取材活動が出来れば、そんな揶揄をされるいわれはないのではないかと思っている。

 また、ジャーナリストという職業は誰からも好かれるものではなく、どうしても敵ができてしまう。日本の場合だと殺されるようなことは少なくはなっているだろうが、命の危険があることは今も変わらないだろう。伊達や酔狂で出来る仕事ではない。

 先日、ロシアでネムツォフ氏が殺害されたが、こうした暗殺は世界では今も普通にある。ウクライナのキエフ中心部の繁華街「フレシャーチク」にはウクライナのジャーナリスト協会があるのだが、その協会が入っている建物の外壁には以下のように「真実のために命を捧げたジャーナリストたちへの追悼」というプレートが掲げられていて、殉職したジャーナリストの名前が記されている。かように当地では今もジャーナリストは命がけの職業である。

真実のために命を捧げたジャーナリストたちへの追悼
(Wikimediaより)

 日本でも、つい最近、後藤健二さんが痛ましい形で殺害され、「自己責任論」が再び論議されるなどフリージャーナリストへの関心が一時的に高まった。グーグル・サジェスチョンを見ると、こんな感じで、時勢を反映して、後藤さん関連のワードが出ている。「年収」や「収入源」なども出てくるので、一般的にもフリーの収入について関心を呼んでいるのだろうか。(少し前に収入とかで調べた記憶があるが、グーグルサジェストって個人の検索履歴は関係無かったっけ?)

フリージャーナリストのグーグルサジェスト結果

 今日、近場では比較的本の数が多い本屋に立ち寄ったのだが、後藤さんの著作コーナーがあり、その中に「エイズの村に生まれて―命をつなぐ16歳の母・ナターシャ」という本があった。この本はエストニアのロシア系住民が多数を占める国境の街・ナルヴァへの取材旅行で出来た本らしかった。私もここは行ったことがあるが、外国人観光客は稀で、ウクライナ政変後の今ならともかく、こうした日本人にはほとんど関心がもたれないところにも取材に行っておられたようで、ちょっと驚いた。こうした取材はフリーならではであろう。

 グーグル・サジェストには「フリージャーナリストになるには」というワードがあり、検索するとトップには就職情報サイトが来るのだが、それなりにこのワードが選択されている、ということなんだろう。雑誌メディアの退潮のせいなのか、私のアンテナの張り方がまずいのかわからないが、若手ジャーナリストの名前は私はあまり思い浮かべられないのだが、こうしてなりたい人がまだまだ存在することに希望を持ちたい。

 ただ、どうやって食べていくかについてはよくよく考えた方がいいだろう。私は個人的には、今後もフリージャーナリストがどんどん出てきて欲しいが、他に収入源を持ちながら活動することも考えておいた方がよいのではないかと思う。何もジャーナリスト稼業一本でやっていかなくてはならない理由はなく、比較的自由が利く仕事をしながら、独力で修業することも不可能ではないはずなので。

今回の件を日本でのイスラモフォビアの始まりとさせないために

 昨日の朝は他の人たちがくつろぐ中、黙々と残業してる夢を見ている途中で赤子に起こされたのだが、こういう感覚ってデスマを経験して以来かもしれない。サンデーのモーニングによりによって、なんでそんな夢をみんならんのやと思いつつTVをつけると後藤さんが殺害されたという速報が流れていたのだった。この事件についていろいろと思うことはあるものの、まだ考えがまとまらないので、何か意味のあることが書けるわけではなさそうだが、思うままを書いてみる。

 仄聞するところによるとすでに国内のイスラム教徒に対して「日本から出て行け」などとする嫌がらせがなされ始めており、ついに日本もそういうフェーズに入ったということなのだろう。日本とイスラム世界は関係性が比較的希薄だったこともあり、概ね良好な関係にあったが、今回の件が日本のイスラモフォビアの始まりとなる事件となる可能性がある。また、今回の件に関し、安倍首相の言動がトリガーになった可能性は、タイミングが今だった、という点ではそうといえそうだが、遅かれ早かれこうしたフェーズに入ることになったと私は思う。

 私は30歳になるまで海外に行ったことがなかったので、「外国かぶれを忌み嫌う」感覚はいくらかわからなくもないのだが、こうして海外に簡単に行ける時代に国内だけの論理で「日本から出て行け」式で話を進めようとしても行き着く先は袋小路でしかないだろうし、自らの理解を超えることであれ、なんとか理解しようとする努力は続けていかないといけないと思うし、さらに自分の知ることをいくらかでもシェアしようとする努力も続けないといけないと思う。

 戦争を始めとする国家や国家に準ずる組織との衝突は、意図的なのも含め、相互の誤解に基づいてなされるもので、よく知らないことは怖いし、拒絶反応を示してしまうが、可能な限りの想像力を駆使して、何が問題の本質なのかを見極める不断の努力が必要となる。

 というわけで、相互理解に役立つことをそれぞれが出来る範囲でやっていくしかないだろうと改めて思ったことだった。また、後藤さんの今回の行動を責める向きもあるようだが、氏の現状を伝えたいという強い意志がそうさせた面もあったと思う。今回の事件を機に様々な圧力が高まる可能性はあるだろうが、それで無駄に萎縮することがないようにしたいところで。

 以前も引用した酒井啓子さんのコラム「人質殺害事件に寄せて」の次のような箇所に共感する。

「イスラーム国」の被害に最も苦しんでいるのは、たまたまそこを訪れた外国人や攻撃を行っている周辺国の兵士よりもなにより、現地のイスラーム教徒自身なのだ。「イスラーム国」が制圧している地域の住民こそが、集団で人質にあっているようなものなのだ。

 というわけで、今回の件がイスラモフォビアにつながらないように祈りたい。