「時事」カテゴリーアーカイブ

日本に移民は必要か ~湖岸でのバーベキューで考えた~

 日本各地の工場の集まる場所には主に南米の日系人やその係累が住んでいるが、滋賀北部にも多くの日系人が住んでいる。地元住民とあまり交流はないようだが、長浜市のスーパーなどで買い物をしていると多分ポルトガル語かスペイン語で会話する家族連れをよく見かける。

 以前、私は当地で工場労働をしたことがあり、そこには多数の日系人が働きに来ていて、休憩時間などでの話から、古い日本語を保持しており、映画の中の人と話しているような奇妙な印象を受けた記憶が残っている。ただ、ラテン・アメリカは「ラテン系」の国々ではあって、一般の日本人よりも陽気な成分が多めである印象もあり、古き良き日本人という印象の方も多数おられたが、特に二世の方々は片言の日本語とも相まって、冗談が多めで笑いを取ることが多く、場を和ませることが多かった。

 湖岸道路を走っていると湖岸沿いに作られた、公園というほどではないが緑の空間が多くあり、そこでそうした日系人が集まって楽しそうにしているのを見かけることがよくあったのだが、私も先日その場に居合わせることになった。

 そこでバーベキューをすることになったのだが、そのうち、地元住民と思われる方がやってきて、ここはバーベキュー禁止だからやらないでくれ、という趣旨のことを述べて立ち去っていった。しかし、そのスペースはバーベキューが禁止されているわけではないことが看板からは想像された。看板にはこう書いてあった。

キャンプ・バーベキュー ゴミは、必ずお持ち帰り下さい。宜しくお願いします。

 私はアウトドア系は疎い方なのでよくわからないのだが、こうした場合、どうするのがよいのだろうか。とかく、日本人の規範として、「人様に迷惑をかけなければ、だいたい何をするのも自由」というのがあり、それは「迷惑がかかるようなら、やらない方がよい」という含意があるものと思われる。なので、こういう場合、確かに煙が住宅に向かって、洗濯物に影響があるとかありえるわけで、やらないのが無難であろう。しかし、この日のために遠方から来てる人もいて、がっつり準備をしてきている、というのもあり、そう簡単にはひけない。

 無論、バーベキューOKを謳っているところでする、っていうのが一般的には正解ということになるのだろうが、外国人の皆さんは仕送りなどで日本で使えるお金が少ないだろうから、出来るだけ有料スペースではなく、無料のところでやりたい(みんなのために)という強いインセンティブが働く。よって、そうした場が選ばれることになる。

 近隣住民にしてみれば、その集団にとってはたまの休日を仲間と過ごす絶好の場所であっても、日常の生活スペースであり、休日毎にバーベキューの煙が流れてきたのではちょっとしんどいというのも分からないではない。概ね、バーベキューは煙や臭いが流れるので「自粛」する動きがある、というのも聞いたことがある。

 結局、その日は住民が通報をし、警察がやってきたのだった。しかし、看板に禁止とは書かれてなくて、わざわざ「ゴミは持ち帰って下さい」とあり、さらにその日の風は琵琶湖側にずっと流れており、煙が住宅に行ったり、万一ではあるが、火が住宅方面に向かう可能性はまず考えられないような状況にあった。そして、主催者と警察との長めの話し合いの結果、そのまま続行OKとなったのだった。

 私は住民や警察との話し合いでどのような話がなされたのかはほとんど聞いていないのでよく知らないのだが、ちらと聞こえてきた声からするに相当に「威圧的」な言い方がなされていたようだ。私などはこういう場合、めんどくさいとつい感じてしまう方なのだが、粘り強い交渉の結果、続けられたわけでちょっと感心というか、こちらもこれぐらいやらないといかんのかもと思ったりした。

 やや唐突かもしれないが、今回の件は、私には「保育園騒音問題」とかと通ずる部分があるように思った。近くの人にとっては、そうした「迷惑施設」はない方が心穏やかに過ごせるだろう。しかし、日本中がそれでよいのだろうか、という問題が(私に向かって)提起されたと個人的には感じたのだった。

 さらに唐突なことを述べると、日本の「人口オーナス」による衰退期をなんとか乗り切るための一つの方策として「移民政策」があげられることがあるが、それに対して、ヨーロッパなどの例から否定的な声があげられるのを耳にすることが多い。日本の場合、隣の大国から大量の移民が想定され、現在の関係から否定的な声が多くなるのも致し方ない面もあるだろう。

 しかし、本当にこのままただただ衰退していくだけでよいのだろうか。暗黙のルールだらけにして自分たちで一層住みにくくしているだけのように見えることすらあるのだが、私の感覚がおかしいのか。

 今回の場合でいえば、例えば、昨日今日のような台風が近づいていて強風が吹き荒れる日にバーベキューはアカンと思う。そして、住宅が近くにあるのに深夜になるまで騒ぎ続けるのもアウトだろう。一方、公園からの煙で迷惑というのも分からないではない。私の住むところでも時々バーベキューではないが煙がやってきて室内干しの洗濯物にまで臭いがつくことがあり、もう窓を閉めるしかなく、出来ればやめてほしいなと思ってしまうのが人情というものだろう。

 しかし、一応、窓を閉めれば、なんとか我慢は出来るレベルのものだ。人によっては我慢ならん、と感じる場合もあるかもしれないが、こういう他人同士のいざこざを解決する術を今の日本人は失ってしまったんじゃないか、と感じる。社会がそういう風に出来ていないのにアメリカ流の訴訟社会にすでに突入してしまった、というか。

 祖母と電車に乗っていると、普通に隣人とおしゃべりを始めたりして、他人とも話をするのは当たり前だった時代が日本にもあったように思うが、今は「仲間以外は空気」みたいな風潮は確かにあるように思う。

 というわけで、移民に話を戻す。やはり、今の日本には移民政策はやってみる価値があるのではないか。長い日本の歴史の中で、幾度も大きな移民の波があったのは間違いないだろう。そして、それは旧来の住民を駆逐する形を取ったこともあるだろうが、概ね混血が進んだと私は見ている。今の世界で頑なに鎖国政策を実施する方向もありだとも思うが(キューバなどのような形で?)、そんなことはしない方がよいように私は思う。

 個人的には昔から移民受け入れには賛成だったが、昨今の周辺各国の事情を考えると「保守的」に考える人が増えるのも仕方ない、とも思いはじめていた今日この頃、それでもやはり、風穴を開けてくれる存在として、今後の日本社会に負の側面をもたらす危険性を考えても、正の側面の方が大きいと、今回の件をきっかけに考えを元に戻そうと思いつつある。日本は鎖国せずに世界の中で生きていった方が、より強みを発揮できると思うし、個々人もそちらの方が幸せになれそうに思うので。

 その「世界」のリアルを感じるためには、世界の人たちと様々なトラブルに見舞われたり、喧嘩したりしないといけなくて、大変面倒なのだが、それでもその経験が今の日本には必要なのではないか思う。日本の民族性が失われることを危惧する人がいるのもわかるが、私は楽観的で、彼らの多くは「ジャパナイズ」されていくと見ている。実際、すでに「日本人より日本人らしい外国人」などもはや珍しくないのだから。

『日本の中でイスラム教を信じる』(佐藤兼永著)の読書感想文

 「日本人ムスリムの姿から、大切な「当たり前」を再確認する」 という記事が出ていた。この記事で言及されている本について、私も少し前に読んだところだったので、感想文を書いておきます。

 日本に暮らすイスラム教徒への取材が丹念になされていて、あまり実態が伝えられることのない日本人のイスラム教徒についても半分かそれ以上にわたって言及がなされていて、世界のイスラム教徒の多様性同様、日本国内の日本人イスラム教徒も日々イスラム法に則った厳格な生活をする方から、割りとアバウトな方まで多様である実態が描かれている。

 この本では日本在住のイスラム教徒の推定人数として11万人という数字を挙げているが、日本の宗教人口は二億人という数値もある通り、実態は不明というのが通り相場である。ただ、他の宗教とは異なり、イスラム教の場合、その多く(9割以上?)は外国人であり、日本人イスラム教徒は多くの場合、配偶者(主に夫)がイスラム教徒であり、結婚するときに改宗(または入信)することが多いとされている。また、イスラム教徒の場合の特殊事例として、日本国内だと「イスラム教=テロ=怖い」というイメージが流布されており、以前、ウィキリークス経由で漏れたように、公安がその人がイスラム教徒というだけで監視対象にするような社会であり、無駄に誤解される恐れがあるので、隠れキリシタンならぬ、「隠れムスリム」(女性の場合、「隠れムスリマ」)がそれなりの数いると思われるが、日本人イスラム教徒はざっくり1万人程度ではないかと言われる。

 その中でもカップルいずれもが日本人というのは、かなりの少数派だろう。この本の中ではそういう少数派の話も出てきて、日本の特殊事情が垣間見え、興味深く読んだ。以下は、日本人カップルが子どもの出産時に医師から言われたことに言及している箇所である。

「『おめでとう』とか『頑張ったね』とか、ねぎらいの言葉は何もありませんでした。『この子も大きくなったらイスラム教徒にしちゃうの? 可哀想ね』と言われ、ほんと唖然としました」

 これほどの例がゴロゴロしてるわけではないだろうし、この本でも「宗教を理由に実生活であからさまな差別や偏見にさらされた経験があるという人は、意外にも少ない」と述べられているが、相手がもしかしたら偏見を持っているのではないか、ということで、注意しているという日本人イスラム教徒の話も紹介されている。

 その続きで、イスラム教への偏見でしばしば言及される一夫多妻制についても述べられていて、これもそれに対する説明でしばしば述べられる通り、複数の妻を平等に扱えないのであれば、一夫一婦が推奨されることが紹介されている。

 ついでに述べておくと、コーランでは「孤児」の扱いの句の中でこの一夫多妻について書かれており、そもそも結婚全般には適応できない、とする意見もある。そういう中で、この句を「都合よく」解釈して、公平に扱うつもりもないのに、複数の妻を持つムスリムがいるのも、どうやら事実のようであり、そういう部分をことさらに強調してイスラム教に対する憎悪を助長する一群もいるようだが、どんな集団にも善き人と悪しき人がいるわけで、そういう面を取り上げて揚げ足取りをするのもどうかと思う。

 本の話に戻ると、日本人ムスリマでちょっと強烈な言を吐く方が出てきてて、イスラム社会で非常に重要な役割を果たしているイスラム法学者について、学識は備えているのだろうが、人間としてのバランス感覚に欠けているように思えるとして、以下のように言う。

「『お前の考えに従えるか、クソじじい』って感じですよね。でも、それホントの気持ち。『たとえ何百年の歴史があろうとも、本に埋もれた本の虫の言ったことなんか(現実の)世界とちっとも関係ねーんだよ』と思えるようになった」

 もっとも、この言を述べた方はイスラム教について、神に対する見方とか、神の教えに近づくやり方がいくつもある中で「割といい線いってんじゃないの」と述べ、さらにイスラム教に助けてもらったことから、ムスリマであることは死ぬまでやめるつもりはないし、「法学者の見解はイスラム教の解釈のスタンダードとして必要だと考えている」ともあり、著者もそういう姿を通して「ものすごく考えて、自分で一個ずつ答えを出してきた」ことでたどりついた境地だと述べている。

 こうした意見は女性側から出されることが多いようで、『イスラーム化する世界』という本で知ったのだが、アメリカでは知る人ぞ知る存在で、論争の多い著作「クルアーンと女性」という本を書いたワドゥードというアフリカ系アメリカ人フェミニストはコーラン解釈の男性中心性とアラブ中心性を批判している。

 氏が依拠するのはファズルル・ラフマーンの「二重運動」という解釈理論で、コーランでは一般的法則はあまり見られず、当時の個別具体的な事柄への言及が多い、として、先の著作から引用すると

そこで必要なのが、二つの運動であるという。「第一の運動」は、クルアーンで述べられている具体的な事柄から、当時の社会状況を考慮しながら一般的法則へと移す「運動」である。そして「第二の運動」とは、この一般的レベルから、現在の社会状況を考慮しながら、具体的な立法作業に戻るという「運動」であるという。(P66)

 こうした二重運動を経て、コーランの意図を抽出し、個別事例に適用していく、というもので、コーランの時代のアラビア半島の家父長的要素を削ぎ落とすことで、様々な社会の文脈に適応できるようになるのだとする。

 さらに、氏は踏み込んで、解釈には個人のバックグラウンドによる影響を取り除くことは出来ないとする立場から解釈に個人見解を認める方向に向かっているらしいのだが、この著作の日本語訳は出ておらず、私はなんともよくわからないので、この辺りで留めておく。

 イスラム教が北アフリカから東南アジアの多くの地域で信仰されていることは知られているが、例えば、国連五大国の各国でもイスラム教と決して縁遠いわけでない、というのは意外と知られていないのではないか。アメリカの場合だと、奴隷として連れて来られたアフリカ人の多くがイスラム教徒だった可能性がある、とのことで、マルコムXがイスラム教に回帰したことが知られているし、ロシア(旧ソ連)は言うまでもなく、多くのイスラム教徒が居住している。中国も同様で、最近よくニュースで出るウイグル人以外でも回族などイスラムコミュニティがあるようで、ヨーロッパの大航海時代に先駆けて中国からアフリカまで到達した鄭和もムスリムだった。フランスは北アフリカ移民が多く、シャルリー・エブド事件が発生したわけだし、イギリスも5%程度はイスラム教徒だとされ、ジハーディ・ジョンと呼ばれる青年が育ったロンドンでは9%がイスラム教徒とも言われているようだ。

 元の本の紹介からは大いに脱線したが、こうした国々同様、日本にイスラムが根付く可能性については、小室直樹氏が『日本人のためのイスラム原論』で述べていた言を借りると、こういうことになる。

「なぜ、日本人はイスラム教の教えに感化されないのか」「答えは規範なのである。つまり、日本人とは本来、規範が大嫌いな民族なのである」「だからこそ、無規範宗教のキリスト教は入ってこれたが、規範だらけのイスラム教は受け付けられなかった」

 ちなみに、小室氏は様々な宗教を研究した結果、入信するならイスラム教だというほど、その教義の「出来の良さ」を賞賛している(実際には入信してないけど)。

 キリスト教だとカトリックに対するプロテスタントの対抗運動が出てきて、ウェーバーが述べたように資本主義の精神が醸成され、今、主にキリスト教をバックグラウンドに持つ資本主義体制の社会が栄華を誇っている(ように見える)わけであるが、かつて、私が外大生の時にアラビア語学科の人が言っていた「終わっている」イスラム教圏も、もしかしたら、そうした運動を経て、再び栄華に包まれる可能性はあるんじゃないか、と思ったりすることがある。2100年には宗教人口でイスラム教徒の数がキリスト教徒の数を抜いて、世界一となる、という予測も出ており、中国が名実ともに大国となった最大の理由はなんだかんだいって人口であるわけで、人口というファクターは侮れない。

 日本もキリスト教がバックグラウンドにある今の「グローバル経済」社会とは相容れない国であることが少しずつ見え始めているように思っているのだが、どうだろうか。ただ、リアルに考えると、21世紀中はそういうことにはならず、まだまだアメリカの世紀が続くような気がするが、こうした転換期にあって、イスラムの視点で再考してみるのも、違った見解が得られて、より深みのある視点が得られるのではないだろうか。

カビと過剰品質の日本

 ここ数日、この山の中でも気温が上がり、葉刈りなど外仕事をしている時に、一時ちょっとふらついてしまって、あまり根を詰めすぎるのはよくないと、その後は休み休みやるようにしている。葉刈りといっても、10年近く放置していて伸び放題になっている枝をキレがいいとはいえない錆びたのこぎりで切るという作業の連続でもう腕があがらないほどになり、今朝も二の腕に麻痺があるような感覚が残ってたり。

 そういうわけで、梅雨明けが見えてきた今日このごろだが、先週はジメジメしつつ気温も高い日が続き、カビ大発生の嫌な予感がしている。昨日、風を通そうと普段あまり開けないカーテンを開けたら、死んだカメムシにカビがさっそく生えていて、これはやばいぞ、とビビっているところ。カビはあらゆる箇所に根を下ろすので、湿度がいくらか下がったタイミングで家に風を通すとか、カビが見つかったら拭いたりするなどして地道に取り除いていくしかない。

 あと、カビが生えないようにカビの元となる有機物を出来るだけなくすのもよい方法とのことで日頃からまめに掃除をしているといいのだが、育児などでそんなことはしてられず、しかも食べこぼしとかが散乱し、子供が汚れた手であちこち触り回るので、掃除してもすぐに汚されてしまう。

 ウクライナにいるときに思ったのだが、あちらはこうした明確に雨季と呼べるような季節がなく、あまりカビに神経質にならなくてもよく、ナッツ類の入った皿をフタもせずにテーブルに置きっぱなしにしてる家庭があったりとか、日本では考えられないような生活様式に驚いたものだ。実際、そういうことをしても特に湿気る様子はなかった。

 江戸時代や明治初期に日本に来た外国人の記録で、きれい好きな日本人の様子が描かれることがあるが、ウクライナで生活していたとき、もしかしたら、それは日本には梅雨という雨季があるせいではないか、と思ったことがある。そして、この雨季が一年のうち、1ヶ月程度、という期間も重要なポイントで、これより長くても短くても、また違った生活習慣になるのではないかなと。つまり、1ヶ月という期間はある習慣を育てるには十分な長さなのだが、半年ともなると、カビ前提での生活になるだろう。それがこの期間だけ我慢すれば、あとは大丈夫ということになると、そのカビ前提でない習慣はそのまま続けられることになるだろう。

 ただし、梅雨時だけきれい好きになるのは実質無理なので、梅雨じゃない時も梅雨時に身についた生活習慣が少しずつ広がっていき、きれい好きになっていく、ということではないかと。例えば、袋に入った食材の口は一度開けたら開けっ放しにはせず、比較的乾燥している季節でもちゃんと口を閉めることを習慣づけている方が日本では多数派だろう。

 思いつきの説にすぎないし、こういう説がすでにあるんかどうかも知らないが、民族性・国民性に気候や地形が与える影響というのは、思っているよりも大きいように思う。

 現在の日本製品への信頼性は、かつの安かろう悪かろうのイメージがあったメイド・イン・ジャパンの面影はないといってよいだろうが、世界から見るとそこまで高品質にしなくても、必要十分な品質であれば安価なものが選ばれるのが現実で、高付加価値で生き延びる戦略に日本は向かおうとしているようだが、この人口規模ではちょっとそれは無理なんじゃないかとなんとなく思う。北欧とかシンガポールぐらいの数百万人規模の国ならなんとかなりそうな気がするが、1億人規模の国でこの方向性はまずい気がしているのだがどうだろう。

 日本滞在経験のあるウクライナ人が「電車に乗っている日本人の顔は疲れているかイライラしているかで楽しくなさそう」的なことを言っていたが、時々ほぼ時間通りに電車が来ることの背後にどれだけ多くの人達が苦労しているかを思うことがある。新幹線の運転をしていた方の話を直に聞いたことがあるが、30秒遅れるだけで始末書物だとか、ちょっとあの仕事はいくら高給でも精神をやられそうで(実際、その方は精神的にきつくなり、転職された)、やりたくないなぁ、と思ったものだ。

 日本も国際化、というのであれば、もう少しいろんな面でゆるくなっていかないともうもたないんじゃないか、と思う。何か問題があった時に声をあげるのはよいことであるが、行政サービスとか公的機関に苦情を簡単に言い過ぎて、無駄に防御的対応がなされる、という場面が増えてきているようにも思う。

 日本人の国民性、というのも、本当にそうなのかと時に疑問に思ってみるのもよいことで、きれい好きについても、イザベラ・バードの記録を見ると、明治時代の人々は今の日本人の目には不潔としかいいようがない生活をしてたりしたわけで。

 元々多様性のあった国だったはずだが、近代化の過程で効率の名の下、少々やり過ぎていろいろと無理が生じていて、そろそろ行き過ぎを反省し、揺り戻しの時期に来ているのではないのかな、と。

 ちょっと雑ですが、梅雨明けの待ち遠しさから思うことを書いてみました。

グルジアからジョージアへ国名変更。缶コーヒーのジョージアはどうなる?

 外務省の報道発表で「国名呼称の変更(グルジア)」というのが出て、ついに日本でも正式に国名としてのジョージアが使われることになった。

 こうした名称の使用では、マスメディアの伝え方も大きく影響するが、当面は併記することになるようで。

 4月22日から、というので、今朝、外務省のサイトを訪れたのだが、以下のように、まだグルジア表記のままだった。

外務省サイト_グルジア

 それが、先ほど見に行ったら、ちゃんとジョージア表記になっていた。

外務省サイト_ジョージア

 今後、うっかりグルジア表記に、なんてことが各所で起こるだろうが、10年もすると慣れていくような気はする。最近だと、「ビルマ」と「ミャンマー」があるが、この国名に関しては、改名が軍事政権によるもの、というのや、「ビルマの竪琴」という作品もあってか、まだまだビルマも古びてはいないように思う。

 ジョージア(グルジア)については、日本では国自体が一般の人にはなじみが薄いため、大きな影響はないように思うので、もう何年もすると、ジョージアが普通になるような気はするのだが、はてさて。

 この改名に関しては、様々な意見があるが、私は「ウクライナの地名表記問題 ~ クィーイィウかキーウか、キイフはどうか」でも述べた通り、英語の圧倒的な浸透力という現実を受け入れ、外国人と話すときにも通じやすくなるであろう「ジョージア」にするのは基本的には賛成である。アメリカの一州は「ジョージア州」ということにすれば、大きな間違いは生じないと思うし。

 問題は缶コーヒーのジョージアだが、かくなる上は、日本コカ・コーラの英断でこの長年使用されてきたコーヒーブランドの名前を変えてくれるといいのだが、やはりちょっと無理な話だろうか。勝手な想像だが、社内で議題ぐらいには上がってるんじゃないかと思うのだが。

敦賀気比優勝記念セール

 ちとUSB3.0対応の外付けHDDケースが必要になったので、最寄りのPCパーツショップのある敦賀に行ってきた。目的のものは、以前簡易なやつを買った時に認識したりしなかったりで大変面倒な思いをしたので、玄人志向のを今回は買ってみた。一応、スピードもUSB3.0相応で特に問題なく動いている。

 そういえば、敦賀気比の優勝セール自粛なんてニュースがあって、実際のとこどうなんかな、と思って、行く先々で軽くチェックしていたが、やってないところもあったが、急ごしらえで作られたっぽい「おめでとう、敦賀気比優勝!」みたいなのが店内に貼ってあるところも結構あったし、以下の写真のように、優勝セールと銘打って実施してるところもいくらもあった。パブリックに「優勝パレードやります!」などというといろいろ大変だが、こういう各店舗のセールまで自粛しろと言うのは行き過ぎなんで、これぐらいでちょうどいいんじゃないか、と思う。

 真偽よくわからんが、敦賀気比の優勝メンバーの多くは例によって県外出身という話があり、そういうのもあって、福井県初の全国優勝だというのに、盛り上がりに欠けるのか、と邪推したが、市長もいうように「学生スポーツ」での優勝であり、大々的にやるものでもないのかもしれない。

 あんまり強くなると、各戸に応援のためのカンパなどが求められたりする実態もあるわけだが、どうなんだろうな、ああいうのって。田舎住まいだと、他にも何とか募金とか、神社の何とかとか、隣組で回ってくる半強制徴収のやつもあって、そういうのと同類に見えるのだが、これぐらいは目くじら立てずに適当にやるのが、田舎で生きていくコツかとw

敦賀気比優勝セール1

敦賀気比優勝セール2

敦賀気比優勝セール3

敦賀気比優勝セール4