チェルノブイリという言葉が使用禁止に!?

 「ベラルーシでチェルノブイリという言葉が使用禁止になった、という話があるけど、本当?」という質問を受け、そういう話は聞いたことがなかったので、ロシア語検索サイトなどで少し調べてみたのだが、そういう情報は見つけられなかった。

 その後、ふと思い立って日本語で検索してみると、IWJのサイトで以下のような記述があるのを見つけた。

質疑応答では、ルカシェンコ大統領(1994年7月就任)の独裁政権下にある、ベラルーシの現状が伝えられた。大統領は「チェルノブイリは終わった。もう、放射能はない」と発言し、「チェルノブイリ」という言葉の使用を禁止。そのため、「チェルノブイリの子どもたち」という団体名を、ベラルーシ国内向けに「子どもたちの喜びのために」と変更したという。

 また、FoE Japanスタッフブログにも以下の様な記述があり、ベラルーシの方の日本国内での講演からそうした話が広がったと推測される。

驚くべきことに、2014年に入って、政府の方針で「チェルノブイリ」という言葉の使用が禁止され、財団の名前も急遽「子どもたちの喜びのために」へと3月に変更したとのこと。ベラルーシでは、チェルノブイリについてこのように講演したりすることはできず、4月26日に少し語られる程度だ、とのこと。

 ただし、「チェルノブイリ」という言葉自体が禁止される、というのは、さすがにないだろうと思って、ベラルーシ政府のサイトを訪れてみると、当然ながら、チェルノブイリという言葉は使われているし、ベラルーシ非常事態省のチェルノブイリ原発事故被害対策局のサイトも閉鎖されてはいない。

 ちなみに、そのサイトの現在の新着トップ記事は日本政府による草の根支援による超音波診断装置提供に関する記事だった。これは、外務省サイトに出てる「モズィリ市病院医療機材改善計画」のことだろう。

モズィリ市の中心広場
(※モズィリ市の中心広場)

 冒頭の話に戻ると、「チェルノブイリという言葉が使えない」というのは、財団名に「チェルノブイリ」という言葉を使うな、という話なのではないか、と思うのだがどうだろう。

 先のサイトにはさらにこのような記述がある。

独裁政権が続くベラルーシでは、ルカシェンコ大統領が『チェルノブイリは終わった』と宣言したことから、海外からの公的な支援が受けられなくなったという。

 実際、ルカシェンコ大統領はチェルノブイリという言葉が醸し出すネガティブなイメージの除去に努めようとしているようで、例えば、2008年のだが「ルカシェンコはチェルノブイリのせいで国のイメージを損なうから、という理由で(保養目的の)ベラルーシの子どもたちのヨーロッパ渡航を禁止した」という表題の記事(ロシア語)があった。

 海外からの公的支援については、ベラルーシ政府サイトの草の根支援についての記事に「チェルノブイリ原発事故の影響を最も受けたゴメリ州にとりわけ注意を払う」とあるように、まだこうした支援が完全に閉ざされているわけではないようだが、ベラルーシで被災者支援をされている方に聞くと、依然として外国からの支援が簡単ではない国であり続けているようだ。「2014年から」という発言があったようなので、最近さらに何かより困難になるようなことがあったのかもしれない。

 さらにいうと、チェルノブイリ被災地域の子供たちの問題の根本原因のひとつにその親世代や地域全体の貧困の問題があり、チェルノブイリ原発事故に起因する問題の解決に特化していたプログラムをそうした貧困問題解決のためにより包括的なものとするために名称を変更する、という場合もあるようである。ただし、今回のは海外の支援団体に関するものなので、また別の話なのかもしれない。

 というわけで、「チェルノブイリという言葉が使用禁止になった」わけではないが、依然として、ベラルーシでのチェルノブイリ被災者支援は困難な状況が続いている、ということが確認できた、ということで。

モズィリ市のホテル「プリピャチ」
(※モズィリ市のホテル「プリピャチ」)

草刈り人足

 毎年、この季節になると自治会で草刈り人足が行われる。「河川愛護」という名目で、草だらけの河原に降り、みんなして草刈機で伸びに伸びた草を刈っていくのだが、遠目に見ると一様に見える河原も、ところどころに岩があったり、流木が草に隠れてたりして、草刈機の刃がひっかかることがあって、なかなか気を遣う。

 刃がひっかかると刃を傷めるというのと、草刈機が暴れて危ない、というのと、「カチン」という嫌な音が鳴る、などなどで、できるだけ刃をひっかけないようにしたいのだが、あんまり注意深くやっていたのでは作業が進まない。なので、それなりのスピードを維持してやっていくことになるわけだが、ずっとやってると疲れて注意散漫になるし、他の作業者と重ならないように周囲に目を配る必要もあったりなどで、ただ延々と草を刈る作業ではあるが、いろいろとコツがある。

草刈機の刃
(※草刈り用の刃。そこそこの太さの枝も切れるが刃が傷むので切らない方がいいみたい。コンクリや石のあるところではナイロンヒモで草をしばき倒すやり方だと楽にできるのでそういう作業をしたい場合は刃を付け替える。)

 私などはせいぜいこの日と他に2、3日家の周囲の草を刈る程度なので、草刈機の扱いに慣れた頃にシーズンが終わってしまい、毎度、使い慣れないうちはいらんところに力が入ってしまって無駄に疲れてしまうのだが、草刈りの達人たちは私のように無駄に振り回したりせずに上手に身体を使って刈っていくので、難しい斜面などはそういう方々が担当することになり、私は比較的平坦なところをダーっとやっていくことになる。

 この草刈りが河川愛護とどう結びつくのか、疑問がないわけではないが、こうして河原に降りて作業をすると、かなり上流部ではあるにもかかわらず嫌でも目につく様々な種類のゴミを見るにつけ、やはりポイ捨てはいかんなぁ、というありきたりではあるが、ごくまっとうな感慨に浸れるのも効用といえば効用で。

 河原をやったあと、100m四方ぐらいのまあまあ広い耕作放棄地もついでにみんなで草刈りするならわしになっていて、ここは凹凸が少ないので比較的楽ではあるのだが、とにかくだだっ広いので、これはこれで大変ではある。

イノシシの遊び場
(※イノシシの遊び場。ツイッターで大学の後輩が教えてくれたのだが、「沼田場(ヌタバ)」というのだそうでウィキペディアによると「体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びる場所」とのこと。確かにちょいと立ち寄りたくなるイノシシのスタバってとこかもw)

 都市部と比べると地域でこうした共同作業をすることは多いのだと思うが、それでも昔に比べると回数は減っているはずで、こういう時に地域の人といろいろと話すのもそれはそれで有意義ではある。あまり村のことには関われていないが、いろいろと村にも常時動きがあって、一住人としてそういうのを知るのも大切なことで、今後もこういうのはサボらずに出来るだけ参加するようにしていきたいところ。

草刈機の取手
(※草刈機の取手部分はいくつかの形状があり、私のは斜面をやるのに向いているのだが、あまり有効に使えていないw)

※アイキャッチ画像は刈るに忍びなかった花。ハチやチョウが蜜を吸いに来ていた。

なぜブログを書くのか

 諸々あって、ここのところ、ブログを書く気持ちの余裕がなく、全然更新出来てなかった。赤子の世話とウクライナ大統領選周辺事情を追っていた、というのもあるが、別件で少々面倒なことがありまして。投稿の仕方すら忘れかねないので、クセをつける、という意味で雑感をば少々。
(アイキャッチ写真は特に意味なく抹茶です)

 ブログを始めたのはなぜかと改めて考えると、明確な説明付けは出来ないことに気づいた。前から始めたかったが、始めるまでの諸々がもう面倒で、ずっとToDoリストの中に埋もれている状態だったのを、ちょうど一ヶ月前のGWにおもむろにこのToDoをサルベージした、というのが、このタイミングで始めたことのとりあえずの説明にはなるが、では、なぜそもそも始めようと思ったのか。私のネット歴は1995年からで「○○のホームページ」みたいなのはいくつか作ったが、何らかの情報を出すためであって、自分の意見を表明するため、というわけではなかった。

 40年以上生きてると、特に社会に対してガンガン発信してるわけではない市井の方々が卓見を持ってることに遭遇する機会は多く、むしろ発信力の高い方々が「ポジショントーク」なんかで悪目立ちする様を見るにつけ、いろんな生き方があるものだなぁ、という乾いた感慨に浸ったりもするのだが、その人達だって、実際はそういうキャラとして割りきって商売に利用してるだけだったりするのだろうし、やはりそれはそれでこの世知辛い世を泳いでいく一つの方法なんだろうと納得したりもする。

 私は自分が卓見を持っているとまでは言わないけれど、様々な事柄について、ひと通りまとまった意見を表明しておくのも悪くないのではないか、と思うようになった。どうしてもネットでは「香ばしい」意見が話題になることが多く、そうしたものを読む機会が多くなりがちだが、たとえ多くの人の目に触れなくても、そうした意見を出しておく、ということは大切ではないかと思う。

 ツイッターでも連ツイで意見を表明することは可能ではあるが、別に細切れに140文字という制限のあるツイートという形で表明しなくても、ブログなどで一つの塊の文章で表現すればよいわけで。実際、ツイッターアカウントを持つ人の多くは別途ブログなどまとまった情報を出すハコも持っていることが多いように思う。

 あと、私はどうしても「世代論」にとらわれてしまうところがあって、この人口減少社会にあって、こうなることが予想できたのに有効な手を打ってこなかった上の世代に対して大いに文句を言いたい気持ちがあり、また同世代に対してはなかなか考えが聞こえてきにくいが諸々意見交換をしたいし、若い世代には私みたいな大人にならないよう反面教師にでもしてもらえれば御の字かw、などと思ったりしている。

 実名で俗に云う「香ばしいこと」を書くのは、匿名の有象無象が寄ってきて大変、と実名アカの人たちが嘆いているのを時々見かけるが、毒にも薬にもならないような駄文を連ねていても仕方がないという面はあり、炎上リスクを避ける努力はしつつも、それを恐れすぎるのもよくない、というところかなと。

 まとまった時間が朝しかとれないのであるが、夜に書くような文章を書いてしまったw またぼちぼち投稿していきますので、時々見に来てやってください。