「背中スイッチ」発動による寝かしつけ失敗を回避する方法

 さてと、寝かしつけだんなう。ユラユラ抱っこで寝たかなと思って床に置いたら起きてしまう「背中スイッチ」に生後しばらくは悩まされたものだが、1歳半になり、親も学習し、背中スイッチを押さないように着陸させる術を心得たかも。

 子どもにも個性があり、誰にでも有効というわけではないだろうが、うちの子どもに関してはほぼ背中スイッチ発動回避方法を会得したと思うので、メモしときます。

 ちなみに「寝かしつけ」というと添い寝で背中をトントン叩いたりしながら子守唄などを歌いつつ、というイメージを育児前はなんとなく持っていたが、多くの場合、まず出来るだけ子どものお腹から胸あたりをこちらの身体のどこか(お腹だったり背中だったり)に密着させつつ揺らしてやると大抵の子どもは寝るようだ。ちなみにこういうテクは全然知らなかったのだが、うちの子どもを他の子育て経験者の方々がそのように抱っこしてるのを見て覚えたのだった。抱っこの仕方なんて知らんがなー、って感じだったが、そのうち嫌でも様になるようになるわけで。

 さて、そこまでは私でもすぐに出来るようになったが、問題は着陸に失敗することがよくある、ということ。こちらもずっと抱っこしてるほど暇ではないわけで、親としては寝たのなら早く布団で寝るようにして欲しい。というわけで、ついつい寝息を立てたら床においてしまうことになるのだが、ここで早まってはならない。寝息を立ててからしばらくは炊飯時の「蒸らしタイム」みたいな時間が必要になる。熟睡モードに入るまでに大人でもやや時間がかかるのと同様、子どももそういう時間が必要らしい。

 この時間は育児本には15分ぐらいとか書いてるのを読んだことがあるが、これは一概には言えない。昼寝のときと夜ではどうも違うようで、夜のほうが熟睡度が高い分、この時間は短くて済むように思う。時と場合によっては、例えば昼寝が出来なかった日でお疲れモードの場合など、のび太のようにコテンと一瞬で寝ることもあるし、グズグズと首を左右入れ替えたりして、なかなか寝付かない時もあり、30分以上かかる場合だってある。

 ポイントはそうした動きがなくなり、寝息が一定リズムを刻み始めた頃合いを感じ取り、そこからさらに少し待った後にすると確実だということ。どうしても諸般の事情で早まりたくなるが、急がば回れで、少し待つのが結果として時間節約になる。

 あと、前抱っこで身体を密着させた状態から着地させるやり方は様々だろうが、うちの場合、こちらも仰向けに寝る、ということになることが多い。しかし、この体勢から子どもを床に着地させるのはなかなか難易度が高い。出来ればゆらゆら抱っこからそのまま着地させられるとよいのだが、今まで何度も失敗してきたので、今は難易度高めでも確実性の高いこのやり方を採用することが多い。

 さて、その姿勢からどのように着地させるか。試行錯誤の末に分かってきたのは、身体の密着はそのままに少しずつ身体を傾けて、子どもの足から着地させ、徐々に体重移動を図りつつ床により多く体重が移動したタイミングで密着を離すというやり方が成功率が高い、ということ。ポイントは密着性を保ちつつ、荷重を布団に徐々にずらすこと。そして、この場合、仰向けでなくうつ伏せで寝かせられるのも成功率が高い理由なんだろうと思う。ちなみにうちの子は寝返りが出来るようになってからはうつ伏せ寝が多い。

 このやり方も眠りが浅いときは利かないし、うまくいかないこともあるが、現時点では自分的に一番マシな方法となっている。

 多分、エキスパートの方々はもっとよいやり方を知ってるとは思うが、育児素人のやり方を書いてみました。ちなみに、寝返りができるようになるまでの場合は、背中を丸めて寝られるクッションに置くやり方が成功率が高かったので、月齢・年齢によっても変わってくるとは思いますが。

日本に移民は必要か ~湖岸でのバーベキューで考えた~

 日本各地の工場の集まる場所には主に南米の日系人やその係累が住んでいるが、滋賀北部にも多くの日系人が住んでいる。地元住民とあまり交流はないようだが、長浜市のスーパーなどで買い物をしていると多分ポルトガル語かスペイン語で会話する家族連れをよく見かける。

 以前、私は当地で工場労働をしたことがあり、そこには多数の日系人が働きに来ていて、休憩時間などでの話から、古い日本語を保持しており、映画の中の人と話しているような奇妙な印象を受けた記憶が残っている。ただ、ラテン・アメリカは「ラテン系」の国々ではあって、一般の日本人よりも陽気な成分が多めである印象もあり、古き良き日本人という印象の方も多数おられたが、特に二世の方々は片言の日本語とも相まって、冗談が多めで笑いを取ることが多く、場を和ませることが多かった。

 湖岸道路を走っていると湖岸沿いに作られた、公園というほどではないが緑の空間が多くあり、そこでそうした日系人が集まって楽しそうにしているのを見かけることがよくあったのだが、私も先日その場に居合わせることになった。

 そこでバーベキューをすることになったのだが、そのうち、地元住民と思われる方がやってきて、ここはバーベキュー禁止だからやらないでくれ、という趣旨のことを述べて立ち去っていった。しかし、そのスペースはバーベキューが禁止されているわけではないことが看板からは想像された。看板にはこう書いてあった。

キャンプ・バーベキュー ゴミは、必ずお持ち帰り下さい。宜しくお願いします。

 私はアウトドア系は疎い方なのでよくわからないのだが、こうした場合、どうするのがよいのだろうか。とかく、日本人の規範として、「人様に迷惑をかけなければ、だいたい何をするのも自由」というのがあり、それは「迷惑がかかるようなら、やらない方がよい」という含意があるものと思われる。なので、こういう場合、確かに煙が住宅に向かって、洗濯物に影響があるとかありえるわけで、やらないのが無難であろう。しかし、この日のために遠方から来てる人もいて、がっつり準備をしてきている、というのもあり、そう簡単にはひけない。

 無論、バーベキューOKを謳っているところでする、っていうのが一般的には正解ということになるのだろうが、外国人の皆さんは仕送りなどで日本で使えるお金が少ないだろうから、出来るだけ有料スペースではなく、無料のところでやりたい(みんなのために)という強いインセンティブが働く。よって、そうした場が選ばれることになる。

 近隣住民にしてみれば、その集団にとってはたまの休日を仲間と過ごす絶好の場所であっても、日常の生活スペースであり、休日毎にバーベキューの煙が流れてきたのではちょっとしんどいというのも分からないではない。概ね、バーベキューは煙や臭いが流れるので「自粛」する動きがある、というのも聞いたことがある。

 結局、その日は住民が通報をし、警察がやってきたのだった。しかし、看板に禁止とは書かれてなくて、わざわざ「ゴミは持ち帰って下さい」とあり、さらにその日の風は琵琶湖側にずっと流れており、煙が住宅に行ったり、万一ではあるが、火が住宅方面に向かう可能性はまず考えられないような状況にあった。そして、主催者と警察との長めの話し合いの結果、そのまま続行OKとなったのだった。

 私は住民や警察との話し合いでどのような話がなされたのかはほとんど聞いていないのでよく知らないのだが、ちらと聞こえてきた声からするに相当に「威圧的」な言い方がなされていたようだ。私などはこういう場合、めんどくさいとつい感じてしまう方なのだが、粘り強い交渉の結果、続けられたわけでちょっと感心というか、こちらもこれぐらいやらないといかんのかもと思ったりした。

 やや唐突かもしれないが、今回の件は、私には「保育園騒音問題」とかと通ずる部分があるように思った。近くの人にとっては、そうした「迷惑施設」はない方が心穏やかに過ごせるだろう。しかし、日本中がそれでよいのだろうか、という問題が(私に向かって)提起されたと個人的には感じたのだった。

 さらに唐突なことを述べると、日本の「人口オーナス」による衰退期をなんとか乗り切るための一つの方策として「移民政策」があげられることがあるが、それに対して、ヨーロッパなどの例から否定的な声があげられるのを耳にすることが多い。日本の場合、隣の大国から大量の移民が想定され、現在の関係から否定的な声が多くなるのも致し方ない面もあるだろう。

 しかし、本当にこのままただただ衰退していくだけでよいのだろうか。暗黙のルールだらけにして自分たちで一層住みにくくしているだけのように見えることすらあるのだが、私の感覚がおかしいのか。

 今回の場合でいえば、例えば、昨日今日のような台風が近づいていて強風が吹き荒れる日にバーベキューはアカンと思う。そして、住宅が近くにあるのに深夜になるまで騒ぎ続けるのもアウトだろう。一方、公園からの煙で迷惑というのも分からないではない。私の住むところでも時々バーベキューではないが煙がやってきて室内干しの洗濯物にまで臭いがつくことがあり、もう窓を閉めるしかなく、出来ればやめてほしいなと思ってしまうのが人情というものだろう。

 しかし、一応、窓を閉めれば、なんとか我慢は出来るレベルのものだ。人によっては我慢ならん、と感じる場合もあるかもしれないが、こういう他人同士のいざこざを解決する術を今の日本人は失ってしまったんじゃないか、と感じる。社会がそういう風に出来ていないのにアメリカ流の訴訟社会にすでに突入してしまった、というか。

 祖母と電車に乗っていると、普通に隣人とおしゃべりを始めたりして、他人とも話をするのは当たり前だった時代が日本にもあったように思うが、今は「仲間以外は空気」みたいな風潮は確かにあるように思う。

 というわけで、移民に話を戻す。やはり、今の日本には移民政策はやってみる価値があるのではないか。長い日本の歴史の中で、幾度も大きな移民の波があったのは間違いないだろう。そして、それは旧来の住民を駆逐する形を取ったこともあるだろうが、概ね混血が進んだと私は見ている。今の世界で頑なに鎖国政策を実施する方向もありだとも思うが(キューバなどのような形で?)、そんなことはしない方がよいように私は思う。

 個人的には昔から移民受け入れには賛成だったが、昨今の周辺各国の事情を考えると「保守的」に考える人が増えるのも仕方ない、とも思いはじめていた今日この頃、それでもやはり、風穴を開けてくれる存在として、今後の日本社会に負の側面をもたらす危険性を考えても、正の側面の方が大きいと、今回の件をきっかけに考えを元に戻そうと思いつつある。日本は鎖国せずに世界の中で生きていった方が、より強みを発揮できると思うし、個々人もそちらの方が幸せになれそうに思うので。

 その「世界」のリアルを感じるためには、世界の人たちと様々なトラブルに見舞われたり、喧嘩したりしないといけなくて、大変面倒なのだが、それでもその経験が今の日本には必要なのではないか思う。日本の民族性が失われることを危惧する人がいるのもわかるが、私は楽観的で、彼らの多くは「ジャパナイズ」されていくと見ている。実際、すでに「日本人より日本人らしい外国人」などもはや珍しくないのだから。

ひまわりが半分以上開花

 開花第一号が花開いてから一週間余りでかなり開花してきた。播種の時期がずれていて、一斉の開花とはならず、日当たりにかなり違いがあることもあって、背の高いのや低いのがあり随分と不揃いではあるが、ほとんどは花が咲き始めた。このまま何事も無く結実して欲しいところ。

 ヒマワリはその鮮やかな黄色で元気に見えるのか、通りがかる人からも「きれいに咲いたね~」などと言われている。福島でも原発事故後にあちこちでヒマワリが植えられ、除染効果は低いものの、その元気に育つ姿が人々に希望を与え続けた。

 ところで、時々見かけるヒマワリ畑では水やりはどうしてるんだろうか。誰かが毎日やってるのかもしれないが、広大な面積の場合、ちょっと人力では無理じゃないのか。今年は割りとしっかり水やりはしてたのだが、来年は頻繁に水やりが出来なくなる可能性が高く、ヒマワリがどれぐらい水なしで保つかによって来年もこのプロジェクトに参加出来るかどうかが決まってしまう。

 少しググると、葉がしおれたらやる、というようにして水無しに慣れさせるとより広く根を張るようになるので、週一でもなんとかなる可能性あり、という記述があったが、どうなんだろう。今年、一部の株で実験してみればよかったのだが、そんな余裕はなかったのだった。

 もっとも、この辺りの人だと気をきかせて水やりやってくれそうな気もするが、そういうのに甘えるのはよくないんで、自分で出来る範囲でやるようにしたいところなのだが。

 植物を育てるのは精神衛生上いい、と何度か書いたが、日に何度か自分の作品のように眺めてしまうとは我ながらおもろいもので。現実で嫌なことがある分、余計に目を向けてしまうのかも・・・、というのは、余計な話だが。

ヒマワリ開花1

「チェルノブイリは犯罪者天国となった」

 こちらに「チェルノブイリは犯罪者天国となった」という記事があり、チェルノブイリ森林火災について書かれていたので、ざっくり要約しておきます。


 今年、すでに3回もチェルノブイリ立入禁止区域で森林火災が発生しており、先日も新石棺近くで隠しカメラが見つかった。原子炉近くの管理下にない区域で何が起きているのか。

 立入禁止区域に住む住民の多くは相次ぐ森林火災の原因は違法行為の痕跡を消すための放火だとみている。樹齢70-80年の売り物になる木を伐採し、週末の夜に搬出している。伐採量が計算出来ないように放火した。地元住民はポリスケ付近で材木を運ぶトレーラーを目撃している。空間線量率は2,3倍あがった。住民曰く、木材はキエフ近辺の家具工場へ運ばれたに違いない。

 キノコやベリー、魚なども立入禁止区域内で採取されており、それらはキエフなどの市場で売られている。実質、地下鉄駅周辺の物売りはコントロールされていない。


 私もよく地下鉄近くで売られている野菜や果物を買っていた。場所がよいところは恐らく「みかじめ料」的なのを支払っているはずで、ある程度はコントロールされているのではないか、と思っているが、実際のところは誰にもわからないだろう。

 市場に行くと、メインストリートから外れた場所で年金では食べていけないと思われる高齢者が数少ない品物を売っているのを見かけることがあり、この人たちも「ショバ代」は払っているだろうにペイするのだろうか、と思ったりした。

 木材に限らず、強制移住後の集落では様々な換金可能な物が盗み出され、すでに売り払われている。日本でも地元有志によるパトロールがなされているが、限界があり、同様の事態が発生していると聞くが、こういうのどうにかならんのだろうか。

沿ドニエストルが舞台の小説『シベリアの掟』(ニコライ・リリン著)を読んでの感想(2)

 引き続き『シベリアの掟』の感想です。

沿ドニエストルが舞台の小説『シベリアの掟』(ニコライ・リリン著)を読んでの感想(1)

 この本で印象深く読んだ件はいろいろとあるが、刺青には物語があり、その人がたどってきた人生が読める、という話は興味深かった。様々な事情で途中まで仕上げられた刺青を、別の刺青師がそのメッセージを的確に読み取り受け継ぐ話などを読むと、私の周囲で刺青の話を聞く機会はほとんどないが、昔は日本人も普通に刺青をしていたわけで、刺青にも様々な文化的背景があるのだな、と思った次第。

 犯罪社会でも民族ごとに集団となっており、それぞれの民族同士の関係を反映して、友好関係が築ける集団とそうでない集団がある、というのも、興味深い話だった。シベリア犯罪共同体「ウルカ」はアルメニア人の集団と友好関係にあり、ベラルーシ人とも悪くない関係にあるが、グルジア人とは「掟」に対する考え方が大きく異なることから、近寄らないようにしていた、とあり、ウクライナ人とも、彼らがロシア人を憎んでいることから感情的対立となり「心から憎みあう関係」となった、とある。

 沿ドニエストルはその南北に細長い国土の東西をウクライナとモルドバに挟まれいてるが、ウクライナ人やモルドバ人は、そうした掟の理解者ではないことから、侮蔑的な表現を使って扱われていて、あまりいいようには描かれていない。例えば、1970年代から旧ユダヤ人地区にウクライナ人が住み始めたが、そうした家族の娘は「軽い女の子」たちが多く、「その性的にオープン過ぎる振る舞いは、結果的に彼女たちの人生を縛り、困難なものにした」とあり、「他の娘たちのように夫をみつけて家族を築きたいと望んでも、それはもう不可能」で「自ら死を選ぶ気の毒な女たちはあとを絶たなかった」とある。まだソ連時代の話ではあるが、「ベンデルにやってきたウクライナ人の若者たちは、暴力的な形で両親から引き離され、何の助けもないまま放置されていた」ともあり、社会主義国ソ連にもこうした社会問題があったものと見える。

 旧ソ連の国々の街には比較的治安が悪い地区というのがあるにはあるようだが、昔からずっとその地区に住み続けてきた人の末裔が今もそこに住む、というのでは恐らくなく、どういう経緯でそういう地区が出来ていったのか、よくわからない。この本では「バム地区」というバイカル・アムール鉄道に由来する名称を持つ地区がそのような地区として描かれており、「無知蒙昧ゆえに善良な犯罪者としての規範も守れなくなったろくでなし」の集まる場所で、窓から新生児が投げ捨てられたり、親子や兄弟間で殺し合ったりするなど、「無知と絶望は人をここまで荒廃させるのか、という血の凍るような話」が少なくない場所とされている。ここは犯罪者といえども「穢れるため」うかつには手を出せない場所とされ、暴力が支配する無秩序の街として描かれている。

 この街が実在するのか気になったので、ググってみるとWikimapiaに“Солнечный(ソルニェチヌィ)”(太陽地区) とあり、存在するようだ。ソ連でよくある工業地帯に併設して建設された街らしく、YouTubeに上がっていた街の動画を見ても、ウクライナやロシアの都市でよくみかける風景が流れているだけだったが、夜になると豹変するのかどうか。

 この本には時折日本にまつわる話題が出てくるのだが、p184あたりに1940年代末にシベリアの民と共に強制移住でベンデルに運ばれてきたボリシュカと呼ばれる元日本兵の話が出てくる。彼はノモンハン事件で捕虜になったあと偶然コザック軍に拾われ、「忍者と殺し屋の土地である伊賀の出身」とのことで、互いに技術を教え合ううち、アタマン(コザックの首領)に気に入られ、戦後アルタイ地方でアタマンの長女と結婚し、ボリスという洗礼名を得て、アムール川のほとりに住むようになるが、コザック共同体の自治独立の気風からソ連政府に目をつけられ、アタマンは処刑され、その家族は沿ドニエストルへ強制移住させられた、とある。

 彼は主人公の少年から敬愛されており、シベリアの犯罪共同体に入ってからも「犯罪社会の掟をすぐに理解し、誠意を持って約束を守る男」ということで敬意を勝ち取った、とある。

 10年ほど前にウクライナのジトーミルに元日本兵の上野石之助さんが住んでいることがわかり、日本に里帰りされたことがあるが、知られていないだけで、まだ多くの元日本兵が旧ソ連の国々で生きている可能性があるのではないか、と思う。

 この本を通して一番印象に残ったのは、少年の確固とした長老への敬意で、それは共同体が機能していることの何よりの証といえるだろう。あとがきの解説によると、この小説は三部作の一作目であり、少年はその後、チェチェン戦争で生死の境をさまよい、さらに除隊後のロシアでPTSDを患いながら、自身のルーツを求めシベリアに向かい、自らを取り戻す、とのことであるが、こうした帰属意識を持つことの出来る共同体があったことで彼は再生できた、と言えるかもしれない。読んでないからわからないが。

 というわけで、引き続き、二作目、三作目の翻訳を待望。翻訳も最初はちょっと固いか、と思ったが、読み進む内にこの文体が原著者のスタイルに合致したものと思えるようになり、元がロシア語の部分にどうしてもひっかかる箇所がいくつかあったものの、他は特にひっかかることなく読める翻訳で、同じ訳者による翻訳作業がもうすでに始まっているものと期待したい。