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Ordinary people’s extraordinary lives (映画『普通の人々』を見た感想)

 英語でブログエントリー書いてみた。英語ライティングスキルは全然なので、英語っぽくない文章になってるだろうけど、このまま出しておきます。ライティングもまた習得すべきスキルなので、徐々に勉強していかないといかんなぁ。。。

 以下、簡単に要訳しておくと、映画『普通の人々』を見た感想で、家族の崩壊(と再生)を描いている。母親像がかなり特殊でメイトリアーカル・マザーというらしい。知人の死きっかけで見た映画だったが、何かを始めるのに遅すぎることはない、ということで英語エントリーを書いた。

Yesterday I saw the film “Ordinary People”. It was the third time for me. Since the second time was about 20 years ago or more, I’ve forgotten the detail, but I remembered some impressive scenes.

When I saw this film for the first time, I was a student. I’m not sure I knew what the life was, but I was very moved by this film. At that time I’d heard of this movie the word “Ordinary people’s extraordinary lives” or something like that.

Since then this word became important for me. Why I’d once stayed in the radioactively contaminated area? It’s because there lived the ordinary people who had suffered from the extraordinary experience.

“Ordinary people” describes the process of the collapse of a family. This reminds me of the same theme film “Tokyo story” of Ozu. The collapse itself means negative, but it contains renaissance. In the last of “Ordinary people”, the mother got out of their home, but the father and the son started a new relationship.

The character of the mother is interesting. A Japanese Professor Ochi indicates in his book “What is WASP?”(written in Japanese) that the mother was the typical “matriarchal mother” of WASP(White Anglo-Saxon Protestant). She is a dominating, self-controlled mother, and her attitude to her son is very severe, even maniacally.

When I was a student, my mother was similar to her, so I felt sympathy for Conrad the son of the “Ordinary people”. Then, she got old and had changed. Years sometimes resolve problems.

To tell the truth, the reason why I saw this movie now is that a friend of mine committed suicide. When I heard his death, I couldn’t control myself like Conrad. What if I could do something or should have done.

I decided to start something which I’d like to do without hesitation. This entry in English is my first attempt.

A few days ago I came across this quotation by Mark Twain.

Twenty years from now you will be more disappointed by the things you didn’t do than by the ones you did do. So throw off the bowlines. Sail away from the safe harbor. Catch the trade winds in your sails. Explore. Dream. Discover.

I’m a middle-aged man, and may be getting more stubborn, but that kind of words encourage me. It’s never too late to start something new.

2018年3月21日の身辺雑記

 3月も半ばが過ぎた。仕事して育児家事やっての日々で余裕がなくブログ更新などしてられんのであるが、思いつくままに身辺雑記などを書いてみる。

 先月末に上の子が4歳になった。「もう4歳なんだから」ということでいろいろと仕向けているのだが、今のところ、本人もその気になっていて、もう4歳だから○○する、ということをたまに言ったりするようになってきた。犬を怖がっていたのだが、もう怖くない、と言い出したので、理由を聞くと「もう4歳だから」とのこと。

 3歳と4歳というのもかなり大きく違いがあるようで、4歳にもなると話が通じない、ということがほぼないので、変にぐずることもまだまだあるが、概ね原因・理由が話の中から推測できることが多いので、そういう面ではとても楽になった。

 「3歳までは母親が家庭で育てるべき」という「3歳児神話」というのがあるが、多分、母親に限定してるところ以外は今も有効なんではないかなと思ったり。うちは1歳代のうちから保育園にやったが、出来る範囲で一緒にいる時間を増やすように努めてきたつもりで、今のところ、親バカではあるが、いい感じに育っているように思う。4歳になり、それなりに社会性を身に着け始めているようで、今行っているところでも友達と楽しく過ごしてるようだ。

 下の子は8ヶ月になり、ハイハイのようなものを始めてるなぁ、と思ったら、もうつかまり立ちをし始めた。動ける範囲が増えて、チラシだのレジ袋だの、何でも手近なものに関心を示して、とにかく触って確かめたい欲求が増している。上の子のおもちゃも手にとって、ガンガンと床に打ち付けたりするので、上の子は嫌がっているのだが、しょうがないやっちゃなぁ、という感じで付き合っている感じがおもろい。マジギレ気味になることがないわけではないが、やはり年が3歳以上離れているのが大きいのか、あやしたりしてくれることもあるので、結構助かっている。

 一時期フランス語の勉強をしていたが、全然伸びないので、ちょっと停止して、英語の勉強を再開したところ。英語の勉強は大学受験期以外では、30歳を過ぎたあたりでかなり本格的に時間をかけてやったことがあるが、それ以来、人生で三回目になるだろうか。昔使った教材の復習からやっているが、かなり忘れていてなかなかに衝撃的。何となく覚えているのも結構あり、まずは以前のレベルまで戻すところからかな、というところ。当時使っていたDUO 3.0という教材があるのだが、今でもバージョン3.0のまま英語教材の定番であり続けているのが興味深い(今アマゾンランクを確認すると138位となってて化物級の教材だ)。確かにこの教材は例文が上手に作ってあって、全般的にセンスがよく、今、やり直してても十分使い物になる教材だなぁと感心している。

 以前だとアウトプットはどうしても英会話教室に行かなくてはいけなかったのだが、今では格安オンライン英会話が一般化していてそろそろそういうのもやり始めようかな、と思い始めているところ。語学習得は話すだけでなく、書くことも重要なので、添削もしてくれるサイトも使ってみようかな、などといろいろ調べてる。

 今後、こうしたブログも勉強がてら英語でまず書いて、日本語に機械翻訳して、それを適当に訂正するとかできないかなと思っているのだが、日本語だけでも書けていないのに、英語というとさらに大変だし、日本語を直すところまでなんて、ちょっと継続してできるかは心許ない。

 国外脱出を企んでいるが、やはり語学力がそれなりのレベルでないと始まらないので、今の空き時間の半分は語学学習に費やしているかも。元々語学が得意ではないという自己認識があるのに、外国語大学に行ってしまって、今もこうしてムダに(?)語学学習に時間とお金をつぎ込んでいて、我ながらアホちゃうかと思わないでもないが、この全然思うように上達しない感じは嫌いではない。

 そんなわけで国内政治が揺れている今日この頃、なんだかんだで強い関心を示さざるを得ないところだが、ちょっと覚めた目で見ている部分が私にはある。もちろん、私は今回の騒動の大元は安倍首相のこれまでの方向付け、こうした忖度をさせる土壌を育んできたその性向にあると思っているし、「私と私の妻が関わっていることがわかったら首相も議員も辞める」という無駄に強い言葉を使ったことが改竄の背景にあるとも思うので、安倍首相は支持率とかはともかく自ら落とし前をつけるべきだと考えるが、安倍首相の進退いかんにかかわらず、今後も日本は停滞したまま、世界の趨勢から離れていって、衰退の道を確固としたものにしていくのだろうと考えたりしている。

 私は今の日本社会の有り様にほとほと嫌気がさしている。何度もこのブログで書いてきたが、戦後日本の社会が上向きだった時代を生きてきた世代が実権を握っているうちはもう何をしようとしてもダメで、私よりちょい下のロスジェネ世代が実権を握る時代までこんな感じでどんどん衰退していくことになるだろうという諦観がある。

 ただ、あるタイミングで一気にどっと振り子が大きく動くのが日本社会の特質でもあり、そういう意味では楽観的でもある。ただ、それがいつ来るかについて私は少々心もとなく、まだまだゆっくりと衰退していく可能性が高いため、子どもの将来を考えると、やはり脱出準備だけはしておこうと思う。私は日本に嫌気がさしているとはいえ、外国で外国人が生きていくのが大変であることを多少は見聞しているので、必ずや日本に戻りたくなることはわかりきっているのだけれども、動けるうちは留まるよりも動く方を選びたい。出戻り上等。別に日本を捨てるわけでもなく、死ぬまで日本とは関わっていくことになるだろうし、あまり悲壮にならないように注意しよう。

親子でインフルエンザB型に感染した

 上の子の行っている保育園でインフルエンザが流行中だったが、ついにうちの子もインフルエンザに感染した。発熱するまで感染に気づかなかったのだが、ちょうと先週末、子供が珍しく嘔吐・下痢をし始めて、特に理由が思い当たらず、とりあえず様子見していたところ、発熱し、病院でインフルエンザB型と診断され、やっと合点がいった。インフルエンザA型は高熱を発症するが、B型では熱はそう高くならないことが多いものの、嘔吐や下痢を併発するとのことで、すでに先週末には前兆があった、ということになる。

 インフルエンザ感染が分かってからは鼻水など子供の世話をした後は出来るだけ手洗いするなど対策をしていたつもりだが、火曜の夜ぐらいから私自身の体調が悪化し始め、翌日診察を受けると(あの、鼻から細い綿棒を入れてグリグリするやつ)、果たして子供と同じB型に感染していたのだった。

 B型にもいろいろあるらしいが、私が今回ので一番きつかったのは吐き気があることで、水も最初は飲めず、診察時には脱水症状が激しく点滴を受けたぐらいだ。なんでも、尿検査でケトン体だったかが、マックスに脱水していることを現す+4という数値になっていたため、点滴が必要と判断されたらしい。ただ、点滴後に再度採尿して検査しても+4のままだったので、よほどカラカラに脱水していたらしい。

 その後、出来るだけ水を飲むようにし、しばらく固形物は食べる気になれなかったが、発症から2日後ぐらいに少しずつ食べるようにすると、いくらか回復してきた。

 熱は38度台後半まで上がったが、その後、37度台に落ち着いた。ただ、頭が重く、さらに寝る姿勢がまずかったのか後頭神経痛のような、後頭部にピリっと電気が走るような痛みをしょっちゅう感じるようになり、ずっと寝込んでいた。

 昨日ぐらいからいくらか快方に向かい始め、今日は後頭部の痛みもなく、かなり回復してきたようだ。不思議なもので、7ヶ月の乳児には感染せず、いわゆる赤ちゃんの「免疫力」を実地に確認しているところ。一般に半年程度と言われているようだが、これだけ家庭内で猛威を奮っていても、今のところケロリとしている。ただ、嫁さんもずっと感染せずに来たが、ついに今日から発熱してしまった。症状も似ているので、多分、子供のが感染したのであろう。子どものくしゃみをまともに顔に浴びたらしい。

 一応、解熱後2日は外出を控えるべし(ウイルスを撒き散らすのを防ぐため)、ということになっているので、今日も終日家にいることになりそうだが、ひとまず明日は仕事に行けそうではある。個人事業主としての契約で働いているので、休んでいる期間中のお金は当たり前のように入ってこないし、診察にも3割負担で4300円ものお金がかかったのも地味に痛い。

 ちょうど4歳になったばかりの子どもには例の「タミフル」が処方されたが、特に異常行動はなかったと思う。子どもと私は別の開業医に診察してもらったが、私には処方されなかった(尋ねたところ、特に他意はなく、医院によっての方針の違いとのこと)。

 ところで、インフルエンザは幼児や高齢者はともかく特にハイリスク因子を持たない成人であれば、検査も受けず、薬も飲まない、という選択肢があるらしい。冬のウクライナ滞在時に二度ほど40度の熱を出して1週間ほど寝込んだことがあるが、結局、ある一定期間は熱は下がらないし、また一定期間後は解熱し、快方に向かうことを経験的に知っているので、しんどい思いをしてまで病院に足を運ばない、という選択肢もありではある。私は今、客先常駐での勤務なので、一応診察したけど、時間に融通の利く在宅勤務だったらしなかったかもしれない。

 点滴を受けたのは中国滞在時にひどい下痢をして外国人向けの病院にかかった時以来、人生二度目かも。明確に「インフルエンザ」と診断されたのは、もしかしたら人生初のような気がするが、こういうのはかからないのが一番なので、養生しつつ用心したい。

高速道路上で立ち往生した話(原因はなんとクラッチ摩耗)

 少し前のことだが、仕事中に嫁さんから電話がかかってきて、何事かと思ったら、かなり切迫した様子で、なんと高速道路上で立ち往生している、という。クラッチがつながらない状態になっており、まったく車が動かせない状態になっているらしい。しかも、4車線あるレーンの左から3車線目で立ち往生しており、左も右も車が通り過ぎていて、子供二人を抱えて避難するのは無理だという。

 とりあえず警察は呼んだから、レッカー手配して、との連絡を受け、仕事中ではあるが、JAFに連絡したりするなどして、ひとまず警察の到着待ちという状況になった。

 何か出来るわけでもないので、一旦は仕事に戻ったものの、さすがに今の今、妻子が高速道路上で立ち往生してるという異常な状況では仕事が手に付かない。0歳児の乳児と3歳の幼児の世話などもあるので、急遽仕事を早退することにし、現場方面へ向かうことにした。

 電車内では、比較的空いていることをいいことに、車両の一番端っこに行って、JAFとの連絡のつづきや保険会社との連絡その他をしていると、警察が来て、引っ張っていってくれることになったとの連絡が入り、ひとまず胸をなでおろした。

 通常、レッカーまではしてくれないようだが、乳幼児がいること、などなどを鑑み、特例として判断してくれたようだ。前後をパトカーに挟まれて牽引されたらしい。ありがたいことだ。

 つづいて、なんとか無事に料金所近くにある高速道路交通警察隊の事務所まで連れて行かれた、との連絡を受け、さらにそこからは最寄りのディーラーの店までJAFのレッカー車で運んでもらうことになったので、そのディーラーの店で落ち合うことにした。

 電車を乗り継いで、ディーラーの店に行って説明を聞くと、原因はなんとクラッチの摩耗とのこと。数ヶ月前に乗り捨てるつもりで購入した格安のマニュアル中古車なのだが、特にクラッチに異常を感じていたわけではなかったので、驚いた。

 嫁さんによると少し前にちょっと異臭を感じていたらしいので、前兆はあったのかもしれないが、最近のクラッチ機構は油圧式になって、少しずつ悪くなるわけでなく、突然逝ってしまうものらしい。

 車に詳しい人に聞くと、エンストをわざと起こしてみて、すぐに止まらなければ、クラッチが滑っていて、交換時期に来てることがわかる、とのこと。免許取り立ての頃から最初の2台はマニュアル車に乗っていたが、そういう点検方法があるとは知らなかった。

 車は人を殺すことも自分が死ぬこともありうる怖いもの、という認識を持っているつもりだったが、まだまだ甘かったらしい。前の車が割りとぞんざいな乗り方をしてても、18万キロまで大きな不都合なく乗れてしまったので、今回の車もそうだと無意識に思ってしまったが、中古車は前のオーナーがどんな乗り方をしていて、整備をどれほどしていたのか分からない状態で購入することになるので、改めて怖いなと思った次第。

 今回購入して驚いたのは過去の整備記録などは一切渡されなかったこと。以前購入したときは前のオーナーの名前などもそのままに引き渡されていたが、個人情報保護の流れもあり、そういうのは販売時破棄することが多くなっているとのこと。

 新車など買う懐の余裕はないものとしては、せめて整備記録の引き継ぎぐらいはして欲しいと思うが、どうにかならないのか。クラッチについては乗り方にもよるが、7万キロ程度で交換するものらしい。今回の車は購入時点で10万キロを超えているものだったが、これまでに一度は交換されていたのか、それともそろそろ交換時期に来ていたのかさっぱり検討がつかない。まずいことにクラッチは中の状態を見るには、かなり大変な作業を必要とするらしく、素人は手を出せないところ。なので、せいぜい出来ることはエンストチェックぐらいなものとなる。

 今回、妻子が無事救出されたからよかったものの、もし追突事故などにあっていたら、と思うとゾッとする。今回の場合、停止したときにたまたま後ろにトラックが来ていたのだが、現場はゆるやかな上り坂になっていたため、いろいろやっているうちに少し下がってしまって、ちょっと接触したらしい。そのためか、トラックも現場から走り去らず、一緒に待つことになった模様。なんでもトラックの運転手は若い女性だったらしく、路上でアイコンタクトでコミュニケーションを取り、子連れであることなど事情を把握してくれたらしい。

 煽り運転と誤解され路上に出た方が死亡したニュースがあったところで、少し前には桜川やっくんという芸人が高速道路上で死亡したというニュースもあった。しばらくは怖いので追い越し車線ではなく走行車線ばかりを走ることになりそう。

苦労や挫折が人に与える影響

 さて、1月も半ばを過ぎた。単調な毎日なのだが、ブログを書いている余裕などなく、どんどん月日が過ぎていく感じで。。。

 いちおー、出来るだけ毎月一つはブログアップしようとしていて、なんとなく日々思っていることを書きとめておく。

 昨日、たまたま コミュ力もリーダーシップもいらない。Googleが考える、本当に“優秀な人材“とは という記事を読んだのだが、以下のような記述があり、ほーと思った。

何年も試行錯誤を続けて「結局、何がパフォーマンスに繋がるのか?」を社内で研究しました。

まずわかったことは、Googleでは、「どんな大学を出たか」は入社後のパフォーマンスと相関関係がなかったことがわかりました。

次にわかったのは、「これまでの人生で苦労をしたかどうか」でした。人生の中で、戸惑ったり、脱線したり、事故にあたり、病気になったり、浪人したり、好きな人を失ったり…。

そういった苦労した人たち、挫折した人たちは、会社のなかでパフォーマンスを発揮していました。

挫折というのは、自分自身を見つめ直すチャンスです。アイデンティティを作り直す機会でもある。次のチャンスを、自ら探しに行く必要があると考えられるかどうか。

 戦争などの集団的なものであれ、上記の例のような個人的なものであれ、苦労や挫折というのは、進んでするものではないと私は思っているのだが、生きていると否応なしにそうした経験を多少なりともすることになる。その中には自ら招いた場合もあったりするが、そうではなく、自らの意志ではどうにもならない圧倒的な力で自分が侵食されるような経験というのがあって、そうした経験があるかどうか、というのは結構重要ではないか思う。

 私の交友関係には苦労知らずのボンボン系の人はまったくといっていいほどいない。私が嫌いだし、あちらもこちらとは考え方が違いすぎて、仮にしばしやりとりしても、フェイドアウトしていくことになるみたいで。

 苦労知らずでも、いい感じに謙虚さを持ち合わせてる人もいて、そういう人たちはいいのだが、概ね苦労知らずの人たちはムダに強い言葉をはきたがるし、自己顕示欲がそうさせるのか、ちょっと偏ったことや過激なことを言ったりするものの、私の胸には全然響かない。そのくせ、妙にプライドだけは高く、ちょっとしたことで大の大人にもかかわらず傷ついたりするもんだからめんどくさい。

 最近、ネットやテレビの話題を追うのがしんどい。ニュースを読むのにも「スルー力」が試されていて、面倒な世の中になったもんだなぁと思う。炎上狙いの人とか悪目立ちする人たちの方が「数字」が取れるもんだから、どんどんそういう系の人たちがメディアやネットで重用される悪循環となっていて、どうでもいい人のどうでもいいコメントを読まされ続けることになる。

 良記事も日々発信されているはずなのだが、なかなか発掘する暇が取れない私のところまでリーチしては来ない。何か自分が必要とする情報をいい感じに取捨選択できないか、などと最近よく思うが、なかなかそういうのを模索してる暇もない。IFTTTとか使って上手に取捨選択してる人もいるみたいだが、なかなか。。。

 いつからこういう感じになったんだろうか。ここで、唐突だが、第二次世界大戦を知る世代がほぼいなくなった、というのが、今の状況の遠因ではないかと考えてみる。いや、1945年以前生まれの人はまだまだ存命中ではないか、と言われそうだが、敗戦時にまだ子供だった人と実際に戦場に行っていた人や家族への食料調達その他諸々の責任があった人とではその意識に大きな隔たりがあると思う。

 私が学生時代によく読んでいたシリーズに「現代文学の発見」ってのがあって、その中に「証言としての文学」という一巻があるのだが、その表題からするとノンフィクション系のが集められていることが想像されるものの、実際に収められているものは、ほぼ戦争を背景にしたものばかりなのだった。そして、どれもが極限状態での人間の行動を描いていて読後もずっしりと自分にのしかかってくる。私は戦争などもちろん知らないのだが、やはり戦争体験をした世代というのは、絶対に戦争は嫌だ、という信念があり、それが共通体験として共有されていたんだろう。そうした意識が諸々の判断をする際に歯止めとなり、最低限の倫理観が相互に働いていたように思う。

 その後続世代はそういうのがないので、倫理観もへったくれもなく、結局、数字ぐらいしか依拠するところがないので、数字で功績をあげた人が重用され、そういう人がさらにそういう人を重用するので、効率や利便性ばかりを求める今のような世の中になった、ってところではないだろうか。

 多分、これは世界的傾向でどこも似たようなもんだから、フェイクニュースがどの国でも幅をきかせてるようだが、話を戻すと、グーグルのような最先端企業で上記のような社内研究結果が出ていた、というのは大変興味深いことで。グーグル、アマゾン、アップル、フェイスブック・・・、などなど、IT界の巨大企業はどこかうさんくさいところがあるのだが、その中でグーグルは私の中では「邪悪になるな (Don’t be evil)」というのを社是に掲げているだけあって、他の3社よりはちょっとだけマシなんじゃないかと思うことがある。グーグルには完全に私の生活が把握されてて、悪用されたら怖いんだが、今のところ、信頼しすぎず、利用させてもらっている感じ。

 とりとめのない話ですんません。この週末は物が散乱しまくっている家の大掃除をすることになってるので、今日はこの辺で。

追記: 2015年記事でこんなのがあった。「Don’t be Evil」から「Do the Right Thing」へ、Googleの新しい行動規範が公開されたことが判明 巨大企業になり、グーグルも変わらざるをえないってところだろうか。