「映像制作」カテゴリーアーカイブ

追悼アッバス・キアロスタミ

 学生時代、よく映画を見ていた方だと思うが、あまり見なくなっていた時期があり、そんな時に久々に見に行ったのがキアロスタミの映画だった。なぜそのチョイスをしたのか、今となってはよく覚えていないが、京都のみなみ会館で上映されていた『友だちのうちはどこ』を見たのだった。最初から最後まで高いテンションを保ちつつも、ユーモアがあり、あざとさと紙一重の、ちょっとそれまでに見たことのないような演出で非常に完成度の高い映画になっていて、自分的に濃密な映画体験をした、という記憶がある。特にラストのノートに挟まれた一輪の花のシーンを見て、私は異様な感動を覚え、自分の座席が震えているのを自覚したほどだった。

 それ以来、ごく最近の作は残念ながら見られていないが(そもそも福島原発事故以降、映画自体ほとんど見てないわけだが……)、日本で見られる作品はほぼすべて見ている。初期のドキュメンタリーもよいが、やはり私はフィクションの方が好きだ。どの映画も独特の空気があり、何気ない日常でありつつも、キアロスタミの切り取る映像はどれもが絵になっていて、いつも新作を心待ちにしていた。

 東京国際映画祭が遷都1200年記念で京都で開催されたことがあるが、その時に『オリーブの林を抜けて』が上映され、それに合わせてキアロスタミも来日した。当時、私は学生で、その期間中はもう大学も休みに入っていたが、学内で「キアロスタミが本校で講演会をします」という小さな掲示を偶然発見し、驚愕して、何人か関心を持ちそうな人にも連絡し、その日を迎えた。

 招聘したのはペルシャ語科の先生方で、講演会は学内の一般教室で行われた。聴衆は関係者含めても十数人程度だったかと思う。今思うともったいないことだが、私ですら、その掲示を見たのがその前日だったので、急遽決まった話らしかった。

 キアロスタミは当時某IT企業勤務だった息子さんを連れてやってきた。講演はそう長くない時間だったと思うが、生キアロスタミを前にして、ただその場にいるだけで幸せな気持ちになった。

 質疑応答の時間になり、私が誘った一人で、映画サークルの後輩である千浦僚(現在の肩書は映画感想家?)が手を上げ、彼はなんと持参した8mmカメラを構えながら果敢にも壇上のキアロスタミに向かっていき、至近距離からキアロスタミを激写する、というパフォーマンスをしたのだった。あの映像、まだ残ってたら、見てみたいが現存するんかな。

 質疑応答は英語でやることになっていて、当時、まったく英語を勉強していなかった私だが、その場で原稿らしきものを手元の紙に書き、できるだけ平易な英語にして、以下のような主旨のことを言った。

 「私はあなたの映画を見て、勇気づけられています。さて、あなたの映画を見て気づいたことがあります。あなたの映画ではラストシーンに木や花などの植物が出てくることが多いのですが、それは何か意図があるのでしょうか。」

 一部、うまく通じなくて、キアロスタミの息子さんがとりなしてくれたりしたのだが、キアロスタミからは、そんなことを言われたのは初めてだ、おもしろい指摘だ、みたいなことを言われたかと思う。

 講演後、キアロスタミは次に行くところがあるらしく時間があまりなかったのだが、持参した使い捨てカメラ「写ルンです」(カメラなんて高価なおもちゃは持ってなかった)でキアロスタミとのツーショット写真を息子さんに撮影してもらった。それは今も私の宝物だ。

 その後に行われた京都での上映に駆けつけることはできなかったが、上映時にキアロスタミは壇上から「ここに大阪外国語大学の人はいますか」と問いかけたという。確か行けなかったのはバイトが入っていたためだったと思うが、バイトなんてサボって、駆けつけるべきだったと猛烈に反省したのだった。

 キアロスタミが亡くなり、心にぽっかり穴が開いた気分だが、氏の映画タイトルではないが「そして、人生はつづく」。ゴダール曰く「映画はグリフィスに始まり、キアロスタミで終わる」とのことで、不世出の映画作家キアロスタミは亡くなってしまったが、偉大なる作品群は残っている。これからも何度も見返すことになるだろう。

字幕翻訳と映像編集の狭間で

 池上彰氏の番組でインタビュー映像の音声と字幕が合っていなかった件が話題になっている。この話題については、以下の記事が興味深かった。

フジテレビ「池上彰緊急スペシャル」の「字幕取り違え」事件についての私見――テレビ報道の映像・字幕翻訳者としての経験から韓東賢 / 社会学

 ただ、これは映像制作者にとって悩ましい問題で、ちゃんと対応しようとすると、時間もコストも余計にかかるのは間違いない。制作者側は現実に限られた時間の中で制作していて、フジテレビ側は再発防止に努める、と言っているが、この問題はそう簡単にはなくならないだろう。

 実際、私もチェルノブイリ関連映像などを見ていると、映像と字幕が合っていないのに気づくことがよくある。一次映像チェックしている人は語学的にも事柄的にも事情に精通している人で間違いのない人であるし、映像制作者側も悪意を持ってそうしたズレのある編集にしているとは思えない。むしろ、受け手のことを考え、仮に合っていないことに気づいていても、そうした方がわかりやすいから、ということでズレをあえて許容することも現場ではよくあることだろう。

 ちょうど昨日の7時のNHKニュースでサッカーなでしこジャパンの準決勝の試合後の宮間選手のインタビュー映像で「(決勝点は)ラッキーなゴールだった」という字幕があったのだが、これはおかしいと私はすぐに気づいた。これでは相手のオウンゴールをラッキーと表現する宮間選手に対して、ちょっと違和感を感じてしまった人もいたはずだ。私はニュースを見る前にインタビューを聞いていたので違うと気づけたが、改めて考えても、文脈からして、そんな取り違えはしないように思った。だいたい選手同士はお互い同じ境遇にあり、仲間という意識が強く、オウンゴールをしてしまった選手に対し、同情しない選手を探すのは難しいだろう。過去にはコロンビアのエスコバル選手のようにオウンゴールのせいで殺された選手もいたことはサッカー界では記憶されているはずで、相手のオウンゴールをラッキーなどとは思わないはずだ。

 私はこの宮間選手のインタビュー字幕の取り違えについては、意図的にやった可能性があるんじゃないかと邪推してしまう。ニュースで使う素材としてインタビューから切り取るには少々背景説明が必要になり、短い時間で正確に伝えるのは簡単ではないので。

 その後、視聴者から苦情・指摘があったのだろう、以下のような訂正が番組内で出ていた。

○彼女にとってはアンラッキーなゴール
×(決勝点は)ラッキーなゴール

 映像制作者、とくにテレビの作り手は「わかりやすさ」をとりわけ重視しており、悪意でというよりは、視聴者目線であまり理解するのには複雑過ぎにならないよう、気を遣いながら制作しているはずだ。しかし、これは見方を変えれば、視聴者をナメている、とも言えるかもしれない。そして、視聴者がそうした複雑さを許容できず、安易にわかりやすさを求めている実態がこうした状況を招いているとも言えるのではないか。世の中の出来事なんて、たいがい「わからない」がデフォだろうに。

 こうした状況を変えていくには、日頃からわかりやすさに安住せず、めんどくささに耐えられるよう、それぞれが日頃から鍛錬していくしかないのだろうけれど、個人的には、自分で映像制作してみるのが手っ取り早いんじゃないかと思うのだがどうだろう。今や簡単に映像編集できるツールが出回っていて、こうしてブログに文章を書く手軽さで軽い映像編集ぐらいは出来るようになっていて、デジタルネイティブ世代なら特にわけなく習得出来るはずだ。これからの世代には発信側にももっと多くの人に立ってほしいところで。