今更ながら、ドイツと日本の類似性に関心が出てきたところ

 少し前に近所の本屋の新書ベストセラー・コーナーに『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (文春新書)
』という本があり、こんな本がなぜこの田舎で売れてるの!?、と驚いて中を見ると、ウクライナ危機のことに多くのページが割かれているようだったので、購入しておいたのだが、ちょうど昨日、ざっと読み終えたところだったので、ドイツについて書いてみる。

 私がドイツを訪れたのは7年前のことだ。ウクライナからポーランド経由でバスを乗り継いでドイツ入りし、ほんの数日間だがドイツを周った。ウクライナ滞在中に行ったため、その対比が自分の中で凄まじく大きく、同じヨーロッパにあるのに、その生活レベルに天と地ほどの違いがあることを肌で感じた。ドイツ人にもいろんな人がいるだろうが、道行く人で出会った人で不愉快な印象を与えた人はほとんどいなかった。道を聞けば夜中だろうが、立ち止まって丁寧に教えてくれるし、電車で乗り合わせた人たちもよい印象しか残っていない。車窓を見てもウクライナのように遊んでいる土地がなく有効利用されていたのも印象的だった。世の中にこういう生活空間を作り上げている場所があるのだな、と感慨深かった。

 再生可能エネルギーの先進地域であり、車窓からは風車がいたるところに林立している印象で、バイオガス発電の現場も見せてもらったが、小さな村の一般の皆さんがやっておられ、自宅にも入らせてもらったが、日本の田舎とは違うヨーロッパ特有の「見た目のきれいさ」があったのも印象的だった。福島原発事故後もいち早く脱原発を決め、世界をリードする環境立国といっていいのだろう。

 外国を旅行していてよく出会うことになるのが、私の場合、ドイツ人だった。彼らも大抵、私に嫌な印象は残さず、結果、私の中のドイツは「リアル地上の楽園」とでもいうようなところになっている。ドイツと対比される国といえばフランスだが、私の会ったフランス人は嫌な印象の人が多かったのと対照的だ。

 そんなドイツだが、ここに来て、そうした印象を打ち消すような様々なニュースが出始めている。フォルクスワーゲンのデータ改竄はその象徴の一つといえるだろうが、やはり、ドイツが率先して関わったシリア難民を巡るEU内の軋みの方がより深刻な事態といっていいだろう。

 ドイツは経済面でユーロ圏内にいることのメリットを享受できる立場にあり、EUの存続を望む立場ではあるだろうが、「メルケル首相「移動の自由」見直しも示唆 難民急増受け」という記事にあるように「シェンゲン協定」の見直しに言及するなど、ドイツ流の圧力を高め始めている。また、[FT]メルケル時代の終わりが見えてきたというような記事が出てきており、ドイツの行く末に暗雲が立ち込めているかのようだ。

 冒頭の書に話を戻すと、この本で興味深く読んだ箇所を引用しておく。

歴史的に確認できるとおり、支配的状況にあるとき、彼らは非常にしばしば、みんなにとって平和でリーズナブルな未来を構想することができなくなる。この傾向が今日、輸出への偏執として再浮上してきている。(p68)

 引用文中の「彼ら」とはドイツ人のことを指す。この本の著者はエマニュエル・トッドというフランス人だが、自由・平等の国であるフランスとは対照的に、ドイツは不平等的であり、その権威主義的文化により、ドイツが支配的立場に立つと固有の「精神的不安定性」を生み出すのだという。さらに、

アパルトヘイトの南アフリカには、自由主義的・民主主義的ルールにしたがって申し分なく機能する平等な市民の集合体があったのだけれども、その自由や民主主義は被支配者たちが存在するという条件でのみ成立していた。(p65)

 とも述べ、人種差別時代のアメリカも白人同士の平等が黒人などに対する支配によって保証されていたとし、現在のヨーロッパも、ドイツ=支配者とその周辺で支配される諸国民のヒエラルキーが形成されている、という。そして、この政治的不平等はドイツ議会選挙でギリシャ人が投票できない以上、アメリカなどでの人種に起因する不平等よりも大きいという。

 日本特殊論に与するものではないが、それでも、様々な観点から見て、日本に似た国を探すのは難しい。そんな中、世界の中での政治的立場として参考になるほとんど唯一の国はドイツではないか。工業品輸出メインの産業で成り立っていて、勤勉な国民性も似ている。よく様々な政策に関して北欧などが参照されるが、国の規模が違いすぎるので、あまり参考にならないと思う。その点、ドイツと日本は共に1億人前後であり、これぐらいの人口規模の国で同様の国は他にはないといえるだろう。

 今まで考えたことがなかったが、この本で知ったのは、ドイツも日本同様に元来「直系家族」と呼ばれる家族形態を取っていて、それは「長男を跡継ぎにし、長男の家族を両親と同居させ、他の兄弟姉妹を長男の下位に位置づける農村の家族システム」(p157)とのことだが、ドイツではこのシステムが「権威・不平等・規律」などの価値を現代の産業社会に伝えたという。

 それに対し、フランスは「結婚適齢期に達した子供は自律的な家族ユニットを築くのが当然とされた」とのことで、遺産も男女関係なく子供全員に平等に分け与えられ、結果として、このことがフランスの「自由・平等」という価値を培ったとしている。

 よくフランスの少子化対策が紹介されるが、国民性の違いが大きすぎるので、個人的にはまるで参考にならないだろうと感じていた。第二次大戦で大いに疲弊し、戦後経済復興を遂げた、という類似点を持つドイツと日本だが、ドイツも同様に少子化の問題を抱えているようで、こうした類似性は興味深い。

 他所の国の有り様はなぜかよく見えるので、今後の日本の行く末を考えるヒントとして、もう少しドイツに関心を持ってみようと思っている。

 ちなみにこの本の著者は「最後の転落 〔ソ連崩壊のシナリオ〕
」でソ連崩壊を予言し、その人口学者としての視点は読んで損はないかと思う。ただ、訳者はあの「悪童日記」を訳された方であり、名訳者とのことだが、この本に関しては、口語体が唐突に出てきたり、文章として成立していない部分があったりと、誰かの下訳に手を加えたような出来なのが残念なところ。しかし、元がインタビューであるので、意味が取れないほどではなく、読み進むうちに脳内補完できるようになると思う。

サラダパン(つるやパン・滋賀) vs たくあんサラダロール(キムラヤ・岡山) vs 大根サラダコッペ(セブン-イレブン・多分滋賀限定?)

 先日、岡山に行く機会があったので、前から気になっていたパン屋さんのキムラヤを訪れてきた。ここでは湖北名産のサラダパンのライバル商品を販売しており、一度食べてみたいと思っていたのだ。

 岡山駅前に到着し、早速Google Mapで調べてみると岡山のそこここに店舗があることがわかり、チェーン店でもなく学校のそばの工場でフル稼働生産しているつるやパンとしてはちょっと規模的には太刀打ちできそうもなく、いきなり出鼻をくじかれる。

 店舗は駅中にもあるようだったが、人待ちの時間を利用し、駅前商店街の店舗に行ってみた。

キムラヤ外観

 綺麗な店内にはいろんなパンが売られていて、その中に変わり種を集めたコーナーみたいなところがあり、そこに目指すたくあんサラダロールがあった。幸い、まだ売り切れてなかった! 店内写真を撮影してよいか尋ねたところ、NGとのこと。滋賀から来たと先に断ったのがアダとなったか。偵察目的であると警戒されたようだ。

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 お味の方は、キムラヤの方がよりたくあん感が強い印象。サラダパンの方を食べ慣れていることもあり、味が濃く感じた。尋ねると割りと最近(数年前?)に開発された商品とのことで、この点では長年、味を改良してきたサラダパンの方がより万人受けするように、よりマイルドになってるのかもしれない。遠出するとき何度か手軽なお土産代わりに持っていくことがあるが、皆さん、拒否反応なく食べてくれている。福島にも何度か持っていったことがあるが、みなさん元気にしてるかな。

 キムラヤでは他にも高菜サラダロールなど変わり種パンを販売しており、同行者はこちらを購入していた。ご飯が欲しくなったそうだが、つるやのサラダパンも初めて食べた時は違和感があって、おいしいとは感じなかった。どうしても舌は保守的なので初めはこうなるものだが、こうして継続して販売されているということは、食べ慣れるとおいしく感じるということだろう。個人差はあるだろうけど。こちらはキムラヤのサンドイッチのラインナップ。

 実はかのセブンイレブンも同じ趣向のパンを販売している。その名も「大根サラダコッペ」。たまたま販売しているのを最寄りのセブンイレブンで発見し、購入。こちらも店内写真NGとのことで、パンの外観だけ。味はたくあん部分はかなり似せているがパン自体の味が多少違う印象。つるやのサラダパンの方は昔懐かしいコッペパン風だが、セブンの方は無難な今風、とでもいうか。

大根サラダコッペ

 残念ながら、こちらは試作品的な商品だったようで、その後、継続的に販売されているわけではない模様で、時々立ち寄って確認しているが、その後はその姿を見ていない。こちらはちゃんとつるやパンを訪問して、販売委託を依頼したりしたそうだが、規模的に難しい、ということで、セブン側で製造販売することになった、とのこと。このあたり、ちゃんと仁義切るところが、現在、コンビニ業界の雄として君臨する王者らしい振る舞い、というところだろうか。

 木ノ本駅前の北国街道沿いにあるつるやパンの店舗に行くと、サラダパンを求めて各地からやってくる車が何台も止まっていることがよくある。駐車場があるわけではないが、商店街にしては道は広いので、交通の妨げになるほどではない。周りの店もうちの前に車置くな、みたいなうるさいことは言わない感じでここが湖北らしいところだろう。つるやパンもこの人気に浮かれている様子はまるでなく、昔ながら雰囲気を残しつつ、人気に戸惑っている様子が今も見えるくらいで。

 近くに来られた時は是非お試しを。つるやのサラダパンは平和堂などでも売っています。

ラグビーのドロップゴールについて思うこと

 今朝、ラグビーワールドカップ準決勝「南アフリカvsニュージーランド」の試合を見た。点差はたったの2点で、あと一本PGかDGが決まっていれば南ア勝利となったが、ボール所有は6:4でNZで、さらにトライの数ではNZが2に対し、南アは0であり、試合としてはNZが押していたといっていいだろう。ただ、南アの守備がよくて、いくつもあったピンチを切り抜けていた。

 今回のラグビーワールドカップで知ったのは、主審とキャプテンのコミュニケーションが大変重要だ、ということで、日本の南ア戦やサモア戦では主審とのコミュニケーションが吉と出たような試合だったようだ。(スポニチの記事 「リーチ「英語力が勝因」 新主将は主審と良好な関係を築ける人材を」

 この準決勝の試合では、南アがうまく審判とコミュニケーションを取っていた、ということか、ニュージーランドの反則が多かった印象で、南アがうまく反則を誘い、トライで引き離されてもペナルティゴールで着実に3点ずつ加点してニュージーランドを追い込んでいった。特に端っこからの難しいの2本を含め、5本すべて成功だった、という南アのキッカーのポラード選手の正確さはすごかった。ちなみにこの選手はW杯後に日本でプレイするらしい。(記事「南ア代表の21歳司令塔、ハンドレ・ポラードが短期契約でドコモ入り!」)

 テレビ解説でも触れていたが、前半はノートライだったもののよい守備をしつつ、着実にPGで加点していた南アのペースであったが、後半開始少ししてからのNZのドロップゴールで流れが変わったような。

 ラグビーの試合を見ていて、ドロップゴールをやられると、ちょっと置いて行かれた感が残る。トライは爽快感があるし、PGは反則に対する代償で理解できるのだが、ドロップゴールは何かそれまでの試合の流れを断ち切ってしまう。トライまであと少しなのにそこで3点狙いにいくんか、というような。サッカーでいうと、ゴール前にロングボールを放り込んだら、なんか入ってしまったみたいな感じに近いあっけなさがある。

 しかし、これもラグビーの味の一つなのだろう。正直言って、トライを望む観客の興をそぐことになると思うが、相手に勢いがあるときなどにこれをやると効果的なのかもしれない。流れが悪い時にちょっとした怪我を痛がって時間を浪費するサッカー選手みたいなもんで。

 ラグビーの歴史上、トライは元はコンバージョンゴールの権利取得のためのもので0点だったそうだが、ドロップゴールはそうしたサッカーから派生したゴール主体ラグビーの名残なのかもしれない。

 そういうわけで、私のような「にわか」はドロップゴールに対し、よい印象を持てないが、それでも、このルールを失くしたほうがいいとまでは思わないし、これはこれでおもろいルールだと思う。ただ、3点もいらんのんとちゃうかとは思う。2点に減らすなんて案は出てないのかな。

 英語記事だが、Rugby World Cup 2015: New Zealand progress to final after seeing off spirited South Africaはいろいろとデータが出ていて、見せ方がうまくなるほどと思った。日本国内でもこれぐらい力をいれた記事がこれから普通に読めるようになるのか、各種メディアの対応にも注目したいところ。

親がいないところでは子供は遠慮しながらグズるのか

 さて、子供が朝の二度寝タイムに入ったので、育児メモを少し書いておく。

 ここのところ、平日の昼間、私は家にいないので、子供は比較的平静だったが、昨日は一日相手をしてやったところ、またベタベタに戻った。トイレに行こうとしても、泣いて引き止めることがあり、さすがにそういうのまでは対応しないのだが、泣かれたときの対応の仕方がまだよく分からない。

 何か他に楽しげなことに気を取らせると大抵はそちらに熱中し始めるので、最近は楽しみを「小出し」にして、ぐずった時はそういう小さな楽しみで気をそらせるようにしているが、小出し用のストックがなくなることもあり、対応せざるを得ない場合もあるなど、なかなか大変である。

 ついこの間、2歳ぐらいの子供を一時預かった人の経験を聞いたのだが、その子はその人にとっては甥っ子であり、よく懐いてはいるのだが、やはり親に対してのグズリ方とは違う、いくらか「遠慮した」グズリ方をしていた、とのことだった。ちょうど、うちの子供も長く両親の元を離れていたが、そういう遠慮をせざるを得なかったのかも、とも思い、しばらくは好きにぐずらせてやろうと思っている。

 もっとも、それなりに「躾」をしていく必要もあるので、少しずつ厳しいこともゆうていくことになるだろうが。

 一歳児なんてまだまだ何も分かってないだろう、と思っていたが、こちらの言うことをこちらが思っている以上に理解している可能性があるようで、あまり下手なことは言わない方がいいようだ。まだ親が理解できるような意味のある発語は10種類程度にすぎず、二語文などはまだまだ先の話だろうが、理解できる言葉はごくごく適当に言ってだが、リアクションから想像するに100はもう超えているように思う。昨日は、「これを探してきて」とその物の絵を指差しながらいってみたところ、やや戸惑いつつも探しに行ったので、ちょっと驚いたものだ。

 子育てについての掲示板などをウェブ・サーフィングしていると、いつしか我が子の自閉症や発達障害を心配する書き込みが相当数あることに気づくことになる。私自身、子供一般についてよく知らないこともあり、自分の子供がそういう気があるのかあまり関心もなかったが、あまりにそういうのが目につくので、「自閉症 特徴」などで調べるとうちの子供にもよくよく当てはまる事柄もあることに気づき、ちょっと焦った。

 もっとも、こういうのは得てして誰にでも当てはまるようなことも含めて書かれていて、血液型と性格を絡めるような言説同様、あまり気にしない方がいいだろうとすぐに思い直した。

 高齢の父親の子供はいくらかなりやすい、というようなことはあるようであるが、だからといって診断される前から取り越し苦労をしても仕方がないし、そのような診断をされたとしても、そのときから注意事項に気をつけて暮らしていけばよいわけなので、今は基本的には気にしないようにしている。

 子育ての苦労は「オムツ替え」とか「食事の世話」とかいろいろ大変だろうなぁ、と昔は多分思っていたはずだが、実際のところ、そういうのはもう日常に組み込まれていて、大して大変だとは思わない。むしろ、何度か書いてるが、情報が多すぎて判断に迷うことがよくある、ということの方が大変だったりする。かといって昨日まではOKだったことがNGになったりすることもよくある現代にあって情報を遮断するわけにもいかず、今後も情報に振り回されることになるだろうが、そういう経験をへることで、少しずつ自分たちの方針が見えてくる、という効果もあるので、ぼちぼちと情報も追える程度のゆとりを持ちつつ暮らしていきたいところだが、実際のところ、諸事情あってなかなか大変である。

先週はみっちり子供の相手をした

 先週は仕事を休んで、一人で子供の世話をすることになった。1ヶ月強、子供と会っていない期間を経て、いきなりみっちりと2人で過ごすことになり、どうなるか不安があったが、大過なく過ごすことが出来た。ただし、出迎えた時も非常に素っ気ない態度だったし、その当日中はやや距離がある感じだったが、翌日ぐらいから徐々に通常に戻っていった。

 いくつかの点で成長のあとが見られた。以前は食事などの時の場所が一定しなかったが、今回、食事の時はイスに座る、ということを覚えたようで、いつまで続くかわからないが、おやつなどもできるだけ所定の場所で食べるようにし始めた。また、人見知りを比較的しない子供であったが、人見知りをするようになった。ただ、親とその人との距離感を見定めつつ、一定時間経過すると慣れるようではあった。

 以前もいくらかあったが、大きな変化はいわゆる「抱き癖がついた」こと。昔の子育てでは抱き癖がつくので、抱っこをせがまれても抱っこすべきでないとされていたが、最近は求められれば、抱っこしてやる、ということになっている。基本的に、要求に対して無視するのは大人の場合同様、よいことではないだろうから、毎回、しっかり答えるなくてもいいので、何らかのリアクションはすべきだと思っていて、抱っこも同様にできる範囲で対応はしているが、ここ数日の抱っこ要求はちょっと度を越していて、よほど寂しい思いをさせてしまったのだろうか、とちょっと反省しているところである。

 もしかしたら、理由は別のところにあるかもしれないので、慣れてきたら、時には適度にあしらうこともしていこうとは思っているが、このあたりは様子を見ながら、ということで。

 他に、やや言葉が進んだところがあり、鉄板の絵本である「いないいないばあ」を読んでとせがまれることがよくあるのだが、この言葉に近いのを言えるようになっていた。「ないないない・・・バッ」って感じだが、これはうちの子供的には偉大な進歩で、これからもっと話し始めると面白くなりそう。

 1歳後半だが、すっかり赤ちゃんの雰囲気はなくなっていて、時々少年の表情が垣間見えることもある。これから保育園にも通わせようと思っていて、少しずつ親の知らない一面が増えていき、男親としては頼もしいと思えるが、女親的には寂しさもあるようで。

 ここ数日みっちり過ごしたこともあり、先週末は久々に3人で過ごしたのだが、男親の私の方にやたらとベタベタしてきたのが興味深かった。遊んでやるのが私の方が多いからだろう、といわれたが、これも少しずつ元に戻っていくことだろう。男女平等の世相に反するかもだが、やはり子供は女親の胎内で育ち、生まれてきて、さらに生後もその多くは母乳で育つわけで、特に乳幼児の間は女親の方が子供にとっては近い存在である、というのは実感として思うことである。

 ここのところニュースチェックもままならない日々だったが、久々に子供とどっぷり過ごし、その感想などを書いてみました。