「シベリア抑留」が記憶遺産になったことの是非はさておき、この悲惨な出来事についてもっと知ろうとするきっかけになればそれでいいのではないか

 「シベリア抑留」なども記憶遺産に 日本が申請という記事が出ていた。

いわゆるシベリア抑留などに関する資料は、旧ソビエト軍に連行されシベリアなどに抑留された人や、戦後、旧満州などから引き揚げた人、合わせておよそ66万人が京都府舞鶴市の舞鶴港に到着する船で帰国を果たしたことから舞鶴市が記念館を設けて保管しているものです。抑留中の体験を書き残した日記やスケッチのほか、帰還を待つ家族の手紙や引き揚げ船の乗船名簿など570点に上ります。

 ちょうど、9月5日のETV特集で「沈黙を破る手紙~戦後70年目のシベリア抑留」が放送されたのを録画していて、見ていた時だったので、このニュースはタイムリーだった。この報道だけでは、やや簡素に過ぎるので、自分の知る範囲で背景をメモしておきます。ちなみに、直リンはしませんが、この番組名で動画検索すると何か見つかるかもしれません。

 シベリア抑留の一般的事実についてはWikipediaの項などを参照してもらうとして、まずは番組で取り上げられたことで興味を引いた点を書いておくと、表題の「手紙」について、ETV特集の内容紹介には以下のように記述されている。

アメリカとの冷戦下にあったソ連が、共産主義のプロパガンダのために放送していたという国営ラジオ放送。そのラジオ番組を通じて、大阪に住んでいたひとりの青年と、抑留されていた元新聞記者とが偶然にもつながれ、700通にも及ぶ希望の手紙に結びついたのだった。

 戦後も非人道的抑留を続けるソ連を非難する声があがり、ソ連にはそれを軽減したい思惑があった。そうした中、ソ連の日本語プロパガンダ放送に従事させられていた元新聞記者の木村慶一さんが抑留者が無事に生きていることを伝えたいと提案し、1947年9月、抑留者の消息を伝えるラジオ放送が実現した。1日に4回のニュース番組の最後の5分間を使って、名前と住所が1日に60人ほど読み上げられた。

 この放送は日本でも聞くことが出来たようで、たまたまこれを聞いた大阪府守口市の坂井仁一郎さんが、当時まだラジオは誰もが持っていたわけではないため、抑留者の帰国を待つ家族の元には届かないだろうと考え、毎夜カタカナでメモをし、住所を調べ、家族に自費ではがきで伝えたのだという。

 当時、政府も傍受していたものの黙殺した。そうした中、民間人の2人の「伝えなくてはならない」という強い思いで、消息すらつかめない家族の無事をあの冷戦の時代に伝えることが出来た。

 そして、この手紙をきっかけにして、今、語らないとなかったことになってしまう、という危惧をもって、語り始めた方もいるという。

 シベリア抑留からの帰還者は、抑留中の思想教育で感化された方もいて、抑留者だったというだけで「アカ(共産主義者)」呼ばわりされることとなり、就職などで不利になることが多く、話しても得になることはなく、多くを語ることはなかった。また、戦争を命からがら生き延びたとはいえ、さらに、戦後もソ連兵に執拗に追われて撃ち殺されたり、シベリアでの過酷な生活で亡くなる方が続出し、そうした地獄のような日々を送ってきた人にとって、そうした体験を平穏に暮らす人に理解してもらうのは無理だ、との思いもあったという。

 放送では触れられていないが、シベリア抑留者の複雑な一面として、戦中の階級がそのまま抑留生活に持ち込まれたことから、上官との間で拭いがたい憎しみの情が生まれてしまった、ということがあり、それは今も残っているのだそうだ。そして、「赤に染まった」ことにしないと大変な目に合うことから、密告が横行し、人間不信が広がっていった。

 『帰還証言:ラーゲリから帰ったオールドボーイたち』という自主制作のドキュメンタリーがあり、上映会のお手伝いをしたことがあるが、証言者の皆さんは皆高齢化していて、次々に亡くなられているとのこと。語る機会がなかなかなかった帰還者たちにとっての「精神的支柱」にもなっている監督さんだが、そうした対立の和解はどうしても無理なようだ。

 映画の内容については、これだけ人の死が簡単なものなのか、というエピソードが次から次へと語られ、それが80以上の高齢の男性の独特の語り口で語られるため、生々しさが軽減されるが、壮絶な話ばかりで、圧倒される。自分の映像もそうだが、映像編集のプロではないため、どうしても「きれいに仕上がった」映像にするのに限界はあるが、この映画は内容がすごいので、長尺でも見続けることが出来る。

 私がシベリア抑留について最初に知ったのは「ある〈共生〉の経験から」の石原吉郎を通してであるが、香月泰男の絵画など、シベリア抑留生活を伝える作品が残されており、今回のことがきっかけとなって、より多くの人に戦争の悲惨さを後世に伝える、こうした作品がもっと知られるようになればそれでよいのではと思った。