チェルノブイリ原発由来のセシウム137はすでに半減した、といえるのではないか

 さて、子供を寝かしつけたところで、この間に一つ投稿しておきます。

 産経で「チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険」という記事が出ていて、その記事について、ベラルーシの部屋ブログで言及されている。あまり、変に危険を煽るのはよくないという主旨には同意で、産経はロシアにネガティブな印象を与えるニュースを他所よりも比較的多めに報道しているようにみえるので、その辺りを各自で補正しながら読むとよいのではないかと思っている。

 上記ブログ記事中、チェルノブイリ原発由来のセシウム137がそろそろ半減、ということに言及されていて、なるほどと思い、私も計算を試みてみたのが、間違いがあったら、指摘歓迎です。

 セシウム137半減期を30.1671年として、チェルノブイリ原発事故発生日の1986年4月26日から30年と0.1671年後というと、ちょうど0.1671は2/12=0.1666に近い数字であり、ほぼ30年と2ヶ月後ということになる。ざっくり2016年6月25日あたり、ということになる。

 しかし、多くのセシウム137が出現した日は事故発生時ではない、ということを考慮に入れないといけない。セシウム137はウラン235の分裂で生じる核分裂生成物で、ルビジウム95と共に生成される(ちなみに、ルビジウム95はいくつかの崩壊を経てモリブデン95になる)。ただし、ここで説明があるように、核分裂で生じるセシウム137はごく少数でほとんどは別の核分裂生成物が壊変してセシウム137となることが多いようだ。とはいえ、セシウム137になるまでの半減期は長くとも数分みたいなので、ここでは無視してよいだろう。

 とすると、ウラン235がいつ核分裂を起こしたか、その日付が問題となるわけだが、核分裂生成物ではないセシウム134と核分裂生成物から出来るセシウム137の比率が分かると、おおよその日付分布が分かりそう。セシウム134は核分裂生成物から出来るセシウム133が中性子を捕獲してしまって出来るので、セシウム134の比率が高いとより長く燃料が使用されているという傍証となる。

 というわけで、調べてみたところ、チェルノブイリ原発事故でのセシウム134と137の比率は0.55とのことで、だいたい1~2年程度、ということになるようである(この辺りの計算は正直理解が浅くようわからん)。

 ということで、おおよそ1984年のいつかあたりから1986年4月26日までの間に出来たセシウム137が放出されたとするとだいたい2015年ぐらいから2016年半ばぐらいに半減期を迎える、ということになる。そして、私の雑な計算によるとその期間の中間はだいたい9月あたりになるようなので、この記事を書いている10月14日現在で、チェルノブイリ原発由来のセシウム137は全体としていえば、すでに半減した、ということになるのではないか。

 もうちょい色々調べて精度の高い計算をしてみたかったのだが、実力不足でこれ以上は断念します。こういうの得意な人、どなたかやってくれないかなー。

「シベリア抑留」が記憶遺産になったことの是非はさておき、この悲惨な出来事についてもっと知ろうとするきっかけになればそれでいいのではないか

 「シベリア抑留」なども記憶遺産に 日本が申請という記事が出ていた。

いわゆるシベリア抑留などに関する資料は、旧ソビエト軍に連行されシベリアなどに抑留された人や、戦後、旧満州などから引き揚げた人、合わせておよそ66万人が京都府舞鶴市の舞鶴港に到着する船で帰国を果たしたことから舞鶴市が記念館を設けて保管しているものです。抑留中の体験を書き残した日記やスケッチのほか、帰還を待つ家族の手紙や引き揚げ船の乗船名簿など570点に上ります。

 ちょうど、9月5日のETV特集で「沈黙を破る手紙~戦後70年目のシベリア抑留」が放送されたのを録画していて、見ていた時だったので、このニュースはタイムリーだった。この報道だけでは、やや簡素に過ぎるので、自分の知る範囲で背景をメモしておきます。ちなみに、直リンはしませんが、この番組名で動画検索すると何か見つかるかもしれません。

 シベリア抑留の一般的事実についてはWikipediaの項などを参照してもらうとして、まずは番組で取り上げられたことで興味を引いた点を書いておくと、表題の「手紙」について、ETV特集の内容紹介には以下のように記述されている。

アメリカとの冷戦下にあったソ連が、共産主義のプロパガンダのために放送していたという国営ラジオ放送。そのラジオ番組を通じて、大阪に住んでいたひとりの青年と、抑留されていた元新聞記者とが偶然にもつながれ、700通にも及ぶ希望の手紙に結びついたのだった。

 戦後も非人道的抑留を続けるソ連を非難する声があがり、ソ連にはそれを軽減したい思惑があった。そうした中、ソ連の日本語プロパガンダ放送に従事させられていた元新聞記者の木村慶一さんが抑留者が無事に生きていることを伝えたいと提案し、1947年9月、抑留者の消息を伝えるラジオ放送が実現した。1日に4回のニュース番組の最後の5分間を使って、名前と住所が1日に60人ほど読み上げられた。

 この放送は日本でも聞くことが出来たようで、たまたまこれを聞いた大阪府守口市の坂井仁一郎さんが、当時まだラジオは誰もが持っていたわけではないため、抑留者の帰国を待つ家族の元には届かないだろうと考え、毎夜カタカナでメモをし、住所を調べ、家族に自費ではがきで伝えたのだという。

 当時、政府も傍受していたものの黙殺した。そうした中、民間人の2人の「伝えなくてはならない」という強い思いで、消息すらつかめない家族の無事をあの冷戦の時代に伝えることが出来た。

 そして、この手紙をきっかけにして、今、語らないとなかったことになってしまう、という危惧をもって、語り始めた方もいるという。

 シベリア抑留からの帰還者は、抑留中の思想教育で感化された方もいて、抑留者だったというだけで「アカ(共産主義者)」呼ばわりされることとなり、就職などで不利になることが多く、話しても得になることはなく、多くを語ることはなかった。また、戦争を命からがら生き延びたとはいえ、さらに、戦後もソ連兵に執拗に追われて撃ち殺されたり、シベリアでの過酷な生活で亡くなる方が続出し、そうした地獄のような日々を送ってきた人にとって、そうした体験を平穏に暮らす人に理解してもらうのは無理だ、との思いもあったという。

 放送では触れられていないが、シベリア抑留者の複雑な一面として、戦中の階級がそのまま抑留生活に持ち込まれたことから、上官との間で拭いがたい憎しみの情が生まれてしまった、ということがあり、それは今も残っているのだそうだ。そして、「赤に染まった」ことにしないと大変な目に合うことから、密告が横行し、人間不信が広がっていった。

 『帰還証言:ラーゲリから帰ったオールドボーイたち』という自主制作のドキュメンタリーがあり、上映会のお手伝いをしたことがあるが、証言者の皆さんは皆高齢化していて、次々に亡くなられているとのこと。語る機会がなかなかなかった帰還者たちにとっての「精神的支柱」にもなっている監督さんだが、そうした対立の和解はどうしても無理なようだ。

 映画の内容については、これだけ人の死が簡単なものなのか、というエピソードが次から次へと語られ、それが80以上の高齢の男性の独特の語り口で語られるため、生々しさが軽減されるが、壮絶な話ばかりで、圧倒される。自分の映像もそうだが、映像編集のプロではないため、どうしても「きれいに仕上がった」映像にするのに限界はあるが、この映画は内容がすごいので、長尺でも見続けることが出来る。

 私がシベリア抑留について最初に知ったのは「ある〈共生〉の経験から」の石原吉郎を通してであるが、香月泰男の絵画など、シベリア抑留生活を伝える作品が残されており、今回のことがきっかけとなって、より多くの人に戦争の悲惨さを後世に伝える、こうした作品がもっと知られるようになればそれでよいのではと思った。

スベトラーナ・アレクシェービッチがノーベル文学賞を受賞

 2015年のノーベル文学賞に『チェルノブイリの祈り』などで知られるベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが選ばれた。著作の多くは日本語に翻訳されており、今、新品は入手しにくくなっているようだが、直に増刷されることだろう。

 国内での報道では、毎年恒例の「村上春樹は受賞を逃した」の記事が多いが、氏の発言を報道しているところもいくつかあったので、ピックアップしておこう。

「母国とその文化への賞」=アレクシエービッチさんが喜び-ノーベル文学賞

「私ではなく、私たちの文化、歴史を通して苦しんできた私たちの小さな国への授賞だ」
「全体主義体制は妥協を強いるが、それに屈する必要はない」
「バレエや文学など人間的なロシアの世界は好きだが、スターリンやプーチン(大統領)は好きではない。彼らはロシアをおとしめてしまった」

 実際の記者会見では好きではない人の名前として「ベリヤ、スターリン、プーチン、ショイグ」を挙げている。ベリヤの残虐非道ぶりについては、Wikipediaのベリヤの項などを参照。ショイグはロシアで1994年から2012年まで非常事態相を務めた人物で、現在は国防相の地位にある人物。

 2011年4月に東京外大の沼野恭子教授の依頼で「チェルノブイリから福島へ」と題するメッセージを寄せた、という記事が中日新聞で出ている。

原子力時代 脱却すべきだ ノーベル文学賞作家 震災直後にメッセージ

 広島、長崎の後、チェルノブイリ事故後、人間の文明は別の発展の道、非核の道を選択すべきだったのではないだろうか?

 原子力時代を脱却すべきだ。私がチェルノブイリで目にしたような姿に世界がなってしまわないために、他の道を探すべきだ。誰もいなくなった土地、立ち並ぶ空き家、畑は野生の森に戻り、人が住むべき家々には野生の動物たちが住んでいた。電気の通っていない電線が何百と放置され、何百キロもの道はどこにも行き着かない。

 テレビをつけると日本からのリポート。福島ではまた新たな問題が起きている。私は過去についての本を書いていたのに、それは未来のことだったとは! 

(全文はこちらの下の方で読めます。)

 ノーベル平和賞候補にも名前が上がっているノーヴァヤ・ガゼータ紙のこちらの記事によると、政府からの祝福のメッセージについて、最初の記者会見の時点でモスクワの文化大臣からあったものの、ベラルーシからは来ていない、とのことで、ベラルーシに自分はいないがことく振る舞われている、としている。

 ただし、確認すると、一応、ベラルーシ大統領の公式サイト上では、こちらで祝福のメッセージが出されており、受賞がベラルーシとその人民に寄与することを望み、作家の健康と幸福、祖国ベラルーシのための新しい創作の達成を祈る、としている。さすがに無視はできないということなのだろうが、素っ気ないメッセージであり、通り一遍感は否めない。

 こちらで受賞後の最初の第一声の映像が見られる。ここでウクライナについて触れていて、祖母も母もウクライナ人で、ウクライナが大好きであり、ウクライナのマイダンに行って、天国の百人の写真の前では涙が出た、と当時を思い出したのか、やや声を上ずらせつつ語っている。

 ウクライナのポロシェンコ大統領もFacebook上で祝福メッセージを寄せ、「どこにいても、どんな言語で話し、書こうとも、ずっとウクライナ人のままだ!」と述べている。

Нобелівську премію з літератури отримала Світлана Алєксієвич, родом з Івано-Франківська.Де б ми не були, якою б мовою не говорили і не писали – ми завжди залишаємось українцями!Вітаю!

Posted by Петро Порошенко on 2015年10月8日

 スベトラーナ・アレクシェービッチ公式サイト(?)はおそらくこちらのようだが、連絡先はドイツの住所になっており、古い情報かもしれない。このサイトでは経歴や出版物についての情報が英語とロシア語で読めるようになっている。さらにこちらのbooksのページでは英語版やドイツ語版・フランス語版(ただし、一部だけ?)が読めるし、こちらからは「チェルノブイリの祈り」や「戦争は女の顔をしていない」などのロシア語原文がそのままPDFで読むことが出来る。

 私の場合、ロシア語はいくらか読めるとはいえ、読むのに日本語の何倍も時間がかかってしまうのだが、せっかくなので、翻訳の助けを借りつつ、少しでも原文で味わいたいところで……。

車検を受けたが、13年以上経過してて割増になってた

 昨日、車検を受けに行ってきた。かなり老朽化していることは分かっていたが、車を買う、というのは大変エネルギーのいる行為であり、ちょうどタイヤを新調したこともあって、乗り続けることにしたのだった。

 ただ、計算外だったのは、13年以上経過した車の場合、自動車重量税が割増になることで、同様に13年以上になると割増になる自動車税が今年5月時点ではまだ上がってなかったので、まだ大丈夫だと思っていたのだが、この間に13年になってしまっていた、ということなのだろう。(というか、そもそもこうして二重に課税されてる状況がおかしい、といえるのかもしれんが。)

 あと、私の住む滋賀北部は豪雪地帯であり、冬場は凍結防止用に通称「塩カル」(塩化カルシウムの略称。塩化ナトリウムや塩化マグネシウムも使われているらしい)が道路に盛大に撒かれるため、他のところよりもサビが発生しやすい、という難点があり、これも計算に入れておくべきだった。実際、素人の目視でも明らかにサビがひどい部分が何箇所もあり、あと2年何とかだましだまし乗ろうと思っているが、さらに費用が発生する可能性がありそうで頭を抱えている。こんなことなら、適当な中古車に乗り換えるのも手だった、と後悔先立たずの気分に陥っている。

 次の車は嫁さんの希望でマニュアル車にしようと思っているが、今や絶滅危惧種に近い状態らしく、日本ではMT車の割合が1~2%程度で、AT車がほとんどらしい。私は免許取り立ての頃から最初の2台はマニュアル車だったので、今でもマニュアル車の運転は苦にはならないし、むしろマニュアル車の方が好みだが、中古車を買うにしても、選択肢が少ない、というのはよいことではない。

 しかし、逆に言えば、選択肢が少ないということは無駄に悩まなくてもいい、とも言えるかもしれない。選ぶ、というエネルギーのいる行為を省けるので。私は今乗っている車を買ったとき、大変苦労した。この車の前は知り合いのお下がりで、選択の余地がなかったので、ある意味楽だったが、初めて中古車を買おうとして、その選択肢の膨大さに途方にくれた覚えがある。最初に入った中古車販売店で適当に買ってしまおうとしたところ、営業マンの目が「おー、こんな楽な客が世の中に存在するのか!」的な反応をしたため、もうちょっと悩んだ方がいいのか、と考えなおし、車に詳しい人に聞いたりして、車種を絞り込み、県内の中古車販売店をいろいろと見て回ったが、そうなると今度は希望にあうのがなかなかなく、結局、知人の知人を介して車のオークションで購入したのだった。あまり目が肥えすぎるのも考えもん、ということなのだろう。

 今にして思えば。、一度、ああいう経験をしておくと自分的にどの要素が重要なのかがわかってくるので、無駄な経験ではなかったと思えるが、大きな買い物なので、適当に決めるわけにもいかず、次の車検までにまたこの作業が待っているのか、と思うと、ああ面倒くさいなーと正直思う。車を買い換えるのは多くの人にとって楽しいことのようだが、私には苦痛でしかない。誰か適当なマニュアル車を安価に譲ってくれる人いないかなぁ。日本国内なら、旅行がてら取りに行きますので、ご自分でなくても知り合いで誰かおられたら、ご一報いただけたら幸いです(2015年10月3日現在)。