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「2022年フランスにイスラーム政権誕生」という設定の小説『服従』の感想(ネタバレ控えめ編)

 少し前から『服従』を読み始めていて、あと四分の一ほどで読了というところで、パリでの同時多発テロが発生したのだった。この小説内でも「フランス全土で二十数か所の投票所が午後早く武装集団に襲撃された」(p129)というシーンがあり、現実と小説が私の中で交錯している。

 この小説はフランスがイスラム化する様子を描いた作品、とのことで、近所の本屋にあったので、買ってみたのだった。本の帯には「2022年フランスにイスラーム政権誕生」とあり、中道右派と中道左派の間で揺れ動いてきたフランスにあって、政治的間隙をうまくついて、イスラム教徒である人物が大統領の座を勝ち取る様子が描かれている。

 とはいっても、この本を少し読めば分かるように、主人公の大学の教員としてのとりとめのない日常が主軸になっており、この辺りをそれなりにでも興味深く読めるかどうかが、この小説を最後まで読み通せるかどうかのポイントかもしれない。主人公はユイスマンスの専門家という設定なのだが、私はこの作家(?)についてほとんど知識はなく、また大学の教員の日常にもあまり関心もないため、途中読み進むのがしんどくなりそうだったが、日本でも大学の先生というのは雑用がやたらに多いと聞いていて、フランスでも日本と大きく事情は変わらんのだな、と思ったりしたし、家族がバラバラになっているフランスの現状はフランス的にはごくごく当然の帰結でそれをフランス人たちは積極的に受容していて、様々なパートナーと営む人生を楽しんでいるものと思っていたが、必ずしも皆が皆そういうわけでもなさそうだ、と思えるようになったのも、小説ならではの力といえるだろうか。

 家族、という観点はこの小説では重要なポイントになっていて、40台半ばという独身の主人公の年齢も話の流れにいくらか影響していると思う。

 現代フランス小説などほぼ読むことはないのだが、先日はエマニュエル・トッドというフランス人の本を読んだところであり、あちらはドイツとの関連であったが、こちらはイスラムとの関連が主軸に置かれており、フランスの置かれている現状の多面性を多少は理解したつもりになれた。

 作中、わりとよくフランス人ならよく知ってそうだが国際的には知られてなさそうな固有名詞(テレビ司会者その他)が出てくるが、ページ内に脚注があるおかげで、その固有名詞をもって何をいいたいのか、だいたいはつかめたかと思う。

 この前、トッドの本について書いたエントリー「今更ながら、ドイツと日本の類似性に関心が出てきたところ」でも触れたが、フランスは「家父長制」の名残のあるドイツとは違い、「結婚適齢期に達した子供は自律的な家族ユニットを築くのが当然とされた」とのことで、こうした家族の有り様はそう簡単に変わるものではないだろうが、カトリックの国らしからぬフランスにあって、社会情勢への不安などから宗教への回帰が始まり、「いざという時に頼れるのは家族だけ」というように、あの自由・平等の国フランスで家族の有り様が今後、変容していくのかどうか。もちろん、ことはそう単純ではないだろうが、キリスト教をバックボーンとして生まれた今の西欧的価値観の限界が見えつつある今、フランスがこれからどんな方向に進むのか、ドイツとはまた違った形だが、ヨーロッパの中心で何かが起こりつつあることを感じさせる。

(ネタバレ多め編につづく)

『日本の中でイスラム教を信じる』(佐藤兼永著)の読書感想文

 「日本人ムスリムの姿から、大切な「当たり前」を再確認する」 という記事が出ていた。この記事で言及されている本について、私も少し前に読んだところだったので、感想文を書いておきます。

 日本に暮らすイスラム教徒への取材が丹念になされていて、あまり実態が伝えられることのない日本人のイスラム教徒についても半分かそれ以上にわたって言及がなされていて、世界のイスラム教徒の多様性同様、日本国内の日本人イスラム教徒も日々イスラム法に則った厳格な生活をする方から、割りとアバウトな方まで多様である実態が描かれている。

 この本では日本在住のイスラム教徒の推定人数として11万人という数字を挙げているが、日本の宗教人口は二億人という数値もある通り、実態は不明というのが通り相場である。ただ、他の宗教とは異なり、イスラム教の場合、その多く(9割以上?)は外国人であり、日本人イスラム教徒は多くの場合、配偶者(主に夫)がイスラム教徒であり、結婚するときに改宗(または入信)することが多いとされている。また、イスラム教徒の場合の特殊事例として、日本国内だと「イスラム教=テロ=怖い」というイメージが流布されており、以前、ウィキリークス経由で漏れたように、公安がその人がイスラム教徒というだけで監視対象にするような社会であり、無駄に誤解される恐れがあるので、隠れキリシタンならぬ、「隠れムスリム」(女性の場合、「隠れムスリマ」)がそれなりの数いると思われるが、日本人イスラム教徒はざっくり1万人程度ではないかと言われる。

 その中でもカップルいずれもが日本人というのは、かなりの少数派だろう。この本の中ではそういう少数派の話も出てきて、日本の特殊事情が垣間見え、興味深く読んだ。以下は、日本人カップルが子どもの出産時に医師から言われたことに言及している箇所である。

「『おめでとう』とか『頑張ったね』とか、ねぎらいの言葉は何もありませんでした。『この子も大きくなったらイスラム教徒にしちゃうの? 可哀想ね』と言われ、ほんと唖然としました」

 これほどの例がゴロゴロしてるわけではないだろうし、この本でも「宗教を理由に実生活であからさまな差別や偏見にさらされた経験があるという人は、意外にも少ない」と述べられているが、相手がもしかしたら偏見を持っているのではないか、ということで、注意しているという日本人イスラム教徒の話も紹介されている。

 その続きで、イスラム教への偏見でしばしば言及される一夫多妻制についても述べられていて、これもそれに対する説明でしばしば述べられる通り、複数の妻を平等に扱えないのであれば、一夫一婦が推奨されることが紹介されている。

 ついでに述べておくと、コーランでは「孤児」の扱いの句の中でこの一夫多妻について書かれており、そもそも結婚全般には適応できない、とする意見もある。そういう中で、この句を「都合よく」解釈して、公平に扱うつもりもないのに、複数の妻を持つムスリムがいるのも、どうやら事実のようであり、そういう部分をことさらに強調してイスラム教に対する憎悪を助長する一群もいるようだが、どんな集団にも善き人と悪しき人がいるわけで、そういう面を取り上げて揚げ足取りをするのもどうかと思う。

 本の話に戻ると、日本人ムスリマでちょっと強烈な言を吐く方が出てきてて、イスラム社会で非常に重要な役割を果たしているイスラム法学者について、学識は備えているのだろうが、人間としてのバランス感覚に欠けているように思えるとして、以下のように言う。

「『お前の考えに従えるか、クソじじい』って感じですよね。でも、それホントの気持ち。『たとえ何百年の歴史があろうとも、本に埋もれた本の虫の言ったことなんか(現実の)世界とちっとも関係ねーんだよ』と思えるようになった」

 もっとも、この言を述べた方はイスラム教について、神に対する見方とか、神の教えに近づくやり方がいくつもある中で「割といい線いってんじゃないの」と述べ、さらにイスラム教に助けてもらったことから、ムスリマであることは死ぬまでやめるつもりはないし、「法学者の見解はイスラム教の解釈のスタンダードとして必要だと考えている」ともあり、著者もそういう姿を通して「ものすごく考えて、自分で一個ずつ答えを出してきた」ことでたどりついた境地だと述べている。

 こうした意見は女性側から出されることが多いようで、『イスラーム化する世界』という本で知ったのだが、アメリカでは知る人ぞ知る存在で、論争の多い著作「クルアーンと女性」という本を書いたワドゥードというアフリカ系アメリカ人フェミニストはコーラン解釈の男性中心性とアラブ中心性を批判している。

 氏が依拠するのはファズルル・ラフマーンの「二重運動」という解釈理論で、コーランでは一般的法則はあまり見られず、当時の個別具体的な事柄への言及が多い、として、先の著作から引用すると

そこで必要なのが、二つの運動であるという。「第一の運動」は、クルアーンで述べられている具体的な事柄から、当時の社会状況を考慮しながら一般的法則へと移す「運動」である。そして「第二の運動」とは、この一般的レベルから、現在の社会状況を考慮しながら、具体的な立法作業に戻るという「運動」であるという。(P66)

 こうした二重運動を経て、コーランの意図を抽出し、個別事例に適用していく、というもので、コーランの時代のアラビア半島の家父長的要素を削ぎ落とすことで、様々な社会の文脈に適応できるようになるのだとする。

 さらに、氏は踏み込んで、解釈には個人のバックグラウンドによる影響を取り除くことは出来ないとする立場から解釈に個人見解を認める方向に向かっているらしいのだが、この著作の日本語訳は出ておらず、私はなんともよくわからないので、この辺りで留めておく。

 イスラム教が北アフリカから東南アジアの多くの地域で信仰されていることは知られているが、例えば、国連五大国の各国でもイスラム教と決して縁遠いわけでない、というのは意外と知られていないのではないか。アメリカの場合だと、奴隷として連れて来られたアフリカ人の多くがイスラム教徒だった可能性がある、とのことで、マルコムXがイスラム教に回帰したことが知られているし、ロシア(旧ソ連)は言うまでもなく、多くのイスラム教徒が居住している。中国も同様で、最近よくニュースで出るウイグル人以外でも回族などイスラムコミュニティがあるようで、ヨーロッパの大航海時代に先駆けて中国からアフリカまで到達した鄭和もムスリムだった。フランスは北アフリカ移民が多く、シャルリー・エブド事件が発生したわけだし、イギリスも5%程度はイスラム教徒だとされ、ジハーディ・ジョンと呼ばれる青年が育ったロンドンでは9%がイスラム教徒とも言われているようだ。

 元の本の紹介からは大いに脱線したが、こうした国々同様、日本にイスラムが根付く可能性については、小室直樹氏が『日本人のためのイスラム原論』で述べていた言を借りると、こういうことになる。

「なぜ、日本人はイスラム教の教えに感化されないのか」「答えは規範なのである。つまり、日本人とは本来、規範が大嫌いな民族なのである」「だからこそ、無規範宗教のキリスト教は入ってこれたが、規範だらけのイスラム教は受け付けられなかった」

 ちなみに、小室氏は様々な宗教を研究した結果、入信するならイスラム教だというほど、その教義の「出来の良さ」を賞賛している(実際には入信してないけど)。

 キリスト教だとカトリックに対するプロテスタントの対抗運動が出てきて、ウェーバーが述べたように資本主義の精神が醸成され、今、主にキリスト教をバックグラウンドに持つ資本主義体制の社会が栄華を誇っている(ように見える)わけであるが、かつて、私が外大生の時にアラビア語学科の人が言っていた「終わっている」イスラム教圏も、もしかしたら、そうした運動を経て、再び栄華に包まれる可能性はあるんじゃないか、と思ったりすることがある。2100年には宗教人口でイスラム教徒の数がキリスト教徒の数を抜いて、世界一となる、という予測も出ており、中国が名実ともに大国となった最大の理由はなんだかんだいって人口であるわけで、人口というファクターは侮れない。

 日本もキリスト教がバックグラウンドにある今の「グローバル経済」社会とは相容れない国であることが少しずつ見え始めているように思っているのだが、どうだろうか。ただ、リアルに考えると、21世紀中はそういうことにはならず、まだまだアメリカの世紀が続くような気がするが、こうした転換期にあって、イスラムの視点で再考してみるのも、違った見解が得られて、より深みのある視点が得られるのではないだろうか。