「シャルリー・エブド」襲撃事件で思ったこと

 さて、今日は朝から赤子の世話係でうんち処理や洗濯食器洗いをし、離乳食を食べさせたところ。せなあかんことが山積みだが、今回のフランスでの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件で思ったことを少し書いておきます。

 あまり今回の件についての言説を追ってないので、その背景などはよく知らないのだが、一般論として、たまたま目にした酒井啓子氏の「嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界」内の以下の様な発言に同意する。

 今回の件は世界中で話題になっているが、日本でもかなり話題になっていることに個人的にはやや驚いている。十字軍からの犬猿の仲で、さらに、仏テロ連鎖:ユダヤ社会衝撃 イスラエルへ「脱出」加速も というような報道もあり、一神教のバックボーンがない日本ではなかなか理解が難しい面があるはずなので。先日、祖母の法事でご縁さんが「実は浄土真宗も一神教的なところがある」みたいなことを言ってて、必ずしもないとは言い切れないのだけれども。

 日本でも同様の事件は過去にあり、例えば、風流夢譚事件(嶋中事件)というのがあった。私はかつて作者の深沢七郎の本を愛読していて、『風流夢譚』を読んでみたくなり、掲載誌「群像」を図書館で閲覧し、すべて模写したことがある。(今なら電子書籍で読める)。

 作品自体は私は正直なところ好きではないが、この事件では、無関係である中央公論社社長宅の家政婦が亡くなっており、事件後、深沢七郎自身も農場にすっこんだりし、また、天皇への言及がしにくい状況が出現した。

 思うのは、表現の自由を根拠に自分が大事にしてるものにケチをつけられることは許容するから、他の人も許容しろ、というのをすべての人に求められるのか、ということで、世の中には様々な思想的宗教的背景を持つ人がおり、現実にそうした「触れるとヤケドをする事柄」がある以上、そうした表現を一定数のスタッフを抱える組織で商業ベースでやることに異を唱える人は世の中がどれだけ進んでも一定数はいるので、そうした表現に踏み込む場合、そうした作品の発表の仕方は、今だとAmazonで個人で書籍化したりもできるわけで、そういう方向性の模索があってもいいのではないんだろうか。今回、編集長は強い意志を持って作品を掲載していたようだが、結果として、たまたま出入りしていたような人も亡くなっているようだ。実際上、個人でやっても「影響力」という点などで「見劣り」するので、どうしても組織を絡めてやりたい、ということなのだろうか。

 あと、フランスにはセリーヌという作家がいて、彼の第一作「夜の果ての旅」は日本でも生田耕作による翻訳がよく、私は繰り返し読んできた本だ。この作品は第一次世界大戦に巻き込まれて戦争に参加していくシーンから始まり、彼が戦争の本質を理解していることは本を読めば自明なのだが、彼はその後、激烈な反ユダヤパンフレットを発表し続け、対独協力者として、流浪の旅をすることになる。例えば、『虫けらどもをひねりつぶせ』という本があり、日本では国書刊行会より出ているのだが、なんとフランスではこの本は刊行されていないらしい(最新の状況は知らない)。こうした、事実上の「発禁本」があるフランスで「表現の自由」というときのダブルスタンダードは意識しておきたいところ。

 ちょっと、赤子がグズりだしたので、ひとまずこの辺で。