「戦争」タグアーカイブ

「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の感想文です。学童集団疎開について、いじめ都市と農村を題材に書いてきましたが、その他、個人的に興味を引いた点をあげておきます。

 学童集団疎開は実際に実施される前から話は出ていたが、著者によると「都内30万の学童を収容できる宿舎は絶対にありえない」「短期間中に輸送できる能力を、現在の国鉄がもっているはずはない」とのことで、現実的ではないだろう、という見通しが現場では立っていたようだ。それが実施されたということは、逆に言えば、1944年夏頃にはそれほど戦局が悪化していた、ということになるのだろう。

 集団疎開は引率教師にとっても大変な負担で、「自分の担任児童の大部分が集団疎開するというのに、自分だけ学校に残留するということは、まったく意味のないことであったが、家庭の事情、身体的故障などで、参加できないということも当然ありうることだし、ことに家庭をもっている女教師にとっては、まったく不可能なことであった」とあり、担任教師が同行できない場合もあったことが伺える。

 児童にはそれぞれ注意すべき点があって、担任であれば、それを把握できているが、担任でないものは、一からそれを知らなければならない。私自身、子どもだけを預かる保養プログラムに支援スタッフ側で参加したことがあるが、関係性が出来上がるまでそれなりに時間はかかるし、何か問題が起きたときに親の協力を得られない、というのは、大変大きな困難で、担任が参加できなかったクラスの児童はただでさえ大変だった集団疎開で、さらに大変な目にあったことだろう。

 今回の福島第一原発事故の場合でも飯舘村の方々が飯坂温泉などの旅館に一時的に滞在された例もあったが、この本のケースでも疎開先が温泉旅館となった。寒い長野の冬にいつでも温泉に入れる、という良い面もあったが、「学童集団疎開は徹底的な欠乏の生活であった。食糧難が最後までこの生活につきまとい、食べ盛りの子どもたちを悩ませ続けた」「金にあかした山海の美膳が子どもたちの目の前を素通りする刺激は、たえ難いものがあった」とあり、さらに、配給品を巡って旅館側への不信感が募っていったこと、旅館に宿泊する軍人たちが子供をからかったり、どんちゃん騒ぎをして、猥雑な歌をうたったりすること、などの理由から「温泉旅館は教育の場として不適格」であると判断し、一度身を落ち着けた場所からの再疎開は普通は億劫になるものだが、さらに山奥の農村の寺への再疎開を歓迎すべきものとして受け入れられている。

 当時は日本中どこでもそうだったようだが、蚤・虱の問題は解消のしようがなく、子どもたちは常にボリボリと身体をひっかいて、安眠もかなわない状態だったらしい。著者は蚤退治の薬を買ってみたもののまったく効果はなく、「蚤取粉と称するもののインチキぶりに、これほど腹がたったことはなかった」「わたくしはこの時ほど、日本という国の非科学性、非文明性をうらめしく思ったことはない」と書いている。

 大事な子どもを預かる立場というのは、大変な精神的負担があり、特に冬期に心臓麻痺を起こして死亡した子供が一人出てしまい、その後はさらに子どもたちの健康維持に対し神経質になったとある。しかし、病気が治らず医師に受診しても、こんなのは病気でないと言われる始末で医師に頼れない状態だったらしく、しかも栄養も十分でないため、大変困難な状況だったようだ。

 病気の場合、やむなく親に引き取りに来てもらう、ということになっていたようだが、それを「利用」して病気になったことにして、どこからか診断書を入手してきて子どもを引き取る親も続出したとのこと。親の言うことを聞いてそのまま帰る子もいたが、頑として戻らないという子どもも数多くいたとあり、理由として著者は、子どもたち自身が自らを精神拘束していたためではないかと推測している。

 この本で印象深かったエピソードとして、上級生のいじめに耐えかねたある児童が非常によく出来た作り話をして、東京に単身で逃げることに成功したという話があった。作り話の内容は、知らないおじさんが親に頼まれて迎えに来たのだと自分を連れて行ったが、行き先が名古屋だったので不審に思い、とっさに逃げ出して東京方面の電車に飛び乗って振り切った、というのもので、細部がよく作りこまれていて、当初、校長をはじめ、皆その話が本当だと思ったが、作り話だと後にわかったそうだ。

 また、1945年3月に入学試験準備のために6年生を東京へ返したことで、爆撃にあって死亡した子どもが多数いたことも述べられており、こうした時局であっても、難しい判断を迫られ、1945年8月の終戦まであと数ヶ月だと分かっている今の目から見ると、返すべきではなかったということになるだろうが、いつ戦争が終わるかまったく見通しの立たない中で判断で、当時の感覚ではそれが子どもにとってよかれと思ってなされた選択だったのだろう。

(つづく)