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オデッサのユダヤ博物館

 前回前々回のエントリーでオデッサのユダヤ系の血を引くボブ・ディランとバルバラのことを書いたので、ついでに以前訪れたことのあるオデッサのユダヤ博物館の記事を書いておきます。

 オデッサにはかつてこの辺りで最大のユダヤ人コミュニティが存在していたが、戦中戦後を経て、今はかなり少なくなっている。ただ、今でもオデッサの街の雰囲気はスラブ人以外にもギリシャ系その他、黒海周辺の系統の人々も多数居住しており、他のウクライナの街と比べるとアジア系の容姿で街を歩いていてもジロジロ見られることが少なく、港町らしい開放感がある。

 以下、当時の写真に沿って、コメントつけておきます。

ユダヤ博物館の表札
ユダヤ博物館の表札。通りから見ると非常に小さくてまず読めない。粗暴な集団避けなのだろうか。
オデッサ・ユダヤ歴史博物館の入り口
オデッサ・ユダヤ歴史博物館の入り口。鍵がかかっているので、電話等で来館の意を伝える必要がある(今もそうかは不明)。
オデッサのユダヤ人の数と割合
オデッサのユダヤ人の数と割合。数では1912年の20万人が、割合だと1920年の44.4%が最大。1939年から1959年までに半数になり、その後、さらに減り続けている。戦後についてはイスラエルへの移民によるものだと思われる。
20世紀初頭のヨーロッパ各都市のユダヤ人の人口
20世紀初頭のヨーロッパ各都市のユダヤ人の人口。多い順にオデッサ(14万人)、ワルシャワ(13万人)、ベルリン(9.4万人)、キエフ(8.1万人)、ビリニュス(6.4万人)、パリ(6万人)。
1941-1944の間の死の収容所とゲットー(ドニエストル川左岸とオデッサ、ヴィンニツアの一部)
1941-1944の間の死の収容所とゲットー(ドニエストル川左岸とオデッサ、ヴィンニツアの一部)
ユダヤ博物館展示品
ユダヤ博物館展示品。実際にかけてもらえる。
ユダヤ博物館にて記念撮影
ユダヤ博物館にて記念撮影
オデッサのシナゴーグ近くのユダヤ料理店にて
オデッサのシナゴーグ近くのユダヤ料理店にて

 (上記の情報は2014年9月時点のものです。)

もし、ボブ・ディランが本名のユダヤ系の姓と類推される可能性のある「ジマーマン」で活動してたとしたら

 ノーベル財団がボブ・ディランのノーベル賞受賞講演を公開した、というニュースが出ていた。これで晴れて、賞金1億円を受け取れるとのこと。

 今、ちょうど、スコセッシの『No Direction Home』を少しずつ見てるとこなんだが、ボブ・ディランが本名のZimmermanからDylanに改名した時の逸話があって、リアム・クランシーというミュージシャンが冗談で「ディラン・トーマス、ハワユー」って呼んだら、彼はハッとした顔になった、という。ディラン・トーマスはウェールズの詩人。

 この映画のインタビューで本人は例の調子で「ある日その名が不意に浮かんだ。それしか言いようがない」などというが、トニー・グローヴァーというフォークシンガーによれば「人種の問題で名を変えたのかもしれない。ミネアポリスには反ユダヤの長い歴史があったからね」とのこと。

 彼のルーツは、ディランの言葉によれば「祖母はロシア南部の港町、オデッサからアメリカにやってきた。(中略)もともと祖母はトルコの出身で、対岸にあるトラブゾンから黒海(中略)をわたってオデッサにやって来た。」とのことで、Wikipediaによると祖父はリトアニアにいたらしく、父母も「小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった」とのこと。

 もし、ジンマーマンのままだったらどうなっていたか。名前からユダヤ人である可能性が想像される場合、その名前が背負うものに過剰に意味づけされて、今とは違った形で受容されていたのではないか。作品が作り手の意図しない形で受容されることはよくあるが、ディランの場合、それはよい方向には向かなかっただろう。というわけで、ボブ・ディランの場合、改名したことでそうした受容のされ方が回避されたといえるので、改名してよかったということになると思う。

 私も珍しい姓で生まれたが、ちゃんと読める稀ではない名前になって、気分的にちょっと楽になった。ルーツは個人にとって大切なものだが、時に鬱陶しくなる場合もある。ボブ・ディランは本名もディランに改名したらしいが、自分で姓をつけられる、というのも面白い文化で、長い目で見ると、それが認められる国が増えていくんじゃないかと思ったり。英米法の国だと改名の規制が緩めらしく、大陸系の国は厳しいらしい。日本もこういう面では大陸系同様やけに保守的なんであと何世代か経ないと無理かな。

オデッサの悲劇の現場となった労働組合会館

 2014年5月2日、オデッサで痛ましい事件が発生し、数十人が死亡した。仕組まれただの何だのといろいろ言われているが、地元の人に聞くと、サッカーファンが大暴れして、50人ばかり死んだが、今のオデッサは平穏そのものだ、とも言われたりして、正直よくわからない。しかし、ここで多くの人が亡くなったのは紛れもない事実だ。

オデッサ駅

 オデッサには別目的で来たのだが、そういえば、事件のあった場所はどの辺りだったのか、と聞いてみたところ、駅のすぐそばだということが分かり、訪れてみた。上の写真はオデッサ駅で、駅の向こう側(駅の東側)に見える木々のあるところがクリコボ・ポーレ(Kulikovo Pole)と呼ばれる広場になっていて、その中心に労働組合の建物がある。

オデッサ労働組合会館・遠景

 広場では散歩やジョギング中の人が行き来し、古本を売っている人たちの一角があるなど、平穏な雰囲気の中、警察官が何人も警護する建物があり、それが労働組合会館だった。

オデッサ労働組合会館・正面

 警察官が数メートル置きに配置され、さらに建物を取り囲む塀が設けられていて、中には入れない。

オデッサ労働組合会館・花壇と募金箱

 会館の前には花壇が設けられ、その中に募金箱が、負傷者のため、管理のため、残された家族のため、とそれぞれ名目別に3つ置かれている。

オデッサ労働組合会館・黒焦げの壁と割れた窓ガラス

 黒焦げになった壁が生々しい。1階の窓はすべて割れて目張りされているが、2階は目張りされず割れたままになっている箇所もある。

オデッサ労働組合会館・焼け焦げたウクライナ国旗

 屋上の焼け焦げたウクライナ国旗もそのままになっている。

オデッサの悲劇・死亡者リスト

「2014年5月2日テロによる死者の暫定リスト。死者はすべてオデッサ住民。(死者の近親者や知人からの情報提供による)」という文言が書かれている。56人目までが印刷され、さらに書き足せるようにスペースが空けられていて、手書きで57人目が追加されている。多くが焼死と中毒死だったようだが、窓からの転落死や銃撃死などもあったとある。

オデッサの悲劇・メッセージと詩

 「5月2日を記憶に留める」と題し、いくつものメッセージや詩が寄せられている。

オデッサの悲劇・「忘れない 許さない」という詩

 「忘れない 許さない」という題の詩。(ちなみにメッセージや詩のほとんどはロシア語で書かれている)

 ここは駅のすぐそばであるが、観光客で賑わう繁華街からは幾分離れている。ちなみに私がオデッサを訪れたのはこれで2回目だが、私がウクライナで唯一受けた暴力は前回滞在時のオデッサで、ちょうど駅前のこの広場辺りだった。理由は分からないが、一発背中に蹴りを入れられ、咄嗟に振り返ったものの、夜ということもあって人影に逃げられたらしく、喧嘩などにはならなかったのは幸いというべきか。

 オデッサは港町だけあって、いくらか南部的というか、ウクライナの街の中でもよりカオスな雰囲気があるが、リヴィウと共にウクライナの中でも観光地として楽しめる街で、治安も悪いわけではないので、ウクライナに来る機会があれば、キエフ以外のこうした街も訪問されることをおすすめします。