今日、録画してたけど全然見られてなかった震災関連番組をいくつかながらで見ていたのだが、その中で津波被災地で家族全員助かった方の話がとても印象に残った。その方は周囲に親族を亡くした方が多くいる中で自分は親族が無事だったこともあり、「くよくよする資格なんてない」と思っていたとのこと。しかし、津波で避難していたときに目にした様々な出来事を誰にも話せずにいて、流される人たちを目にしながら婚約者がいたこともあり助けられなかったことについて、「何もしなかったことがつらい」のだと。
番組内で言及されていたように、阪神大震災の場合だと4年目にはすでに仮設も解消しかけていて、復興が進んでいたが、東北の被災地は4年目になっても復興が見えない状態が続いている。原発事故の影響もあるだろうが、やはり非常に広範囲であり、さらに経済の状態も悪く、また、安全への配慮も津波被災地の場合、より複雑で大変ということもあるだろう。さらに過疎の問題が元からあったことも関係があるだろう。
阪神大震災のときとの比較に関していえば、ボランティアについて『東北発の震災論』に興味深い指摘がある。多くのボランティアがかけつけた点では同様だったが、阪神では前例がなく、現場での創意工夫の空気があったが、東北の場合は阪神大震災という前例があり、そのことがよくも悪くも、パターン化・マニュアル化を招いた、という指摘である。また、遠方からの団体は組織化されていて、人材、資金、知識が豊富であるため、地元地域の自主性が発揮されず、「資源の豊富な中心集団に対する、地元の小集団の遠慮や萎縮が見られた」というのである。
確か2007年だったと思うが、山形ドキュメンタリー映画祭の会場でNPO法人化についての公開討論会が催されていて、私は事情もよくしらないので、ただ客席で聞いていたのだが、壇上にいる関西のとある映画館主他、関西弁も飛び交う中、東北の大学の方が言われた「関西など外部の方が大変だ、大変だと言うのはわかるが、東北には東北のリズムがあり、もう少しゆったりとしていてもいいのではないか」という趣旨のことを述べられたことがとても印象深く、今も時々思い出すことがある。
福島に何度か行っていた頃、とある雑誌に県民性の特集があって、福島のページを開けてみたら、「関西人が苦手」と何度も繰り返し書かれていて、福島で関西弁で話すことに、なんというか、居心地の悪さを感じていたこともあり、思わず苦笑してしまった。
東北と関係の深い都会といえば、いうまでもなく、東京・首都圏である。私は生まれてからほぼずっと関西に住んでいるが、関西で東北出身の方に出会うことは、仙台の方を除くと稀であり、恐らくその逆もまた真なのではないかと思う。なので、東京で会う関西人の印象がそのままその方の印象になっているんじゃないか、と思ったりしたが、東京に住んだことがないので、この当たりはよくわからない。
あと、東北と関西でいうと、軍隊で屈強だったのは東北と九州で、関西はひ弱だった、という話があり、真偽の程は知らないが、関西人のずる賢い感じが出ているエピソードでさもありなんな話のように見える。
事程左様に、東北と関西は性質が真逆で、私は福島にいて、そのことを意識せざるを得なかった。自分が福島に行くことで何か福島の役に立っているのか、ただ引っ掻き回しているだけなんじゃないのか、と。やがて、個人的な事情もあり、福島から足が遠のくことになってしまった。今も時間とお金が許せば、行く用意があるが、いかんせん、関西・東北間は日帰りでいけるような距離ではなく、子育て中で平日は会社勤務であるような人間が気軽に通うのはちょっと難しいというのが実情である。
そうした中でヨソモノとして出来る事は何か、と考えているが、あまり不用意に事情もわからないのに、福島について何かを述べることは出来ない、という遠慮もあり、ある時期から積極的に何かを述べることは避けてきたが、そういう風に腫れ物に触るように避けるのも風化の手助けをすることになるだけかもしれないので、福島の人から、お前黙れ、と言われない限り、時々にでも言及ぐらいはしていこうと思い始めたりしているところである。
以上、少々「ナイーブ」に過ぎるかもしれないが、ここのところ感じてたことをつらつら書いてみました。