「身辺雑記」カテゴリーアーカイブ

そして、ピロリ菌除去に成功

 先ほどの記事「初めて胃カメラを飲む時のコツ」の続きです。


 胃カメラを飲み、ピロリ菌の検査をしたところ、ピロリ菌がいることがわかり、先日、投薬治療を実施した。1週間3種類の薬と胃薬を飲み続け、幸い一度も飲み忘れることなく、終えることが出来た。

 最中は下痢気味になる人もいるようだが、そういうことはなかったし、副作用もほとんどなかったが、味覚障害気味になったような気がした。あくまで気がした程度であるが。

 これで除去できる可能性は8割前後らしいので、ダメならまた別の薬を試すことになる、とのこと。これで95%は治療できるみたい。

 そして、しばらく後、再度ピロリ菌検査をして、無事、一発で除去に成功した。

 昔からストレスを受けるとまず胃に現れるタイプなのだが、ピロリ菌除去でそういうことがなくなるのかどうか。すでに実施後、数ヶ月経過したが、胃がキリキリ痛むことは少なくなった気はする。特にここ数ヶ月は仕事上で納期ギリギリのスケジュールで結構なストレスがかかったのだが、ひどい胃痛に見舞われることがなかったのは、ピロリ菌除去が効いたのかどうか。最近は、その都度ストレスを小口に発散するようにしていて、ストレス発散が上手になった、というのもあるので、なんともいえない。あと、相変わらず、消化の悪い食べ物を多食すると、胃もたれはするし、胃が快調になった、という実感は今のところない。

 適度のストレス耐性はシビアな現代社会を生き抜くのに必要な属性であり、ピロリ菌除去で胃痛が収まれば、と思っていたが、もう少し様子見、ということで。

初めて胃カメラを飲む時のコツ

 以前、「かなり久々の健康診断を受けに行政の健診に行ってきた」 というエントリーをアップしたが、その後の結果をほぼ書いておきながら、投稿してなかったので、アップしときます。


 結果は胃がん検診で「胃底部に影が見える」とのことで、要精密検査となり、近くの個人医院で胃カメラを飲むことになった。

 決して健康というわけではないのだが、今まで入院をしたことはなく、内臓関連でこうした精密検査を受けるのは初めてで、44歳になり、寄る年波を感じないわけにはいかない。

 事前に経験者に聞いたり、ネットで調べたりして、「喉を通るときにオエッとなるがそれ以外は昔に比べたら楽」とは聞いていて、実際、その通りだったが、胃の中を調べてる時も空気を入れられたりすると胃でそれが感じられるので、何とも言えない気持ち悪さがあった。

 ただ、人づてにあそこに行くとよい、と聞いて訪ねた医院の熟練の医師だったこともあり、ヨダレはダラダラ垂れ流し状態となったが、涙はほとんど出ず、なんとか耐えることができた。5分程度だったと思うが、その時間は大変長く感じた。考えることといえば、いつ終わるかだけで、今の胃カメラは細くなってるから楽なもんだ、と聞いていたものの、私には十分しんどかった。

 結果は幸い、潰瘍やがんは見つからず、慢性胃炎という診断がついた。初めて見る自分の胃の様子は多少まだら模様になっていて、慢性的に胃炎が起きていることが示されていた。昔からストレスを感じやすい性格なので、ストレスの少ない仕事をしたいものだが、そんな仕事などそうそうあるものではなく、今後もずっとこの症状と付き合っていかないといけない。

 最後にいろいろ調べて実感として効いた「初めて胃カメラを飲む時のコツ」をあげておくと、

1)力まない
力がどうしても入ってしまうが、自分がプリンになったイメージでダラ〜ンとすることを意識し続けること。そして、最中はマウスピースを咥えるのだが、その際、決して歯をくいしばらないこと。

2)ヨダレはダラダラ垂れ流す
途中でつばを飲み込むと気管に入って咳き込むことになり、検査どころではなくなる、という注意が自分的には一番の恐怖だったが、無事乗り切った。コツは口から流れるように寝転ぶ姿勢を調整して、口の中に貯めないこと。

3)飲み込む練習をしておく
ご飯を飲み込む感じ、と言われても、どうやって練習せえちゅうねん、って感じだったが、一発で飲み込むことができたのは、何回もイメージトレーニングしておいたのが効いたからではないかと思っている。とにかく喉の奥でゴックンと飲み込む練習をしておいて損はないと思う。

 以上、もし初めての胃カメラでビビっている方がおられたら、参考になれば幸いです。

多分、十数回目の「映像編集に着手するぞ」宣言

 去年の後半からずっと残業早出に休日出勤までして対応してきたプロジェクトがなんとかリリース出来る見込みとなり、気持ち的には幾分余裕が出てきた。今の今は確定申告に着手出来てなくて、さらに次の契約も決まっていないので、まだまだ追われている感はあるが、もう少しするとまとまった時間が取れそうなので、その時間をどう使おうか、と考えているところ。

 溜め込んだ映像編集もあるが、映像だけでなく、その映像とともに、何らかの文章も同時に残していこうと思っているところで、今、わたしの溜め込んでいる映像には、大きく「チェルノブイリ被災地関連」「福島関連」「その他」とあり、自分としては同時並行で進めていきたいぐらいなのであるが、やはり基本的には撮影順に、つまりチェルノ関連から着手しようとしているところ。

 ただ、インタビューしたものや、無理を言って撮影させてもらったものも多く、そういうのもできるだけ早く編集し、何らかの形にしておきたいとも考えていて、あまり厳密に撮影順を守らずに進めようとも思っている。時間がかかるやつは撮影順、その合間に短いのを、という感じになりそう。

 映像編集にはまとまった時間が必要で、自分自身の怠惰もあって、なかなか着手できなかったが、そろそろ着手しようと思っていますので、ここに宣言しておきます。

 ダイエットや禁煙は、公言してしまうと実現できる、というので、書いておきます。今まで何度も「やるぞ~」と宣言してきて、前言を翻してきたので、またゆうとるわぐらいに思っている人も少なからずおられるかもわかりませんが、どうぞ気長にお付き合いくださいますよう、よろしくお願いします。

ブログについて

 結局、3月に入っても忙しい日々が続いていて、今週も平日休みが取れなさそうで、諸々条件的には不利だが、自由を得るために正社員にならずにいるのに全然メリットを享受できずにいる今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今回も特に情報はないですが、時々、ブログについて何か書きたくなる病にかかっているので、うだうだと書いてみます。

 ウェブの記事などで、日常でちょっと面白い体験をしたら、SNSに投稿する、という流れになっていて、様々な交流も生まれてそれはそれで楽しいのだが、そろそろやめようかな、という人の話を見かけることがある。つまり、体験自体がサブになり投稿がメインになってしまうような本末転倒ぶりに対し、自制が働くということなんだろう。

 自分の場合、投稿が日常生活を侵食するような事態になることは311直後を除くとほとんどなかったので、そういうのはいらぬ心配なのだが、どちらかというと、もっといろいろ投稿したいのに出来ないでいるもどかしさみたいなのはある。

 こうして文章を綴るのは嫌いな方ではないのだが、いかんせん、なかなか時間が取れないし、そもそもそういう自分の諸々を公開することにどれほどの意味があるのか、とつい思ってしまい、筆不精気味になっていく、という負のスパイラルに陥りつつあり。

 私自身、割りとお役立ち情報系に弱く、ライフハック的なのが好みなので、そういうのを発信していけるといいのだろうけど、なかなかネタを思いついても、記事にするほどでなかったり、めんどくさかったりで、結局やらない、ってパターンになりがちで。

 特に得るものもないブログ記事を公開しても、何かの拍子に来てしまった人に申し訳ないという気にかられるわけだが、これも自分に言い聞かせるように言うのだが、いずれにしても、こうした発信は続けていく予定であるし、今のところ、大した情報も鮮度もないのが多いが、自分としては今後いろんな持ちネタを書いていくにあたって、文体練習とでもいうか、よい訓練になっているし、やはり公開することを前提で文章を書くのは精神衛生上良い、というのが今のところの結論だ。

 というわけで、読まされる方はたまったものではないかもしれませんけど、適当に気になる記事などがあれば、読んでいただければ、幸いです。

「シャルリー・エブド」襲撃事件で思ったこと

 さて、今日は朝から赤子の世話係でうんち処理や洗濯食器洗いをし、離乳食を食べさせたところ。せなあかんことが山積みだが、今回のフランスでの新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件で思ったことを少し書いておきます。

 あまり今回の件についての言説を追ってないので、その背景などはよく知らないのだが、一般論として、たまたま目にした酒井啓子氏の「嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界」内の以下の様な発言に同意する。

 今回の件は世界中で話題になっているが、日本でもかなり話題になっていることに個人的にはやや驚いている。十字軍からの犬猿の仲で、さらに、仏テロ連鎖:ユダヤ社会衝撃 イスラエルへ「脱出」加速も というような報道もあり、一神教のバックボーンがない日本ではなかなか理解が難しい面があるはずなので。先日、祖母の法事でご縁さんが「実は浄土真宗も一神教的なところがある」みたいなことを言ってて、必ずしもないとは言い切れないのだけれども。

 日本でも同様の事件は過去にあり、例えば、風流夢譚事件(嶋中事件)というのがあった。私はかつて作者の深沢七郎の本を愛読していて、『風流夢譚』を読んでみたくなり、掲載誌「群像」を図書館で閲覧し、すべて模写したことがある。(今なら電子書籍で読める)。

 作品自体は私は正直なところ好きではないが、この事件では、無関係である中央公論社社長宅の家政婦が亡くなっており、事件後、深沢七郎自身も農場にすっこんだりし、また、天皇への言及がしにくい状況が出現した。

 思うのは、表現の自由を根拠に自分が大事にしてるものにケチをつけられることは許容するから、他の人も許容しろ、というのをすべての人に求められるのか、ということで、世の中には様々な思想的宗教的背景を持つ人がおり、現実にそうした「触れるとヤケドをする事柄」がある以上、そうした表現を一定数のスタッフを抱える組織で商業ベースでやることに異を唱える人は世の中がどれだけ進んでも一定数はいるので、そうした表現に踏み込む場合、そうした作品の発表の仕方は、今だとAmazonで個人で書籍化したりもできるわけで、そういう方向性の模索があってもいいのではないんだろうか。今回、編集長は強い意志を持って作品を掲載していたようだが、結果として、たまたま出入りしていたような人も亡くなっているようだ。実際上、個人でやっても「影響力」という点などで「見劣り」するので、どうしても組織を絡めてやりたい、ということなのだろうか。

 あと、フランスにはセリーヌという作家がいて、彼の第一作「夜の果ての旅」は日本でも生田耕作による翻訳がよく、私は繰り返し読んできた本だ。この作品は第一次世界大戦に巻き込まれて戦争に参加していくシーンから始まり、彼が戦争の本質を理解していることは本を読めば自明なのだが、彼はその後、激烈な反ユダヤパンフレットを発表し続け、対独協力者として、流浪の旅をすることになる。例えば、『虫けらどもをひねりつぶせ』という本があり、日本では国書刊行会より出ているのだが、なんとフランスではこの本は刊行されていないらしい(最新の状況は知らない)。こうした、事実上の「発禁本」があるフランスで「表現の自由」というときのダブルスタンダードは意識しておきたいところ。

 ちょっと、赤子がグズりだしたので、ひとまずこの辺で。