「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の読後感想文。

 前回は学童集団疎開で発生したいじめの問題を主に取り上げたが、この本で私が興味深く読んだところは都会と農村を巡る部分だった。著者の浜館菊雄氏は1902年青森県生まれで青森の師範学校卒だが、1934年に東京へ移り、その後ずっと東京住まいで、主に音楽専科教師をつとめたと奥付にある。つまり、東京以外で生まれ育ち、東京に移って10年ほどでこの学童集団疎開に立ち会ったことになる。都会育ちではないため、都会に対し辛めの感覚を持っていた可能性はあるが、都会しか知らない人や田舎しか知らない人ならともかく、両者を知っている人は、双方の悪い部分も知っており、それを踏まえた感覚であるので、特に偏っているわけではないだろう。

 著者は最終章で学童集団疎開事業を振り返り、以下のように述べている。

 「とくにわたしくは、農村婦人会のかたがたの誠意と愛情を忘れることはできない。それはもっとも純粋なヒューマニズムの現われであった。わたくしたちは、副食物について、調味料について、間食について、万策つきた時は、この人たちの愛情、この人たちの母性愛に訴えるしかなかった。わたくしたちは、しばしばこの人たちによって急場を救われたのであった」

 疎開中、食料配給を待っていたのでは飢えるばかりであるため、荒れ地を開墾したり、馬も食べない毒草と地元で思われているギシギシという野草をみんなで集めて食べるなど、子どもたちを生き延びさせるため出来る事はすべてやったという感じだが、結局、どれも腹の足しにはならず、最終的には地元の方の好意に甘える以外に方策はなかった、ということだったようだ。

 もちろん、農村部の人々とて、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、それぞれが出来る範囲でしか出来ず、積極的に支援しなかった人の方が大勢であったろうし、農村部の人たちが素朴に全員善人だったわけでもないだろう。ただ、こうした難局にあって、人間性がモロに出る、という面はあり、都会の親御さんについて、著者は「疎開児童の父兄の態度、物の考え方は、じつに徹底した個人主義の現われであった。自分の子ども以外にほかを省みる精神的余裕はまったくなかった」と述べており、農村部の好意と好対照をなしていると言わざるをえない状況があったことがわかる。

 また、親であれば、自分の子どもと面会を希望するのは当然であるが、一度に全員の親が揃って面会出来るならともかく、そんなことは出来ないため、子どもへの悪影響が大きく、順番制となっていたようだが、「もぐり」で来る人が後を絶たず、禁令を破って、こっそり食料を渡す親が出たり、面会後、帰京して悪い噂を流す親も相当いたようで、著者は以下のように述べている。

「面会していった父兄たちの現地報告はきまって良くなかった」「その人たちの語るところは、流言となって広がるのであった。根拠のある話よりも、根拠のない話のほうがかえって真実性があるかのように伝わるのは、このような時局にありがちなことであった」

 こうした「もぐり」面会については教師の間で許可すべきでないと主張する強硬派もいたようだが、来た親を無碍に追い返すわけにもいかないので、本人に気づかれないように、寝ているところや、登校の様子を隠れて見る、ということで著者と親が折り合いを付ける場面など、毎日襲い掛かってくる難局を工夫して乗り切る様子が描かれている。

 また、通信の検閲が実施され、検閲というと、今や表現の自由を犯す悪いものの代名詞であるが、子どもが子どもの表現で実態とは異なる実情を述べることで家庭に不安を与えるのを防止する、という目的があり、これはこれで分からないではない。実際、ありもしないことを子どもが手紙で書いて問題になることが多かったため、検閲が実施されたようなのだが、「手紙を検閲して都合の悪いことを書かせない」との不信感を生んだようだ。

 都市部と農村部の子どもの違いについて、著者は「勤労作業の根底をなすものは、協力精神である。都会の子どもには、この精神がかけている。このような境遇におかれてすら、かれらに精神的な融和、団結ができなかった」と述べ、また「わたくしは村の子どもが、勤労作業中に疎開の子どもに示した心からの親切、同情の表われをたびたび目撃している」とも述べており、農村部と比較して、都市部の子どもがより個人主義的な行動を取っていたことが報告されている。

 私事にわたる話だが、都市部と農村部のこうした違いについて私が興味を抱いたのは、私の祖母が当事者として、このような狭間に立たされたことを話していたことがあったからだった。私の親世代は戦中時代をよく覚えており、子どものときから、さつまいものつるなどを食べてしのいでいたことをなどを聞いていて、農村部といえど、食料供出で多くを持って行かれてしまう中で、苦労していたことを聞いていたが、晩年の祖母の話によると、都市部の遠い親戚が子連れでやってきて、子どもがひもじそうにする姿を見せつけて、自分の子どもに与える食料もないのに、残り少ない食料を奪うようにして持っていった、ということがあったらしかった。その都市部の遠い親戚は戦前に法事でやってきたときに自分の「モダン」ぶりを自慢して田舎をバカにしていたらしく、その悔しさがあったようで、戦後、特に「あのときはおおきに」的なことをゆうてくるでもなく、音沙汰がなくなった、とも言っていたのだった。

 これは極端な例であるかもしれないが、そんなこんなで都市部の人が農村部に関わる問題に上から目線で口を挟むことに対し私は大変腹立たしく感じるようになってしまった。私自身もどちらかといえば、都市部の感覚強めの人間なので、こんなことを田舎側に立って述べる資格はないのかもしれないが、いざというときに都市部の人間はこうした行動をする、ということは、私の深いところに刻み込まれたようで、農村部を大事にしない人のことは基本的には信用できない。昔、大阪に住んでいた時、「この前、電車で滋賀に行ったけど、ずっと田んぼ田んぼ田んぼで田んぼばっかやな」と言われ、その「田んぼ」の言い方がいかにもバカにしきった言い方だったので、カチンと来て、食糧難になってもお前には絶対分けたらんからな、と深く心に誓ったのだった。

 ちょっと話が脱線してしまったが・・・、次回は、それ以外に興味深かった点に触れてみようと思います。

(つづく)


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