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安田純平さんが無事に解放されることを祈る

 安田純平さんと思われる動画がFacebook上に投稿され、ニュースになっている。映像はこちら。(追記:この映像は現在見られなくなっている模様)

 ツイッターでどのように話題になっているかYahooリアルタイム検索で見てみると、こんな感じ。

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 どちらかと言うと、揶揄する声がやや上回っている感じだが、こうした「自己責任」を声高に叫んで何かを言った気になる類のリアクションはもうずっと日本ではよくある光景なので特に驚きはしない。ただ、こうした世相にあっても、ぬくぬくとして居心地のよい日本を出て、世界で何が起きているのかを自分の目で見て確かめ、伝えようとするフリージャーナリストがいることをありがたいことだと思う。

 私は職業ジャーナリストではないけれど、震災後、フリージャーナリスト界隈の人たちと知り合う機会が何度か有り、安田純平さんとも東北某所でお会いした。というか、もうゆうてもええと思うが、遠目からではあるが、福島第一原発を見に行った時に同行されたのが安田さんだった。

 その後、何度かお会いする機会があり、いつも身なりが整っていてイケメンな安田さんだったのが、今回の映像の中ではボサボサ頭になっていて、疲労のにじむ変わり果てた姿はとても痛々しい。でも、ともかく無事に生きていることが分かり、うれしく思う。

 こちらに「安田純平さんの安否は今どうなっているのか」という雑誌「創」の記事が出ていて、ジン・ネットの高世仁さんが安田さん拘束後から今年1月までの経緯を語っておられるので、今回の映像公開にどういう背景があるのか知りたい方は一読をおすすめします。また、5ページ目以降には安田さんがイラク人質事件後の2003年8月号に同誌に寄稿された記事「新聞社を辞めて 戦場に行った理由」が掲載されていて、組織ジャーナリスムの枠内で記者生活を続けることの困難が語られている。

「多くのメディアが「公明正大」「客観」と言う言葉を未だに使いたがるのはこっけいだ。組織ジャーナリズムの中にいるかぎり、記者は取捨選択に組み込まれる。」

 という事態は今も継続していて、公平中立なんてありはしないし、出来もしない、という諦めから出発すべきなのに、その言葉に自縄自縛状態になっていて、今はさらに無駄に洗練されつつあるんじゃないか、とまで思ってしまうほど。

 個人的な話をすると、安田さんは、我々の結婚にちょっとした影響を与えたらしい。私は詳細はよく知らないのだが、私には何か安田さんがこのまま帰ってこない、ということはちょっと困るなぁ、という気持ちがある。

 そうした私のどうでもいい個人的事情はともかく、安田さんには是非無事に帰ってきてほしいし、「自己責任」論が目立つ中にあっても、心ある人には解放を求める声を上げ続けてほしいと願う。

(※2016.3.20文章一部変更しました)

フリージャーナリスト礼賛

 昨日、岩上安身さんが連続ツイートをされていたのを読んだが「【岩上安身のツイ録】眠れない日々 ~僕が交感神経優位になってしまった理由」、ジャーナリストは本当に大変な職業だと思う。特に組織に所属していないフリージャーナリストは収入面で大変なようで、本来業務とは関係無いようなアルバイト的な仕事をしてる方も少なくないと聞く。

 ジャーナリストが有料メルマガを始めた頃、「信者ビジネス」などと揶揄する向きがあったが、佐々木俊尚氏が「なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?」という記事で指摘していた通り、まだ世間ではジャーナリストが「公共圏の担い手」として期待されていることの証左といえるのかもしれない。

 私自身のことをいうと、震災後しばらくはジャーナリストにカテゴライズされることもあったが、主な収入源は別であって、ジャーナリストで食べていこうと思ったことはない。現実的に考えて、食べていけるとはとても思えないからだ。なので、私のようなものからすると、信者ビジネスであれ、食べていけている人はそれだけで十分すごいと思うし、本音を言えば、ちょっと羨ましいし、それを元手に大手メディアが出来ないような取材活動が出来れば、そんな揶揄をされるいわれはないのではないかと思っている。

 また、ジャーナリストという職業は誰からも好かれるものではなく、どうしても敵ができてしまう。日本の場合だと殺されるようなことは少なくはなっているだろうが、命の危険があることは今も変わらないだろう。伊達や酔狂で出来る仕事ではない。

 先日、ロシアでネムツォフ氏が殺害されたが、こうした暗殺は世界では今も普通にある。ウクライナのキエフ中心部の繁華街「フレシャーチク」にはウクライナのジャーナリスト協会があるのだが、その協会が入っている建物の外壁には以下のように「真実のために命を捧げたジャーナリストたちへの追悼」というプレートが掲げられていて、殉職したジャーナリストの名前が記されている。かように当地では今もジャーナリストは命がけの職業である。

真実のために命を捧げたジャーナリストたちへの追悼
(Wikimediaより)

 日本でも、つい最近、後藤健二さんが痛ましい形で殺害され、「自己責任論」が再び論議されるなどフリージャーナリストへの関心が一時的に高まった。グーグル・サジェスチョンを見ると、こんな感じで、時勢を反映して、後藤さん関連のワードが出ている。「年収」や「収入源」なども出てくるので、一般的にもフリーの収入について関心を呼んでいるのだろうか。(少し前に収入とかで調べた記憶があるが、グーグルサジェストって個人の検索履歴は関係無かったっけ?)

フリージャーナリストのグーグルサジェスト結果

 今日、近場では比較的本の数が多い本屋に立ち寄ったのだが、後藤さんの著作コーナーがあり、その中に「エイズの村に生まれて―命をつなぐ16歳の母・ナターシャ」という本があった。この本はエストニアのロシア系住民が多数を占める国境の街・ナルヴァへの取材旅行で出来た本らしかった。私もここは行ったことがあるが、外国人観光客は稀で、ウクライナ政変後の今ならともかく、こうした日本人にはほとんど関心がもたれないところにも取材に行っておられたようで、ちょっと驚いた。こうした取材はフリーならではであろう。

 グーグル・サジェストには「フリージャーナリストになるには」というワードがあり、検索するとトップには就職情報サイトが来るのだが、それなりにこのワードが選択されている、ということなんだろう。雑誌メディアの退潮のせいなのか、私のアンテナの張り方がまずいのかわからないが、若手ジャーナリストの名前は私はあまり思い浮かべられないのだが、こうしてなりたい人がまだまだ存在することに希望を持ちたい。

 ただ、どうやって食べていくかについてはよくよく考えた方がいいだろう。私は個人的には、今後もフリージャーナリストがどんどん出てきて欲しいが、他に収入源を持ちながら活動することも考えておいた方がよいのではないかと思う。何もジャーナリスト稼業一本でやっていかなくてはならない理由はなく、比較的自由が利く仕事をしながら、独力で修業することも不可能ではないはずなので。