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保育園落ちるかどうかわからんけど、中途入園が不可能ではないことを知り、書類を提出してきた

 今週頭から子供が家にいない状態になってて、週末となり、少しは慣れてきたところ。一緒にいる時は写真や動画を撮影しても、ほとんど見返す余裕がないが、少しずつ見なおしたりしている。いたらいたで、うるさいなぁ、とつい思ってしまうが、いないといないで、やっぱり寂しさを感じないではない。しかし、映像は相変わらず手ブレしまくりで、時々は見て、手ブレしないような撮影を心がけるようにしないと。

 子供はそのうち戻ってくるものと想定しているので、保育園について、動いてみた。少し前から、一時保育では時間も短く、期間も月に最大14日と決まっていて、我々の生活事情からして、もう少し預かって欲しいと思っていたので。

 保育園に入れるのはとても大変、という先入観があり、我々のような典型から外れた生活実態の夫婦はもう無理と諦めていたのだが、我々は常時保育を必要としており、そういう需要があることを分かってもらおうということで、役場で尋ねると、どうやら途中からでも応募可能なことが分かった。

 以前もらった書類には保育園の申し込み受付期間がデカデカと書いてあり、そこを逃すともう1年はあかんもんと思い込んでいたのだが、そうではなかった。考えてみれば当たり前の話で、転勤とかで引越しとかした人はどないなるねん、って話だし、逆に途中で抜ける人もいるだろうから、空きも出るに違いないわけで。日本の学校制度同様、基本は4月入所で、そのため秋の一定期間に募集する、ということになっているようだが、それ以外でも不可能ではないようだ。もっとも私の住む地域のような過疎地域ですら狭き門ではあるようなのだが。

 提出書類としては申請書と、私の場合、「自営業就労申立書」というのが必要で、さらに自分の開業状態を証明する書類(確定申告書など)も必要となるとのことで、コピーして持参した。申請書には同居しているわけではない自分や嫁さんの両親の年齢や就労状態も記入する必要があり、なかなか細かく念入りにチェックされる。親(つまり子供の祖父母)の年齢が60未満の場合も就労証明書が必要となるらしく、もし親が主婦だったりしたら、その人に面倒見てもらえ、ってことになるってことなんだろうか。

 説明を聞いてちょっと驚いたのは、希望が通らなかった場合、連絡は来ない、ということ。これにはさすがに、「え゛っ?」と声を上げてしまった。今時の就活では「サイレントお祈り」といって、今後の活躍をお祈りする不採用通知メールすら寄越さない会社もあるそうだが、行政もこういう対応するんですなぁ。多分、何らかの背景があるんだろうけど、そういうのって、人としてどうなんだろう。こちらとしては、落ちたら落ちたで次の対応を考えなあかんのやが。例の「保育園落ちた」の匿名ブログは2016/02/15 17:17:59に投稿されていて、2月頃には「不承諾」とか「不認定」の連絡が来ることが多いようだが、自治体によっては来ない場合もあるようだ。

 調べるまで知らなかったのだが、私の通える範囲の保育園の多くは認定こども園になっていて、この認定こども園というやつは、基本的には「誰でも入れる」ことに名目上はなっているようだ。しかし、実態としては誰もが入れるような状態には程遠く、結局は「保育の必要性」が高いと認定された人が優先して入園できるようになっているらしい。あまりリアルには想像できないが、どうやら現代日本においても、保育を必要としない恵まれた状態にある人が一定数いて、そういう人にも税金を補填して、保育園に子供を入れてもらってもいいのか、と問われると、なるほどとちょっと思ってしまうが、昔とは状況が違うわけだし、社会全体で子供を育てる、ということはそういうことなのでは、とも思ったりもする。何かと過渡期ではあり、現場の判断として、なかなか難しいところはあるだろうが。

 今回、私の子供は3歳未満なので、「3号認定」というので、申請書を出してみたが、どうなることやら……。ダメ元なんで、ダメならまた従来通り一時保育を利用すればいいか、とも思っているが、出来れば通って欲しいなぁ。

「保育園落ちた日本死ね」騒動で感じてたことなど

 今月も一時保育に子供を預けていて、14日しか預けられないので、いろいろ諸事情考慮して先週はお休みしていたが、今週から再開。保育園に入れるのがこんなに大変なことだというのは子供を持つまで知らなかったが、保育園に入れたい人がもっと簡単に入れられる社会にしていかないと、少子化問題は解消できんだろうな、とやっぱり思う。少子化問題は今の子育て世代の結婚問題が主で、男性がこの稼ぎでは養えないから結婚しない/出来ない、というのが最大の問題、というような指摘もあるが、多方面から解消に本気で動いていかないともう無理なんじゃないかと思う。

 さて、はてな匿名ダイアリーの保育園落ちた日本死ね!!!が話題になっていたが、私は毎日ではないが、気が向いたらはてなホッテントリ(hot entry)をチェックすることがあって、この保育園の投稿がホッテントリに上がってた時にざっと読んでたけど、ここまで世論を盛り上げることになるとは想像もしなかった。あの手の投稿はよくされてるし、中には内部関係者じゃないか、というような具体的な提言を盛り込んだエントリーもあって、匿名ではあるが、読ませるやつも時々出ている。もっとも概ね、匿名ダイアリーのは面白く無いのが多いのだが。

 あの投稿に関しては、安倍政権の一億総活躍なんちゃらを揶揄しているところがあって、そういうところが気に入らなかったのか、特に「日本死ね」に過剰に反応する人たちがいたけど、そこはあまり重要なところじゃないし、ネットスラングとして「氏ね」という言葉はよくある表現で、そこに突っ込んでる時点でネットリテラシーの低さを露呈してるだけなんじゃないか、なんて思ったりしていた。

 しかし、この保育周辺に漂う諸々の面倒臭い感じはどこから来るんだろう。多分、平等性を過度に重んじた結果、そうした「保活」にまつわるエトセトラにアクセス出来る、どちらかというと経済的・状況的に恵まれた人たちが得をする仕組みが出来あがってしまっており、かといって、このがっちりと堅固に組み上がった仕組みを崩すのは至難であって、この立ちはだかる壁を前にして感じる絶望感というか、諦観というか。

 こうした仕組みづくりに携わる層はいったいどういう人たちなんだろう、と思うことがある。別に悪意を持ってこういう仕組みづくりをしているとは思えないし、自己の責任の範囲で、逆に言えば責任を追求されないように防御的にそれぞれが振る舞った結果ともいえるが、それぞれの立ち位置でやるべきことをやっていたらこうなった、って感じなんじゃないかと思う。

 今出来上がっている仕組みはそれなりに理由があってそうなっていることが多く、仮に多くの人が時代に沿ってないと薄々感じているような仕組みでも、それをやめるとこれこれこういう問題が出てきて、ってことになって、結果として、大本は触らずに応急処置的に対応することになり、ただでさえ複雑な仕組みがさらに複雑化していく。そして、そうした複雑な仕組みを読み解いて、自分の状況に応じて適切に判断できる層はなんとかしのいでいけるだろうけど、日々の生活に追いまくられてそれどころではない人たちはそんなことをやってる余裕はなく、ますます情報格差が広がるばかりだ。

 記憶によれば、中流幻想の只中にあって、いやすでに日本はそうじゃないんだということを私に最初に認識させたのが「不平等社会日本―さよなら総中流」という本だった。2000年出版の本だが、この時点ではまだ今のような格差の問題は今ほどは出ていなかったように思う。さらに、格差固定社会なんて言葉も出てきたりしたが、気になるのは、そういう発言する人たちは概ね、格差の上の方にいる人たちで、様々な数値からそういう問題を読み解けるんだろうけど、実態をどの程度、自分の問題として捉えているのか、などと思わなくはない。

 塾歴社会という本を読んだところなのだが、塾とか私の知らない世界だが、やっぱりこんな感じなんかー、というのが感想。私などはオール公立で、いろんな家の子がいるようなところで育ってきたのだが、こういう世界で子供の頃から生きてると、シンパシーを感じる範囲がとても狭くなってしまうんじゃないだろうか、なんて邪推してしまう。自分と似たような境遇にある人にシンパシーを感じるのは人として自然なことであるとは思うが、自分のお仲間さえ楽しく暮らせていけたら、他は知ったこっちゃない、ってメンタリティーのまま大人になって、そういう人たちが様々な制度づくりに携わっているのだとしたら・・・。私などは彼らにとってお仲間に入れてもらえなさそう境遇だし、私も彼らにシンパシーを感じることは困難だが、それでも同じ時代を生きるものとして、一緒にやっていかなくちゃいけない。具体策など思い浮かばないのだが、こういう社会になってしまって、これからどう生きていけばよいのか、途方に暮れる。

 なんか全然まとまってないエントリーですが、このまま出しときます。