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サミット中の福島第一原発の作業休止は日本特有の察する文化から来ているのではないか

 サミット中、福島第一原発の作業休止 東電「リスク減らす」というニュースがあった。

 東京電力は、二十六日、二十七日に開かれる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の開催中、福島第一原発での、原子炉冷却や汚染水処理、パトロールなど止められない作業以外の、汚染水タンク建設などの作業を休止することを決めた。東電は「要人が集まるサミットの期間中、なるべくリスクを減らしたいと当社の判断で決めた」と説明している。

 「国からの要請はない」というのは、実際そうなんだろうと思う。ただ、東電が自ら決めたというよりは、国に近い人から「サミット期間中はいつも以上に事故がないように気をつけてくれ」的なことを言われて、社内で検討した結果、作業を止める、という国からしたら、えっそこまで求めてませんけど、みたいな対応に繋がったんじゃないかと邪推するがどうだろう。

 東電に限らず、日本の電力会社というのは、官僚以上に官僚的で、個人的にはほとんど様式美とすら思うことがあるが、こういう決定に至る思考様式は以前から興味深いなぁ、日本的だなぁ、と思っている。

 以前、県内ではないが、とある町の役所に務めてる人とやり取りしてた時に、こちらが求めてもいないし、口に出してお願いしたわけでもないのに、あらぬ方向から、多分善意で動かれて、なんだか話が思ってもみない方向に向かいだして、困惑したことがある。

 ああ、これが私が普段できるだけ関わらないでおきたいと思っている「察する文化」なんだな、と合点した。

 学生時代、バイトで花博のイベントスタッフなんてもんをやってたことがあり、その時、場の空気を読むことが仲間とともに働く上で重要なのだ、というスタッフの発言を聞いて、空気を読むことがよいことだとされていることを興味深いことだと思い、そんなもんかな、と思っていた。そのうち、空気を読むことに価値を見出せなくなり、その後、空気を読まないふりをするように心がけてきたのであるが、そのうち板についてきたのか、本当に空気が読めなくなることも出てきて、そうしたコームイン系の人の思考様式が理解できなくなっていることに自分でも苦笑いしたのだった。

 これは、別に東電とか公務員社会だけでなく、日本社会に遍く広がっていて、とりわけ影響力のでかいところがこういう体質だといろいろと困ったことになる。

 日本は「メディアの構造として政府からの圧力に弱い」 国連「表現の自由」報告者が語った「脆弱性」とその原因という記事に「メディアによる忖度」が進んでいる状況が明らかにされた」とあるが、こういうのも、ちょっと独特だな、と思わずにいられない。

 ただ、これは最近に限った話ではなく、山本七平著『空気の研究』に以下のような挿話が載っている。

(西南戦争は)「世論」の動向が重要な問題だった最初の戦争であり、従ってこれに乗じてマスコミが本格的に活動し出し、政府のマスコミ利用もはじまった戦争である。元来日本の農民は、戦争は武士のやることで自分たちは無関係の態度だったのだが、農民徴募の兵士を使う官軍側は、この無関心層を、戦争に「心理的参加」させる必要があった。従って、戦意高揚記事が必要とされ、(以下略)(文庫版p46)

 『空気の研究』には原発と原爆についても、実験用原子炉の必要性を訴える論文について、以下のような記述がある。

「実験用原子炉は原爆とは関係ない」ことを(…)、まことに一心不乱、何やら痛ましい気もするほどの全力投球で、実に必死になって強調している。今ではその必死さが異常に見えるが、これは、「原子」と名がついたものは何でも拒否する強烈な「空気」であったことを、逆に証明しているであろう。

 今日、オバマが広島を訪問するが、この書の出版から日が経過した今の目で見ると、そうした拒否の空気がしぼんでいったことが福島原発事故につながったのではないか、と思わずにいられない。

 空気支配に惑わされずに意志を貫くのは骨が折れることだが、一人一人が出来る範囲でいいので、抗っていく勇気を持つことが大切だな、と。

故沢野伸浩さんのこと

 先ほど、今中哲二さんの「最後」の原子力安全問題ゼミでの講演をアップロードしたところなのだが、講演の中で、故沢野伸浩さんのお名前が出ていた。今中さんは明石昇二郎さんから面白い人がいる、と紹介を受け、沢野さんが米国NNSAのデータに基づいて作成した、セシウム137の沈着量を等高線で示した地図を見て、これで外部被曝のみではあるが、飯舘村の人たちの初期被ばくの見積もりができると確信した、とのことだった。

 米国エネルギー省(DOE)の国家核安全保障局(NNSA)は福島第一原発事故直後の3月17日から福島県上空に航空機を飛ばし、放射能を実測したが、その生データが2011年10月21日に一般公開され、沢野さんはその公開の約一ヶ月後に「偶然」それを見つけ、汚染地図を作ってみたのだという。その時の様子はブログにアップされた、とのことだが、現在、そのブログは見られない。代わりにarchive.org内のこちらこちらのページを見ると、当時の様子がいくらか分かる。

 当時、沢野さんはこのデータはアメリカから日本政府に提供され、このデータに基づいて汚染マップが作成され、避難や除染に活用されているものと思ったらしいが、実際は十分に活用されているとは言いがたい状態であったことが後に分かり、飯舘村にも実際に行かれるなどして、少しずつ福島に関わるようになったようだった。

 この生データはKMZというGoogle Earthなどで使われるファイル形式であるKMLをZIPで圧縮したもの、とのことで、KMLはXMLベースであり、テキストファイルとして開くと、中身はタグや数値だらけで、それだけ見てもなんだかよくわからない文書、ということになる。例えば、Googleのドキュメント群がこちらにあるが、そこのサンプルファイルをダウンロードしてメモ帳か何かで開くと分かってもらえると思う。

 XML文書の解析は、意外と面倒で仕事で扱ったことがあるが、なかなか厄介な代物であった。仕様がしっかりしてるといいのだが、よいXMLパーサーをかますといい感じに見えるようになったりする。

 話を戻すと、エクセルやワードなど多くの人が使い慣れているファイル形式ではなく、そういうやや専門性の高いファイル形式で震災直後の混乱期に文科省の元にそのファイルが届いたようなのだが、どうもその扱い方がわからなかった可能性があり、有効活用される気配がないのでアメリカはこっそりと震災の年の秋に一般公開を始めた、という見立てがあるそうだ。

 真偽不明であるが、ありそうなことだと思う。別に文科省をDisるつもりはなく、混乱期に次から次へと降ってくる玉石混交の情報の嵐の中でこの「玉」の方の情報が見過ごされてしまったんだろうと私も思う。

 沢野さんはこの辺りを確認すべく、アメリカ大使館にまで確認に出向いたが、結局、真偽のほどはわからずじまいだった。

 ちなみに沢野さんは英語も大変堪能だったようで、スピーキングも大変お上手であることが伺われた。私は沢野さんとは一度だけ飯舘村調査の時に初期被ばく調査のための現場下見に行かれた時に同行しただけなのだが、車内での四方山話で、コンピュータにも造詣が深く、インターネットには日本では最初期に関わった人の部類に入るようだった。

 その昔、UNIX USERという雑誌があったのだが、そこに「ルート訪問記」という連載記事があったのを知る人は、今の若い人だとほとんどおらんのではないかと思う。ルートとはUNIX文化のrootという特別な全権ユーザのことで、要するにサーバ管理者という程度の意味なのだが、そのルート訪問記にも出られていた、と知って、とても驚いたのだった。こちらの「第11回 窓から見えるは星と未来と現実と」というサイトで読むことが出来る。

 ちなみに沢野さんは1997年には「ネットワーク・コンピューティング・リテラシー」という本を上梓されていた。

 GPSについての話も興味深く、今でもよく覚えている。GPSは複数のGPS衛星からなり、数が多いほど精度が増すが、現在、アメリカがこの分野でも抜きん出いていて、ロシアや中国が対抗しようとしている状態となっているようだ。こちらによると、2014年12月現在で全世界のGPS衛星の数は「アメリカが32、ロシアが24、EUが4、中国が16の合計76個」ということになるようで、日本はそもそもこの中にも入れていない状況らしい。実運用するにはGPS衛星が少なくとも4つだったか6つぐらいは必要とのことだった(うろ覚え)が、はやぶさもいいけど、こういう実用性の高い分野にも資源を振り分けたほうがいいんじゃないか、と思えたし、また、そもそもが軍事目的なので、ある地域で使えなくする、というようなことが出来るのだそうで、この話を聞いた時、日本はもう少し実力を蓄えるまで属国のままでいた方がいいのではないか、とすら思ったのを覚えている(冗談だが)。

 たまたま1週間ほど前の記事でGPS衛星でエラーが発生、複数企業で12時間ものシステムエラー発生の原因にというのがあったが、GPS(というか、GPSはアメリカのシステムの名称らしいので、より包括的にはGNSSというらしい)に依存している現代社会でこういうことが今後も頻繁に起こらないとも限らないわけで。

 ともかく、沢野さんは大変刺激的でエネルギッシュな方だったのだが、去年、亡くなられたと聞いた時は本当に信じられなかった。

 ネットで検索をかけてもあまり情報は出てこないが、近かった人ほど、書けないものなのだろう。私は沢野さんのごくごく一部分しか知らないが、とても魅力的な人がいて、重要な仕事をされた、ということを伝えておきたかったので、以上、書いた次第です。

※参考文献:本当に役に立つ「汚染地図」 (集英社新書) 沢野伸浩(著)

中核派って何? ~全共闘世代について思うことなど~

 こんな記事が出てた。

「福島に暮らす人々描いた映画、打ち切りから再上映へ」

 映画については見てないのでここでは言及しないが、記事に中核派について言及がなされている。私は中核派については、何かの団体が分裂してそのうちの自分たちが中核にあるとみなした人たちの団体なんだろうな程度の知識しかなく、「中核派とは」などを読んでも、その前提がさっぱりわからないので全然頭に入ってこなかったわけであるが、世間的には「あいつは中核派のシンパだ」的なレッテルを貼ると何かを攻撃したことになる的な位置づけにあるらしいことをなんとなく感じる程度だ。

 私が学生時代だった頃のさらにそのずっと前にはすでに学生運動は下火になっていて、総合大学に行った時に見かける立て看板でその存在を知るぐらいで、今まで「私は中核派です」という人に会ったことが一度もないので、どういう人たちなのかも実感としてよくわからない。何でも内ゲバで殺し合いにまで発展したのだそうで、そうした過去の経緯から一般人にとっては言及することで得をすることはあまりなさそうな人たちとみなされても仕方のない面はあるだろう。また、中核派を否定的に言及する人がやたらと攻撃的なのもますますそういう事柄に言及することを避ける土壌が出来上がっているように見える。

 一応、ブログ記事「革共同~ヤンキーな中核派VSオタクな革マル派」などを読むと大雑把な対立構造などは見えてくるが、リアリティをもって理解することは私には不可能だ。

 今現在もその程度の認識しかない私であるが、福島との関連で思い出したので、ここにメモしておきます。

 私たちが2011年4月に初めて福島入りした時に何箇所かで集会が開催されたのだが、そこで地元の年配の方から「中核派が来てますね」と言われた。それが何を意味するのか、当時の私はよくわからず、はあそうですか的な反応をした記憶がある。具体的に誰が中核派なのかは関心もなかったし、特に聞きもしなかったが、当時はふーん程度に思っていた。

 その後、子ども福島の運営を巡り、中核派との関連が指摘されるようになり、様々な経緯を経て、現在ウェブサイト上では以下のような記述がなされている。

「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」は、政治・宗教・企業などあらゆる団体からの独立を原則としています。
*当会はふくしま共同診療所、福島診療所建設委員会、NAZEN、中核派などの団体と関係がありません。

 私は子ども福島の運営についてもよく知らないので知ったふうな口を聞くつもりはないが、子ども福島に関わる人たちの多くはただ子どもの将来を心配する方々の集まりなのだと今も思っている。実際に関係者の方から「中核派って何ですか?」という質問を受けたこともあるぐらいで、子ども福島を団体ごと丸々中核派の思想がバックにあると誤解されかねない主張など見ると、ちょっと悲しくなる。ただ、様々な思惑を持って運動体に近づく人もおり、来る者拒まずで受け入れていると「なぜか人が去っていく」という事態に繋がる場合も現実としてある。この辺りのバランスの取り方はなかなか難しいところで「排除の論理」を原則避けつつも、どうしても方向性の違う特定の人に辞めてもらうような場合も出てくるだろう。

 中核派かどうか知らないが、福島事故直後ぐらいに、全共闘世代としてここで動かないといけない、的なことを私に言ってきた人がいた。その言葉に私は違和感を覚えたものの、そうした意識で動く人がいてもいいだろうぐらいには思った。ただ、私は当時の混乱状況にあって、例えばこちらに「子どもを避難させること」など何らかの思惑があったとしても、とにかくまずは現地の人たちのことに耳を傾け、人々の意向を知るのが第一で、いわばまず「相手ありき」だというのがこうした場合の常識ではないかと思っていたが、その辺りの感覚に幾分ズレがあり、私の目には「ここで行動する自分ステキ」みたいな、まず「自分ありき」なのだとしか思えないような言動を見聞きすることになった。

 元々身近にデモに積極的に参加したりして、選挙前になると「共産党に入れろ」などと電話してくる人が一人いて、世代的にはもろ全共闘世代の人で話も面白く長く付き合いがあったのだが、普段は立派なご高説を吐く割に、大事な時に子どもじみた行動を取ることが何度もあって辟易するようになり、今は付き合いはなくなった。

 他にもこの世代周辺の人にこのタイプの人が多くいることを経験として知るようになり、一体なぜこのような一群がいるのか、長らく謎だったが、これは戦争直後に激変した不安定な教育環境があのような人たちを生み出したんだろうと思うようになった。彼らとて、そのように育ちたくて育ったわけではなく、戦争に飽き飽きした当時の大人が少々のやんちゃ程度なら大目に見た、という話もあり、そのように育ってしまったことに責任はないと個人的には思うし、私自身あの時代に生まれていたら、似たようなことになっていた可能性はあるだろうと思う。

 ただ、本人たちもうすうす感じている通り、時代は変わった。ボブ・ディランの歌詞ではないが「Your old road is rapidly agin’」で、もう昔のやり方は通用しない時代になっていて、そのことをよくよく理解した上で下の世代とつきあってもらいたいと思う。先日のデモなども主導しているのは旧来のデモでよくみかける組織ではないみたいで、世代交代が進んでおり、否応なく新しい世代が出てきている。仲間内で懐古的にヘルメットの色の話とかしてる分にはいいが、そういうのに下の世代はまったく関心が持てないわけで。

 もちろん、この世代の人がみなそういう傾向があるなどというつもりはないし、むしろ気さくで偉ぶったりしないのがこの世代のいいところで、自分が前に出るのでなく、また後ろから黒幕的に操ったりするのでもなく、下の世代に経験を伝授して、育てるぐらいのつもりで社会と関わってくれるといいんだがなー。実際に私はこの世代の何人かに育ててもらったと思ってるので。

「学童集団疎開」とその諸問題。(4) まとめ

(つづき)

 引き続き、「学童集団疎開」を読んでの感想文です。

    「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて
    「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い
    「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

 最近、あまり読書が出来ないためか、久々に本を読んで蒙が啓かれた気がして、一つの本で3つもエントリーを書いてしまったが、最後にざっくりまとめておきます。

 今という時代に学童集団疎開が可能かどうか、という問題意識を持ちつつ読んだが、著者が繰り返し述べているように「家庭あっての子どもの生活」なのであり、家庭から引き離されて、終わりが見えない中で子供だけで避難生活を継続するのは大変困難だろう、という印象を持った。また、子どもは避難させるが、大人はそのままそこで生活する、というのも、よくよく考えると理不尽な面があるように思える。学童集団疎開を実施するのであれば、精神的影響を考慮して、地域まるごと移住の方がよほどよい、ということになるのではないか。地域まるごと移住は、大人にとっても都合がよく、地域内であれば、人間関係ができているし、それぞれどういう点に注意すべきかについて、ある程度、お互い分かり合っているというのが大きく、もし人間関係を損なうような出来事があっても、双方を知る関係者の仲裁が期待できるので、大きな問題にはならないはずなので。

 チェルノブイリ原発事故の時もキエフで子どもの集団疎開が実施されたが、ソ連の場合、もともとサナトリウムなどで保養する文化がある上に、ソ連版ボーイスカウト(ガールスカウト)のピオネールの伝統もあり、子どもたちが集団で生活するのに慣れていた、という面があったため、比較的スムーズにいったのではないか。期間も3ヶ月程度と1年以上に亘った日本の戦時中の学童疎開に比べると短く、また、その期間はちょうど春から夏にかけてであり、子どもたちが過ごす季節としては良い季節だった、ということもあるように思う。

 原発事故では初期被ばくを抑える、という意味で出来るだけ早く避難を実施するべきなのであるが、チェルノブイリの場合も、実際のところ、集団疎開が実行されたのは、初期被ばくを相当に受けてからだった(一説によると、疎開前に75%被ばくを受けてしまっていて、疎開することで防げたのは25%程度だった、という話もあったような)。再稼働に向けて、様々な動きがある中、今一度、事故が起きたときにありえる出来事をリアルに想像し、どのようにして被ばくを防ぐのか、再稼働を認めない、というスタンスであっても、再稼働賛成側であっても、被ばくを出来るだけ少なくしたいという思いは同じはずで、思考停止状態に陥ることのないよう、常に思いを巡らせ続けておかないといけない、と改めて思ったことだった。

「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の感想文です。学童集団疎開について、いじめ都市と農村を題材に書いてきましたが、その他、個人的に興味を引いた点をあげておきます。

 学童集団疎開は実際に実施される前から話は出ていたが、著者によると「都内30万の学童を収容できる宿舎は絶対にありえない」「短期間中に輸送できる能力を、現在の国鉄がもっているはずはない」とのことで、現実的ではないだろう、という見通しが現場では立っていたようだ。それが実施されたということは、逆に言えば、1944年夏頃にはそれほど戦局が悪化していた、ということになるのだろう。

 集団疎開は引率教師にとっても大変な負担で、「自分の担任児童の大部分が集団疎開するというのに、自分だけ学校に残留するということは、まったく意味のないことであったが、家庭の事情、身体的故障などで、参加できないということも当然ありうることだし、ことに家庭をもっている女教師にとっては、まったく不可能なことであった」とあり、担任教師が同行できない場合もあったことが伺える。

 児童にはそれぞれ注意すべき点があって、担任であれば、それを把握できているが、担任でないものは、一からそれを知らなければならない。私自身、子どもだけを預かる保養プログラムに支援スタッフ側で参加したことがあるが、関係性が出来上がるまでそれなりに時間はかかるし、何か問題が起きたときに親の協力を得られない、というのは、大変大きな困難で、担任が参加できなかったクラスの児童はただでさえ大変だった集団疎開で、さらに大変な目にあったことだろう。

 今回の福島第一原発事故の場合でも飯舘村の方々が飯坂温泉などの旅館に一時的に滞在された例もあったが、この本のケースでも疎開先が温泉旅館となった。寒い長野の冬にいつでも温泉に入れる、という良い面もあったが、「学童集団疎開は徹底的な欠乏の生活であった。食糧難が最後までこの生活につきまとい、食べ盛りの子どもたちを悩ませ続けた」「金にあかした山海の美膳が子どもたちの目の前を素通りする刺激は、たえ難いものがあった」とあり、さらに、配給品を巡って旅館側への不信感が募っていったこと、旅館に宿泊する軍人たちが子供をからかったり、どんちゃん騒ぎをして、猥雑な歌をうたったりすること、などの理由から「温泉旅館は教育の場として不適格」であると判断し、一度身を落ち着けた場所からの再疎開は普通は億劫になるものだが、さらに山奥の農村の寺への再疎開を歓迎すべきものとして受け入れられている。

 当時は日本中どこでもそうだったようだが、蚤・虱の問題は解消のしようがなく、子どもたちは常にボリボリと身体をひっかいて、安眠もかなわない状態だったらしい。著者は蚤退治の薬を買ってみたもののまったく効果はなく、「蚤取粉と称するもののインチキぶりに、これほど腹がたったことはなかった」「わたくしはこの時ほど、日本という国の非科学性、非文明性をうらめしく思ったことはない」と書いている。

 大事な子どもを預かる立場というのは、大変な精神的負担があり、特に冬期に心臓麻痺を起こして死亡した子供が一人出てしまい、その後はさらに子どもたちの健康維持に対し神経質になったとある。しかし、病気が治らず医師に受診しても、こんなのは病気でないと言われる始末で医師に頼れない状態だったらしく、しかも栄養も十分でないため、大変困難な状況だったようだ。

 病気の場合、やむなく親に引き取りに来てもらう、ということになっていたようだが、それを「利用」して病気になったことにして、どこからか診断書を入手してきて子どもを引き取る親も続出したとのこと。親の言うことを聞いてそのまま帰る子もいたが、頑として戻らないという子どもも数多くいたとあり、理由として著者は、子どもたち自身が自らを精神拘束していたためではないかと推測している。

 この本で印象深かったエピソードとして、上級生のいじめに耐えかねたある児童が非常によく出来た作り話をして、東京に単身で逃げることに成功したという話があった。作り話の内容は、知らないおじさんが親に頼まれて迎えに来たのだと自分を連れて行ったが、行き先が名古屋だったので不審に思い、とっさに逃げ出して東京方面の電車に飛び乗って振り切った、というのもので、細部がよく作りこまれていて、当初、校長をはじめ、皆その話が本当だと思ったが、作り話だと後にわかったそうだ。

 また、1945年3月に入学試験準備のために6年生を東京へ返したことで、爆撃にあって死亡した子どもが多数いたことも述べられており、こうした時局であっても、難しい判断を迫られ、1945年8月の終戦まであと数ヶ月だと分かっている今の目から見ると、返すべきではなかったということになるだろうが、いつ戦争が終わるかまったく見通しの立たない中で判断で、当時の感覚ではそれが子どもにとってよかれと思ってなされた選択だったのだろう。

(つづく)