「ウクライナ」カテゴリーアーカイブ

オデッサの悲劇の現場となった労働組合会館

 2014年5月2日、オデッサで痛ましい事件が発生し、数十人が死亡した。仕組まれただの何だのといろいろ言われているが、地元の人に聞くと、サッカーファンが大暴れして、50人ばかり死んだが、今のオデッサは平穏そのものだ、とも言われたりして、正直よくわからない。しかし、ここで多くの人が亡くなったのは紛れもない事実だ。

オデッサ駅

 オデッサには別目的で来たのだが、そういえば、事件のあった場所はどの辺りだったのか、と聞いてみたところ、駅のすぐそばだということが分かり、訪れてみた。上の写真はオデッサ駅で、駅の向こう側(駅の東側)に見える木々のあるところがクリコボ・ポーレ(Kulikovo Pole)と呼ばれる広場になっていて、その中心に労働組合の建物がある。

オデッサ労働組合会館・遠景

 広場では散歩やジョギング中の人が行き来し、古本を売っている人たちの一角があるなど、平穏な雰囲気の中、警察官が何人も警護する建物があり、それが労働組合会館だった。

オデッサ労働組合会館・正面

 警察官が数メートル置きに配置され、さらに建物を取り囲む塀が設けられていて、中には入れない。

オデッサ労働組合会館・花壇と募金箱

 会館の前には花壇が設けられ、その中に募金箱が、負傷者のため、管理のため、残された家族のため、とそれぞれ名目別に3つ置かれている。

オデッサ労働組合会館・黒焦げの壁と割れた窓ガラス

 黒焦げになった壁が生々しい。1階の窓はすべて割れて目張りされているが、2階は目張りされず割れたままになっている箇所もある。

オデッサ労働組合会館・焼け焦げたウクライナ国旗

 屋上の焼け焦げたウクライナ国旗もそのままになっている。

オデッサの悲劇・死亡者リスト

「2014年5月2日テロによる死者の暫定リスト。死者はすべてオデッサ住民。(死者の近親者や知人からの情報提供による)」という文言が書かれている。56人目までが印刷され、さらに書き足せるようにスペースが空けられていて、手書きで57人目が追加されている。多くが焼死と中毒死だったようだが、窓からの転落死や銃撃死などもあったとある。

オデッサの悲劇・メッセージと詩

 「5月2日を記憶に留める」と題し、いくつものメッセージや詩が寄せられている。

オデッサの悲劇・「忘れない 許さない」という詩

 「忘れない 許さない」という題の詩。(ちなみにメッセージや詩のほとんどはロシア語で書かれている)

 ここは駅のすぐそばであるが、観光客で賑わう繁華街からは幾分離れている。ちなみに私がオデッサを訪れたのはこれで2回目だが、私がウクライナで唯一受けた暴力は前回滞在時のオデッサで、ちょうど駅前のこの広場辺りだった。理由は分からないが、一発背中に蹴りを入れられ、咄嗟に振り返ったものの、夜ということもあって人影に逃げられたらしく、喧嘩などにはならなかったのは幸いというべきか。

 オデッサは港町だけあって、いくらか南部的というか、ウクライナの街の中でもよりカオスな雰囲気があるが、リヴィウと共にウクライナの中でも観光地として楽しめる街で、治安も悪いわけではないので、ウクライナに来る機会があれば、キエフ以外のこうした街も訪問されることをおすすめします。

キエフ・マイダン続き 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』

 マイダンの続きです。

マイダン横の祭壇
マイダンの花時計の下に設けられた祭壇

 マイダン横の亡くなった方たちの遺影のある道を歩いていると、花時計のところに祭壇が設けられていて、たくさんの花が手向けられていた。たまたまそこを通りかかったとき、石碑の碑文を読んでいた男性がハンカチで涙を拭いていた。

マイダン石碑
Мамо, не плач. Я повернусь весною. (ママ、泣かないで、春には戻るよ)

 我々は急いでいて、碑文を読む余裕はなかったが、そしてウクライナ語で書かれていたので、読んでも意味がちゃんと理解出来なかったかもしれないのだが、写真に撮り、帰国してから読むと男性が涙していた理由がわかった気がした。以下に訳してみます。


自由なウクライナのために殉じた人々は
天の百人と呼ばれるようになった。
最高齢は83歳だった。
最年少はまだほんの17歳だった。
殺人者の弾丸や棍棒で3人の女性が亡くなった。
産み、子を育て、孫と楽しむ母たちだった。
親を失くした子供が残された。
夫を失くした妊婦が残された。
高齢の親、兄弟姉妹、友人、職場の同僚が残された。
執筆途中の卒業論文や博士論文、
建築途中の家、花が咲いたことがない庭、
キスをまだしていない恋人、
数えきれない天の星々が残された・・・。
そして、すべてのその永遠の高き世界の下に
悲嘆に暮れる母たちの涙がある


 ちょうど今、御嶽山の噴火で亡くなられた方々の身元が判明し、それぞれの方がどんな方で、最後の日にどのようなことをしていたかが報道されている。ただ「○人死亡」と聞いてももはや慣れっこになって一ニュースとして流れていくだけだが、こうして一人一人のことを知ると感情が動く。

 マイダンでも同様で、一人一人の遺影を見つめ、碑文を読むとこみ上げるものがある。

 そして、上の文章の続きに『ママ、泣かないで、春には戻るよ』という題の詩が刻まれている。

 ユーロマイダンは11月から始まり、遠方からも多くの人々がこの広場に集結した。その中にはいてもたってもいられず、反対する近親者に「春になったら戻るから」と出て行った人たちも大勢いたことだろう。

 今回、チェルノブイリ被災者互助団体・ゼムリャキの事務所に日本の支援団体であるえんどうまめやジュノーの会からの支援金を渡してきたのであるが、いろんな話をするうち、どうしても東部に行って義勇兵として戦闘に参加するといってきかない近親者がいる方がいて、家族中でなんとかなだめている、という話も聞いた。

 今のところ、呼ばれているのは軍関係者で一般の若者に対する招集命令が来るところまではいっていない、とのことだったが、まさに戦争中の国にいることを実感したのだった。

 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』は、調べると歌があり、英語バージョンもあるので、関心のある方は聞いてみてください。

●ウクライナ語版
“Мамо, не плач. Я повернусь весною”

●英語版
“Mama, Don’t Cry”

2014年秋のキエフ・マイダン

 あまり時間は取れず、ざっと歩いただけですが、現在のキエフのマイダン(独立広場・ユーロマイダン)の様子を簡単にご紹介しておきます。

マイダン01

 キエフの人に聞くと、街はすっかり平穏を取り戻している、とのことで、実際、多数の死者が出た独立広場も警官の数がいつもより多いものの、雰囲気は平常に戻っている。

マイダン02

 広場には立て看板で写真の展示があり、多くの人々が見入っていた。

マイダン03

 まだ記憶に新しい当時の広場の様子。

マイダン04

 東部の様子を伝える写真も。

マイダン03

 ガラスはまだ割れたまま。

マイダン04

 割れたガラスの前でキスを交わすカップルの姿も。

マイダン05

 広場横の真っ黒に焦げた壁の建物は修理中。

マイダン06

 広場に隣接する中央郵便局の柱にはオレンジ革命当時の落書きが保存されているが、

マイダン07

 その隣の柱にはЕС(EU)という文字が踊る新しい落書きがそのままになっている。

マイダン08

 ATO(反テロ作戦)に寄付金を募る男性。

マイダン09

 ドンバス大隊の人道支援募集。

マイダン10

 なぜかヤヌコーヴィチ元大統領邸へのマイクロバスの発着地点になっているようで、すでに入場料を支払えば入れる観光地となっている。

マイダン11

 広場横の道沿いに亡くなられた方一人一人のための一角がある。

マイダン12

 石油パイプラインの労働者だった23歳の男性。

マイダン13

 ドネツクの学生。東部からもキエフに少なくない人々が来ていた。

マイダン14

 テルノーピリの学生。享年17。

マイダン15

 グルジアの方も何人も亡くなられた。

マイダン16

 道路東側の木々にも亡くなられた方の写真が多数置かれていた。

マイダン17

 マイダンから北に伸びるインスティトゥーツカ通りを”вулиця Героїв Небесної Сотні”(天の数百の英雄通り)と改名するという話が出てたがその後、どうなったか

マイダン18

 ヘルメットや盾と共に・・・

マイダン19

 若木の街路樹が植えられ、街は再生する。

ポロシェンコの14項目の和平案

 どうでもええ身辺雑記しかないブログではあるが、ちょっとは役に立つ記事も入れていきましょう。

 というわけで、ウクライナのウニアン通信社のサイトにポロシェンコの和平案が出てたので、ざっと訳してみました。(誤訳指摘歓迎)

  1. 全交渉参加者の安全の保証
  2. 武器を置いた者、重犯罪を犯していない者への刑事責任の免除
  3. 人質の解放
  4. ウクライナ・ロシア国境間に10kmの緩衝地帯を設置。非合法武装集団の撤退。
  5. ロシアとウクライナの傭兵が退去するために保証された回廊
  6. 武装解除
  7. 共同監視を実施するために内務省の組織に部門を設立
  8. 不法に占拠されたドネツク州とルガンスク州の行政庁舎の解放
  9. 地方行政の再開
  10. ドネツク州とルガンスク州の中央テレビ・ラジオ放送の再開
  11. 地方分権(実行委員会選出による、ロシア語の保護、憲法改正の草案)
  12. ドンバス代表者との選挙までの知事の合意(単一の候補者の合意の条件で、合意できない場合は大統領が解決)
  13. 期限までに地方・国会議員を選挙
  14. 地域での雇用の場所を創設するプログラム

 11、12あたりは、いまいちちゃんと理解しきれずに訳してるため、モヤモヤする日本語になっているが、親ロ派はあくまで独立が目的だと表明してたんじゃなかったっけ? 現在、当地を実効支配をしてる親ロ派が、連邦制であれ、ウクライナ国内という位置づけでの選挙に応じるのかどうか。勝手に独立を問う住民投票とかやりだしたりはしないか。

 一応、「ポロシェンコはミンスク停戦合意は氏の和平プランに基づくと述べた」という記事が出ていて、このプランが元になったみたいだが、合意は12項目という話もあるようなんで、親ロ派がすべてに合意したわけではないのかも。

 結局のところ、住民がどう考えているのかが重要なのだと思うが、ひとまず住民の念願であった戦争状態の収束が実現する可能性が出てきたことで、次の段階に進めるとなると、今後どのように事態が進むのか。

 個人的には東ウクライナで公用語がウクライナ語だけとか、元々ちょっと無理筋な話で、今回こうしてロシア語の保護を打ち出すなど、政府も現実的な対応をしようとしてることもあって、住民はウクライナに留まりつつも自治権拡大を求める、あたりを落とし所とするんかな、とか思ってるが、そうすると今度はウクライナ国内の反ロシア派が黙ってないだろうし、停戦合意が実現できたとしても、今後も茨の道が続きそう。。。