キエフ・マイダン続き 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』

 マイダンの続きです。

マイダン横の祭壇
マイダンの花時計の下に設けられた祭壇

 マイダン横の亡くなった方たちの遺影のある道を歩いていると、花時計のところに祭壇が設けられていて、たくさんの花が手向けられていた。たまたまそこを通りかかったとき、石碑の碑文を読んでいた男性がハンカチで涙を拭いていた。

マイダン石碑
Мамо, не плач. Я повернусь весною. (ママ、泣かないで、春には戻るよ)

 我々は急いでいて、碑文を読む余裕はなかったが、そしてウクライナ語で書かれていたので、読んでも意味がちゃんと理解出来なかったかもしれないのだが、写真に撮り、帰国してから読むと男性が涙していた理由がわかった気がした。以下に訳してみます。


自由なウクライナのために殉じた人々は
天の百人と呼ばれるようになった。
最高齢は83歳だった。
最年少はまだほんの17歳だった。
殺人者の弾丸や棍棒で3人の女性が亡くなった。
産み、子を育て、孫と楽しむ母たちだった。
親を失くした子供が残された。
夫を失くした妊婦が残された。
高齢の親、兄弟姉妹、友人、職場の同僚が残された。
執筆途中の卒業論文や博士論文、
建築途中の家、花が咲いたことがない庭、
キスをまだしていない恋人、
数えきれない天の星々が残された・・・。
そして、すべてのその永遠の高き世界の下に
悲嘆に暮れる母たちの涙がある


 ちょうど今、御嶽山の噴火で亡くなられた方々の身元が判明し、それぞれの方がどんな方で、最後の日にどのようなことをしていたかが報道されている。ただ「○人死亡」と聞いてももはや慣れっこになって一ニュースとして流れていくだけだが、こうして一人一人のことを知ると感情が動く。

 マイダンでも同様で、一人一人の遺影を見つめ、碑文を読むとこみ上げるものがある。

 そして、上の文章の続きに『ママ、泣かないで、春には戻るよ』という題の詩が刻まれている。

 ユーロマイダンは11月から始まり、遠方からも多くの人々がこの広場に集結した。その中にはいてもたってもいられず、反対する近親者に「春になったら戻るから」と出て行った人たちも大勢いたことだろう。

 今回、チェルノブイリ被災者互助団体・ゼムリャキの事務所に日本の支援団体であるえんどうまめやジュノーの会からの支援金を渡してきたのであるが、いろんな話をするうち、どうしても東部に行って義勇兵として戦闘に参加するといってきかない近親者がいる方がいて、家族中でなんとかなだめている、という話も聞いた。

 今のところ、呼ばれているのは軍関係者で一般の若者に対する招集命令が来るところまではいっていない、とのことだったが、まさに戦争中の国にいることを実感したのだった。

 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』は、調べると歌があり、英語バージョンもあるので、関心のある方は聞いてみてください。

●ウクライナ語版
“Мамо, не плач. Я повернусь весною”

●英語版
“Mama, Don’t Cry”

2014年秋のキエフ・マイダン

 あまり時間は取れず、ざっと歩いただけですが、現在のキエフのマイダン(独立広場・ユーロマイダン)の様子を簡単にご紹介しておきます。

マイダン01

 キエフの人に聞くと、街はすっかり平穏を取り戻している、とのことで、実際、多数の死者が出た独立広場も警官の数がいつもより多いものの、雰囲気は平常に戻っている。

マイダン02

 広場には立て看板で写真の展示があり、多くの人々が見入っていた。

マイダン03

 まだ記憶に新しい当時の広場の様子。

マイダン04

 東部の様子を伝える写真も。

マイダン03

 ガラスはまだ割れたまま。

マイダン04

 割れたガラスの前でキスを交わすカップルの姿も。

マイダン05

 広場横の真っ黒に焦げた壁の建物は修理中。

マイダン06

 広場に隣接する中央郵便局の柱にはオレンジ革命当時の落書きが保存されているが、

マイダン07

 その隣の柱にはЕС(EU)という文字が踊る新しい落書きがそのままになっている。

マイダン08

 ATO(反テロ作戦)に寄付金を募る男性。

マイダン09

 ドンバス大隊の人道支援募集。

マイダン10

 なぜかヤヌコーヴィチ元大統領邸へのマイクロバスの発着地点になっているようで、すでに入場料を支払えば入れる観光地となっている。

マイダン11

 広場横の道沿いに亡くなられた方一人一人のための一角がある。

マイダン12

 石油パイプラインの労働者だった23歳の男性。

マイダン13

 ドネツクの学生。東部からもキエフに少なくない人々が来ていた。

マイダン14

 テルノーピリの学生。享年17。

マイダン15

 グルジアの方も何人も亡くなられた。

マイダン16

 道路東側の木々にも亡くなられた方の写真が多数置かれていた。

マイダン17

 マイダンから北に伸びるインスティトゥーツカ通りを”вулиця Героїв Небесної Сотні”(天の数百の英雄通り)と改名するという話が出てたがその後、どうなったか

マイダン18

 ヘルメットや盾と共に・・・

マイダン19

 若木の街路樹が植えられ、街は再生する。