プーチン大統領訪日を機に、北方領土問題や今回の件について思ったこと(3) ~ダレスの恫喝について~

(つづき)

 北方領土問題についての書物で必ずといってよいほど言及されている「ダレスの恫喝」について。

 「ダレスの恫喝」とは、日ソで二島返還で手を打とうとしたら当時アメリカの国務長官だったダレスが沖縄をアメリカのものにするぞと横槍を入れてきたとされるものだが、本当にあったのかどうか疑わしいという話もあり、ガイアツを利用して日ソ関係が正常化してほしくない勢力があったことにした可能性もあるのではないか、と思ったりしている。

 その後、沖縄は返還され、ダレスの恫喝の影響はなくなったはずだが、アメリカの機嫌を損ねるとやばいので、教条主義的に北方領土については四島返還で譲歩しないことにしておこう、という方針のみが独り歩きしてしまった、というところだろうか。

 ところで、ダレスの恫喝の前に二島返還で決まりかけた瞬間があったようで、全権としてソ連と交渉した重光外相についての「重光葵」という本の中に以下のような一文がある。

 重光は東京にソ連案(注:二島返還)での妥結を要請したが、政府・自民党の首脳会談は日ソ交渉の中止を指示してきた。重光は八月十ニ日の日記に「連日連夜協議及び次の準備。全権団は一致結束、妥結論なり。新聞記者も同様、東京を罵る。鳩山は愈々病人なり。夜半二時迄、全権団協議、東京への最後の意見を出す。東京に政府なしとの声、新聞記者の間に満つ」と憤懣を記す。
 重光全権の急な方針変更は「豹変」と受け取られており、鳩山一郎もその回顧録で「出発の時まであれほど強硬な意見をはいていた重光君が、モスクワに入ると間もなく、急角度にカーブを切って、何故にこのような方向に進もうとしたのか――今考えても私には全く見当がつかない。」(p232)

 このあたり、重光側の思惑として、ポスト鳩山をにらんだ動きだったとか、鳩山に事前に二島返還の方針がまったく知らされておらず、寝耳に水だったため、中止を指示せざるを得なかったとか、いろいろあったらしいが、ちょっとようわからん。もうちょっとそれぞれがうまく噛み合っていたら、実は二島返還で妥結出来てた可能性はあったのかもと思えてくる。ただ、ダレスの恫喝以上のアメリカの怒りを買う可能性はあったかもしれず、当時、日ソ共同宣言でやっと国連加盟が実現した(国連での演説は重光が担当し、「日本は東西の架け橋になる」と述べた)ことを考えると、当時の状況としてはこれで精一杯だったんだろうとも思う。

プーチン大統領訪日を機に、北方領土問題や今回の件について思ったこと(2) ~安倍首相のことやロシア語記事について少し~

(つづき)

 もうひとつ、思ったことを書いておくと、安倍首相の「私たちの世代で解決しなければならない」という文言が気になった。もちろん、ご高齢である元島民の皆さんの気持ちを考えると可能な限り、早く何とか解決の道筋をつけたい、という気持ちになるのは当然だろう。しかし、プーチン大統領が言うように「期限をもうけるのは有害」というのは確かで、こうした機微な問題では前のめりになった側が足元を見透かされてしまう。双方の政権基盤が脆弱でないが故にお互い多少の譲歩が可能、という論はどうやら、日ロ間には当てはまらず、世界で最もタフな交渉相手であるプーチンにとって、ロシアの国益に沿わない話はまったく聞き入れられないだろう。

 ちなみに、元島民の手紙がプーチンの心を動かしたか、という点について、プーチン大統領に元島民の手紙渡すも ジャーナリストが断言「通用しない」という意見があり、それはもちろんそうなのだが、プーチン自身、「очень трогательные письма」(とても感動的な手紙)と表現しており、心は動かされたであろう。ただの冷酷無比な男ではないからこそ、ロシア国民の絶大なる支持を集めている面があり、そうした面も踏まえて発言し、行動している。ただ、プーチンはロシアの国益が害される場合は徹底的に冷酷無比になれる男でもあり、元島民の手紙はその当たりは踏まえていたのではないかと思われる。四島返還を希望する旨はおそらく訴えてはいなくて、四島を日ロ友好の島にしてほしい、という希望が述べられていたのではないかと思う。ただ、それによって、方針を変えることはない、というのはその通りだろう。

 安倍首相の言でいつも気になってしまうのがプーチンを「ウラジーミル」と呼びかけているところ。ファーストネーム外交ってことのようだが、どうにも違和感が半端ない。違和感の源の一つはそもそもが本当に親しいわけでもなさそうなのに、そう述べているところから来るわけだが、ロシア人の場合、ウラジーミルという名前を持つ人はたいていウラジーミルとは呼ばれない、という点も引っかかる点。英語でもロバートがボブになったり、マイケルがミッキーになったりするが、ウラジーミルは「ヴォロージャ」とか「ヴォーヴァ」と呼ばれることが多い。これにはプーチンもちょっと違和感を覚えているはず。ただ、「ウラジーミル」と呼ぶのは多分に国内向けパフォーマンスであり、相手がどう思おうが意に介していないのかもしれない。

 ちょうどこちらのクレムリンのサイトに共同会見と質疑応答の全文が出ていたので、安倍首相がウラジーミルと呼びかけている回数を数えたところ、6回だった。

 プーチンも仕方がないからか「シンゾウ」と述べている箇所があるが、音声で聞くと、言ったか言わないかぐらいの速度で述べており、非ネイティブには正直言われないと気づかないレベル。ちなみにプーチンが「Синдзо(シンゾウ)」と呼びかけているのは以下の一箇所のみ。

Это замечательное место. Я, Синдзо, благодарен тебе за приглашение посетить твою малую родину.

素晴らしい場所で、シンゾウ、君の小さな故郷に招待してくれて、感謝している

 他、ロシア語記事で興味深かった点は、今回の日本の提案が「日本のトロイの木馬」として警戒されている面があること。日本に人が余っていて活力にあふれた社会であれば、大挙して北方領土に人の波で「攻め入る」という戦略もあっただろうが、民主主義社会である日本で自らの意志でわざわざ日本での快適な生活を捨てて、北方領土のような不便な場所に移住する人はそれほど多くはないだろう。これはロシア側の杞憂ではないかと思われる。

 「シリア問題ではロシアを支持(ロシア側発表)」という日本語記事が出ていたので確認したところ、ラブロフ外相の言として、以下のような発言があった。

Абэ обсудили ситуации в Сирии и на Украине.
Здесь у нас позиции практически совпадают.

プーチン・安倍両首脳はシリアとウクライナ情勢について議論した。この点につき、我々の立場は実質一致している。

 かなり雑な発言だが、国際社会に向けた発言としてまんまとミスリードされてしまったようだ。いや、実際に会談で一致したんかもしれないが、その辺りはこの件についての発言が確認できなかったので分からない。

 こちらに交わされた文書の68項目に及ぶリストがある。今の私の関心分野である、林業や木材関係でいろいろと目を引くものがあるが、他にも、ロスアトムと経産省・文科省との間で原子力の平和利用に関する覚書が交わされているとか、富士通とロシアのソフトウェア会社でOCRソフトなどを開発しているABBYYが人工知能による多言語文書処理で協力とか、モスクワ大学と東北大学が協会設立で合意、など広範囲な分野で日ロ協力が始まる可能性がありそうだ。ロシア流に慣れていないと、当初はいろいろと戸惑うことばかりだろうが、人的交流が拡大することは相互理解に役立ち、それがくだらない誤解に基づく諍いを未然に防ぐ効果があるだろうから、すべてうまくいくわけではないだろうが、よりよい未来につながる成果が残せるといいと思う。

 ちなみにこちらの毎日新聞のサイトに全リストが出ている。ロシア政府側はすぐにこうした文書リストをアップしてるのに、日本政府側はちょっと探したが、見つけられなかった。今、河野太郎大臣が規制改革の一環で研究者の皆様へと題して、大学のローカルルールをまとめるなどして、非合理的な役所文化に切り込んでいるが、こういうところは後進国で、諸外国を見習って欲しいところ。

(つづく)

プーチン大統領訪日を機に北方領土問題や今回の日ロ首脳会談について思ったこと(1)

 プーチン大統領訪日の日程が終了した。アウェイであるにもかかわらず、遅刻術を多用したプーチンに終始ペースを握られ、領土問題についてもさして進展はなく、日本国内ではがっかりした、という意見が多いようだ。私はこの件についてそんなには追えていないが、北方領土問題や今回の件について思うことを書いてみる。

 ロシアに関わったことのある人なら誰でも、とっとと平和条約を締結して、関係を普通にしてほしい、と思ったことがあるはずだ。二国間関係が時の政治の影響で良くなったり悪くなったりすることはよくある話だが、ロシア(ソ連)とは良くなったことが戦後一度もない、と言ってよいだろう。なので、どんな形であれ、こうした膠着状態を打開しようとする関係者の努力には敬意を表するものである。

 今回のプーチン大統領訪日で日本側はあまり成果を得られなかったが、長い道のりの第一歩を踏み出すことはできたとはいえるのだろう。今回、運が悪かったのは、トランプ大統領が誕生し、このタイミングで親ロシアともいえる実業家が国務大臣に据えられたことがあり、ロシア側が譲歩しないことのちょっとした追い風にはなったであろうし、中ロ関係もまずまずの状態を保っていることなど、ロシア側が歩み寄るインセンティブがなかった。

 去年の9月の日ロ首脳会談で手応えがあった、ということが報じられ、日本側に前のめりの姿勢が見られたが、その後、トーンダウンしていった。これは「領土問題解決に対する過剰な期待」を抑えるためだった、とのことだが、どうしても、ロシア側に一旦は乗せられたものの、はしごを外された感が否めない。

 数少ない成果といえる共同経済活動については、相手が例えば同じ東アジアの島である台湾など、文化的バックグラウンドが比較的近い国(地域)ならともかく、メンタリティやら文化・宗教など生活習慣がまるで違うロシアという国との間で実施するのは、現実的でないと言わざるをえない。かつて社会主義陣営にあった国の商習慣は日本とはまるで異なっていて、行政なども賄賂の授受は当たり前で、そうした国の人々は賄賂を渡したり受け取ったりするのに慣れているものだが、日本も昔はあったとはいえ、そうした国相手のビジネスに慣れている商売人ならともかく、日本の通常の企業の商習慣とはいろいろと相容れない。これはあくまで平和条約締結するための道程の一つに過ぎず、一過性の試みに終わる可能性があり、あまり永続的なものとして制度設計すべきでないだろう。

 また、「特別な制度」が大きな穴となって、様々な物や人が日本国内にも入ってくることになるだろうから、この制度が日本の社会にとって、忌むべきものとみなされる恐れもあるように思う。それは日ロをますます遠ざけるものになるだろうから、その特別な制度は日本のともロシアのとも違うものにしないといけない。しかし、そうすると、ビジネスそのものが大変めんどくさいものになり、まったく盛り上がりにかけるものとなる可能性がある。そして、こういう場合、機を見るに敏な黒い紳士たちがわんさかやってきて、おいしいところをかっさらう、ということになりがちで、まともな企業ほど二の足を踏む、ということになってしまう。

 今回は信頼醸成の第一歩という位置づけだろうが、そもそも制度がロシア側のいいようにコロコロ変わる可能性があり、日本のメンタリティとしてそうしたやり方に信を置くのは困難でむしろ不信感が醸成されてしまう可能性もある。

 BBCロシア語のサイトに以下のような識者の意見があった。

Японская элита прекрасно понимает, что Россия два больших острова никогда не вернет, поэтому они готовы взять максимум – два маленьких. Но как объяснить обществу, что они навсегда отказываются от больших островов?

日本のエリートはロシアが二つの大きな島(択捉・国後)を決して返さないことをよく分かっているので、可能な最大(二つの小さな島、つまり色丹・歯舞)を取ろうとしている。しかし、どうやって二つの大きな島を永遠に放棄することを国民に説明すればよいのか。

 政府広報等で一般国民向けに「北方領土は日本固有の領土です」と言い続けてきたが、そのツケが今回ってきた、と言えるのかもしれない。今も四島返還以外に認められない、という向きもあるが、ポジショントークってやつだろう。

 私も折に触れて北方領土関連の本などを読んできたが、最終的な着地点はもう二島返還しかないのではないかと思う。戦争に負けたこと、アメリカの庇護下にいることで繁栄を一時謳歌したこと、時間が経過しすぎたこと、などがその理由だ。

 アメリカは今回の会談でも宗主国よろしく、日本側を牽制する発言をしているが、これまでの日ソ・日ロ交渉でもアメリカは大きな役割を果たしてきている。特に、今回プーチン大統領も会見で言及した、いわゆる「ダレスの恫喝」がそれなりに効いているのかもしれない。

 北方領土のロシア人住民は三世代目に入っており、すでに島々は彼らにとっての故郷となっている。仮に返還されたとして、彼らを退去させるのか。それは元島民も本意ではないと述べており、ロシア国籍のまま住み続けることを認めることになるだろう。返還後、北方領土に引っ越して居住する日本人はどれほどいるか。一時的にビジネス絡みで滞在する人は多数出るだろうが、多くは単身赴任で、一家で引越しするような人はほとんどいないはずだ。とすると、外国人が多数を占める地域が日本国内に出現することになる。二島返還の場合、色丹島が返還されることになるが、人口はWikipediaロシア語版を見ると2820人とある。在日外国人が多数を占める地域は確かに存在するが、そうした地域には日本人も混じっており、一行政区がほぼまるごと外国人で占められるような場所は戦後なかったはず。ロシア系住民と日本人との間で揉め事が起こらないとも限らないが、一体、どのように処理していくのか、事前によくよく検討しておかないといけないだろう。

(つづく)