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地域再生の現場でのよそ者の意見

 先日、オコナイという祭りに参加した時に、普段はここに居住していないが、行事や草刈り人足の時などだけ顔を出される方と過疎化が進む地域の今後について話す機会があり、いろいろと考えさせられた。

 その方はこの地域で生まれ育った方で、子育てもしばらくはここでしていたが、子どもの教育のことなどなどで街に移住された(ちなみに滋賀県内での人口移動はほとんどがより京阪神に近づく形となる北から南への移動となっている)。

 その方曰く、地域の今後については、自分が実行部隊として関わることが事実上無理であり、そういう状態で意見を述べるのは無責任の誹りを免れず、自分としてはここに住む人たちが決めたことをとにかく応援していきたいと思ってる、ということだった。

 私は、うーん、とうなってしまった。そこまで「重く」考えていることに驚いたのだった。意見を言うことはむしろいいことだと思ってもいるので。「ここから出た(逃げた?)」という負い目があり、そうした感覚になるのか、とも思ったのだが、私なんかよりも深く地域に関わってきた分、見えるものも違っているのだろう。

 一応、私も子どものときから夏休みや冬休みになるとここに来て、大半の期間を過ごしていたものの、住み始めたのは 20代後半からで、しかも長期に出たり、一時、住所移転などもしたりしていたので、常時居住者とは言い難く、消防団なども免除してもらっている立場であり、地区の何年にも渡る長期間の事業や試みに積極的に関わることはしてこなかったし、今後もちょっと難しいと思っている。そういう立場なので、私も基本的なところはその方と同感なのだが、ここのところ、歯が抜けるように地区の中心的メンバーが亡くなったり、居住地を街に移す動きが出てきていて、このままでは本当に地域消滅の事態を私が生きているうちに迎えてしまうのではないか、という危機感が芽生え始めたところである。

 折しも、中央では「選択と集中」という名のもと、無駄にコストのかかる過疎地を切り捨てようとする動きが出ており、内外からじわじわと消滅の脅威にさらされているのが実情である。

 こうした中、どのように地域の今後を決めていくのか、住人の方でも焦燥感はあれど、どう動いていいのかわからない、というのが正直なところではないかと思う。ここでも行政や外部の有識者、大学関係者の方々が地域を盛り上げようとこの地域にコミットする動きが出ているものの、地域の方では危機感はあるが、「よそ者」(あえてこの言葉を使う)とどのように接していけばよいのか、決めかねている面もあって、事態は流動的である。

 このあたり、事態は「心理戦」の様相を呈している、という話もあって、将来が見えない状態が続くと、前途ある若い世代や子育て世代が見切りをつけ、さらに地域消滅を加速させてしまう可能性がある。そして、その動きがすでに始まっているように思う。

 私自身、身一つであれば、ここをベースにして生きていこうと思っていたのだが、はからずも妻子を養う立場となり、子どもの教育や嫁さんの仕事のことを考えるとここに住み続けるのはちょっと現実的ではない、と考え始めているのが正直なところだ。

 では、どうしたらいいのか。このまま地域が消滅するのを手をこまねいて眺めているしかないのか。

 私はやはり地域外の人を巻き込んだ動きを始めないと未来がない時期に来ていると感じている。長らく地域のことで動いてきた方いわく、この地域では都市部などからIターン者を受け入れようにも、そうした土壌がまだ出来てない、とのことで、空き家に地縁のない人を受け入れるにも、家の仏壇をどうするのか、隣近所のつきあいや役を同様にやってもらうのか、などなど、いろいろと現実的な課題がある。特にここの特色は「真宗地帯」と呼ばれ、地区の行事が宗教行事と一体化しているところがあって、都会の人の感覚では受け入れがたい面もあるのではないかと思っている。もっとも、その辺りは事実上、外部の人がそれぞれの「嫁さん」「旦那さん」という形で集落に入っていて、すでに多数派となっており、配慮や遠慮があって、もはや昔の田舎のイメージにあるような「参加強制」はほとんどなくなっているのが現実なのだが。

 オコナイの場では、さらに、ここには住んだことはないが時々村の行事に参加する方も議論に参戦してきて、もう少し広い視野で物事を見てはどうか、という上から目線的なことを言ってきたので、3人で激論になったのだが、3者の間に大きな溝があるのを感じざるを得なかった。

 結局、外の人の意見はそれはそれでもっともで立派なものが多いのだが、現実的かどうかという点では必ずしもそうではなく、いかに住人の意見に耳を傾けて、受け入れ可能な案を出せるかにかかっているんじゃないかと思う。とはいえ、せっかくの意見を無碍にし続けていると、村のことを思って関わっている人も、なんでこんなに思っているのに、報われないのか、という「片思い」状態に耐えられず、自然と足が遠のいていく、ということになりかねず、それは双方にとって不幸なことだろう。

 外部の人が自分の意見を受け入れてもらうようにする手っ取り早い方法は足繁く通うこと、これだけで多分十分なのではないかと思う。そして、草刈り人足に参加するなどして「一緒に汗をかく」こと。そうすると、この人の言っていることは村の未来にとって少なくともマイナスではなさそうなので、一丁乗ってみるか、という気にさせられるんではないかと思う。

 私は山間地で水量も豊富なこの村で、今年から今まで難しかった集落内の用水路整備への補助金が出るようになったとのことで、小水力発電を導入してみたいと思っているのだが、どこまで主体的に関われるのか、と問われるとなかなか……な状態で自分の課題も山積みな中、そんなことに手を出せる状態ではないのだが、出来る範囲の模索はしていきたいと思っているところ。

 ふと、ここで福島の状況にも似たようなことが言えるじゃないかと思ったのだが、また今度ということで。