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東京に住んだことのない田舎者は東京のリアリティがわからない(たぶん)

 昨日のエントリーで都市部の住人は田舎のリアリティがわからない、と書いたけれども、逆に田舎者は都会のリアリティが本当に分かっているのか、というと、私個人の話としては、京阪神とか名古屋についてはわからないではないが、東京のリアリティは正直なところよく分からない。(私が果たして田舎者なのかどうか、という件についてはここでは脇に置いといてください)

 私は東京に住んだことがないため、東京から一歩も出たことがないタイプの東京人の知り合いがほとんどいない。そのためか、私の東京のイメージは、メディア等からよりも、リアル知人から聞く東京の話に影響されているようだ。私は関西圏が出たことがないため、東京に住んだことのある/住んでいる関西人からの話を聞くことが多いのだが、一般に関西人は東京をあまり好ましく思っておらず、ややネガティブな印象を持ちがちとされていて、さらには話を盛ったりしがちでもあってw、東京は冷たいとかいう話を自身の数少ない経験からも、まあそんなもんかなぁ、と思ってしまっている。

 ただ、東京は一般に田舎者の集まりだとも言われていて、今や日本のみならず世界中から人を集める世界有数のメガロポリスであり、たまに行くとその多種多様な人々の群れに圧倒されてしまう。子供のときからこうした文化の中で生きていくということが何を意味するのか、小学生時代の一時期だけ東京に住んでいた知人曰く、「小学生時代から大人顔負けの情報のやり取りを普通にやっていて、ついていけんかった」のだそうで、今でも東京の人と話してて思うのは、手持ちの情報を互いに出し合うやり取りが多いなぁ、という印象を持ったりしている。関西圏だと話にオチをつけることが多いのだが、東京人の会話はそういうオチは目指さずに互いに情報をやり取りすることに面白みを感じている人が多いイメージ。

 よく言われるように東京人には生粋の東京人と上京してきた東京人の大きく二種類あって、想像するに、それぞれ交わりは当然あるだろうけど、居心地のよさを感じるのは同じ境遇の者同士ではないかと思われる。そして、上京東京人と生粋東京人の間にある壁は実は巨大で文化資本から何から圧倒的に差があって、生粋東京人の真似は上京東京人にはよほど無駄に苦労を一杯しないと無理なのではないかと思われる。

 今、育児中ということで思うのは生粋東京人の育児は上京東京人の育児と違って、実親が頼れる、という非常に大きなアドバンテージがあり、つい先日も子供の風邪が親に移って、大変だったのだが、そういう場合に無条件に子供に愛情を持って無料で見てくれる人が近くにいる、という安心感があるのとないのとでは大きな差がある。親が近くにいると保育園入所ポイントがいくらか下がるのだろうが、それでも入れる場合が多いだろうし、その辺り、情強ぶりをいかんなく発揮して、うまく立ち回ってるんだろうなぁ、と想像というか妄想してしまう。

 一口の東京といっても、区によって大きく雰囲気は異なっており、俗に山手線の内側云々の話があるが、区ごとにそうした細かいイメージの違いがあるものと想像される(私はそうした話を知識としてちょっとは知っているがたいていは何の生産性もない話に落ち着くので、積極的に知りたいとは思わないけれども)。

 東京人の弱みという点では、周囲にすごい人や環境がありすぎて、良くも悪くも「井の中の蛙」になれず、無知の強みが発揮できない点にあるのではないかと思っている。生粋東京人からすると上京東京人がガツガツしてて怖いみたいなイメージがあるみたいだが、良くも悪くも洗練されているが故の弱さのようなものがあるように思う。

 巨大で強いものは多少ディスってもいい、というのはちょっとあって、東京disも多少入れつつ、縷々述べてまいりましたが、毎度言うことだが、東京の人は多様であり、例外だらけと言ってもよく、母数が私の数少ない東京体験という、頼りない統計であり、あまり特段述べることもないのだが、なんとなく昨日の流れで書いてみました。

 あと、東日本への引越を検討中ということもあり、行く前に東京について覚書的に書いておこうかな、というのもあって。

 嫁さんは東日本の人で、しばらく関西で「我慢」してもらったこともあり、ホーム&アウェイで私が我慢する期間もあっていいのでは、と前から考えていたのでした。仕事を滋賀南部ですることを検討していたんですけど、一旦ここでの仕事探しを中止し、東日本での仕事を探そうと思っております。なんかいい話あったら、ご一報いただければうれしいです。

「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の読後感想文。

 前回は学童集団疎開で発生したいじめの問題を主に取り上げたが、この本で私が興味深く読んだところは都会と農村を巡る部分だった。著者の浜館菊雄氏は1902年青森県生まれで青森の師範学校卒だが、1934年に東京へ移り、その後ずっと東京住まいで、主に音楽専科教師をつとめたと奥付にある。つまり、東京以外で生まれ育ち、東京に移って10年ほどでこの学童集団疎開に立ち会ったことになる。都会育ちではないため、都会に対し辛めの感覚を持っていた可能性はあるが、都会しか知らない人や田舎しか知らない人ならともかく、両者を知っている人は、双方の悪い部分も知っており、それを踏まえた感覚であるので、特に偏っているわけではないだろう。

 著者は最終章で学童集団疎開事業を振り返り、以下のように述べている。

 「とくにわたしくは、農村婦人会のかたがたの誠意と愛情を忘れることはできない。それはもっとも純粋なヒューマニズムの現われであった。わたくしたちは、副食物について、調味料について、間食について、万策つきた時は、この人たちの愛情、この人たちの母性愛に訴えるしかなかった。わたくしたちは、しばしばこの人たちによって急場を救われたのであった」

 疎開中、食料配給を待っていたのでは飢えるばかりであるため、荒れ地を開墾したり、馬も食べない毒草と地元で思われているギシギシという野草をみんなで集めて食べるなど、子どもたちを生き延びさせるため出来る事はすべてやったという感じだが、結局、どれも腹の足しにはならず、最終的には地元の方の好意に甘える以外に方策はなかった、ということだったようだ。

 もちろん、農村部の人々とて、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、それぞれが出来る範囲でしか出来ず、積極的に支援しなかった人の方が大勢であったろうし、農村部の人たちが素朴に全員善人だったわけでもないだろう。ただ、こうした難局にあって、人間性がモロに出る、という面はあり、都会の親御さんについて、著者は「疎開児童の父兄の態度、物の考え方は、じつに徹底した個人主義の現われであった。自分の子ども以外にほかを省みる精神的余裕はまったくなかった」と述べており、農村部の好意と好対照をなしていると言わざるをえない状況があったことがわかる。

 また、親であれば、自分の子どもと面会を希望するのは当然であるが、一度に全員の親が揃って面会出来るならともかく、そんなことは出来ないため、子どもへの悪影響が大きく、順番制となっていたようだが、「もぐり」で来る人が後を絶たず、禁令を破って、こっそり食料を渡す親が出たり、面会後、帰京して悪い噂を流す親も相当いたようで、著者は以下のように述べている。

「面会していった父兄たちの現地報告はきまって良くなかった」「その人たちの語るところは、流言となって広がるのであった。根拠のある話よりも、根拠のない話のほうがかえって真実性があるかのように伝わるのは、このような時局にありがちなことであった」

 こうした「もぐり」面会については教師の間で許可すべきでないと主張する強硬派もいたようだが、来た親を無碍に追い返すわけにもいかないので、本人に気づかれないように、寝ているところや、登校の様子を隠れて見る、ということで著者と親が折り合いを付ける場面など、毎日襲い掛かってくる難局を工夫して乗り切る様子が描かれている。

 また、通信の検閲が実施され、検閲というと、今や表現の自由を犯す悪いものの代名詞であるが、子どもが子どもの表現で実態とは異なる実情を述べることで家庭に不安を与えるのを防止する、という目的があり、これはこれで分からないではない。実際、ありもしないことを子どもが手紙で書いて問題になることが多かったため、検閲が実施されたようなのだが、「手紙を検閲して都合の悪いことを書かせない」との不信感を生んだようだ。

 都市部と農村部の子どもの違いについて、著者は「勤労作業の根底をなすものは、協力精神である。都会の子どもには、この精神がかけている。このような境遇におかれてすら、かれらに精神的な融和、団結ができなかった」と述べ、また「わたくしは村の子どもが、勤労作業中に疎開の子どもに示した心からの親切、同情の表われをたびたび目撃している」とも述べており、農村部と比較して、都市部の子どもがより個人主義的な行動を取っていたことが報告されている。

 私事にわたる話だが、都市部と農村部のこうした違いについて私が興味を抱いたのは、私の祖母が当事者として、このような狭間に立たされたことを話していたことがあったからだった。私の親世代は戦中時代をよく覚えており、子どものときから、さつまいものつるなどを食べてしのいでいたことをなどを聞いていて、農村部といえど、食料供出で多くを持って行かれてしまう中で、苦労していたことを聞いていたが、晩年の祖母の話によると、都市部の遠い親戚が子連れでやってきて、子どもがひもじそうにする姿を見せつけて、自分の子どもに与える食料もないのに、残り少ない食料を奪うようにして持っていった、ということがあったらしかった。その都市部の遠い親戚は戦前に法事でやってきたときに自分の「モダン」ぶりを自慢して田舎をバカにしていたらしく、その悔しさがあったようで、戦後、特に「あのときはおおきに」的なことをゆうてくるでもなく、音沙汰がなくなった、とも言っていたのだった。

 これは極端な例であるかもしれないが、そんなこんなで都市部の人が農村部に関わる問題に上から目線で口を挟むことに対し私は大変腹立たしく感じるようになってしまった。私自身もどちらかといえば、都市部の感覚強めの人間なので、こんなことを田舎側に立って述べる資格はないのかもしれないが、いざというときに都市部の人間はこうした行動をする、ということは、私の深いところに刻み込まれたようで、農村部を大事にしない人のことは基本的には信用できない。昔、大阪に住んでいた時、「この前、電車で滋賀に行ったけど、ずっと田んぼ田んぼ田んぼで田んぼばっかやな」と言われ、その「田んぼ」の言い方がいかにもバカにしきった言い方だったので、カチンと来て、食糧難になってもお前には絶対分けたらんからな、と深く心に誓ったのだった。

 ちょっと話が脱線してしまったが・・・、次回は、それ以外に興味深かった点に触れてみようと思います。

(つづく)

「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて

 浜館菊雄著「学童集団疎開」という本を読んだ。

 いじめにより、子どもが自殺するという痛ましい報道がつい最近もあったところであるが、子どもの陰湿ないじめは戦後の高度成長が一段落し、皆がある程度豊かになった辺りから出てきた問題かとなんとなく思っていたが、この本を読んで、戦中からすでにあったことを知った。軍隊での新兵いじめの話は映画や小説などでよく出る題材でそういうのが日常あったことは知っていたが、子どもの間で仲間はずれにしたりして精神的に追い詰めるようないじめが戦中からあったことをこの本を読んで初めて知った。

 この本は某古書店で100円で売ってるのを見かけてなんとなく買った本だった。福島第一事故直後、集団疎開を提案する動きが出はじめ、私たちが初めて2011年4月に福島入りしたときも、主目的の一つは集団疎開は無理としても、希望者だけでも子どもたちの一時避難ができないか、という件で現地の意向を聞きに行く、ということであって、自治体の社協などを訪れたりしたのであるが、その後もずっと疎開について、あの状況で可能だったのか無理だったのか、しなかったのは正解だったのか、した方がよかったのか、私の中でも未だ結論は出ていない。ただ、今後、原発事故など想定外の事態に対し、集団疎開が今の時代に現実的なのかどうか考えておきたい、という気持ちはずっとあって、ここのところ、育児の合間にちびちびと読んでいたのだった。

 読後感として、疎開は様々な問題が噴出し、大人にも子どもにも大変な肉体的・精神的苦痛を与えるものだ、ということがよくわかった。特に子どもの精神的動揺の問題は大変大きく、担任として子どもと直に接してきた著者は以下のように述べている。

「わたくしは疎開の頭初には、その訓育的効果に期待をもっていたのだった。(中略)。わたくしは、ある理想をいだいて臨んだのであった。しかし、事実はより以上に厳しく、環境と生活状態の急変による子どもたちの精神的動揺は、わたしくにとっても大きな動揺であった。わたくしの夢は破れ、きゅうきゅうとして子どもたちの精神を平静にし、その心に喜びの灯をともしてやりたいという消極的な仕事に終始してしまった」

 そして、食料調達の問題も大変大きく、そのことがいじめの問題に大きく影響したこと、また、父兄との信頼関係がゆらぎ、いくつものデマが生まれ、相互不信状態に陥り、中途で子どもを集団疎開生活から離脱させる親が続出したことなども疎開が簡単ではないことを物語っている。

 この本で描かれている疎開について述べておくと、世田谷区の小学校児童が長野県に疎開にいったときの記録で、1944年7月17日に疎開通達があり、翌々日には疎開列車に乗っている翌々日までに参加するかどうか決めるように言い渡された。そして、約1ヶ月後の8月12日に出発している。この猶予のなさについて、著者は時間を与えてしまうと疎開自体がうまくいかなくなるため、当局がそのように設定したのだろうという推測を述べている。

 疎開はまず旅館に寝泊まりし、その旅館の部屋で授業が行われた。その後、工場移転に伴う危険を避けるため、再疎開が行われ、より山深い農村の寺に宿泊することになり、そこで終戦を迎えることになる。学級は3年から6年を男女別8つに分けられ、担任もそのままという形で行われたので、教師と児童の間の問題は少なかったようだ。

 1945年4月から東京では学校が閉鎖され、低学年の児童も疎開組に入ることになり、ただでさえ「疎開病」という精神的退行状態に陥る子どもが多い中でさらに困難が増した。勤労奉仕で飛行場建設現場に行ったり、農作業や薪運搬作業に駆り出され、教育が満足に行えない状態が続く中、玉音放送が流れ、その後すぐ続けて流された解説放送で、集団疎開は来年3月まで続行とアナウンスされたが、実際には11月1日に帰京できた、とある。

 この本を読む前の私の疎開のイメージは、都会の子が田舎に行き、村の子どもたちにいじめられる、というものだったが、この本を読むと、むしろ疎開児童同士の間のいじめがひどく、村の子どもとはそんなに深い交流があったわけではなかったことが伺えた。ただし、これは集団と単独の疎開の違いでもあるかもしれず、親に連れられての疎開の場合はまた別の話かもしれない。

 著者によると「本書の刊行を思いたったのも、この子どもたちの内面的な苦悩の姿を幾分でも表わしたいという願望があったから」とのことで、いじめのことを「特殊な異常行為」と表現していることから、当時としてはこの問題が異例であったことが伺われる。

 この本には22の章があるが、10章目に「教育の盲点」という章があり、それがいじめの報告となっている。ちょうど重松清の「ナイフ」の「ある日突然、クラスメイト全員が敵になる」みたいなのが、この時代にすでにあったことが描かれている。教師も含め大人がまったく見抜けなかったとあるので、この時代では子供同士でこうしたいじめがあることは稀だった、ということだろう。そして、「子供の精神衛生面を重要視できなかったといことが、決定的な落度といわなければならないのではなかったか」と述べている。

 上級生が下級生をいじめる例が多かったようで、少ない食べ物をめぐっての争いで上級生が巻き上げるなどがあったとのことで、面会の折に親がこっそり渡す食物も上納しないといけないなどの厳しいルールがあったようだ。また、みんなで一人を無視するいじめもあり、無視の仲間に入らないと今度は自分が標的になる、という点も今のいじめと同じで、集団生活で生じるいじめに時代は関係ないようだ。また、男児より女児に排他性・残忍性が強く出たとあるが、今の集団生活は多くの場合、男女別でないので、どうなんだろうか。

 本書ではこうしたいじめが起きた原因の一つとして、班編成にあった可能性が示唆されており、隣組での班編成が基本であったが、どうしても部屋によって、あぶれる場合も出てきて、その場合、意地悪な子が敬遠される傾向があって、そうした「問題児たち」がいじめる側に回ることが多かった、という事情があったようだ。

 そうした閉鎖空間にあって「疎開病」になり、精神的不安の蓄積が肉体に影響して病弱になる子どもが続出した、とのことで、そうした子どもは、親元へ戻すとただちに「疎開病」が治ることが記されている。このことについて、著者は以下のように書いている。「子どもたちの日ごろの元気の根源というものは、家庭生活にあるのだということを、しみじみと観ぜざるをえないのである。まことに、家庭こそ子供の魂の宿るところなのである」

(つづく)

田舎と都会と福島と東京と

 「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん という記事が話題になっている。

 こうした発言自体、勇気のいることだと思うし、こうして行動に移したこと自体素晴らしいことだと思う。そして、福島が多様である、というのももっともな話で内容も基本的には同意する。ただ、どこかひっかかる点があって、どこかなー、と考えていたのだが、一つ気づいたのは、都会の人特有の田舎見下し感があることで、これもご本人が率直に以下のように述べていることからも、伺える。多分、福島に通うことで、少しずつ消えていったのだろうけど。

自分で認めるのはつらいのですが、心のどっかで福島の人を見くびっていたのでしょう。「たぶん、真実を知らないのではないか」「放射線に慣れてしまっただけでないか」と。

 確か震災後2年目ぐらいの時だったか、福島に行った時に首都圏の都市部から初めて福島に来た、という方と福島の人の放射能リテラシーについて、軽い口論になった。私からすると、福島の放射能被災地に住む方の放射能リテラシーが高いのは自明のことだったのだが、その方は福島の人の放射能リテラシーが低いと本気で思っていることがうかがい知れた。途中で「もう話してもしょうがない」と話を打ち切られてしまったのだが、その方は話している分には偏った考えを持っているわけでもなく、とてもよい方だったので、そのことが余計に私には新鮮な現実として感じられた。

 あと、これは関西でのことだが、集まりで福島に何度か足を運んだことについて話をしていた時に、ある関西都市部在住の方がこんなことを言い出した。「福島で鎌を持って追いかけられへんかったか」 最初、何のことを言っているのか分からなかったが、田舎者を揶揄するのにこうした物言いをしている、ということにすぐに気づいた。福島も郡山とか私からすると大都会の雰囲気なんだが、福島というだけで田舎認定、という有り様なのだ。

 私は田舎者歴が長いので、こういう都会もんの田舎者見下し発言には敏感な方である。都会もんが田舎もんを嫌う理由として、もう少し上の世代だと、戦争疎開の時にいじめられた経験があったりして、いくらか同情の余地はあるのだが、現行世代の田舎に住んだことのない都会もんにとって、田舎のリアルを理解するのはちょっと難しい、というか、基本的に無理なのではないかと思っている。都会もんが田舎にきて、「田舎いいなぁ、こんなところに住みたい」なんて言うことがあるが、残念ながら、それは本心ではないだろう。なぜなら、多くの場合、実際に田舎に移住するわけではないので。

 では、その逆はどうかというと、多くの田舎もんは都会のことを結構知っていて、私自身も大阪に数年住み、通勤もしていたこともあり、実感としてもよく知っている。この非対称性は割りと重要で、何かにつけ、地方創生などとお上が掛け声をかけているが、そのグランドデザインを描く側にいるのは、地方のリアルを体感したことがない都会もんだったりするわけで、その実効性は田舎側から見ると言葉ばかりが上滑りをしている危ういものに見える。

 東浩紀氏他の「福島第一原発観光地化計画」も、購入して一読したが、そういうのを如実に感じた。ある人が「アートっぽさ」が鼻につく、というような表現をしていたが、東京のお洒落文化人が福島をネタに話題作りしてみました感が満載で、関わった人たちはそれぞれ真摯に対応しているおつもりなのだろうけど、この地方と都会の非対称性を論者の多くは理解してないんじゃないかと思わざるを得なかった。

 ただ、私としては、そういういただけない面があるとして、こうした試み自体はよいことだと思っている。原発事故のように触らない方が無難、ということになりがちな事柄については無関心よりは話題になる方がよいと思うので、どんな話題であれ、いろんな考えの人が自分の考えを述べること自体、歓迎すべきことだと思う。そんなわけで、こうした多くの人が肯定するような記事に対し、ひっかかった点を述べることも大切ではないか、ということで、ゆうてみました。

追記:私は都会のリアルについては、大阪・京都・名古屋・神戸についてはいくらか知ってますが、東京や他の大都市のリアルについては正直わかりません。あと、都会に日帰りで行けるようなところに住んでいながら田舎者面するな、という声には、中途半端な田舎者ですいませんとしか……。