苦労や挫折が人に与える影響

 さて、1月も半ばを過ぎた。単調な毎日なのだが、ブログを書いている余裕などなく、どんどん月日が過ぎていく感じで。。。

 いちおー、出来るだけ毎月一つはブログアップしようとしていて、なんとなく日々思っていることを書きとめておく。

 昨日、たまたま コミュ力もリーダーシップもいらない。Googleが考える、本当に“優秀な人材“とは という記事を読んだのだが、以下のような記述があり、ほーと思った。

何年も試行錯誤を続けて「結局、何がパフォーマンスに繋がるのか?」を社内で研究しました。

まずわかったことは、Googleでは、「どんな大学を出たか」は入社後のパフォーマンスと相関関係がなかったことがわかりました。

次にわかったのは、「これまでの人生で苦労をしたかどうか」でした。人生の中で、戸惑ったり、脱線したり、事故にあたり、病気になったり、浪人したり、好きな人を失ったり…。

そういった苦労した人たち、挫折した人たちは、会社のなかでパフォーマンスを発揮していました。

挫折というのは、自分自身を見つめ直すチャンスです。アイデンティティを作り直す機会でもある。次のチャンスを、自ら探しに行く必要があると考えられるかどうか。

 戦争などの集団的なものであれ、上記の例のような個人的なものであれ、苦労や挫折というのは、進んでするものではないと私は思っているのだが、生きていると否応なしにそうした経験を多少なりともすることになる。その中には自ら招いた場合もあったりするが、そうではなく、自らの意志ではどうにもならない圧倒的な力で自分が侵食されるような経験というのがあって、そうした経験があるかどうか、というのは結構重要ではないか思う。

 私の交友関係には苦労知らずのボンボン系の人はまったくといっていいほどいない。私が嫌いだし、あちらもこちらとは考え方が違いすぎて、仮にしばしやりとりしても、フェイドアウトしていくことになるみたいで。

 苦労知らずでも、いい感じに謙虚さを持ち合わせてる人もいて、そういう人たちはいいのだが、概ね苦労知らずの人たちはムダに強い言葉をはきたがるし、自己顕示欲がそうさせるのか、ちょっと偏ったことや過激なことを言ったりするものの、私の胸には全然響かない。そのくせ、妙にプライドだけは高く、ちょっとしたことで大の大人にもかかわらず傷ついたりするもんだからめんどくさい。

 最近、ネットやテレビの話題を追うのがしんどい。ニュースを読むのにも「スルー力」が試されていて、面倒な世の中になったもんだなぁと思う。炎上狙いの人とか悪目立ちする人たちの方が「数字」が取れるもんだから、どんどんそういう系の人たちがメディアやネットで重用される悪循環となっていて、どうでもいい人のどうでもいいコメントを読まされ続けることになる。

 良記事も日々発信されているはずなのだが、なかなか発掘する暇が取れない私のところまでリーチしては来ない。何か自分が必要とする情報をいい感じに取捨選択できないか、などと最近よく思うが、なかなかそういうのを模索してる暇もない。IFTTTとか使って上手に取捨選択してる人もいるみたいだが、なかなか。。。

 いつからこういう感じになったんだろうか。ここで、唐突だが、第二次世界大戦を知る世代がほぼいなくなった、というのが、今の状況の遠因ではないかと考えてみる。いや、1945年以前生まれの人はまだまだ存命中ではないか、と言われそうだが、敗戦時にまだ子供だった人と実際に戦場に行っていた人や家族への食料調達その他諸々の責任があった人とではその意識に大きな隔たりがあると思う。

 私が学生時代によく読んでいたシリーズに「現代文学の発見」ってのがあって、その中に「証言としての文学」という一巻があるのだが、その表題からするとノンフィクション系のが集められていることが想像されるものの、実際に収められているものは、ほぼ戦争を背景にしたものばかりなのだった。そして、どれもが極限状態での人間の行動を描いていて読後もずっしりと自分にのしかかってくる。私は戦争などもちろん知らないのだが、やはり戦争体験をした世代というのは、絶対に戦争は嫌だ、という信念があり、それが共通体験として共有されていたんだろう。そうした意識が諸々の判断をする際に歯止めとなり、最低限の倫理観が相互に働いていたように思う。

 その後続世代はそういうのがないので、倫理観もへったくれもなく、結局、数字ぐらいしか依拠するところがないので、数字で功績をあげた人が重用され、そういう人がさらにそういう人を重用するので、効率や利便性ばかりを求める今のような世の中になった、ってところではないだろうか。

 多分、これは世界的傾向でどこも似たようなもんだから、フェイクニュースがどの国でも幅をきかせてるようだが、話を戻すと、グーグルのような最先端企業で上記のような社内研究結果が出ていた、というのは大変興味深いことで。グーグル、アマゾン、アップル、フェイスブック・・・、などなど、IT界の巨大企業はどこかうさんくさいところがあるのだが、その中でグーグルは私の中では「邪悪になるな (Don’t be evil)」というのを社是に掲げているだけあって、他の3社よりはちょっとだけマシなんじゃないかと思うことがある。グーグルには完全に私の生活が把握されてて、悪用されたら怖いんだが、今のところ、信頼しすぎず、利用させてもらっている感じ。

 とりとめのない話ですんません。この週末は物が散乱しまくっている家の大掃除をすることになってるので、今日はこの辺で。

追記: 2015年記事でこんなのがあった。「Don’t be Evil」から「Do the Right Thing」へ、Googleの新しい行動規範が公開されたことが判明 巨大企業になり、グーグルも変わらざるをえないってところだろうか。

ストレングスファインダーというのをやってみたところ、結果は「収集心 学習欲 内省 着想 個別化」となった

 今年も最後の日となった。今年は次男が生まれ、ますます自分の時間が取れない状態が続いているが、長男・次男とも日々成長しており、その様子を間近で見られるのはやはり幸せなことだと思う。(り○んの話とかが現実としてあったので)。

 淡々と平日は仕事をし、休日はたまった家事や育児をこなす日々で、文化や芸術の香りのする事柄からは遠く離れている。そういうものに月一でも触れるようにしたいところだが、今はそういう状態に慣れてしまったのか、欲求自体が少なくなっているようで、そのこと自体はそんなにつらいことではなくなってきた。ただ、いろいろと勉強したいのに時間が取れないのがつらいところ。

 これからどうやって妻子を養っていくかを考えていたとき、普段はあまり読まない書店のビジネス系の本のコーナーに行って見つけた「ストレングスファインダー」という本を買ってきてやってみた。これは自分の強みがどこかを様々な設問から探るというもので、以下のような結果が出た。うーむ、痛いところを付かれたなー、というのが正直なところだった。

  • 収集心
  • 学習欲
  • 内省
  • 着想
  • 個別化

 これが意味するところは、公式サイトストレングスファインダー.comなどを参照してもらうとして、自分の感想を述べておくと、収集心や学習欲がツートップというのは、なんだかなー、ということで、要するにコレクター気質で勉強好きということらしいのだが、ちょっとなんというか、そういうのがトップに来るのが恥ずかしい感じ。

 勉強好きは、あんまり自分ではゆわんが多少分かってたこと。ただ、コレクター気質がある、というのはあまり自覚してなかったかも。自分ではそれなりに捨ててる意識はあるのだが、実際、今の狭い家は本その他諸々でもう収納スペースが厳しくなっている状態で、もっとどんどん捨てていかないといけないのかもしれない。

 他の「内省」や「着想」も「思考資質」であり、こちらのサイトによると「思考資質に4つ以上が偏っている人は、本を読む、情報を集める、分析する、企画を練るなど、人とかかわるよりは1人でパソコンなどに向かって仕事する方が向いていると言えます」とのこと。

 だいたい20代からやってきて、今もやってる仕事は概ねIT関連の仕事で、さらに細かく言うなら、設計からプログラミング、テストあたりまでなのだが、それらは決して不向きではない、ということなのだろう。

 自分としては、特に得意だと思っているのはSQLでDBからデータを引っ張ってきて、あれこれ分析したりするような分野なのだが、実際やっていることは昔も今もコーディングがメインとなっている。多分、気質的には上流工程メインでやった方が自分の資質を活かせるのだろうけど、コーディングをしていない状態というのが嫌なので、この状態は割りと性に合っていると思っている。

 ただ、いつまでもこれで食っていけるんかなぁ、というのはあって、先々のことを見据えつつ、ジョブチェンジを模索しているのだが、結局、世の需要もあり、自分も嫌いではないこの業界がやっぱり第一となってしまう。

 30代半ばから40代にさしかかるまで、個人でドキュメンタリーを制作すべく、チェルノブイリに行ったり、福島にも足を運んだりしていたが、ちょっと今は家と仕事で手一杯でとてもそちらに手が回せない状態になっている。ただ、こちらも、というか、こちらこそ、自分としてはライフワークとしてやり続けたい事柄であるので、育児が一段落するタイミングでまた活動を再開したいと企んでいるが、当面はちょっと厳しい。

 一応、過去映像の整理はスキマ時間を使って、少しずつでも進める予定でおりますので、関係各位の皆様、ご迷惑をおかけしておりますが、気長にお待ちいただけますよう、どうぞよろしくです。

 それでは、皆様、良いお年を!

※古書だとアクセスコードが使えないのでご注意を!

『もし私が10歳の日本人なら…世界的投資家の「驚愕の問いと答え」』という記事を読んでの感想など

 12月も中旬になった。今月もほぼ余裕がなく、ブログなど書いてる暇などないのだが、もし私が10歳の日本人なら…世界的投資家の「驚愕の問いと答え」という記事があったので、感想を書いてみる。この投資家氏は「もし私がいま10歳の日本人ならばAK-47を購入するか、この国を去ることを選ぶ」とのことで理由として以下のようなことを述べている。

日本はいまGDPの240%、じつに1000兆円を超す巨額赤字を抱えています。そのうえ、猛烈なペースで進む人口減少社会に突入してきたため、とてもじゃないがこの借金を返済することはできない状況になってきました。

いま50歳前後の中年の日本人であれば、30年後は80歳ですから、誰かがケアしてくれるかもしれません。日本の国庫には、老齢人口を支えるおカネはまだ残っているでしょう。しかし、30年後に40歳になる日本人には、老後を支えてくれる人もカネもない。

このままいけば、いま日本人の10歳の子どもが40歳になる頃には、日本は大変なトラブルを抱えていることでしょう。小さな子どもの日本人にとって、未来はすでに『短い』わけです

 日本国内在住の読者を相手にしている経済評論家の肩書を持つ人たちの意見をネットやニュースなどで見ることがあるが、比較的短期的な対策は得意でもこういう大前提の当たり前の話は読者の耳に痛いため、なかなか言われないもので。

 ほんで、こうした状況は高齢者層から若い人たちまでかなり前から共有されていたはずで、その時点でも手遅れ感が強かったのだが、結局、人口構成上もう手を打つには遅すぎる段階に来てしまって、破産待ち状態がズルズルと続いていくことになるのだろう。

 当面はソフトランディングを目指してなんとかかんとかごまかしつつやっていくのだろうけど、私は最近、ハードランディングを目指した方が長い目で見て未来のためになるんじゃないかと思ったりすることがある。

 楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。人生のバランス上、戦争という艱難辛苦を経た戦争体験者以上の世代は後年に楽をしていただいて大いに結構だったと思うが、さして世代として苦労をしてきたとは思えない今の高齢世代はこの状況を放置してきた責任が・・・あるとはいえないけれども、後の世代のことを少しでもいいから想像して、今出来ることをしてほしいものだと期待したいのだが、ちょっとそれも無理なのかなと最近は思っていて、破産を早めたほうがいいんじゃないのか、云々。

 というのも、私の身近な高齢世代を見ると、もう信じがたく手前勝手な人がいて、後の世代のことなんて、これっぽっちも考えてなくて、自分の生活が第一で、金はたんまり持っていても露骨に負担を後続世代に押し付けてきたりする。もちろん心ある高齢者も多いのだけれど、そういう高齢者に接すると「地獄に落ちやがれ」ぐらいに思うのも無理ないってもんで。

 そんなわけで、私はもう諦めて、この記事にあるように子どものために国外に移住することを検討しはじめているのだが、現実にはめちゃめちゃ厳しい。学士もなく、コネもなく、語学もビジネスレベルにはない私には、とてもじゃないが海外で仕事を続けていくのは無理だと思う。先日、アメリカで長らく働いて、今日本に戻っている方からいろいろ興味深い話を伺ったが、クビにならないために周到に振る舞い続ける必要性があることがよくわかり、その方は私などよりも遥かに素養もあって、海外暮らしが楽にできそうに見えるのだが、それでも厳しい状況があるようだ。

 そんなわけで、いつものように堂々巡りをしているのだが、今はとりあえず子どもたちを当座養えるだけの仕事があれば、どこへでも行って働く、ぐらいの気持ちでいる。子どもたちを国外に置いておいて、自分だけ日本に出稼ぎに来る、とかも検討する必要があるのかもな、とか考えているところ。

 年を取ると健康不安も出てくるだろうが、アメリカなどのように高額治療が必要な病気になったら即破産みたいなのに比べ、日本のようにいざという時に健康保険で高額治療を受けられるのはいいなぁ、などなど、改めて今の日本の「暮らしやすさ」の捨てがたさを感じる今日この頃。

 でも、それでも、出ていきたい、という気持ちも同時に強くなるばかりだ。ああ、どうしたらいいのだろう……。

ヨーロッパやロシアで観測されたルテニウム106はどこから来たのか

 ロシア測定局で高濃度放射性物質検出、9月末に「極めて高い」数値という記事が出てて、気になってたが、ロシア語圏のサイトをざっと見てみた。時間もないので、雑なまとめとなり、細部間違いなどもありそうですが、とりあえずあげときます。

 印象としては、放出源はロシア南ウラルにある核処理施設のマヤークが限りなく怪しいように見えるが、マヤーク公式が「ルテニウム106の製造はしていない」「核廃棄物関連の事故であれば、セシウム同位体その他ルテニウム106以外の核分裂片が出るはずなのに出ないのはおかしい」などの見解を出しており、その言い分もわからんでもない。

 ロシア当局は当初10月の観測データではサンクトペテルブルクのある一点でのみ検出されただけと述べていたが、ロシア水文気象環境監視局が騒ぎになる前から公表していたデータではマヤークから10~30km程度南に位置するАргаяш、Худайбердинский、Новогорныйといった地点で9/25から10/1の間に収集されたエアロゾル調査でルテニウム106が検出されており、こちらでは別に隠していたわけではないのだと述べられている。

 マヤークを運営するロスアトムもジャーナリストやブロガー向けに「ルテニウムって何?」という調査ツアーを企画しており、マヤークが放出源ではないことにそれなりの自信があるのではないかとも思える。

 ルテニウム106は医療分野や宇宙関連で有用な物質であるが、核分裂生成物のせいぜい0.4%に過ぎないらしい。こちらは核分裂生成物収率曲線で、質量数で見るとセシウム137の辺りとストロンチウム90辺りに2つの山があるが、106はちょうどその2つの山の間に位置している。このような貴重な物質を故意に放出する、というのもまず考えられないとのことで、廃棄という線はなさそう。

 宇宙関連で衛星などの落下や事故の可能性が指摘されたが、これもこの時期にそうした事故は起きていないし、ロシアの元宇宙飛行士が衛星では使われていないとも述べており、否定されている。

 ヨーロッパのデータではルーマニアでの検出値が高めで、ロシア由来ではないのではないか、とも意見も出ているが、情報統制がロシアほどきつくないはずのEU圏内からそういう情報は出てきていない模様。

 9月末にロシア・サラトフのバラコヴォ原発から放射性廃棄物がマヤークに搬入されているようで、何か新しい機器のテスト中に起きたのでは、という推測を述べているブロガーがいたが、これも憶測の域を出ない。

 ルテニウム106の半減期は374日とやや長めではあるので、大気中に飛散してしまったとはいえ、土壌等への沈着も当然あるだろうから、今後の調査で何かわかることがあるはず。

 ルテニウムの由来はルーシ(Ruthenia)でルーシの後継を自ら誇るロシアでこうした事象が発生した、というのはちょっと皮肉なことで。

 こちらのロシア語記事はなかなか読み応えがあり、半減期39日で収率が3%とルテニウム106よりも多く生成されているはずのルテニウム103の検出がないということで、核分裂からやや時間が経過した放射性廃棄物由来であることが示唆される、とか、ルテニウムの化学的性質上、容易に揮発するため、一定の温度でルテニウムだけが飛ぶ(ヨウ素131も飛ぶが半減期が短いので見えなくなっている)ことから、ガラス固化など何らかの加熱工程で放出された可能性が考えられる、また、ルテニウム106自体はβ線のみ放出するが、その短寿命崩壊生成物のロジウム106がガンマ線を出すので容易に検出できる、などなど、興味深い意見や事実がいろいろと述べられている。下の方に参照リンクもあるので、ロシア語サイトが多いですが、興味のある方はどうぞ。

富山から神戸に運ばれた「世界一のクリスマスツリー」について思ったこと

 11月も下旬に入り、一つもブログ書けてないので、何か書いてみようと思い、いろいろ書きたいことはあるのだが、昨日辺りから話題になってる世界一のクリスマスツリーの話を書いてみる。

 経緯などはこちらとかこちら主催者側のプレスリリースなどを読んでもらうとして、少し林業について詳しくなった私の感想としては、多くの人が木を伐採・加工することに対して、ネガティブな印象を持っていることに改めて気付かされた、というのが第一点。私もつい最近までそうだったはずなのだが、昨年は週末、山に入って木を切りまくってたので、ちょっと感覚が麻痺してるらしい。

 あと、原発観光が話題になったときも思ったけど、議論喚起目的のプロジェクトというのは動機が不純であまり好きではないのだけれども、結局、そこに嵌ってしまう面があって、こうして自分もブログネタにチョイスしてしまってたりもして、ちょっと悔しいというかw

 多分、ニュースで見ただけとかだったら、このプロジェクトに対して、酔狂な人がおるなぁ、ぐらいで私の中で流れていった出来事だったと思うが、人々の批判の方向が興味深く、以下、ちょっとググっただけだが、気になったところを書いてみる。

 その前にこのプロジェクトについて書いておくと、私自身もちょっと支持する気にはなれない。まず、アスナロを選んだ理由についてだが、こちらを読むと「メッセージを伝えたい」という割に言葉が雑だなぁ、というのが第一印象。

あすなろは、「あす」はヒノキに「なろ」うの樹といわれ、ヒノキになりたくてもなれないとしてレッテルを貼られ、木材としてもヒノキより格下、いわば落ちこぼれの樹として扱われています

 滋賀北部でアスナロはアテと呼ばれてるのだが、アテは確かに人工林の木としてスギやヒノキほど扱いやすい木というわけではないようだが、殺菌力が高く、防虫・防腐の性質があることから、浴室の材などに利用されていて、まな板の材としては最高級とされる。うちでは内祝いに青森のヒバ(これもアスナロ)のまな板を送ったりもしたのだった。あと、アスナロの葉には薬効があり、利用価値が再認識され始めてるとも聞いたことがあるし、決して「落ちこぼれの木」というわけではない。

 文学作品でアスナロが「落ちこぼれの樹」的に扱われることがあったとはいえ、植物のプロが雑に「落ちこぼれの樹」とかゆうたらあかんのんとちゃうのん?

 この木は富山から運んだようで、ググルと富山でもアスナロはアテと呼ばれてるみたいなのだが、そのアテの由来をググルと、こちらのサイトに以下のように書かれていた。

「アテ」は古代語では貴いという意味で、言葉がなまって「アテヒ」となり「貴いひのき」という意味があります。

 落ちこぼれの逆やないかーい! 富山で作業したときとかにそういう話は聞かなかったのだろうか。

 他、鎮魂のためといいつつ、ギネス目指すとか、なんだかよくわからないプロジェクトになってて、カオスな感じで、もうこの辺でこのプロジェクト自体についての言及はやめておこうと思う。

 それよりも私の興味を引いたのは、冒頭にも書いたが、伐採することに対する人々のネガティブな感覚の方。150年というのは、ちょっと微妙な年数だが、この樹齢の木というのは、人工林の場合、ざらにあるわけではないだろうが、里山の木としては全然珍しくはないと思う。環境保護というと木を伐採しない方向に向いがちだが、特に人工林や里山の場合、人間が伐採して使っていってなんぼというところがある。

 この木の場合、富山県氷見市一刎という地区にあり、場所を調べてみると、ストリートビューがない場所で特定が難航したが、多分、Google Earthでこの木かその周辺の木だろうというところまでは特定できた(こちら)

 山中から持ってきた、というので、随分山奥からと思っていたが、普通に集落内にあり、集落のお寺の道路を隔てた向かいにある木だったようだ。寺は集落の中心部にある浄念寺というお寺だが、北陸という真宗地帯にある寺らしく真宗大谷派の寺であり、寺での行事もよくあるだろうから、住民にとってはなじみのある木だったことだろう。

 ほんで、地元住民の声はというと「誇りに思う」とか「神戸の住民にこちらに来てもらって観光につなげられないか」(ブログ記事)といった意見があるようだった。ゆうたらなんだが、こうした山間地域は過疎化に悩まされているはずで、どんなイベントであれ、地域が活性化するなら歓迎なはず。この話もすぐに飽きられて話題にされなくなると思うけど、これきっかけで交流イベントが続いたりするといいのにとか思った。

 あと思ったのは、この件、イベント後の用途がもう少しマシなものだったら、人々の受け取り方も随分違ったんじゃないかと思える。この木が150年ものではなかったのだったら、生木ではなかったのだったら、富山から運んだものではなかったのだったら、などなど、色々と思うことはあるが、諸々炎上しても仕方のない案件だったかなと思える。

 氷見-一刎-プチお散歩というブログ記事に在りし日の(?)あすなろを撮影した写真があった。とりわけ巨木というわけではないと思うのだが。。。多分、世界一の高さといえる150年の樹齢の木を探してて、ここにたまたまあったこの木をチョイスしたもので、アスナロ云々は後付けなんだろうなぁなどと思ったが、穿ち過ぎかな。。。

Yoshiro Miyagoshi Website