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1971年滋賀県大津市生まれ。大阪外国語大学ロシア語科除籍。IT業界で働きつつ、2006年よりチェルノブイリ被災地で「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」、被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材。

オバマ大統領の広島スピーチ中の”gassed to death”は「ガス室で死んだ」と訳すべきなのか

 昨日書いたエントリーオバマ大統領の広島スピーチを聞いて感じたことに対し、以下のようなコメントをいただきました。

「数年の間で6千万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと何ら変わりのない人たちが、撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、投獄され、飢えやガス室で死んだのです。この戦争を記録する場所が世界に数多くあります。」この中の「ガス室で」の「室」が余計です。原文にはありません。訳者はアウシュビッツなどを想起したのでしょうけど、広島は毒ガス製造をした大久野島(おおくのしま)のあるところ。仮にオバマさんが頭に置いていたのはアウシュビッツなどだとしても、大久野島で毒ガスを作らされた方たちが健康被害にあって十分な補償をうけていないことを知っていたら、原文にない「室」などつけられないと思いました。

 ざっと読みなおしたつもりでしたが、この部分は気づきませんでした。ちょっと興味を持ったので、各社どのように訳したか調べてみました。

・「ガス室」と訳した社
朝日日経

・単に「毒ガス」と訳した社
毎日NHK産経読売ハフポスト時事河北福島民友

 他にもあるかもしれませんが、傾向としては、原文に忠実に訳した社が多かった、ということになりそうです。

 ロシア語通訳の米原万理著『不実な美女か貞淑な醜女か』ではないですが、翻訳はわかりやすくしようとするとどうしても「不実な美女」寄りになって、意訳することになってしまい、原文にはっきりそう書かれていないことも訳す場合が出てきます。

 今回の場合、オバマの念頭にあったのは、その後に「無人の収容所」と言っていることから、やはりナチスによるホロコーストのことかと思われます。ただ、新井さんのおっしゃりたいことも分かります。

 私も十数年も前ですが、瀬戸内を自転車で旅行している時に大久野島の近くを通ることになり、訪れることにしました。そして、行くまであまりよく知りませんでしたが、毒ガス製造をしていたため、戦時中は地図から消された島となっていて、少なからぬ方が秘密裏に毒ガス製造に携わっていたことを知りました。(今はうさぎの島となっていて、癒されますが)

 朝日新聞社の訳は、「微妙な言い回しも含め厳密にチェックしたもの」と関係者が述べているので、おそらく、複数人でのチェック体制を通過して出されたものなのでしょうが、毒ガス兵器の犠牲者はホロコースト犠牲者以外にも存在しますし、日本国内の場合、それが広島県内だった、ということを考えると、確かに配慮があってもよかったのかな、と私も思ってしまいますね。

 スルーされるかもですが、ツイッターでその方に意見聞いてみますかね。

オバマ大統領の広島スピーチを聞いて感じたこと

 オバマ大統領広島訪問のニュースを見てたら、オバマと直接話すことになった被爆者の森重昭さんが感極まったのか、涙ぐまれて(ご本人も「舞い上がっちゃって」と後におっしゃっていた)、図らずも大統領とハグすることになった。このシーンは事前に用意して出来るものではない。私もつい涙ぐんでしまった。

 そして、ニュースでのスピーチを聞き、やはり全文をちゃんと聞かんといかんな、ということで、日本語字幕付きの映像がまだ出てないようだったので、テキストの原文と日本語訳を横目に見ながら、今、聞いたところ。

 核兵器というものへの言及のために、人類の歴史が語られたりもするが、やはり、以下のようなところはオバマ大統領ならではなのではないだろうか。(以下、スピーチは朝日の全文訳より。原文はこちらなど、日本語通訳抜きの英語スピーチ映像はこちら

私たちはここに、この街の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努めます。目にしたものに混乱した子どもたちの恐怖を感じようとします。私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。

 アメリカの大統領が広島の当時の子供たちが感じた恐怖を追体験する言葉を述べている。こんなことはこれまでになかったことで、歴史的な演説なのだ、と思わずにいられない。

私たちは、人間の悪をなす能力をなくすことはできないかもしれません。だからこそ、国家や私たちが作り上げた同盟は、自衛の手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性は減らすことができます。

 プラハ演説の時にも「生きているうちは無理かもしれないが」と述べていたが、それでもこうして繰り返し、核兵器廃絶を訴え続けることが重要なのだ、ということを身を持って示していて、こうした部分もオバマ大統領ならではないかと思う。

すべての命は尊いという主張。私たちはたった一つの人類の一員なのだという根本的で欠かせない考え。これらが、私たち全員が伝えていかなければならない物語なのです。それが、私たちが広島を訪れる理由です。私たちが愛する人のことを考えるためです。朝起きて最初に見る私たちの子どもたちの笑顔や、食卓越しの伴侶からの優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。私たちはそうしたことを思い浮かべ、71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。

 この部分は「TOMORROW 明日」を想起させるが、原爆を投下した側の国の一番の責任者がこうした言葉を述べたことは、いろんな意見はあるだろうが、やはり感動せざるをえない。これに続き、以下のように述べる。

亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです。普通の人たちは、このことを分かっていると私は思います。普通の人はもう戦争を望んでいません。科学の驚異は人の生活を奪うのでなく、向上させることを目的にしてもらいたいと思っています。

 この部分は原爆のことを述べているのだが、私はどうしても福島やチェルノブイリ原発事故に思いを馳せてしまった。

 ところで、この「普通の人たち」というのは、ちょっと意図がうまく掴めなかったのだが、どういうことなのだろう。オリジナル・スピーチでは「Those who died, they are like us. Ordinary people understand this, I think.」となっていて、この”I think”の言い方が、なんだか原稿にないのに付け足した感があったのだがどうだろう(そんなことはまずなさそうだけど)。戦争をしてはいけない、ということが理解できない「普通じゃない」人のことが念頭に置かれているのか、それとも、核兵器なんてなくせるわけないっしょ、な現実主義者どもが念頭にあったのか。

 冒頭、被爆した日本人のみならず、朝鮮半島出身者や捕虜のアメリカ人にも言及しているのも見逃せないない点だと思った。

 最後の締めは以下の言葉。

世界はここで、永遠に変わってしまいました。しかし今日、この街の子どもたちは平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が「核戦争の夜明け」ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです。

 「なんて尊いことでしょうか」というのも、とてもオバマの思いが伝わる部分だった。「道徳的な目覚めの始まり(the start of our own moral awakening)」とは、ちょっと高邁な理念だが、これもオバマらしいんじゃないだろうか。

 もちろん、優秀なスピーチライターがいらっしゃって、大枠、また、エピソードの詳細などは彼らが作っているんだろうけど、それでも、全体として、オバマ大統領の考えがしっかりと細部にまで埋め込まれている演説じゃないかと思った。

 多くの被爆一世の方々が高齢になり、自らの体験談として話せる方が少なくなってきているが、直接被害受けた方々が生きているうちにアメリカの大統領が来た、そして、それがオバマだった、ということは、幸運だったと思う。

 オバマは勇気を持って、広島を訪問し、こうして「勇気を持とう」という言葉を残していった。たまたま、前エントリーで「勇気を持つことが大切」だと書いたのだけど、蛮勇でもなく臆病でもなく勇気を持つのは簡単ではないが、少しでもよい世界になるように、心がけたいと思う。

サミット中の福島第一原発の作業休止は日本特有の察する文化から来ているのではないか

 サミット中、福島第一原発の作業休止 東電「リスク減らす」というニュースがあった。

 東京電力は、二十六日、二十七日に開かれる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の開催中、福島第一原発での、原子炉冷却や汚染水処理、パトロールなど止められない作業以外の、汚染水タンク建設などの作業を休止することを決めた。東電は「要人が集まるサミットの期間中、なるべくリスクを減らしたいと当社の判断で決めた」と説明している。

 「国からの要請はない」というのは、実際そうなんだろうと思う。ただ、東電が自ら決めたというよりは、国に近い人から「サミット期間中はいつも以上に事故がないように気をつけてくれ」的なことを言われて、社内で検討した結果、作業を止める、という国からしたら、えっそこまで求めてませんけど、みたいな対応に繋がったんじゃないかと邪推するがどうだろう。

 東電に限らず、日本の電力会社というのは、官僚以上に官僚的で、個人的にはほとんど様式美とすら思うことがあるが、こういう決定に至る思考様式は以前から興味深いなぁ、日本的だなぁ、と思っている。

 以前、県内ではないが、とある町の役所に務めてる人とやり取りしてた時に、こちらが求めてもいないし、口に出してお願いしたわけでもないのに、あらぬ方向から、多分善意で動かれて、なんだか話が思ってもみない方向に向かいだして、困惑したことがある。

 ああ、これが私が普段できるだけ関わらないでおきたいと思っている「察する文化」なんだな、と合点した。

 学生時代、バイトで花博のイベントスタッフなんてもんをやってたことがあり、その時、場の空気を読むことが仲間とともに働く上で重要なのだ、というスタッフの発言を聞いて、空気を読むことがよいことだとされていることを興味深いことだと思い、そんなもんかな、と思っていた。そのうち、空気を読むことに価値を見出せなくなり、その後、空気を読まないふりをするように心がけてきたのであるが、そのうち板についてきたのか、本当に空気が読めなくなることも出てきて、そうしたコームイン系の人の思考様式が理解できなくなっていることに自分でも苦笑いしたのだった。

 これは、別に東電とか公務員社会だけでなく、日本社会に遍く広がっていて、とりわけ影響力のでかいところがこういう体質だといろいろと困ったことになる。

 日本は「メディアの構造として政府からの圧力に弱い」 国連「表現の自由」報告者が語った「脆弱性」とその原因という記事に「メディアによる忖度」が進んでいる状況が明らかにされた」とあるが、こういうのも、ちょっと独特だな、と思わずにいられない。

 ただ、これは最近に限った話ではなく、山本七平著『空気の研究』に以下のような挿話が載っている。

(西南戦争は)「世論」の動向が重要な問題だった最初の戦争であり、従ってこれに乗じてマスコミが本格的に活動し出し、政府のマスコミ利用もはじまった戦争である。元来日本の農民は、戦争は武士のやることで自分たちは無関係の態度だったのだが、農民徴募の兵士を使う官軍側は、この無関心層を、戦争に「心理的参加」させる必要があった。従って、戦意高揚記事が必要とされ、(以下略)(文庫版p46)

 『空気の研究』には原発と原爆についても、実験用原子炉の必要性を訴える論文について、以下のような記述がある。

「実験用原子炉は原爆とは関係ない」ことを(…)、まことに一心不乱、何やら痛ましい気もするほどの全力投球で、実に必死になって強調している。今ではその必死さが異常に見えるが、これは、「原子」と名がついたものは何でも拒否する強烈な「空気」であったことを、逆に証明しているであろう。

 今日、オバマが広島を訪問するが、この書の出版から日が経過した今の目で見ると、そうした拒否の空気がしぼんでいったことが福島原発事故につながったのではないか、と思わずにいられない。

 空気支配に惑わされずに意志を貫くのは骨が折れることだが、一人一人が出来る範囲でいいので、抗っていく勇気を持つことが大切だな、と。

チェルノブイリを訪問したイギリスの観光客がキエフの空港で放射能チェックにひっかかった、という記事

 こちらによると、2016年5月20日、キエフ郊外のボリスピリ空港でチェルノブイリ観光をしてきた旅行者がロンドンへ向かう飛行機に乗ろうとしたところ、基準値を超える放射線量が検出された、とのこと。他の社の記事や公式サイトも見てみたが、それ以上の詳細は伝えられていない。

 訪問しただけで衣服等に付着した放射性物質が反応する、というのはちょっと考えられないように思うので、何かを記念に持ち帰ろうとしたとかかな、とも思ったが、ようわからん。

 こちらの記事によると、2015年7月にもラトビアからの旅行客が同様にボリスピリ空港で放射線チェックにひっかかった、という記事があり、原因は放射能を帯びた航空機の方位磁針で、やはり記念に持ち帰ろうとした、とある。こうしたことは時々あるようで、この件が2015年1-7月で7件目とあるので、1ヶ月に1回は作動してる、ってことになる。まあまあ多いような気がしないでもない。

 キエフ・ボリスピリ空港にはянтарь(ヤンターリ・琥珀)という放射線管理システムがあり、こちらの記事の写真を見ると、普通に人々が行き交うスペースにさりげなく設置されている。

 実物を意識してみたことがないので、次に行く機会があったら、探してみよう。

トランプ支持が広がる今、アフリカ人始祖から親子三代の黒人奴隷の物語を描いたテレビドラマ『ルーツ』を見る

 アレックス・ヘイリー著『ルーツ』をテレビドラマ化したのがBSで放映されてたのを運良く録画でき、やっと見終わったところ。少しずつ見ていたのだが、最後の方は一気に見る、という私的によくあるパターンw テレビドラマ「24」で黒人大統領が登場し、その後、実際にオバマというアメリカ史上初の黒人大統領が誕生した今、黒人に対する差別を実感として理解できない世代が登場してるんじゃないかと思ったり。

 以下、ネタバレ大いに含みますが、このドラマの場合、ネタが分かると面白さ半減とかにはならない類だと思うので、そういうのは意識せずに書きます。

 英語の勉強をしているとキング牧師の”I have a dream”の演説を読む機会が訪れ、結果的に、公民権運動というのを知ることになる。なので、意外とあの時代のことはある程度、今の若い人にも知られてるんじゃないかと思うが、奴隷制の時代のことはなかなか知る機会がなく、私自身ももやっとしている。アフリカから奴隷船で運ばれ、リンカーンの奴隷解放宣言まで長く奴隷状態にあった以上のことはよく知らない。

 アメリカ南部には行ったことがなく、その空気感はよくわからない。アメリカ西部旅行中に店やドミトリーの宿などで黒人と何度か話したが、普通にナイスガイたちで、一度、トイレでションベン引っ掛けられそうになったりしたけど、印象としては白人からのアジア人に対するしょうもないちょっかいや言動の方が記憶に残っている。

 ドラマについて、まず思ったのは、どこまでが史実に即していて、どこからがフィクションなのか、ということで、この辺り、原著者はfact(事実)とfiction(創作)を合わせたfaction(ファクション)という言葉を用いて、ノンフィクションとフィクションの中間物であると述べている。得てして、ノンフィクションは背景の理解が難しく退屈になるところがあって、広く訴求させるためにこうした方向性の翻案が必要になるというのは理解できる。これで関心を持ってもらって、もっと知りたくなったら、関連の書籍などで自分で調べればよいわけで。

 アフリカ生まれの第一世代からそのひ孫まで主役級の人物は4人いて、それぞれに個性的で人物造形がうまくなされているし、役者さんも脇役含め、皆よかったが、中でもいちばん強い印象を与えたのが第ニ世代のキジーという女性。このルーツというドラマの主人公を一人あげるとしたら、時間軸上もっとも長く登場する、この女性になるだろうし、彼女の受ける仕打ち、またそれに対する行動や毅然とした振る舞いは多くの人に感銘を与えたようで、キジーという名前を付けるのが一時流行したらしい。

 特に幼少時から友達として過ごした白人のお嬢さんが手のひら返しをし、さらに何十年ぶりかで再会した時も知らん振りをされた、というエピソードは痛切で、その関係性をよく物語っている(キジーはきっちり仕返しもするわけだが)。ドラマ中、自分が白人であること以外に取り柄のない(というかそれを取り柄といってよいのか?)、と言いたくなるような憎たらしい白人が何人も出てくるが、アメリカの国内問題の多くは結局、このダメ白人問題なんじゃないか。さっきも書いたが、旅行中に嫌な思いをしたのは大抵白人がらみだったと思うし、根底にどこか抜きがたい差別意識があると感じた。エスタブリッシュメントっぽい白人と話してても、どこか「アジア人と話してるオレってリベラルだろ」的なんをちょっと感じたり。いや、こちらが卑屈すぎるんかもしれんが。

 「ルーツ」で検索してたら、こんな言葉が出てた。

ないから生まれるんだ。
中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた。
日本人は勇気がないから武士道が生まれた。
アングロ・サクソン人はずるいからフェアプレーの精神が生まれた。

 それに対して、それは各民族の理想が掲げられてんじゃね的なリアクションもあったが、アングロサクソンについてはちょっと当たってるかも、って思った。時々思うのは、スペインが世界制覇したまま、近代に突入していたら、全然別の世界になってたんとちゃうかな、と。アメリカ大陸で現地人との混血に向かい、白人だけの国を作らかなったスペイン人と、インディアンや黒人コミュニティーと隔絶した社会を作り上げたアングロサクソン人。表向きは正義と言いながら、自分に都合のよい正義だったりするその言動。中高時代にサッカーをしててすんなり理解できなかったのは、ユニフォーム引っ張ったり、手で邪魔したりして、ちょっとぐらいは悪いことをしてもいい、というルール。今の資本主義社会もその辺をうまく理解して合法的に悪いことしたもんが勝ちってことになってて、パナマ文書問題の根底にもそれがある。

 話がずれていったが、元に戻すと、トランプ支持者ってのは、このドラマに出てくるようなワル白人だったりするんじゃないかと。ヒスパニックの増加に怯え、黒人やアジア人が普通に社会の中で重要な地位を占める時代についていけず、取り残された人々。ただ、このドラマの中のワル白人の中でも、多少はマシな白人(法には従う意志は一応ある保安官など)も出てくるし、さらに興味深いのは、主人公たちの黒人コミュニティーに入り込む白人夫婦が一組いたこと。こういうことが実際によくあったとはとても思えないが、彼ら自身も生きるのに精一杯な貧困状態にあり、ヒューマニティからとかそういうのではなく付き合っているところなど、それが逆にリアリティがあるようにも見える。彼らはこのドラマの中で重要な役割を演じていて、ただ単に黒人を解放したらおしまい、とはならず、そうした憎しみの連鎖を断ち切ることが大切であることを示している。

 アメリカは21世紀も最も重要な国であり続けるだろうし、もっとアメリカの歴史を知っておかないといかんなと改めて思った。