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1971年滋賀県大津市生まれ。大阪外国語大学ロシア語科除籍。IT業界で働きつつ、2006年よりチェルノブイリ被災地で「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」、被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材。

ヨーロッパ(スペイン)でレンタカーを借りる時に気をつけること ~MT(マニュアル)車かAT(オートマ)車か~

 今回、スペイン滞在時にレンタカーを借りたので、その時に感じたことなどをメモしておきます。

 旅行前に少し調べておいたのだが、「左ハンドル右側通行」以外にも、以下の様な注意点があることが分かった。

・ヨーロッパではマニュアル車がメインでオートマ車は数が少なく、AT車のレンタル料はMT車の倍近くする。
・ラウンドアバウト(ロータリー交差点)の入り方について、事前によく理解しておく(「左から来る車優先」と覚える)。
・交差点に歩行者専用の信号があり、右折・左折後にその信号が赤になっていたら、停止しなくてはならない。(日本の通常の感覚だと停止せずに進んでしまう)

 他に、旧市街地は道が細いので、通らない方が無難、とか、縦列駐車が多いが、ギリギリに停めてあり、真似が出来るものではないので、やめた方が無難、などなど、注意点は少なくはない。

 私が一番悩んだのは、マニュアル車にするかオートマ車にするか、ということだった。一応、アメリカやギリシャで運転したことはあったが、いずれもオートマ車で、日本で普段使用している車もオートマで、マニュアル車は免許取得後から10年程度は乗っていたが、その後はオートマ車ばかり乗っているので、果たして、どれほど身体が覚えているか、不安だった。一応、近所で軽トラの運転はしたことはあり、普通に運転できていたので、意外にあっさりと乗れてしまうだろうと考えてはいたが、それでも注意点の多い海外での運転であり、また、妻子も乗せることになるので、無難にオートマ車にしたいところだが、倍もお金をとられるのは嫌だなぁ、でも安全も重要だしなぁ、と心は揺れに揺れていたのである(笑)。

 結局、バルセロナで初めて借りた時はオートマ車に、アンダルシアで借りた時はマニュアル車、ということになった。

 バルセロナでは年末年始に当ってしまったため、こちらの希望がほとんど通らず、時間はこちらの希望の数時間後、かつ、インターメディエイト(コンパクトカーのひとつ上)のクラスのマニュアル車しかない、などと言われ、いろんな都合上、仕方なくOKしたのだが、やって来たのはオートマ車だったのだった。なんとアバウトな国民性!

 アンダルシアを回るために訪れたジブラルタルのレンタカー事務所では、オートマ車は一台もない、と言われ、選択の余地なく、マニュアル車となった。一応、バルセロナである程度、ヨーロッパの交通ルールに慣れていて、マニュアル車でもいける、という感触を得ていたし、価格も最初に借りた車の半額以下だったので(エコノミークラスだったこともあるが)、二つ返事でOKした。

 担当者に連れられて地下駐車場に行ったのだが、ここでいきなりエンストをやらかした。エコモード搭載でブレーキベダルから足を離すと自動的にエンジンがかかる仕組みになっていたためだが、念のため、駐車場で一速・二速とバックの練習をしてから地上に出ることにした。

 ある程度リズムが取れるようになったあと、路上へ。幸い、そこは海辺の公園の一角で交通量が少なく、もう少し練習するにはもってこいの場所だった。そこで、同じコースを何度かグルグルと回りながら、3速と4速の練習をしてみて、右手でのギアチェンジを前を見ながらでもスムーズに出来るぐらいにはなり、さらに4速から2速とかでも出来るようになってから、いざ本番へ。

 実際に市街を走り始めると、もう迷ってる余裕すらないので、とにかく前の車にひっついていく(ただし、車間距離を多めにあけて)のに必死で、そのうち、いつの間にか高速に乗れていたのだった。ナビあってこその運転のやり方だったかも。

 私はどちらかというと車の運転はそんなに上手な方ではないと思っていて、さらにそんなに好きなわけでもないと思っているが、オートマとマニュアルなら、マニュアル車の方が運転に集中できるので、条件が許せばマニュアル車に乗りたい派である。なので、マニュアル車の運転にはすぐに慣れることが出来た。私はやらなかったが、出来れば、国内にいるうちに、軽トラでもいいので、知人にマニュアル車を保有している人がいたら、借りて練習しておくとよいと思う。

 実は旅行直前に右ハンドルの外車のマニュアル車を10分とか1時間とか、最短時間でレンタルして練習しようと、何箇所か当たってみたのだが、関西ではそういうのをやっているところは見つからなかった。羽田や成田近くなら見つかるかもしれない。

 今回、たまたま練習する場所があったからよかったが、市街地にあるレンタカーオフィスとかだと練習する場所もなくいきなり交通量の多い道を走らなくてはならなくなる可能性がある。なので、マニュアル車の運転に不安のある人は、あえて郊外で借りるとかの工夫が必要かもしれない。空港で借りれるのであれば、練習場所には困らない可能性が高そうなので、空港で借りてしまうのも手だろう。

 あと、バルセロナではホテルを通じて、借りることにしたため、いきなり市街地でぶっつけ本番でスタートすることになった。ただ、バルセロナの道は、事前に通る道をストリートビューで見ておいたし、通る道を覚えるぐらいにナビで確認しておいたので、道を間違えることなく、行きたい方向に一発で行くことが出来た。今回、妻子連れであったので、ここまでやったが、自分一人の旅行だったら、多分しなかったと思う。でも、準備しておいてやはりよかったと思った。

 ナビは手持ちのNexus5に事前に入れておいたSygicというアプリを使った。これはオフライン状態でも使えるので、おすすめ。実際、私は現地で格安SIMを買ったものの、途中で使えなくなってしまったため、Sygicのオフライン機能に助けられた。多少容量は取るが海外で運転する場合、入れておいて損はないだろう。Googleナビも併用したが、Sygicの方が優秀。無料のだと7日ほどで音声案内が使えなくなり、アンダルシアでは音声なしで使ったが、確か20ドル程度だったので、購入してもよかったと思っている。音声はやはりあった方が助かる。実際、高速道路のラウンドアバウト気味の分岐で「キープ・レフト・・・キープ・レフト・・・ターン・ライト」とか言うてくれたので間違わずにすんだ。実際、アンダルシアでは数回、高速の分岐で道を間違えたので、途中からでも有料で購入すべきだったと反省した。

 道を間違えたのは、もう一つ原因があり、方向を示す街の名前をちゃんと覚えておかなかったためだった。自分の目指す街のさらに先にある街のことまで考える余裕がなかったのだが、これを覚えておけば、時間(と燃料代)を無駄にロスすることはなかっただろう。夜になっているのに行きたい方向と逆の方向に進んでいて、山の中であるため、全然降り口が見つからない時のむなしい気持ちは体験したものでないと分からないと思う。

 今回、クラクション鳴らされても、安全運転で行くぞ、と自分に言い聞かせて運転していたが、実際に数回ほど鳴らされた。そのうち、半分は料金所。どうも料金所では気軽に鳴らす文化があるようなので、あまり気にしなくて良いと思う。

 アンダルシア地方の街で旧市街は走らないほうが無難とあったが、行ってみて改めてそう思った。タクシーでもドアミラーをしまいつつギリギリで通過するような場所があった。直角カーブの場所など、車幅の感覚が分かってないと曲がりきれなくなって立ち往生してしまうかもしれない。

 日本との違いで言えば、海外はやはり多少感覚が違うようで、方向指示器と反対の方に進む車を見かけたし、割とアバウト度が高いように感じた。あと、3車線ある高速道路の真ん中のレーンを50km/h以下でノロノロ走る車が目の前に急に現れた時が今回、一番の危機だった。ブレーキにより車内で飲み物がこぼれてしまったがそれほどの急ブレーキを踏んだ。ただ、危機というとそれぐらいで、今回、ドライブを楽しむ余裕は正直なかったが、事故なく済んだのが何よりで、道を何度も間違えてしんどい思いもしたが、安全第一を心がけた結果だろう。

 事故を恐れるのなら、車に乗らないのが何よりだが、移動手段としての車が持つ特有の良さ、時間に縛られず、好きな時に好きな場所に行ける、というメリットを享受したいのであれば、やはり、あまり怖がりすぎずに海外レンタカーも検討してみるといいのではないかと思う。

2016年1月20日の身辺雑記

 この年末年始は柄にもなく海外旅行に行ってきた。年末年始の海外旅行は人生初。別にこの時期である必要はなかったのだが、嫁さんの都合、というのと、子どもが2歳未満だと航空運賃が安い、というのが動機付けとなり、遠目のところで、あまり今後行くことはなさそうなところ、ということで、スペインとモロッコに一家3人で行ってきた。後に、この遠目、というところがアダとなり、自分にはね返ってくるとは思わなかったが。

 というのは、帰国便はその2歳前の子どもと2人で搭乗したのだが、小さな子どもと飛行機で長距離旅行するのはやはり大変なことでほとんど寝ることが出来なかった。計算すると、スペインで嫁さんと別れたのが14時頃で、帰宅が日本時間で20時は過ぎていたので、時差8時間を差し引くと日本時間で22時~20時の間の22時間ほどを2人で旅したことになる。

 私は機内では基本的には何もせず、ひたすらじっとしている方なのだが、今回、途中乗り継ぎのドーハまでは満員で子どもを脇に寝かせることも出来ず、ほぼずっと膝の上抱っこの状態で6時間を過ごした。やはり2歳近くになると十分に重く、この時点でかなり消耗してしまった。

 乗り継ぎも結構大変で、巨大空港なので、結構な距離を歩く必要があり、汗だくになるほどだった。そして乗り継ぎのセキュリティコントロールで子連れだったので、優先で行けるのかとおもいきや、空港職員に聞くと「通常の並べ」とつれない返事が。深夜だったが、ちょっともう途方に暮れるほどの長蛇の列が出来ていて、仕方なくしばらく並んでいたのだが、多分インド系の世話焼きなおじさんが子連れの人にお前はあっちの優先で行けるぞ、と声をかけてきて、私にもそう言ってきたので、先に向かった人の様子を見てるとあっさりと通れていたので、私も挑戦してみると通れたのだった。こういうのは割りとアバウトなので、余裕がない場合は厚かましく出るに限る。

 乗り継ぎ時間は2時間と十分ではあるが、決して余裕のある時間ではない。この間にオムツ替えや食事を食べさせるなど、なかなかすることが多い。ちなみにオムツはこの時のために使わないでおいたラス一の日本製のオムツを使ったのだった。ただ、印象として、外国製紙オムツが特に粗悪だとは思わなかったし、こちらがオムツ交換をサボらなければ、ほとんど漏れることはなかった。

 などやってるうちに、搭乗時間が近づいてきているのに気づき、慌てて荷物をまとめて、搭乗ゲートへ向かう。大きな空港なので、少し迷う。途中エレベータに乗らないといけない、というのが落とし穴だった。そしてゲートに到着した。今回の旅行ではなぜか日本人旅行者に会うことがあまりなく、むしろ韓国や中国の観光客ばかりに遭遇したのはどうしたわけか、と不思議だったのだが、さすがに日本行きの便だけあって、日本人だらけで、やはりどこにでもいると言われる日本人だけあり、久々にまとまった日本人の集団を見て、お~やっと帰れるんやな~、とちょっとホッとした。

 今回訪問したモロッコとスペインでは本当に老若男女問わず子ども好きで、歩いていたり座っているだけで声をかけてきたり、笑いかけたり、頭を撫でたり、ほっぺたをつんとしたりしてきて、親愛の情を示す人たちが多く、子連れ旅行特有のしんどさはあったが、そういう面ではむしろ思いがけない一面を見られたように思う。特にモロッコでは、強面の警備員も子どもを見るとほぼ例外なくニヤケ始めてあやしてきたし、スペインでもモロッコほどではないが、子連れだからと嫌な目に遭うことはほとんどなかったと思う。

 そんな感覚で日本人集団の中に入ることになったのだが、何かちょっと違う感じがあるのを認めないわけにいかなかった。曰く言いがたい感じなのだが、言葉にしてみるなら、「知らない人にはやたらと話しかけたりするものではない」という社会的規範が日本人の間にはあって、モロッコやスペインのように子どもに何らかの親愛の情を示す人はほとんどいないのだった。というか、むしろ、そいつを黙らせろ的な悪意ある空気を、実際はそんなものはなかったのかもしれないが、感じてしまうほどのちょっとした、というか、それまでと比較すると「強烈な」といってもいい違和感があった。団体旅行客が多かったから、というのもあるが、たまたま話しかけた個人旅行客にもなぜか無視されて、なんだか心が折れ始めたのだった。今思うに、空港というところは日本人に限らず、そんなもののような気もするが、その時は蓄積した疲れもあって、正常な判断力を喪失していたのかもしれない。

 そんな中で列が動き始め、私は優先で行けたはずなのであるが、なんだか見えないガードがあるように勝手に感じてしまって、最後まで搭乗しないことにした。なぜそんな気後れを感じたのか、といえば、それまでとの落差が大きかったからだと思う。

 日本行きの機内は十分に空席があり、これはラッキーと、さっそく客室乗務員に席の移動許可を願い出た。2歳未満の子連れはだいたい一番前の席を割り当てられるようなのだが、ここだと席と席の間の肘置きがあげられず、子どもをイスに寝かしつけることができないからだった。

 しかし、移動した先は4人席ですでに一人、私と同年輩の男性が座っている。あまり考えなしにそこに移動したのだが、この男性はいろんな所作動作からかなりなコダワリ派であることが見えてきて、子どもを寝かせるには自分の分も含め、4列席のうち3列分をどうしても専有することになるのだが、その方には自分の横の席の「優先権」を譲ってくれる気配がないのであった。これは戦略を誤ったな、と思ったが、もう後の祭りで、離陸して、一定の時間が経っていて、それぞれ寝る体制に入り始めており、このタイミングで移動するのはなかなかに簡単ではない状況だ。

 困ったなーと思っていると、近くの2人席の男性が席を替わってくれた。後に分かったことだが、顔は日本人顔だったが、日系ブラジル人の方のようだった。画面の字幕がポルトガル語だったし、たまたまパスポートコントロールで再度会った時に外国人用の列に並ばれたので、それと分かった。

 私が困っているのを遠目に見てる人がちらほらいて、そういうのもちょっと堪えた気がする。目が合うと慌ててそらす人もいたりして、悪意うずまく中で生きるカフカの主人公にでもなった気分だった。なんと日本人は冷たい人たちなのか。日本を嫌いになって帰国する留学生がたくさんいるが、こんな感覚を毎日のように味わっていたのだろう。

 いやいや、それは言いがかりってものだろう。決して、日本人は冷たいわけではない。しかし、こういう時に遠巻きに見るだけで関り合いにはならないようにするように、いろんな契機を経て、多くの日本人がなってしまった結果なのだと思う。実際、逆の立場だったら、積極的に動けたかどうか、正直、心許ない。

 今思うに、真ん中の4人席を一人でいる人に声をかけて、もしくは日本流にするなら、客室乗務員に声をかけてもらって、最初から4人席を一人で専有すればよかった。それぐらいの空席はいくらも空いていたので。しかし、疲労がピークで考えが至らず、いっときは子どもの落下防止のために地べたで寝ようとしてしまって、注意されたりもしたのだった。

 そんなわけで無駄に消耗して、帰国後はストレスからか、猛烈な下痢と胃の激痛に見舞われたのだった。体重を測ったら、かなり痩せていた学生時代でもこんな数字は見たことないで、というような数字を記録していて、ビビった。今回の旅行では融通を利かせるために大きなスーツケースでなく、小さめのキャリーケースと複数の肩掛けカバンでしのいだため、両肩に食い込むほど荷物が重く、これは何の苦行なのか、というような長距離歩行を何度かしたりして、心身ともに疲労した。今はとにかく重い荷物を引きずっていた記憶ばかりが思い出されるが、時間が経てばこれもまたよい思い出となるだろう……なるかな……なってほしいけどならんかもな……いろいろあったし……。

 というわけで、別の厄介事が現在進行形で動いており、考え事をしていたためか、今日は子どもの保育園で必要な荷物を忘れてくるとか、さらに仕事に遅れるので早く取りに行かなくちゃ、と急いだからでもないが、保育園の敷地内で車のドアミラーをこすってしまって壊してしまうとか、散々だった。

 というわけで胃痛が再発中なのであります。

 慢性胃痛にはストレスの少ない規則正しい生活がよい、というわけで、そろそろ寝ます。

レニングラード原発2号炉で蒸気漏れ事故が発生か

 こちらのインターファクス記事によると、現地時間の12月18日14時頃、タービン建屋で蒸気漏れが発生し、原子炉を停止した。原因は低圧蒸気配管の欠陥とのことで、周辺の放射線状況に変化はないとしている。

 こちらの公式サイトによると、INES(国際原子力事象評価尺度)でレベル0の事象と見ているようで、安全性に問題なしとしている。

 こちらのラジオリバティの12/19の記事によると、レニングラード原発の街であるソスノヴイ・ボールでパニックが起きているとのことで、街を出るものや銀行からお金を引き出すものも出てきていており、ヨード剤の需要が高まっている、とある。

 こちらのVKontakteというロシアのSNS内のソスノヴイ・ボールのグループを見ると、原発関連の投稿も上がっているが、パニックというほどではないようにも見える。

 ただ、同記事で、事故当時、風はフィンランド湾の方に流れており、ソスノヴイ・ボールに流れなかったのはたまたまそうなっただけ、という意見も紹介されている。

 では、フィンランドではどうなっているか、リアルタイムに放射線状況が見えるサイトはないかと探したところ、こちらにそれっぽいサイトがあり、適当にフィンランド南東部の地点をクリックしていくと、どうもちょうどその蒸気漏れのあった12月18日の午後に0.1~0.2μSv/h程度ではあるが、それらしい上昇が見られる。

フィンランド最南東部に位置するHAAPASAARIという街の12/18の空間放射線量率の変化
フィンランド最南東部に位置するHAAPASAARIという街の12/18の空間放射線量率の変化
フィンランド最南東部に位置するHURPPUという街の12/18の空間放射線量率の変化
フィンランド最南東部に位置するHURPPUという街の12/18の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの1週間の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの1週間の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの一ヶ月間の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの一ヶ月間の空間放射線量率の変化

 一応、年単位で見ると、それぐらいの上下は時々あるレベルのようであり、今回たまたま高めになった、と見ることもできるが、時間が符号しているので、いくらかの漏れはあったんではないか、とも思えるのだが、どうだろうか。

HAAPASAARIの1年間(2015年)の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの1年間(2015年)の空間放射線量率の変化

「孫ターン」のメリットとデメリット

 「“孫ターン” 新しい移住の形」という記事が出ていた。私自身が約20年前に「孫ターン」した先駆者wなので、諸々の経験を通じて感じたことを書いておきます

 まず、孫ターンすることになったきっかけを書いておくと、最初の最初は一人暮らし歴の長い祖母がちょうど病み上がりで家に帰ってきていたタイミングで、自分自身がちょうどその時、生活を変えたいと漠然と思っていて、祖母の家にふと立ち寄ったのがきっかけだった。当時はインターネット界隈に生息していたのだが、このハッタリだらけの世界はしんどいな、と思い始めていて、一旦ちょっと距離を取ろうと思っていた。

 そのようにして住み始め、畑仕事などを手伝ううち、しばし住んでみたら、と言われて、同居するようになった。ただし、この時点では1年程度か、長くとも2,3年程度だと思っていた。少ししたらまた都市部、具体的には当時住んだことはないが一度は住んでおきたかった首都圏に住むことになると思っていた。

 ここに住むことを勧めたのは祖母本人でもあったが、伯母の一人がやけに強く勧めてきたのをよく覚えている。私が都市部へ行くことを「疲弊するだけでお金も貯まらないしお前のためにならない」などなど、あれやこれやと理由をつけて引き止めたこともよく覚えている。私は自分自身の意志でここに住み始めたし、住み続けたと思っているが、私よりも人生経験のある伯母の言であり、そんなもんかな、とちょっと思ったのも正直なところだ。当時はまだまだあまちゃんだったということだろう。今思うに、そうしたおためごかしの言葉の裏にドス黒い意志が当時からすでにあったことに気づかざるを得ない。

 その後、いろいろありつつも、祖母と住み続けることになり、80代後半になった祖母も体力が落ちてきて、入退院などを繰り返すようになった。そうした中、結果として、私が祖母の介護にメインで携わることになった。メインというのは、結局誰か一人が中心になって、あれこれ決めたり介護サービスを提供するところとのやりとりをしないといけない、という程度の含意があるのだが、逆にいうと、介護サービスを提供する側としては、誰に聞けばいいかわからない状態というのは、大変やりにくいし、話が進まない、ということが分かってきたからだった。

 私は再三、アラームを発した。なぜ自分がメインで担当しなくてはいけないのか、手伝いならいくらでも喜んでやるつもりだが、メインでというのは違うんじゃないか、と。介護というのは、その人に育ててもらった人がまずはやるべきであって、いろんな事情で出来ない場合もあるだろうし、育ててもらってもやりたくない、という場合もあるだろうけど、根底に何らかの「感謝」の気持ちがあってなされるべきものだと思っている。もちろん、昔のように、オムツ交換から何から自分でしてこそ、なんてことは言わないし、今は昔に比べて介護サービスが充実しており、「お金で解決」できることも多いわけで、そうしたサービスは積極的に利用すればいい。

 また、世代が一つ違う、ということもよく考えていた。介護を30代の人がするのと50代の人がするのとでは随分と違う。私は祖母の介護に携わること自体を問題視していたわけではないが、なぜ他に出来る人がいるのに人生で重要な時期である30代に祖父母世代の介護に時間と労力を割かなくてはいけないのか、私が病院通いをしている間、伯母は楽しく旅行♪・・・なんてことが重なるうち、いろいろと「黒い感情」が自分の中に沸き起こるのを認めざるを得なくなってきた。

 ある時、私はもうアラームを発するのをやめることにした。最後まで私が中心になって面倒を見ることを決めた。そして、基本的に私が最終的判断をすることも私の中で決めた。祖母が食べられなくなって胃瘻を造設するかどうか判断を迫られた時、それは結果として延命することになり、私自身の介護生活も伸びることを意味したが、私は造設することに決めた。「管だらけになって死ぬのは嫌だ」とよく言っていた祖母で、ビデオにその「証言」も撮影してあったが、それでも、病床の祖母と何度も話をする中で、祖母自身が胃瘻造設を望んでいることが朧気ながら分かったからだった。

 その後、しばらく胃瘻で生きながらえたが、ある日、介護施設での骨折を境に衰弱し始め、様々な臓器が機能しなくなりだした。そして、危機を脱し、いくらか病状が安定しはじめた時、一旦停止していた胃瘻からの栄養注入を再開するかどうか医師から問われ、私は迷いに迷ったが、再開しないことを決めた。これは大変孤独な決断だった。私以外はみんな、胃瘻継続という雰囲気だったからである。見ようによっては、私が祖母の死期を早めた、ということになるだろうが、私は今も自分の判断が間違っていたとは思わない。祖母自身、死ぬ直前、いつもとは違うちょっと奇妙な調子で「ワシはもう迷わんことに決めた」などと言ったが、優しい心遣いをする祖母特有の思いやりだったのだろうか、などと思うことがある。

 最初に書こうと思ってたところから随分と脱線したが、元に戻すと、デメリットとしては、上記のように、祖父母の介護をする羽目に陥る可能性が高い、という点があげられる。仄聞するところでは、孫世代が祖父母の介護要員をしていることも現代日本では多いようで、ただでさえ少子高齢化で大変なのにこんなんでええのか、と思わないではないが、現実としてこうした状況があるようだ。

 本来は皆が元気なうちに介護について事前によくよく話し合っておくのがいいのだが、なかなかそうもいかないのが実際のところだろう。一応、必ずしも理解がない親類ばかりではなく、出来る範囲で協力してくれる親類もいるので、うまく取り込むのが肝要なのだが、俗に「遠くの親戚より近くの他人」というように、最終的には「近く」かつ「親戚」の人がいるなら、その人が一番動かなくてはならなくなる、というのは知っておいたほうがいいだろう。ただし、そうなったら、逃げてしまうのも一つの手だと、経験から思う。世の中、意外と自分がいなくても回っていくもんなんで。

 ネガティブな面ばかり強調しているが、私自身孫ターンしてよかったと思っている。メリットは、一緒に住むことで自分の家族について多面的な見方ができるようになったことがあげられる。私は親とはいろいろあって思春期以降は特に心情的に距離を取り続けてきたが、そういう拘りがかなり軽減した。これは精神衛生上、かなりよい効果をもたらしたと言える。

 また、祖母の話すリアルな、ほとんど前近代的といっていい村社会の側面は私に強い影響を与えた。そうした話はなかなか聞けるものではないので、もし戦前の様子を知る祖父母がいたら、願ってでも、話を聞き出しておくべきだと思う。戦後社会の価値観とは別の生き様がごく最近までごく普通にあったことがよく分かる。

 思えば、私は本格的な孫ターンをする前に数ヶ月だけプチ孫ターンをしていたことがあったのを思い出した。ちょうど学生時代に休学していた頃だった。その経験が孫ターンに繋がったのは間違いないとも思う。ともかく、やってみたいが二の足を踏んでいる、という状態であれば、まずはプチ孫ターンから始めてもいいのではないだろうか。

 孫ターンの課題については、まずは、なんだかんだいって、仕事である。今やってる仕事をやめて、新しい土地で仕事を見つけなくてはならない。このハードルは決して低くはない。ちなみに、私は当時まだ今ほどネットは普及していなかったこともあり、タウンページで調べまくって、募集も出ていない会社に電話でアポをとったりしたものだが、それなりに創意工夫が必要ということになる。ただし、「どこの馬の骨かが知れている」という安心感が雇う側にはあるはずで、「ああ、あの地域の人の孫か」となる場面もあるだろうから、まったく未知の土地よりは受け入れられやすい可能性はある。

 私が移住できた最大の要因はインターネットの普及である。私が孫ターンした地域にはまだ「テレホーダイ」はなかったが、倍の値段を支払う必要があったものの「隣接テレホーダイ」が使える地域だったため、「深夜だけ常時接続」が可能となったのは大きい。今だとさらにサービスが拡充され、僻地にいても買い物に不自由することはまずないと言ってよい。仕事もネットの普及の恩恵で工夫次第で食べていくことも不可能ではないはずだ。

 あと、人というファクターをどう考えるか。都会の方が多様な人と知り合う機会が多く、刺激も多いので、若いうちは踏ん切りが付かないかもしれないが、地方の人が皆、保守的で閉鎖的なわけもなく、そう大きく違わないんじゃないかと私には思える。ただし、これは孫ターンする地方によって、大きく事情が異なるだろうから、なんともいえない。私の場合、都市部に日帰りでいけてしまう、というのが大きいが、そうでない場合、自他ともに説明可能な形で定期的に都会に行く口実を作っておくのも一つの知恵だろうと思う。

 私は多様性を重要視する方なので、こうした「孫ターン」の動きは基本的には歓迎だが、ズルイ大人も世の中にはいるので、そこらあたりに気をつけつつ、迷っているぐらいなら、えいやっと移住してしまうのを私としてはおすすめします。都市で消費する生活の楽しさも捨てがたいでしょうけれど、それ以外の生き方もあることがよくわかるし、世界が広がること請け合いです。

軽減税率について一プログラマとして思うこと

 この前、アラフィフのおっさんで集まってだべってたときに「軽減税率導入はないだろう。全国のじっちゃんばっちゃんのやってる小さな食料品店でどうやって対応するの」ってな話になって、そんなもんかなー、と思ってたが、あっさりと自公合意で進みそうな気配。

 私は軽減税率は今回の自公合意のような恣意的に区分けが発生してしまう仕組み自体に大きな問題を抱えていると思うし、めんどくさそうなのは軽減しとけ、とばかりに、今回のように黙らせたい新聞だけは特別に入れといたるわ、みたいなことになっていくわけで、軽減税率自体に反対である。

 ちなみに新聞業界のいいぶんはこちら

 あと、個人的には、一介のプログラマとして、食品が絡む販売管理ソフト作ってる人で軽減税率に賛成の人ってどれぐらいいるんだろうか、なんて思ってしまう。元々それなりに出来上がった「枯れたソフト」で運用がなされている場合、せっかく安定運用されているのに、軽減税率が導入されるだけで、そのソフトは使えなくなってしまうのだが、そういう無駄にかかる事務処理経費の日本全体としての損失をどの程度見越して今回の決定をしたのだろうか。

 もちろん、これをビジネスチャンスと見るべきなのかもしれないが、動機が不純すぎるし、世の中には現実として、もうあまり手を掛けたくないソフト、というのもあるわけで、今更大昔のコードを読み込んで、軽減税率に対応させるのは、仕事として何の面白みもなく、このまま本当に軽減税率が実際に導入されるようなことになったら、全国でまた無駄にプログラマたちが疲弊することになるだろう。

 ただ、今回、公明党がここまでダダをこねるのは、何かそれに見合う見返りがあるからじゃないか、と邪推していて、私は、軽減税率では最終的に折れてやるから、他の公明党としてやりたいことを自民党に飲ませるための方便じゃないか、という気がしていた。しかし、導入合意ということで、そうではない、ということになるようなので、ではなぜいろんな人がスジワルという軽減税率制度を導入するのか、理解が難しい。もしかしたら、消費税増税を止めるための深謀遠慮が含まれてるのか、とすら一瞬思ったが、これも違うと思うし。

 軽減税率は確かにヨーロッパなどでは導入されているようだが、様々な歴史的経緯があって導入されたようだし、どう考えても、今の日本で導入すべきものではないのではないか、と思う。

 しかし、目的が本当に「痛税感の緩和」なのだとしたら、今回はあくまで据え置きでしかないわけだし、もうどこまで舐められてんの、って感じがするし、仮にこうした軽減措置を組み込むなら、現代日本の最大の課題ともいえる少子高齢化対策として、子育てに関わる費用の軽減をこそ、第一にすべきだと思うが、そういう議論が全然出てきてないようにみえるのも、もう国がそう出てくるなら、わしらにも考えがあるで、的なことをいいたくもなってくる。

 なんだかんだいって、こんな状態でも、私のそこそこ知ってるあの国とかに比べれば日本は天国みたいなもんだが、同じ閉塞感でも日本のはもっとどうにかなるはずなのにくだらない政治のせいでどんどん悪い方向に加速してる感じがあって、とても嫌な気持ちになる類のもので、子供にとって、本当に日本に暮らし続けてていいのか、ちょっと本気で考え始めないといけない、と思う今日この頃であります。

 もっとも、現実的には日本で子育てし続けることになると思ってはおりますが、そうであるがゆえに、行く末を案じざるを得ない。

 ともかくプログラマとしては、しょうもない仕事が増えるのを阻止したいので、なんとか軽減税率導入ぽしゃってくれー、と切に願います。