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1971年滋賀県大津市生まれ。大阪外国語大学ロシア語科除籍。IT業界で働きつつ、2006年よりチェルノブイリ被災地で「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」、被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材。

福島ひまわりプロジェクトのヒマワリにつぼみが見え始めた

 今日は朝6時から自治会の国道草刈りに出て、一汗流してきたところ。すでに一度皆で刈ってあるところがメインでそう大変な仕事ではなかったが、それでも、汗だくになった。昼間にやると間違いなく熱中症になってしまうだろうから、この季節は朝夕の涼しいうちしか出来ない。駄賃代わり(?)の余った混合油で家の周りの草刈りをまたやらないといけない。

 草刈りというのは毎年やらないとあっという間に鬱蒼とした草原になってしまう。なので、だいたいやる場所が決まっていて、ここまではやるが、ここはやらない、という風になっていて、やらないところは2mはあるであろうヨシに覆われたりすることになる。

2mを超す高さのヨシの群生
2mを超す高さのヨシの群生

 ちなみに、このヨシは藁葺き屋根に使われるもので、近くの旅館の屋根はヨシで葺いているらしいが、このあたりでは萱(かや)で葺いていたらしい。今では茅葺屋根の家は私の住む集落には一件もない状態になってしまったが、トタン屋根の下に茅葺きの屋根が残っている家は何軒かあり、以前、大学の調査チームが測量していった、ってこともあった。

 ヒマワリはその後、ぐんぐんと育って、やっとつぼみをつけはじめた。播種が遅れたので、夏の盛りからやや過ぎての開花となりそうだが、うまく咲いてくれるかどうか。この前の台風で斜めになってしまったが、まっすぐにしてやると元に戻り、その後は特に問題なく育っている。ちょっと株間が狭すぎたようで、間にある小さい株が太陽の光をちゃんと浴びられず日陰者の身となって斜めに伸びたりして可哀想なことになっているが、今後の反省点ということにしよう。

育ちがいいのを太陽があたりにくい側に植えたので、まんべんなく太陽の光を浴びてる
育ちがいいのを太陽があたりにくい側に植えたので、まんべんなく太陽の光を浴びてる(と思う)

 発芽したものの中に双葉の頃から3枚ずつ葉を出すものが一つだけあって、成長するか危ぶんでいたが、小さな蕾がついているのを今日発見した。一種の「奇形」ではあるんだろうけど、育つものではあるんだな。

3枚葉ヒマワリの双葉_IMG_20150802_073915

3枚葉ヒマワリのつぼみ_IMG_20150802_073926

 ヒマワリの横にはトマトとナスを植えてるが、カラスが食べもしないのに戯れにつついたりして、赤い実が無残に落ちてたりするのが悲しい。今年、柵や網なしでやることになってしまったが、ちゃんと収穫したければ、それなりに、というか、かなりしっかりとした対策をしないといけないことを学びつつあるところ。

1歳半の子どもが「世界母乳の日」に卒乳することになったが、特に変わりはなく

 諸事情あって子どもが卒乳することになり、その影響でしばらくはグズりまくられると覚悟していたのだが、案に相違して、平生とさほど変わらず、拍子抜けしている。

 最近では、WHOの推奨の影響もあって、一昔前に比べると卒乳は遅くなっているようだが、先日、母乳がネット販売されている、というニュースもあったように、日本では完母への拘りが行き過ぎている面があるようだ。

 WHOの推奨について確認しておこうとググってみたら、こちらの日本WHO協会のサイトのPDFに「8月1日から1週間は世界母乳育児週間です」とあり、たまたま今日がその日でちょっとびっくりしているところなのだが、それはさておき、このPDFの中に「WHOは生後6カ月まで完全母乳育児を行い、その後は適切な食事を補いながら2歳かそれ以上まで母乳を続けることを推奨しています」とあり、やはり、WHOが推奨していることが確認できた。

 ただし、WHOが推奨する理由はこちらのポストセブンのサイトによると、「途上国では不衛生な水などを使った粉ミルクを飲んで感染症になる赤ちゃんが多く、乳幼児死亡率が高いからです。衛生環境が整った日本には当てはまらない」ということらしく、また、こちらのユニセフのサイトによると、「2008年、医学専門誌ランセット(Lancet)は、母乳育児を受けていない子どもは、完全母乳育児で育った子どもよりも生後6ヵ月間で命を落とす割合が14倍も高いという驚異的な事実を明らかにしました」ということで、途上国では重要な意味があるようだ。

 ググってて、思い出したが、私が時々見てたサイトは例えば、「ちょっと理系な育児」というサイトで、こちらでも「母乳は免疫学的に2歳以上まで重要」というエントリーがあったように2年以上を推奨されている。とはいえ、2年以上やらないといけないということもないだろうし、衛生環境の整ったところの場合は、様々な事情を考慮して決めればよい、ということになるだろう。

 ネットのおかげでちょっとした調べ物などで助かる場面は多いが、あまりに情報が多すぎて、どの情報に依拠すればいいのか、なかなか判断がつかないこともよくある。あまり過度に情報を追いすぎず、自分の中で適度に折り合いをつけながら、時にだらしなく、時にそれなりにきちんとやる、というぐらいが精一杯ってところで。

 今日はさすがにこの山の中でもかなり暑くなり、親子ともどもへばっていたところ、子どもが自分で引き出しから海水パンツを取り出して、水遊びをせがみ始めたのにはちょっと驚いた。ほ~、こんなことができるようになったんか~、よしよし、ほな一緒に遊んでやるか、というわけで、木陰での水遊びを先ほど楽しんだところ。両方の親から受け継いだらしい(?)自己主張の激しさには参ってしまうことがあるが、こうした驚きの日々がまだまだ続いており、基本的にはしんどい育児だが、あまりネガティブな感情に陥らずになんとか続けられている。

 別のところでネガティブな感情に囚われることがよくある今日この頃なのだが、なんとか子ども相手にはこの状況をキープしたいところで。

『日本の中でイスラム教を信じる』(佐藤兼永著)の読書感想文

 「日本人ムスリムの姿から、大切な「当たり前」を再確認する」 という記事が出ていた。この記事で言及されている本について、私も少し前に読んだところだったので、感想文を書いておきます。

 日本に暮らすイスラム教徒への取材が丹念になされていて、あまり実態が伝えられることのない日本人のイスラム教徒についても半分かそれ以上にわたって言及がなされていて、世界のイスラム教徒の多様性同様、日本国内の日本人イスラム教徒も日々イスラム法に則った厳格な生活をする方から、割りとアバウトな方まで多様である実態が描かれている。

 この本では日本在住のイスラム教徒の推定人数として11万人という数字を挙げているが、日本の宗教人口は二億人という数値もある通り、実態は不明というのが通り相場である。ただ、他の宗教とは異なり、イスラム教の場合、その多く(9割以上?)は外国人であり、日本人イスラム教徒は多くの場合、配偶者(主に夫)がイスラム教徒であり、結婚するときに改宗(または入信)することが多いとされている。また、イスラム教徒の場合の特殊事例として、日本国内だと「イスラム教=テロ=怖い」というイメージが流布されており、以前、ウィキリークス経由で漏れたように、公安がその人がイスラム教徒というだけで監視対象にするような社会であり、無駄に誤解される恐れがあるので、隠れキリシタンならぬ、「隠れムスリム」(女性の場合、「隠れムスリマ」)がそれなりの数いると思われるが、日本人イスラム教徒はざっくり1万人程度ではないかと言われる。

 その中でもカップルいずれもが日本人というのは、かなりの少数派だろう。この本の中ではそういう少数派の話も出てきて、日本の特殊事情が垣間見え、興味深く読んだ。以下は、日本人カップルが子どもの出産時に医師から言われたことに言及している箇所である。

「『おめでとう』とか『頑張ったね』とか、ねぎらいの言葉は何もありませんでした。『この子も大きくなったらイスラム教徒にしちゃうの? 可哀想ね』と言われ、ほんと唖然としました」

 これほどの例がゴロゴロしてるわけではないだろうし、この本でも「宗教を理由に実生活であからさまな差別や偏見にさらされた経験があるという人は、意外にも少ない」と述べられているが、相手がもしかしたら偏見を持っているのではないか、ということで、注意しているという日本人イスラム教徒の話も紹介されている。

 その続きで、イスラム教への偏見でしばしば言及される一夫多妻制についても述べられていて、これもそれに対する説明でしばしば述べられる通り、複数の妻を平等に扱えないのであれば、一夫一婦が推奨されることが紹介されている。

 ついでに述べておくと、コーランでは「孤児」の扱いの句の中でこの一夫多妻について書かれており、そもそも結婚全般には適応できない、とする意見もある。そういう中で、この句を「都合よく」解釈して、公平に扱うつもりもないのに、複数の妻を持つムスリムがいるのも、どうやら事実のようであり、そういう部分をことさらに強調してイスラム教に対する憎悪を助長する一群もいるようだが、どんな集団にも善き人と悪しき人がいるわけで、そういう面を取り上げて揚げ足取りをするのもどうかと思う。

 本の話に戻ると、日本人ムスリマでちょっと強烈な言を吐く方が出てきてて、イスラム社会で非常に重要な役割を果たしているイスラム法学者について、学識は備えているのだろうが、人間としてのバランス感覚に欠けているように思えるとして、以下のように言う。

「『お前の考えに従えるか、クソじじい』って感じですよね。でも、それホントの気持ち。『たとえ何百年の歴史があろうとも、本に埋もれた本の虫の言ったことなんか(現実の)世界とちっとも関係ねーんだよ』と思えるようになった」

 もっとも、この言を述べた方はイスラム教について、神に対する見方とか、神の教えに近づくやり方がいくつもある中で「割といい線いってんじゃないの」と述べ、さらにイスラム教に助けてもらったことから、ムスリマであることは死ぬまでやめるつもりはないし、「法学者の見解はイスラム教の解釈のスタンダードとして必要だと考えている」ともあり、著者もそういう姿を通して「ものすごく考えて、自分で一個ずつ答えを出してきた」ことでたどりついた境地だと述べている。

 こうした意見は女性側から出されることが多いようで、『イスラーム化する世界』という本で知ったのだが、アメリカでは知る人ぞ知る存在で、論争の多い著作「クルアーンと女性」という本を書いたワドゥードというアフリカ系アメリカ人フェミニストはコーラン解釈の男性中心性とアラブ中心性を批判している。

 氏が依拠するのはファズルル・ラフマーンの「二重運動」という解釈理論で、コーランでは一般的法則はあまり見られず、当時の個別具体的な事柄への言及が多い、として、先の著作から引用すると

そこで必要なのが、二つの運動であるという。「第一の運動」は、クルアーンで述べられている具体的な事柄から、当時の社会状況を考慮しながら一般的法則へと移す「運動」である。そして「第二の運動」とは、この一般的レベルから、現在の社会状況を考慮しながら、具体的な立法作業に戻るという「運動」であるという。(P66)

 こうした二重運動を経て、コーランの意図を抽出し、個別事例に適用していく、というもので、コーランの時代のアラビア半島の家父長的要素を削ぎ落とすことで、様々な社会の文脈に適応できるようになるのだとする。

 さらに、氏は踏み込んで、解釈には個人のバックグラウンドによる影響を取り除くことは出来ないとする立場から解釈に個人見解を認める方向に向かっているらしいのだが、この著作の日本語訳は出ておらず、私はなんともよくわからないので、この辺りで留めておく。

 イスラム教が北アフリカから東南アジアの多くの地域で信仰されていることは知られているが、例えば、国連五大国の各国でもイスラム教と決して縁遠いわけでない、というのは意外と知られていないのではないか。アメリカの場合だと、奴隷として連れて来られたアフリカ人の多くがイスラム教徒だった可能性がある、とのことで、マルコムXがイスラム教に回帰したことが知られているし、ロシア(旧ソ連)は言うまでもなく、多くのイスラム教徒が居住している。中国も同様で、最近よくニュースで出るウイグル人以外でも回族などイスラムコミュニティがあるようで、ヨーロッパの大航海時代に先駆けて中国からアフリカまで到達した鄭和もムスリムだった。フランスは北アフリカ移民が多く、シャルリー・エブド事件が発生したわけだし、イギリスも5%程度はイスラム教徒だとされ、ジハーディ・ジョンと呼ばれる青年が育ったロンドンでは9%がイスラム教徒とも言われているようだ。

 元の本の紹介からは大いに脱線したが、こうした国々同様、日本にイスラムが根付く可能性については、小室直樹氏が『日本人のためのイスラム原論』で述べていた言を借りると、こういうことになる。

「なぜ、日本人はイスラム教の教えに感化されないのか」「答えは規範なのである。つまり、日本人とは本来、規範が大嫌いな民族なのである」「だからこそ、無規範宗教のキリスト教は入ってこれたが、規範だらけのイスラム教は受け付けられなかった」

 ちなみに、小室氏は様々な宗教を研究した結果、入信するならイスラム教だというほど、その教義の「出来の良さ」を賞賛している(実際には入信してないけど)。

 キリスト教だとカトリックに対するプロテスタントの対抗運動が出てきて、ウェーバーが述べたように資本主義の精神が醸成され、今、主にキリスト教をバックグラウンドに持つ資本主義体制の社会が栄華を誇っている(ように見える)わけであるが、かつて、私が外大生の時にアラビア語学科の人が言っていた「終わっている」イスラム教圏も、もしかしたら、そうした運動を経て、再び栄華に包まれる可能性はあるんじゃないか、と思ったりすることがある。2100年には宗教人口でイスラム教徒の数がキリスト教徒の数を抜いて、世界一となる、という予測も出ており、中国が名実ともに大国となった最大の理由はなんだかんだいって人口であるわけで、人口というファクターは侮れない。

 日本もキリスト教がバックグラウンドにある今の「グローバル経済」社会とは相容れない国であることが少しずつ見え始めているように思っているのだが、どうだろうか。ただ、リアルに考えると、21世紀中はそういうことにはならず、まだまだアメリカの世紀が続くような気がするが、こうした転換期にあって、イスラムの視点で再考してみるのも、違った見解が得られて、より深みのある視点が得られるのではないだろうか。

「学童集団疎開」とその諸問題。(4) まとめ

(つづき)

 引き続き、「学童集団疎開」を読んでの感想文です。

    「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて
    「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い
    「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

 最近、あまり読書が出来ないためか、久々に本を読んで蒙が啓かれた気がして、一つの本で3つもエントリーを書いてしまったが、最後にざっくりまとめておきます。

 今という時代に学童集団疎開が可能かどうか、という問題意識を持ちつつ読んだが、著者が繰り返し述べているように「家庭あっての子どもの生活」なのであり、家庭から引き離されて、終わりが見えない中で子供だけで避難生活を継続するのは大変困難だろう、という印象を持った。また、子どもは避難させるが、大人はそのままそこで生活する、というのも、よくよく考えると理不尽な面があるように思える。学童集団疎開を実施するのであれば、精神的影響を考慮して、地域まるごと移住の方がよほどよい、ということになるのではないか。地域まるごと移住は、大人にとっても都合がよく、地域内であれば、人間関係ができているし、それぞれどういう点に注意すべきかについて、ある程度、お互い分かり合っているというのが大きく、もし人間関係を損なうような出来事があっても、双方を知る関係者の仲裁が期待できるので、大きな問題にはならないはずなので。

 チェルノブイリ原発事故の時もキエフで子どもの集団疎開が実施されたが、ソ連の場合、もともとサナトリウムなどで保養する文化がある上に、ソ連版ボーイスカウト(ガールスカウト)のピオネールの伝統もあり、子どもたちが集団で生活するのに慣れていた、という面があったため、比較的スムーズにいったのではないか。期間も3ヶ月程度と1年以上に亘った日本の戦時中の学童疎開に比べると短く、また、その期間はちょうど春から夏にかけてであり、子どもたちが過ごす季節としては良い季節だった、ということもあるように思う。

 原発事故では初期被ばくを抑える、という意味で出来るだけ早く避難を実施するべきなのであるが、チェルノブイリの場合も、実際のところ、集団疎開が実行されたのは、初期被ばくを相当に受けてからだった(一説によると、疎開前に75%被ばくを受けてしまっていて、疎開することで防げたのは25%程度だった、という話もあったような)。再稼働に向けて、様々な動きがある中、今一度、事故が起きたときにありえる出来事をリアルに想像し、どのようにして被ばくを防ぐのか、再稼働を認めない、というスタンスであっても、再稼働賛成側であっても、被ばくを出来るだけ少なくしたいという思いは同じはずで、思考停止状態に陥ることのないよう、常に思いを巡らせ続けておかないといけない、と改めて思ったことだった。

「学童集団疎開」とその諸問題。(3)襲いかかる様々な困難

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の感想文です。学童集団疎開について、いじめ都市と農村を題材に書いてきましたが、その他、個人的に興味を引いた点をあげておきます。

 学童集団疎開は実際に実施される前から話は出ていたが、著者によると「都内30万の学童を収容できる宿舎は絶対にありえない」「短期間中に輸送できる能力を、現在の国鉄がもっているはずはない」とのことで、現実的ではないだろう、という見通しが現場では立っていたようだ。それが実施されたということは、逆に言えば、1944年夏頃にはそれほど戦局が悪化していた、ということになるのだろう。

 集団疎開は引率教師にとっても大変な負担で、「自分の担任児童の大部分が集団疎開するというのに、自分だけ学校に残留するということは、まったく意味のないことであったが、家庭の事情、身体的故障などで、参加できないということも当然ありうることだし、ことに家庭をもっている女教師にとっては、まったく不可能なことであった」とあり、担任教師が同行できない場合もあったことが伺える。

 児童にはそれぞれ注意すべき点があって、担任であれば、それを把握できているが、担任でないものは、一からそれを知らなければならない。私自身、子どもだけを預かる保養プログラムに支援スタッフ側で参加したことがあるが、関係性が出来上がるまでそれなりに時間はかかるし、何か問題が起きたときに親の協力を得られない、というのは、大変大きな困難で、担任が参加できなかったクラスの児童はただでさえ大変だった集団疎開で、さらに大変な目にあったことだろう。

 今回の福島第一原発事故の場合でも飯舘村の方々が飯坂温泉などの旅館に一時的に滞在された例もあったが、この本のケースでも疎開先が温泉旅館となった。寒い長野の冬にいつでも温泉に入れる、という良い面もあったが、「学童集団疎開は徹底的な欠乏の生活であった。食糧難が最後までこの生活につきまとい、食べ盛りの子どもたちを悩ませ続けた」「金にあかした山海の美膳が子どもたちの目の前を素通りする刺激は、たえ難いものがあった」とあり、さらに、配給品を巡って旅館側への不信感が募っていったこと、旅館に宿泊する軍人たちが子供をからかったり、どんちゃん騒ぎをして、猥雑な歌をうたったりすること、などの理由から「温泉旅館は教育の場として不適格」であると判断し、一度身を落ち着けた場所からの再疎開は普通は億劫になるものだが、さらに山奥の農村の寺への再疎開を歓迎すべきものとして受け入れられている。

 当時は日本中どこでもそうだったようだが、蚤・虱の問題は解消のしようがなく、子どもたちは常にボリボリと身体をひっかいて、安眠もかなわない状態だったらしい。著者は蚤退治の薬を買ってみたもののまったく効果はなく、「蚤取粉と称するもののインチキぶりに、これほど腹がたったことはなかった」「わたくしはこの時ほど、日本という国の非科学性、非文明性をうらめしく思ったことはない」と書いている。

 大事な子どもを預かる立場というのは、大変な精神的負担があり、特に冬期に心臓麻痺を起こして死亡した子供が一人出てしまい、その後はさらに子どもたちの健康維持に対し神経質になったとある。しかし、病気が治らず医師に受診しても、こんなのは病気でないと言われる始末で医師に頼れない状態だったらしく、しかも栄養も十分でないため、大変困難な状況だったようだ。

 病気の場合、やむなく親に引き取りに来てもらう、ということになっていたようだが、それを「利用」して病気になったことにして、どこからか診断書を入手してきて子どもを引き取る親も続出したとのこと。親の言うことを聞いてそのまま帰る子もいたが、頑として戻らないという子どもも数多くいたとあり、理由として著者は、子どもたち自身が自らを精神拘束していたためではないかと推測している。

 この本で印象深かったエピソードとして、上級生のいじめに耐えかねたある児童が非常によく出来た作り話をして、東京に単身で逃げることに成功したという話があった。作り話の内容は、知らないおじさんが親に頼まれて迎えに来たのだと自分を連れて行ったが、行き先が名古屋だったので不審に思い、とっさに逃げ出して東京方面の電車に飛び乗って振り切った、というのもので、細部がよく作りこまれていて、当初、校長をはじめ、皆その話が本当だと思ったが、作り話だと後にわかったそうだ。

 また、1945年3月に入学試験準備のために6年生を東京へ返したことで、爆撃にあって死亡した子どもが多数いたことも述べられており、こうした時局であっても、難しい判断を迫られ、1945年8月の終戦まであと数ヶ月だと分かっている今の目から見ると、返すべきではなかったということになるだろうが、いつ戦争が終わるかまったく見通しの立たない中で判断で、当時の感覚ではそれが子どもにとってよかれと思ってなされた選択だったのだろう。

(つづく)