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「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の読後感想文。

 前回は学童集団疎開で発生したいじめの問題を主に取り上げたが、この本で私が興味深く読んだところは都会と農村を巡る部分だった。著者の浜館菊雄氏は1902年青森県生まれで青森の師範学校卒だが、1934年に東京へ移り、その後ずっと東京住まいで、主に音楽専科教師をつとめたと奥付にある。つまり、東京以外で生まれ育ち、東京に移って10年ほどでこの学童集団疎開に立ち会ったことになる。都会育ちではないため、都会に対し辛めの感覚を持っていた可能性はあるが、都会しか知らない人や田舎しか知らない人ならともかく、両者を知っている人は、双方の悪い部分も知っており、それを踏まえた感覚であるので、特に偏っているわけではないだろう。

 著者は最終章で学童集団疎開事業を振り返り、以下のように述べている。

 「とくにわたしくは、農村婦人会のかたがたの誠意と愛情を忘れることはできない。それはもっとも純粋なヒューマニズムの現われであった。わたくしたちは、副食物について、調味料について、間食について、万策つきた時は、この人たちの愛情、この人たちの母性愛に訴えるしかなかった。わたくしたちは、しばしばこの人たちによって急場を救われたのであった」

 疎開中、食料配給を待っていたのでは飢えるばかりであるため、荒れ地を開墾したり、馬も食べない毒草と地元で思われているギシギシという野草をみんなで集めて食べるなど、子どもたちを生き延びさせるため出来る事はすべてやったという感じだが、結局、どれも腹の足しにはならず、最終的には地元の方の好意に甘える以外に方策はなかった、ということだったようだ。

 もちろん、農村部の人々とて、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、それぞれが出来る範囲でしか出来ず、積極的に支援しなかった人の方が大勢であったろうし、農村部の人たちが素朴に全員善人だったわけでもないだろう。ただ、こうした難局にあって、人間性がモロに出る、という面はあり、都会の親御さんについて、著者は「疎開児童の父兄の態度、物の考え方は、じつに徹底した個人主義の現われであった。自分の子ども以外にほかを省みる精神的余裕はまったくなかった」と述べており、農村部の好意と好対照をなしていると言わざるをえない状況があったことがわかる。

 また、親であれば、自分の子どもと面会を希望するのは当然であるが、一度に全員の親が揃って面会出来るならともかく、そんなことは出来ないため、子どもへの悪影響が大きく、順番制となっていたようだが、「もぐり」で来る人が後を絶たず、禁令を破って、こっそり食料を渡す親が出たり、面会後、帰京して悪い噂を流す親も相当いたようで、著者は以下のように述べている。

「面会していった父兄たちの現地報告はきまって良くなかった」「その人たちの語るところは、流言となって広がるのであった。根拠のある話よりも、根拠のない話のほうがかえって真実性があるかのように伝わるのは、このような時局にありがちなことであった」

 こうした「もぐり」面会については教師の間で許可すべきでないと主張する強硬派もいたようだが、来た親を無碍に追い返すわけにもいかないので、本人に気づかれないように、寝ているところや、登校の様子を隠れて見る、ということで著者と親が折り合いを付ける場面など、毎日襲い掛かってくる難局を工夫して乗り切る様子が描かれている。

 また、通信の検閲が実施され、検閲というと、今や表現の自由を犯す悪いものの代名詞であるが、子どもが子どもの表現で実態とは異なる実情を述べることで家庭に不安を与えるのを防止する、という目的があり、これはこれで分からないではない。実際、ありもしないことを子どもが手紙で書いて問題になることが多かったため、検閲が実施されたようなのだが、「手紙を検閲して都合の悪いことを書かせない」との不信感を生んだようだ。

 都市部と農村部の子どもの違いについて、著者は「勤労作業の根底をなすものは、協力精神である。都会の子どもには、この精神がかけている。このような境遇におかれてすら、かれらに精神的な融和、団結ができなかった」と述べ、また「わたくしは村の子どもが、勤労作業中に疎開の子どもに示した心からの親切、同情の表われをたびたび目撃している」とも述べており、農村部と比較して、都市部の子どもがより個人主義的な行動を取っていたことが報告されている。

 私事にわたる話だが、都市部と農村部のこうした違いについて私が興味を抱いたのは、私の祖母が当事者として、このような狭間に立たされたことを話していたことがあったからだった。私の親世代は戦中時代をよく覚えており、子どものときから、さつまいものつるなどを食べてしのいでいたことをなどを聞いていて、農村部といえど、食料供出で多くを持って行かれてしまう中で、苦労していたことを聞いていたが、晩年の祖母の話によると、都市部の遠い親戚が子連れでやってきて、子どもがひもじそうにする姿を見せつけて、自分の子どもに与える食料もないのに、残り少ない食料を奪うようにして持っていった、ということがあったらしかった。その都市部の遠い親戚は戦前に法事でやってきたときに自分の「モダン」ぶりを自慢して田舎をバカにしていたらしく、その悔しさがあったようで、戦後、特に「あのときはおおきに」的なことをゆうてくるでもなく、音沙汰がなくなった、とも言っていたのだった。

 これは極端な例であるかもしれないが、そんなこんなで都市部の人が農村部に関わる問題に上から目線で口を挟むことに対し私は大変腹立たしく感じるようになってしまった。私自身もどちらかといえば、都市部の感覚強めの人間なので、こんなことを田舎側に立って述べる資格はないのかもしれないが、いざというときに都市部の人間はこうした行動をする、ということは、私の深いところに刻み込まれたようで、農村部を大事にしない人のことは基本的には信用できない。昔、大阪に住んでいた時、「この前、電車で滋賀に行ったけど、ずっと田んぼ田んぼ田んぼで田んぼばっかやな」と言われ、その「田んぼ」の言い方がいかにもバカにしきった言い方だったので、カチンと来て、食糧難になってもお前には絶対分けたらんからな、と深く心に誓ったのだった。

 ちょっと話が脱線してしまったが・・・、次回は、それ以外に興味深かった点に触れてみようと思います。

(つづく)

「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて

 浜館菊雄著「学童集団疎開」という本を読んだ。

 いじめにより、子どもが自殺するという痛ましい報道がつい最近もあったところであるが、子どもの陰湿ないじめは戦後の高度成長が一段落し、皆がある程度豊かになった辺りから出てきた問題かとなんとなく思っていたが、この本を読んで、戦中からすでにあったことを知った。軍隊での新兵いじめの話は映画や小説などでよく出る題材でそういうのが日常あったことは知っていたが、子どもの間で仲間はずれにしたりして精神的に追い詰めるようないじめが戦中からあったことをこの本を読んで初めて知った。

 この本は某古書店で100円で売ってるのを見かけてなんとなく買った本だった。福島第一事故直後、集団疎開を提案する動きが出はじめ、私たちが初めて2011年4月に福島入りしたときも、主目的の一つは集団疎開は無理としても、希望者だけでも子どもたちの一時避難ができないか、という件で現地の意向を聞きに行く、ということであって、自治体の社協などを訪れたりしたのであるが、その後もずっと疎開について、あの状況で可能だったのか無理だったのか、しなかったのは正解だったのか、した方がよかったのか、私の中でも未だ結論は出ていない。ただ、今後、原発事故など想定外の事態に対し、集団疎開が今の時代に現実的なのかどうか考えておきたい、という気持ちはずっとあって、ここのところ、育児の合間にちびちびと読んでいたのだった。

 読後感として、疎開は様々な問題が噴出し、大人にも子どもにも大変な肉体的・精神的苦痛を与えるものだ、ということがよくわかった。特に子どもの精神的動揺の問題は大変大きく、担任として子どもと直に接してきた著者は以下のように述べている。

「わたくしは疎開の頭初には、その訓育的効果に期待をもっていたのだった。(中略)。わたくしは、ある理想をいだいて臨んだのであった。しかし、事実はより以上に厳しく、環境と生活状態の急変による子どもたちの精神的動揺は、わたしくにとっても大きな動揺であった。わたくしの夢は破れ、きゅうきゅうとして子どもたちの精神を平静にし、その心に喜びの灯をともしてやりたいという消極的な仕事に終始してしまった」

 そして、食料調達の問題も大変大きく、そのことがいじめの問題に大きく影響したこと、また、父兄との信頼関係がゆらぎ、いくつものデマが生まれ、相互不信状態に陥り、中途で子どもを集団疎開生活から離脱させる親が続出したことなども疎開が簡単ではないことを物語っている。

 この本で描かれている疎開について述べておくと、世田谷区の小学校児童が長野県に疎開にいったときの記録で、1944年7月17日に疎開通達があり、翌々日には疎開列車に乗っている翌々日までに参加するかどうか決めるように言い渡された。そして、約1ヶ月後の8月12日に出発している。この猶予のなさについて、著者は時間を与えてしまうと疎開自体がうまくいかなくなるため、当局がそのように設定したのだろうという推測を述べている。

 疎開はまず旅館に寝泊まりし、その旅館の部屋で授業が行われた。その後、工場移転に伴う危険を避けるため、再疎開が行われ、より山深い農村の寺に宿泊することになり、そこで終戦を迎えることになる。学級は3年から6年を男女別8つに分けられ、担任もそのままという形で行われたので、教師と児童の間の問題は少なかったようだ。

 1945年4月から東京では学校が閉鎖され、低学年の児童も疎開組に入ることになり、ただでさえ「疎開病」という精神的退行状態に陥る子どもが多い中でさらに困難が増した。勤労奉仕で飛行場建設現場に行ったり、農作業や薪運搬作業に駆り出され、教育が満足に行えない状態が続く中、玉音放送が流れ、その後すぐ続けて流された解説放送で、集団疎開は来年3月まで続行とアナウンスされたが、実際には11月1日に帰京できた、とある。

 この本を読む前の私の疎開のイメージは、都会の子が田舎に行き、村の子どもたちにいじめられる、というものだったが、この本を読むと、むしろ疎開児童同士の間のいじめがひどく、村の子どもとはそんなに深い交流があったわけではなかったことが伺えた。ただし、これは集団と単独の疎開の違いでもあるかもしれず、親に連れられての疎開の場合はまた別の話かもしれない。

 著者によると「本書の刊行を思いたったのも、この子どもたちの内面的な苦悩の姿を幾分でも表わしたいという願望があったから」とのことで、いじめのことを「特殊な異常行為」と表現していることから、当時としてはこの問題が異例であったことが伺われる。

 この本には22の章があるが、10章目に「教育の盲点」という章があり、それがいじめの報告となっている。ちょうど重松清の「ナイフ」の「ある日突然、クラスメイト全員が敵になる」みたいなのが、この時代にすでにあったことが描かれている。教師も含め大人がまったく見抜けなかったとあるので、この時代では子供同士でこうしたいじめがあることは稀だった、ということだろう。そして、「子供の精神衛生面を重要視できなかったといことが、決定的な落度といわなければならないのではなかったか」と述べている。

 上級生が下級生をいじめる例が多かったようで、少ない食べ物をめぐっての争いで上級生が巻き上げるなどがあったとのことで、面会の折に親がこっそり渡す食物も上納しないといけないなどの厳しいルールがあったようだ。また、みんなで一人を無視するいじめもあり、無視の仲間に入らないと今度は自分が標的になる、という点も今のいじめと同じで、集団生活で生じるいじめに時代は関係ないようだ。また、男児より女児に排他性・残忍性が強く出たとあるが、今の集団生活は多くの場合、男女別でないので、どうなんだろうか。

 本書ではこうしたいじめが起きた原因の一つとして、班編成にあった可能性が示唆されており、隣組での班編成が基本であったが、どうしても部屋によって、あぶれる場合も出てきて、その場合、意地悪な子が敬遠される傾向があって、そうした「問題児たち」がいじめる側に回ることが多かった、という事情があったようだ。

 そうした閉鎖空間にあって「疎開病」になり、精神的不安の蓄積が肉体に影響して病弱になる子どもが続出した、とのことで、そうした子どもは、親元へ戻すとただちに「疎開病」が治ることが記されている。このことについて、著者は以下のように書いている。「子どもたちの日ごろの元気の根源というものは、家庭生活にあるのだということを、しみじみと観ぜざるをえないのである。まことに、家庭こそ子供の魂の宿るところなのである」

(つづく)

「福島第一原発で水素爆発の危険性」という記事が出ていたが……

 こちらに「福島第一原発で水素爆発の危険性」と題する記事が出ていた。時々他の日本語のニュースサイトでは報道されない記事が出ることもあるラジオイラン発の記事で、怪しい出処の記事をよく掲載する某国の日本語プロパガンダサイトなんかよりはまともな記事が掲載されることが多いと思っているのだが、さすがにこの記事はないやろと読んでみると、「福島第一原発の汚染水タンクからの放射能漏れにより、水素爆発が起こる危険が高まっており」とあり、この記事の題名から類推される「原子炉建屋の水素爆発の危険」ということではないことがわかった。

 先日、『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』という本を読んだところで、原発の水素爆発といえば、燃料被覆管のジルコニウムと水が反応して発生する水素がその源であり、汚染水タンクでそれが起こるわけはないので、なんだろうな、と思って、もう少し調べてみたところ、1週間ほど前の記事で 原発汚染水処理の廃液容器、1割に水漏れやにじみ 東電 という記事が出ていた。

東京電力は22日、福島第一原発の汚染水処理に伴って出る廃液の保管容器の約1割に水漏れやにじみが見つかったことを、原子力規制委員会の検討会に報告した。容器はコンクリート製の箱の中にあり、箱の外には漏れていないが、容器の内部には水素がたまっており、規制委の担当者は「濃度が高ければ、静電気で火花が飛ぶと爆発などの危険性もある」と指摘した。

 そして、汚染水の水漏れの原因として、以下の要因をあげている。

高濃度廃液から出る放射線で水が分解されて発生する水素などのガスが、容器下部の沈殿物の中にたまり、体積が膨張、液面を押し上げたと推定する。ふたには水素などのガスを逃がすための小さな穴がついているが、今回の調査で穴がない欠陥品が1個見つかった。納入時の記録から、同様の欠陥の可能性のある容器は他に333個あるという。

 ということで、このことをラジオイランの記事は指していることがわかった。もう少し調べると英語記事で、英テレグラフ紙が「近くに着火源はなく、静電気を発生するものもないので、水素爆発の危険は極めて低いだろう」との東電のコメントを取っている。以下は元記事と元の英語。

Fukushima leak ‘could cause hydrogen explosion’ at nuclear plant

“We think the possibility of an occurrence of hydrogen explosion from these storage facilities is extremely low, since there is no fire origin, or anything that generates static electricity nearby,” Mayumi Yoshida, a spokeswoman for Tepco, told the Telegraph.

 ちなみに、こちらによると「水素爆発は、酸素濃度が5%以上、水素濃度が4%以上混ざった気体に点火すると起こる爆発」とのこと。あと、こちらによると、

実際の燃焼範囲は空気中に体積で4~75%含まれている場合で、それ以上濃度が高くても低くても着火しません。また、発火点は527℃とガソリンの500℃よりも高く、自然発火しにくいガスといえます。万一、屋外で容器から漏れたとしても軽いガスであるため、ただちに空気中に拡散してしまい開放空間での爆発はほとんどありません。

とあり、水素というと危険なイメージがあるが、

ちなみに、「ヒンデンブルグ号」の事故は、近年の研究で、出火原因が船体の外皮の塗料にあったことが解明されています。酸化鉄と粉末アルミニウムをまぜた特殊な塗料でしたが、成分が大変燃えやすく、外皮にたまった静電気のスパーク(火花)で簡単に火災を起こし、炎上したことが原因で、水素漏れによるものではないことがわかっています。

ともあり、思っているほどには危険ではないんだな、と調べてて知った次第。

石川迪夫著『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』を読んでの感想

 一昨日は頭痛で悩まされながら、しかし、そんなにひどいのではなかったので、前から通読したいと思っていた石川迪夫氏の著作『考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』を読んでみた。まだ新鮮なうちに、備忘録代わりに感想を書いておきます。

 読後感としては、福島第一原発の1号機から4号機の原子炉建屋での事象に対し、1人の人物がそれなりに矛盾なく考えたストーリーを提示した、という点で意味があるのではないか。事故調などの報告はそれぞれに意味はあるとは思うが、様々な人が関わっており、不確定な部分については、断定的に書くわけにはいかないので、どうしても謎のまま、読み手側は放り出されてしまう面があるし、東電の報告などを読もうにも専門用語が多用され、煙にまかれて、なんかようわからん、ということになりがちだ。この本では、その辺り、わからないところも「かもしれません」と但し書きをつけながら憶測を交えて書いている部分が多々有り、そこがむしろ一般読者にとっては、専門家でもわからない部分もそれなりに理解しながら、読み進められるようになっている。

 個人名の著書だが、著者は原子力村の重鎮で、その人脈を活かし、様々なエキスパートのチェックを経ているようで、正式には表に出ていないが、「耳にした」という表現での記述もちらほらとあり、まだ先のある技術者だと書きにくいことも書いていて、文系人間にとってなるほどそういうことだったかと思わせる部分が多々あった。

 ただし、「原発継続ありき」の前提で話が進むので、読むに耐えない記述があちこちにあり、そういう部分を我慢しながら読む必要があるのが面倒なところで、原発反対の立場の人が読むと「何をゆうとるんやー」と怒りたくなる記述が随所にある。

 著者はチェルノブイリ原発についても聞き取りをしており、「関係者の見聞記録や発言があって大いに役立ちました」としつつ、今回は「チェルノブイリ事故の時のような、傍証として使える具体的事実がほとんどないこと」から「情報統制が度を越すと原子力安全の改善の機会を失わせます」などとして、「東電に苦言を呈す」体に一応なってはいる。

 私は事故後しばらくは張り付いていて、原発情報を追いかけられていたが、途中でついていけなくなったので、今や自明であるようなこともわかっていないことがあるのだが、この本の中の技術的な記述で私が一番印象に残った点は、2号機ベント失敗の部分。飯舘村などへのセシウム汚染は2号機からの大量放出の寄与が大きいことは報道されていて(3号機分も相当寄与してるらしいが)、格納容器圧力が大気圧と同じになっていることから、どこかが破損し、3号機の爆発で偶然開いたブローアウトパネルから水素共々非常に濃い放射性プルームが漏れでて、そのおかげで水素爆発は免れたものの、放射性物質を大量にまき散らし、深刻な汚染の一番の源となった、というところまでは押さえていたつもりだが、p229-230の以下のような記述はちゃんと理解してなかったように思う。

 ベントが開かなかった理由は、ベント管内に挟まれていた破裂板(ラプチャーディスク)が破れなかったためといわれていますが、多少異論があるとも聞いています。(中略) 非常時にしか使用しないベントには、2重の隔離弁だけではなく、破裂板を置いて、管路からの漏洩対策に万全を期したものと推察されます。

 破裂板は、一定の圧力がかかれば破れるよう設計されていて、1、3号機では設計通り破れました。ところが残念なことに、2号機では破れなかったのです。破裂板の破裂失敗例には、取り付けの失敗が多いといわれています。

 後悔先立たずですが、いやしくもベントは安全装置ですから、破裂を置くならば万一の失敗を考えて、外力で破れる工夫を凝らしておくべきでした。この注意が不足していました。これは設計ミスです。

 この記述を読んだ時、責任者出てこい!と思わず唸ってしまった。もし存命中であれば、自分でもよくわかっていると思うので、名乗り出てきてほしいぐらいだが、もし、このベントが成功していたら、この本の中で繰り返し述べられている「750もの除染係数を持つSCベント(注:水にくぐらせ放射性物質を減少させてから大気中に放出するベントの方法)は十分役に立っていた」という記述を仮に信じると今の帰還困難区域の汚染は相当に減っていた可能性がある、ということになる。

 破裂板が破裂しなかった ―― 肝心なときにエアバッグが作動しないようなもので、いろいろと致命的なことが起きていた中で、ここはなんとかなった部分ではないかと思ってしまうところだ。ほんま、どこの誰が取り付けたのか、知りたい。

 ただし、SCベントに成功したとされる3号機についても、この本の出版後に遠隔カメラを使った調査で格納容器が破損していたことが確認されたとの報道がなされており、それを踏まえた改訂版、あるいは、この本を批判的に検証しつつ、別のストーリーを提示するような本の出版があるとよいと思った。しかし、結局、3号機でベントに成功しても、格納容器は破損したわけで、2号機でベントに成功していたとしても、汚染が相当減少したわけではない可能性も大いにあるだろう。

 1号機に関しては、データがこんなにも少なかったことを改めて知った。「とにかく、言い尽くせないいろいろな事柄が、この時間、修羅場である原子炉圧力容器の内部で、時間をかけながら進行していたと思えます」との記述にあるように多くの記述が憶測で書かれている。著者は5階爆発説を唱えているが、4階爆発説の可能性が高い、という話が出ており、1号機はまだまだ未解明部分が多いように感じる。

 4号機については、3号機からの水素逆流ということになっていて、着火源は熱膨張したダクトの折れ曲がり部分とのことだが、2号機、3号機のような傍証となるデータが少ない分、なんともいえんなあ、という印象。

 この本の筋立てとして、検証が進んだスリーマイル島原発事故での炉心溶融を元に論証しており、この筋立ては素人にはとてもわかりやすい。2号機・3号機については、概ねこの本の筋立てに近いことが起こったのだろうなぁ、という印象を持った。

 ただ、とにかく当時の民主党政権が大嫌いらしく、いちいちちくちくとうざいなぁ、と呆れながら読むことになるので疲れるが、私のような文系でもなんとかついていける書物ではあり、一読して損はない本だと思います。

 あと、もう一つ気になった点を書いておくと、『”福島原発”ある技術者の証言』という本で、「1990年の少し前から、私の見る限り、原発の現場力は明らかに低下していった」との記述があるのだが、石川氏も原発導入時からの第一世代であり、「(事故について)明快な説明ができない理由は、事故現象についての物理化学的な現象解明をしないまま、コンピュータの計算に頼るひ弱い解明方法にあります。これは日米共に同じと感じました。」としているように、今の現行世代の「包括的な」技術力に問題があることを伺わせている。つまり、技術の継承が出来ていない、ということになる。今回の福島第一原発事故では、かろうじて、第一世代が存命中だったことで助かった部分があるのではないか。そうした面を考えると、今後、再び事故が起きた時に、今以上の対応は出来ない可能性が高いように思う。原発は技術力の結晶かもしれないが、全体を把握できている人はこの世にいない、という話もあり、今だと各分野に通じたその道の専門家はたくさんいても、全体を俯瞰しながら事故対応できる人材はもういないのではないか。原発のような安全が極めて重要な施設でそんな危なっかしい話はないだろう。そういう意味でもやはり原発はなくしていく方向に進むべきと考える次第である。

 その他、この本で興味深い点を書き留めておこうと思ったが、また今度ということで。

田舎と都会と福島と東京と

 「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん という記事が話題になっている。

 こうした発言自体、勇気のいることだと思うし、こうして行動に移したこと自体素晴らしいことだと思う。そして、福島が多様である、というのももっともな話で内容も基本的には同意する。ただ、どこかひっかかる点があって、どこかなー、と考えていたのだが、一つ気づいたのは、都会の人特有の田舎見下し感があることで、これもご本人が率直に以下のように述べていることからも、伺える。多分、福島に通うことで、少しずつ消えていったのだろうけど。

自分で認めるのはつらいのですが、心のどっかで福島の人を見くびっていたのでしょう。「たぶん、真実を知らないのではないか」「放射線に慣れてしまっただけでないか」と。

 確か震災後2年目ぐらいの時だったか、福島に行った時に首都圏の都市部から初めて福島に来た、という方と福島の人の放射能リテラシーについて、軽い口論になった。私からすると、福島の放射能被災地に住む方の放射能リテラシーが高いのは自明のことだったのだが、その方は福島の人の放射能リテラシーが低いと本気で思っていることがうかがい知れた。途中で「もう話してもしょうがない」と話を打ち切られてしまったのだが、その方は話している分には偏った考えを持っているわけでもなく、とてもよい方だったので、そのことが余計に私には新鮮な現実として感じられた。

 あと、これは関西でのことだが、集まりで福島に何度か足を運んだことについて話をしていた時に、ある関西都市部在住の方がこんなことを言い出した。「福島で鎌を持って追いかけられへんかったか」 最初、何のことを言っているのか分からなかったが、田舎者を揶揄するのにこうした物言いをしている、ということにすぐに気づいた。福島も郡山とか私からすると大都会の雰囲気なんだが、福島というだけで田舎認定、という有り様なのだ。

 私は田舎者歴が長いので、こういう都会もんの田舎者見下し発言には敏感な方である。都会もんが田舎もんを嫌う理由として、もう少し上の世代だと、戦争疎開の時にいじめられた経験があったりして、いくらか同情の余地はあるのだが、現行世代の田舎に住んだことのない都会もんにとって、田舎のリアルを理解するのはちょっと難しい、というか、基本的に無理なのではないかと思っている。都会もんが田舎にきて、「田舎いいなぁ、こんなところに住みたい」なんて言うことがあるが、残念ながら、それは本心ではないだろう。なぜなら、多くの場合、実際に田舎に移住するわけではないので。

 では、その逆はどうかというと、多くの田舎もんは都会のことを結構知っていて、私自身も大阪に数年住み、通勤もしていたこともあり、実感としてもよく知っている。この非対称性は割りと重要で、何かにつけ、地方創生などとお上が掛け声をかけているが、そのグランドデザインを描く側にいるのは、地方のリアルを体感したことがない都会もんだったりするわけで、その実効性は田舎側から見ると言葉ばかりが上滑りをしている危ういものに見える。

 東浩紀氏他の「福島第一原発観光地化計画」も、購入して一読したが、そういうのを如実に感じた。ある人が「アートっぽさ」が鼻につく、というような表現をしていたが、東京のお洒落文化人が福島をネタに話題作りしてみました感が満載で、関わった人たちはそれぞれ真摯に対応しているおつもりなのだろうけど、この地方と都会の非対称性を論者の多くは理解してないんじゃないかと思わざるを得なかった。

 ただ、私としては、そういういただけない面があるとして、こうした試み自体はよいことだと思っている。原発事故のように触らない方が無難、ということになりがちな事柄については無関心よりは話題になる方がよいと思うので、どんな話題であれ、いろんな考えの人が自分の考えを述べること自体、歓迎すべきことだと思う。そんなわけで、こうした多くの人が肯定するような記事に対し、ひっかかった点を述べることも大切ではないか、ということで、ゆうてみました。

追記:私は都会のリアルについては、大阪・京都・名古屋・神戸についてはいくらか知ってますが、東京や他の大都市のリアルについては正直わかりません。あと、都会に日帰りで行けるようなところに住んでいながら田舎者面するな、という声には、中途半端な田舎者ですいませんとしか……。