ザポロージェ訪問記3 ザポロージェからエネルゴダールへ

 ザポロージェは産業都市で、ソ連時代よりザポロージェッツという車を生産していて、今も各国の様々なメーカーの車を作っているらしく、あちこちで工場の姿をみかけた。また、自動車以外の産業も盛んなようである。ただ、大気汚染の問題があるようで、チェルノブイリ事故時の避難者がここからさらに再避難した、という話もある、とのこと。

ザポロージェ市内
ザポロージェ市内

 産業都市だけあってか、ザポロージェ市内は複数車線の道路が多く、走りやすそうだった。

ルーフキャリアにスイカを載せた車
ルーフキャリアにスイカを載せた車

 日本では車のルーフキャリアに載せるものは、営業車が脚立などを載せてたりする以外はスキー・スノボとか自転車などレジャーものが多いが、ウクライナではこういう光景も時々見る。鶏など生き物が載ってるのも見たことがある。

ウクライナ語表記の看板広告
ウクライナ語表記の看板広告
ロシア語表記の看板広告
ロシア語表記の看板広告

 東部は初めてだったので、街の看板や広告の表記がウクライナ語かロシア語か、注意して見ていたが、ロシア語の看板の方が多いように感じた。ただ、ウクライナ語の看板もたくさんあった。

マリウポリと書かれた道路標識
マリウポリと書かれた道路標識

 道路標識はもちろんウクライナ語表記。マリウポリはドネツク州の臨時州都となっている港町で、こちらでもドネツクほどの激戦地にはなっていないようだが、戦闘が続行中。ザポロージェからの距離は200km程度なので、実は今回、訪問を検討したのだが、子連れでもあり、アホな自称ジャーナリストが死亡、なんてなったらシャレにならんので、自重した。

ウクライナのガソリン価格
ウクライナのガソリン価格

 休憩も兼ねてガソリンスタンドへ。ガソリン価格は1リッター17グリヴナ程度で日本円で約150円程度。現在下落しているグリヴナの通貨価値を考えると日本と同程度と考えられるが、所得水準を考慮すると現地感覚では相当高い。

貯水湖沿いを突き進む列車
貯水湖沿いを突き進む列車

 日本では機関車が客車を引っ張るタイプの列車はむしろ贅沢な乗り物になってしまったが、ウクライナでは都市間移動の主役として今も庶民の足となっている。

テロ対策の検問所
テロ対策の検問所

 テロ対策のため、幹線道路にこうした検問が何箇所かあった。粗い画像でなんやようわからんかもしれませんが、赤白縞模様のコンクリの塊が路上に横たえられているため、車はジグザグに進んで抜けていきます。

 ちなみにエネルゴダール入りするときの検問はさすがに厳し目でしたが、こうした幹線道路では比較的すんなりと通してもらえるようでした。

ザポロージェ訪問記2 ザポロージェのレーニン像

 先日、ハリコフの欧州最大という巨大レーニン像が引き倒された、という記事(巨大レーニン像受難=民族主義派引き倒す-ウクライナ東部 時事:2014/09/29)が出ていたが、ついこの間、ザポロージェのレーニン像を撮影してきたばかりなので、アップしておきます。

レーニン像600

 これが私が初めて目にした時のレーニン像であった。風の具合でそうなったのか、あえてウクライナ国旗でレーニン像の顔を包むことで何かを意図していたのか、どちらなんだろうと思っていた。

レーニン像605

 少し間を置いて、再確認すると、上の写真のような状態になっており、特に意図はなかったことが判明した。(電線が邪魔ですが、トロリーバスのものです)

 ちなみにレーニン像の背後には1932年にドニエプル川で初めて作られた水力発電所がある。上の写真のレーニンの背後の右側には水面が見えるが、左側には見えないので、その間の建造物がダムであることがわかっていただけると思う。

レーニン像607

 ダムの上には道路があり、車が往来していて、橋の欄干がウクライナカラーに塗られているのがわかる。

 この黄色と青のウクライナカラーは今回あちこちで見ることになったが、ユーロマイダン以降、大幅にウクライナ全土の街中で増えたように思う。

レーニン像608

 反対側から見たレーニン像。

レーニン像610

 こちらは夕方、近くまで行って撮影したレーニン像。

レーニン像620

 朝、首に巻かれていたウクライナ国旗が、夕方には腕にいい感じにかかっている。

レーニン像630

 台座部分ではソビエトの労働者が額に汗して働いている(?)。

 そして、つい先程、たまたまTLに出てきてびっくりしたのだが、今日、ザポロージェのレーニン像が着替えをしたらしい。

 こういうのってどうやってやってるんだろうと、思ってたが、ちゃんとクレーンを使ってたようで。

 さらに、ハリコフではこれ以上レーニン像を倒されないようにするためにレーニンに十字架を建ててる、とのこと。

ザポロージェ訪問記1 ウクライナ東部のコサックの街・ザポロージェへ

 アトムグラード(Atomgrad)なるイベントがあると聞いたのは、pripyat.comのサーシャからだった。聞くと、ソ連時代に建設された産業衛星都市についてのイベントで、プリピャチについて詳しいサーシャも呼ばれた、とのことで、私たちも急遽参加させてもらうことにした。

 開催場所はウクライナ東部のザポロージェ(ウクライナ語読みではザポリージャ)で、現在戦闘が行われているドネツク州に隣接するザポロージェ州の州都である。東部ではあるが、ドネツク州内に入らない限り、安全に問題はないと判断し、子連れではあったが、訪れることにした。

 キエフからの移動は列車で行くことにした。希望に合う夜行がなく、朝7時に出る列車で行くことになり、早起きして出発。

 列車は巷で噂になっていたヒュンダイ製の列車。冬季に立ち往生する事態が発生したことで「全面運行中断」という話もあったようだが、今もこうして普通に走っている。こちらのWikipediaの現代ロテムの項目にはには「2012年冬に寒波による運行トラブルが続発している。現代ロテム側は冬季における試運転不足を認めた」とある。

車内販売のお兄さん

 ウクライナで車内販売のある列車に乗ったのは初めてかも。いつもは事前に買い込んでおくのだが、事前に分かっていればこれを利用するのもありかも。食堂車というほどではないが、軽食や飲み物を提供する車両もあった。

ヒュンダイ製列車内トイレ

 いろいろ言われてるが、基本的には快適ではあった。トイレも広々としていて、夜行列車でよくあるように水浸しになって床などあちこちが汚れているようなことはなかった。ただ、だだっぴろいトイレにオムツ交換台がなかったのはマイナスポイントとのこと。

ウクライナ鉄道の女性駅員

 ウクライナ鉄道では女性駅員が多い。しかし丈が……。

ザポロージェ駅

 そうこうするうちにザポロージェに到着。キエフから7時間かかったがこれでも早い方である。子供が何度かグズったものの、デッキに出るなどして対応。特に舌打ちされることもなく(笑)、無事移動出来た。

A4用紙に印刷されたキエフ・ザポロージェ間の切符
A4用紙に印刷されたキエフ・ザポロージェ間の切符

 運賃は348.40フリヴニャ。今、フリヴニャレートが悪くなっているので、日本円では約3000円程度になる。日本の新幹線感覚でいくと時間はかかるが、安く移動できる。ただ、当地の人にとっては新幹線価格ではあり、より安価なのを好む人、あるいは、列車の密閉空間が嫌いな人は長距離バスに乗るようだ。

(つづく)

オデッサの悲劇の現場となった労働組合会館

 2014年5月2日、オデッサで痛ましい事件が発生し、数十人が死亡した。仕組まれただの何だのといろいろ言われているが、地元の人に聞くと、サッカーファンが大暴れして、50人ばかり死んだが、今のオデッサは平穏そのものだ、とも言われたりして、正直よくわからない。しかし、ここで多くの人が亡くなったのは紛れもない事実だ。

オデッサ駅

 オデッサには別目的で来たのだが、そういえば、事件のあった場所はどの辺りだったのか、と聞いてみたところ、駅のすぐそばだということが分かり、訪れてみた。上の写真はオデッサ駅で、駅の向こう側(駅の東側)に見える木々のあるところがクリコボ・ポーレ(Kulikovo Pole)と呼ばれる広場になっていて、その中心に労働組合の建物がある。

オデッサ労働組合会館・遠景

 広場では散歩やジョギング中の人が行き来し、古本を売っている人たちの一角があるなど、平穏な雰囲気の中、警察官が何人も警護する建物があり、それが労働組合会館だった。

オデッサ労働組合会館・正面

 警察官が数メートル置きに配置され、さらに建物を取り囲む塀が設けられていて、中には入れない。

オデッサ労働組合会館・花壇と募金箱

 会館の前には花壇が設けられ、その中に募金箱が、負傷者のため、管理のため、残された家族のため、とそれぞれ名目別に3つ置かれている。

オデッサ労働組合会館・黒焦げの壁と割れた窓ガラス

 黒焦げになった壁が生々しい。1階の窓はすべて割れて目張りされているが、2階は目張りされず割れたままになっている箇所もある。

オデッサ労働組合会館・焼け焦げたウクライナ国旗

 屋上の焼け焦げたウクライナ国旗もそのままになっている。

オデッサの悲劇・死亡者リスト

「2014年5月2日テロによる死者の暫定リスト。死者はすべてオデッサ住民。(死者の近親者や知人からの情報提供による)」という文言が書かれている。56人目までが印刷され、さらに書き足せるようにスペースが空けられていて、手書きで57人目が追加されている。多くが焼死と中毒死だったようだが、窓からの転落死や銃撃死などもあったとある。

オデッサの悲劇・メッセージと詩

 「5月2日を記憶に留める」と題し、いくつものメッセージや詩が寄せられている。

オデッサの悲劇・「忘れない 許さない」という詩

 「忘れない 許さない」という題の詩。(ちなみにメッセージや詩のほとんどはロシア語で書かれている)

 ここは駅のすぐそばであるが、観光客で賑わう繁華街からは幾分離れている。ちなみに私がオデッサを訪れたのはこれで2回目だが、私がウクライナで唯一受けた暴力は前回滞在時のオデッサで、ちょうど駅前のこの広場辺りだった。理由は分からないが、一発背中に蹴りを入れられ、咄嗟に振り返ったものの、夜ということもあって人影に逃げられたらしく、喧嘩などにはならなかったのは幸いというべきか。

 オデッサは港町だけあって、いくらか南部的というか、ウクライナの街の中でもよりカオスな雰囲気があるが、リヴィウと共にウクライナの中でも観光地として楽しめる街で、治安も悪いわけではないので、ウクライナに来る機会があれば、キエフ以外のこうした街も訪問されることをおすすめします。

キエフ・マイダン続き 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』

 マイダンの続きです。

マイダン横の祭壇
マイダンの花時計の下に設けられた祭壇

 マイダン横の亡くなった方たちの遺影のある道を歩いていると、花時計のところに祭壇が設けられていて、たくさんの花が手向けられていた。たまたまそこを通りかかったとき、石碑の碑文を読んでいた男性がハンカチで涙を拭いていた。

マイダン石碑
Мамо, не плач. Я повернусь весною. (ママ、泣かないで、春には戻るよ)

 我々は急いでいて、碑文を読む余裕はなかったが、そしてウクライナ語で書かれていたので、読んでも意味がちゃんと理解出来なかったかもしれないのだが、写真に撮り、帰国してから読むと男性が涙していた理由がわかった気がした。以下に訳してみます。


自由なウクライナのために殉じた人々は
天の百人と呼ばれるようになった。
最高齢は83歳だった。
最年少はまだほんの17歳だった。
殺人者の弾丸や棍棒で3人の女性が亡くなった。
産み、子を育て、孫と楽しむ母たちだった。
親を失くした子供が残された。
夫を失くした妊婦が残された。
高齢の親、兄弟姉妹、友人、職場の同僚が残された。
執筆途中の卒業論文や博士論文、
建築途中の家、花が咲いたことがない庭、
キスをまだしていない恋人、
数えきれない天の星々が残された・・・。
そして、すべてのその永遠の高き世界の下に
悲嘆に暮れる母たちの涙がある


 ちょうど今、御嶽山の噴火で亡くなられた方々の身元が判明し、それぞれの方がどんな方で、最後の日にどのようなことをしていたかが報道されている。ただ「○人死亡」と聞いてももはや慣れっこになって一ニュースとして流れていくだけだが、こうして一人一人のことを知ると感情が動く。

 マイダンでも同様で、一人一人の遺影を見つめ、碑文を読むとこみ上げるものがある。

 そして、上の文章の続きに『ママ、泣かないで、春には戻るよ』という題の詩が刻まれている。

 ユーロマイダンは11月から始まり、遠方からも多くの人々がこの広場に集結した。その中にはいてもたってもいられず、反対する近親者に「春になったら戻るから」と出て行った人たちも大勢いたことだろう。

 今回、チェルノブイリ被災者互助団体・ゼムリャキの事務所に日本の支援団体であるえんどうまめやジュノーの会からの支援金を渡してきたのであるが、いろんな話をするうち、どうしても東部に行って義勇兵として戦闘に参加するといってきかない近親者がいる方がいて、家族中でなんとかなだめている、という話も聞いた。

 今のところ、呼ばれているのは軍関係者で一般の若者に対する招集命令が来るところまではいっていない、とのことだったが、まさに戦争中の国にいることを実感したのだった。

 『ママ、泣かないで、春には戻るよ』は、調べると歌があり、英語バージョンもあるので、関心のある方は聞いてみてください。

●ウクライナ語版
“Мамо, не плач. Я повернусь весною”

●英語版
“Mama, Don’t Cry”