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1971年滋賀県大津市生まれ。大阪外国語大学ロシア語科除籍。IT業界で働きつつ、2006年よりチェルノブイリ被災地で「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」、被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材。

「学童集団疎開」とその諸問題。(2)農村と都会の人間性の違い

(つづき)

 引き続き、浜館菊雄著『学童集団疎開 世田谷・代沢小の記録』の読後感想文。

 前回は学童集団疎開で発生したいじめの問題を主に取り上げたが、この本で私が興味深く読んだところは都会と農村を巡る部分だった。著者の浜館菊雄氏は1902年青森県生まれで青森の師範学校卒だが、1934年に東京へ移り、その後ずっと東京住まいで、主に音楽専科教師をつとめたと奥付にある。つまり、東京以外で生まれ育ち、東京に移って10年ほどでこの学童集団疎開に立ち会ったことになる。都会育ちではないため、都会に対し辛めの感覚を持っていた可能性はあるが、都会しか知らない人や田舎しか知らない人ならともかく、両者を知っている人は、双方の悪い部分も知っており、それを踏まえた感覚であるので、特に偏っているわけではないだろう。

 著者は最終章で学童集団疎開事業を振り返り、以下のように述べている。

 「とくにわたしくは、農村婦人会のかたがたの誠意と愛情を忘れることはできない。それはもっとも純粋なヒューマニズムの現われであった。わたくしたちは、副食物について、調味料について、間食について、万策つきた時は、この人たちの愛情、この人たちの母性愛に訴えるしかなかった。わたくしたちは、しばしばこの人たちによって急場を救われたのであった」

 疎開中、食料配給を待っていたのでは飢えるばかりであるため、荒れ地を開墾したり、馬も食べない毒草と地元で思われているギシギシという野草をみんなで集めて食べるなど、子どもたちを生き延びさせるため出来る事はすべてやったという感じだが、結局、どれも腹の足しにはならず、最終的には地元の方の好意に甘える以外に方策はなかった、ということだったようだ。

 もちろん、農村部の人々とて、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、それぞれが出来る範囲でしか出来ず、積極的に支援しなかった人の方が大勢であったろうし、農村部の人たちが素朴に全員善人だったわけでもないだろう。ただ、こうした難局にあって、人間性がモロに出る、という面はあり、都会の親御さんについて、著者は「疎開児童の父兄の態度、物の考え方は、じつに徹底した個人主義の現われであった。自分の子ども以外にほかを省みる精神的余裕はまったくなかった」と述べており、農村部の好意と好対照をなしていると言わざるをえない状況があったことがわかる。

 また、親であれば、自分の子どもと面会を希望するのは当然であるが、一度に全員の親が揃って面会出来るならともかく、そんなことは出来ないため、子どもへの悪影響が大きく、順番制となっていたようだが、「もぐり」で来る人が後を絶たず、禁令を破って、こっそり食料を渡す親が出たり、面会後、帰京して悪い噂を流す親も相当いたようで、著者は以下のように述べている。

「面会していった父兄たちの現地報告はきまって良くなかった」「その人たちの語るところは、流言となって広がるのであった。根拠のある話よりも、根拠のない話のほうがかえって真実性があるかのように伝わるのは、このような時局にありがちなことであった」

 こうした「もぐり」面会については教師の間で許可すべきでないと主張する強硬派もいたようだが、来た親を無碍に追い返すわけにもいかないので、本人に気づかれないように、寝ているところや、登校の様子を隠れて見る、ということで著者と親が折り合いを付ける場面など、毎日襲い掛かってくる難局を工夫して乗り切る様子が描かれている。

 また、通信の検閲が実施され、検閲というと、今や表現の自由を犯す悪いものの代名詞であるが、子どもが子どもの表現で実態とは異なる実情を述べることで家庭に不安を与えるのを防止する、という目的があり、これはこれで分からないではない。実際、ありもしないことを子どもが手紙で書いて問題になることが多かったため、検閲が実施されたようなのだが、「手紙を検閲して都合の悪いことを書かせない」との不信感を生んだようだ。

 都市部と農村部の子どもの違いについて、著者は「勤労作業の根底をなすものは、協力精神である。都会の子どもには、この精神がかけている。このような境遇におかれてすら、かれらに精神的な融和、団結ができなかった」と述べ、また「わたくしは村の子どもが、勤労作業中に疎開の子どもに示した心からの親切、同情の表われをたびたび目撃している」とも述べており、農村部と比較して、都市部の子どもがより個人主義的な行動を取っていたことが報告されている。

 私事にわたる話だが、都市部と農村部のこうした違いについて私が興味を抱いたのは、私の祖母が当事者として、このような狭間に立たされたことを話していたことがあったからだった。私の親世代は戦中時代をよく覚えており、子どものときから、さつまいものつるなどを食べてしのいでいたことをなどを聞いていて、農村部といえど、食料供出で多くを持って行かれてしまう中で、苦労していたことを聞いていたが、晩年の祖母の話によると、都市部の遠い親戚が子連れでやってきて、子どもがひもじそうにする姿を見せつけて、自分の子どもに与える食料もないのに、残り少ない食料を奪うようにして持っていった、ということがあったらしかった。その都市部の遠い親戚は戦前に法事でやってきたときに自分の「モダン」ぶりを自慢して田舎をバカにしていたらしく、その悔しさがあったようで、戦後、特に「あのときはおおきに」的なことをゆうてくるでもなく、音沙汰がなくなった、とも言っていたのだった。

 これは極端な例であるかもしれないが、そんなこんなで都市部の人が農村部に関わる問題に上から目線で口を挟むことに対し私は大変腹立たしく感じるようになってしまった。私自身もどちらかといえば、都市部の感覚強めの人間なので、こんなことを田舎側に立って述べる資格はないのかもしれないが、いざというときに都市部の人間はこうした行動をする、ということは、私の深いところに刻み込まれたようで、農村部を大事にしない人のことは基本的には信用できない。昔、大阪に住んでいた時、「この前、電車で滋賀に行ったけど、ずっと田んぼ田んぼ田んぼで田んぼばっかやな」と言われ、その「田んぼ」の言い方がいかにもバカにしきった言い方だったので、カチンと来て、食糧難になってもお前には絶対分けたらんからな、と深く心に誓ったのだった。

 ちょっと話が脱線してしまったが・・・、次回は、それ以外に興味深かった点に触れてみようと思います。

(つづく)

「学童集団疎開」とその諸問題。(1) いじめについて

 浜館菊雄著「学童集団疎開」という本を読んだ。

 いじめにより、子どもが自殺するという痛ましい報道がつい最近もあったところであるが、子どもの陰湿ないじめは戦後の高度成長が一段落し、皆がある程度豊かになった辺りから出てきた問題かとなんとなく思っていたが、この本を読んで、戦中からすでにあったことを知った。軍隊での新兵いじめの話は映画や小説などでよく出る題材でそういうのが日常あったことは知っていたが、子どもの間で仲間はずれにしたりして精神的に追い詰めるようないじめが戦中からあったことをこの本を読んで初めて知った。

 この本は某古書店で100円で売ってるのを見かけてなんとなく買った本だった。福島第一事故直後、集団疎開を提案する動きが出はじめ、私たちが初めて2011年4月に福島入りしたときも、主目的の一つは集団疎開は無理としても、希望者だけでも子どもたちの一時避難ができないか、という件で現地の意向を聞きに行く、ということであって、自治体の社協などを訪れたりしたのであるが、その後もずっと疎開について、あの状況で可能だったのか無理だったのか、しなかったのは正解だったのか、した方がよかったのか、私の中でも未だ結論は出ていない。ただ、今後、原発事故など想定外の事態に対し、集団疎開が今の時代に現実的なのかどうか考えておきたい、という気持ちはずっとあって、ここのところ、育児の合間にちびちびと読んでいたのだった。

 読後感として、疎開は様々な問題が噴出し、大人にも子どもにも大変な肉体的・精神的苦痛を与えるものだ、ということがよくわかった。特に子どもの精神的動揺の問題は大変大きく、担任として子どもと直に接してきた著者は以下のように述べている。

「わたくしは疎開の頭初には、その訓育的効果に期待をもっていたのだった。(中略)。わたくしは、ある理想をいだいて臨んだのであった。しかし、事実はより以上に厳しく、環境と生活状態の急変による子どもたちの精神的動揺は、わたしくにとっても大きな動揺であった。わたくしの夢は破れ、きゅうきゅうとして子どもたちの精神を平静にし、その心に喜びの灯をともしてやりたいという消極的な仕事に終始してしまった」

 そして、食料調達の問題も大変大きく、そのことがいじめの問題に大きく影響したこと、また、父兄との信頼関係がゆらぎ、いくつものデマが生まれ、相互不信状態に陥り、中途で子どもを集団疎開生活から離脱させる親が続出したことなども疎開が簡単ではないことを物語っている。

 この本で描かれている疎開について述べておくと、世田谷区の小学校児童が長野県に疎開にいったときの記録で、1944年7月17日に疎開通達があり、翌々日には疎開列車に乗っている翌々日までに参加するかどうか決めるように言い渡された。そして、約1ヶ月後の8月12日に出発している。この猶予のなさについて、著者は時間を与えてしまうと疎開自体がうまくいかなくなるため、当局がそのように設定したのだろうという推測を述べている。

 疎開はまず旅館に寝泊まりし、その旅館の部屋で授業が行われた。その後、工場移転に伴う危険を避けるため、再疎開が行われ、より山深い農村の寺に宿泊することになり、そこで終戦を迎えることになる。学級は3年から6年を男女別8つに分けられ、担任もそのままという形で行われたので、教師と児童の間の問題は少なかったようだ。

 1945年4月から東京では学校が閉鎖され、低学年の児童も疎開組に入ることになり、ただでさえ「疎開病」という精神的退行状態に陥る子どもが多い中でさらに困難が増した。勤労奉仕で飛行場建設現場に行ったり、農作業や薪運搬作業に駆り出され、教育が満足に行えない状態が続く中、玉音放送が流れ、その後すぐ続けて流された解説放送で、集団疎開は来年3月まで続行とアナウンスされたが、実際には11月1日に帰京できた、とある。

 この本を読む前の私の疎開のイメージは、都会の子が田舎に行き、村の子どもたちにいじめられる、というものだったが、この本を読むと、むしろ疎開児童同士の間のいじめがひどく、村の子どもとはそんなに深い交流があったわけではなかったことが伺えた。ただし、これは集団と単独の疎開の違いでもあるかもしれず、親に連れられての疎開の場合はまた別の話かもしれない。

 著者によると「本書の刊行を思いたったのも、この子どもたちの内面的な苦悩の姿を幾分でも表わしたいという願望があったから」とのことで、いじめのことを「特殊な異常行為」と表現していることから、当時としてはこの問題が異例であったことが伺われる。

 この本には22の章があるが、10章目に「教育の盲点」という章があり、それがいじめの報告となっている。ちょうど重松清の「ナイフ」の「ある日突然、クラスメイト全員が敵になる」みたいなのが、この時代にすでにあったことが描かれている。教師も含め大人がまったく見抜けなかったとあるので、この時代では子供同士でこうしたいじめがあることは稀だった、ということだろう。そして、「子供の精神衛生面を重要視できなかったといことが、決定的な落度といわなければならないのではなかったか」と述べている。

 上級生が下級生をいじめる例が多かったようで、少ない食べ物をめぐっての争いで上級生が巻き上げるなどがあったとのことで、面会の折に親がこっそり渡す食物も上納しないといけないなどの厳しいルールがあったようだ。また、みんなで一人を無視するいじめもあり、無視の仲間に入らないと今度は自分が標的になる、という点も今のいじめと同じで、集団生活で生じるいじめに時代は関係ないようだ。また、男児より女児に排他性・残忍性が強く出たとあるが、今の集団生活は多くの場合、男女別でないので、どうなんだろうか。

 本書ではこうしたいじめが起きた原因の一つとして、班編成にあった可能性が示唆されており、隣組での班編成が基本であったが、どうしても部屋によって、あぶれる場合も出てきて、その場合、意地悪な子が敬遠される傾向があって、そうした「問題児たち」がいじめる側に回ることが多かった、という事情があったようだ。

 そうした閉鎖空間にあって「疎開病」になり、精神的不安の蓄積が肉体に影響して病弱になる子どもが続出した、とのことで、そうした子どもは、親元へ戻すとただちに「疎開病」が治ることが記されている。このことについて、著者は以下のように書いている。「子どもたちの日ごろの元気の根源というものは、家庭生活にあるのだということを、しみじみと観ぜざるをえないのである。まことに、家庭こそ子供の魂の宿るところなのである」

(つづく)

「放射能を中和させる方法を発見」という記事について

 ロシアNowというサイトに放射能を中和させる方法を発見という記事が出ていた。ロシア語圏のニュースサイトで話題になっているのかとざっとニュース検索してみたが、出ている様子はなかったので、シャフェエフという名前で類推してшафеев(shafeev)で検索すると、2015年5月に以下のような記事が出ていたことがわかった。

В России ядерные отходы превратят в удобрения(ロシアでは核廃棄物が肥料に変わります)

 Shafeevで検索すると、「素人が知りたい常温核融合」というサイトでShafeev博士のレーザー照射による半減期短縮実験(セシウム137)というエントリーが見つかり、そちらでLaser-induced caesium-137 decayという英語の論文が読めることもわかった。ざっと見てみたが、残念ながら私の文系頭ではよくわからない。

 核変換については各所で研究がなされていて、日本原子力研究開発機構(JAEA)サイトにも「放射性廃棄物の核変換技術への挑戦」というPDFファイルがあり、ざっとナナメ読みしてみたが、「核変換は、様々な国・分野の研究者・技術者の力を結集して、数十年かけて実現する技術」とあり、現時点では実用レベルではないんじゃないかな、と。

 ただ、ロシアは核大国であり、独自技術があったりするので、もしかしたら、なんて期待してしまうが、どうなんでしょうね。

台風対策で畑の支柱を固定、室内では子供の柵越えに対応

 ミニ家庭菜園を始めてから最初の台風がやってくるかもしれない、ということで、慌てて、支柱の固定を朝からやった。いつかやろうと思ってはいたのだが、いろいろとやることが多く後回しになってしまっていた。あらかじめ支柱を固定するための杭は作っておいたので、そこの手間は省けたが。杭は適当な端材をなたで適当に削って、適当に尖らせただけのものだが、十分間に合った。既成品を買ってくるのが手軽だし確実だが、「仕事」ではないので、こういうDIY的な所作も含めて楽しむもんなんだろう。

 あと、杭を削っていて思い出したのは、以前、祖母の畑の手伝いをしているときに頼まれてこういうのをいろいろと自作していたことで、初めて一からやる菜園であるが、それなりに畑仕事のやり方は少しは知っているといえるのかもしれない。性格上、諸々ちゃんとやりたい方だが、いくら時間があっても足りないので、適当でごまかすことが多いのだが、適当でもそれなりに育ってきていて、おもしろい。

 子育ても、どうしても適当ですます場面は多く、子供の相手ばかりもしてられないので、今、こうして文章を打っているすぐ横でいろいろとインタラプトしてくるのであるが、時にかまってやり、時に邪険にあしらいつつ、適度の距離感を持って接している。別に狙ってこうやっているわけではないが、バランス感覚として、この辺が適当ではないか、って感じで。

 今週から、子供がキッチンのエリアに入ってこないように設置している柵に身を乗り上げると乗り越えられることを発見してしまい、今まであの手この手で侵入しようとしてきた子供だったが、ついに方策を編み出した。ちょっと危険な方法なので、今朝その部分を手当したのだが、次はどこから侵入してくるか。

 侵入といえば、昨日、窓の外に比較的大きめの蜂がいて、その軒下には以前、スズメバチの巣があったところであり、アシナガバチにしては大きいなあ、と眺めていたら、窓の隙間から室内に侵入してきて、嫁さんと子供を急遽別の部屋に移動させ、カッパを着用して対決した。部屋をぶんぶん飛び回るので、困ったのだが、部屋の電気を消して、キッチンの電気だけにするとその周囲だけ飛び回るようになり、観察してるうちにある程度、行動パターンが読めたので、丸めた雑誌で一発で仕留めた。結果はスズメバチではなさそうだったのでよかったが、アナフィラキシーショックなどもあるので、蜂は油断できない。

 嫁さんと子供には蚊帳に避難していてもらったのだが、これは先日、この家にはムカデが時々出て、寝ているときも身体の上を這うことが以前あったので、下にも網のある蚊帳を購入したもので、早速役に立った。安物なので、ちょっと柔く、子供がすぐに壊してしまいそうなのが難点だが、今のところ、まだ持ちこたえてはいる。やはり、就寝中に足がムズムズした時に、ムカデであるはずがない、と思えるのは精神衛生上大変いい。

 畑の方でもイノシシ・サルの侵入対策で防護柵を設置しないといけないのだが、場所的に一部網を張るのが困難な箇所があり、頭を捻っているところ。その「ソフトターゲット」をやつらは的確についてきやがるので、それなりに手当しないとまずそうなので。

 トマトやナスは、始めるのが遅かったためか、あまり大きくはならず、芽かきや虫取りもやってるのだが、なかなかうまくいかないもので。それでも、初生りの小さいのを収穫して食べてみたが、普通にちゃんとトマトで、やや精神的にしんどい今日このごろだが、こういう小さな楽しみを見つけてしのいでいくのも生きていく技術なんだろう。

カビと過剰品質の日本

 ここ数日、この山の中でも気温が上がり、葉刈りなど外仕事をしている時に、一時ちょっとふらついてしまって、あまり根を詰めすぎるのはよくないと、その後は休み休みやるようにしている。葉刈りといっても、10年近く放置していて伸び放題になっている枝をキレがいいとはいえない錆びたのこぎりで切るという作業の連続でもう腕があがらないほどになり、今朝も二の腕に麻痺があるような感覚が残ってたり。

 そういうわけで、梅雨明けが見えてきた今日このごろだが、先週はジメジメしつつ気温も高い日が続き、カビ大発生の嫌な予感がしている。昨日、風を通そうと普段あまり開けないカーテンを開けたら、死んだカメムシにカビがさっそく生えていて、これはやばいぞ、とビビっているところ。カビはあらゆる箇所に根を下ろすので、湿度がいくらか下がったタイミングで家に風を通すとか、カビが見つかったら拭いたりするなどして地道に取り除いていくしかない。

 あと、カビが生えないようにカビの元となる有機物を出来るだけなくすのもよい方法とのことで日頃からまめに掃除をしているといいのだが、育児などでそんなことはしてられず、しかも食べこぼしとかが散乱し、子供が汚れた手であちこち触り回るので、掃除してもすぐに汚されてしまう。

 ウクライナにいるときに思ったのだが、あちらはこうした明確に雨季と呼べるような季節がなく、あまりカビに神経質にならなくてもよく、ナッツ類の入った皿をフタもせずにテーブルに置きっぱなしにしてる家庭があったりとか、日本では考えられないような生活様式に驚いたものだ。実際、そういうことをしても特に湿気る様子はなかった。

 江戸時代や明治初期に日本に来た外国人の記録で、きれい好きな日本人の様子が描かれることがあるが、ウクライナで生活していたとき、もしかしたら、それは日本には梅雨という雨季があるせいではないか、と思ったことがある。そして、この雨季が一年のうち、1ヶ月程度、という期間も重要なポイントで、これより長くても短くても、また違った生活習慣になるのではないかなと。つまり、1ヶ月という期間はある習慣を育てるには十分な長さなのだが、半年ともなると、カビ前提での生活になるだろう。それがこの期間だけ我慢すれば、あとは大丈夫ということになると、そのカビ前提でない習慣はそのまま続けられることになるだろう。

 ただし、梅雨時だけきれい好きになるのは実質無理なので、梅雨じゃない時も梅雨時に身についた生活習慣が少しずつ広がっていき、きれい好きになっていく、ということではないかと。例えば、袋に入った食材の口は一度開けたら開けっ放しにはせず、比較的乾燥している季節でもちゃんと口を閉めることを習慣づけている方が日本では多数派だろう。

 思いつきの説にすぎないし、こういう説がすでにあるんかどうかも知らないが、民族性・国民性に気候や地形が与える影響というのは、思っているよりも大きいように思う。

 現在の日本製品への信頼性は、かつの安かろう悪かろうのイメージがあったメイド・イン・ジャパンの面影はないといってよいだろうが、世界から見るとそこまで高品質にしなくても、必要十分な品質であれば安価なものが選ばれるのが現実で、高付加価値で生き延びる戦略に日本は向かおうとしているようだが、この人口規模ではちょっとそれは無理なんじゃないかとなんとなく思う。北欧とかシンガポールぐらいの数百万人規模の国ならなんとかなりそうな気がするが、1億人規模の国でこの方向性はまずい気がしているのだがどうだろう。

 日本滞在経験のあるウクライナ人が「電車に乗っている日本人の顔は疲れているかイライラしているかで楽しくなさそう」的なことを言っていたが、時々ほぼ時間通りに電車が来ることの背後にどれだけ多くの人達が苦労しているかを思うことがある。新幹線の運転をしていた方の話を直に聞いたことがあるが、30秒遅れるだけで始末書物だとか、ちょっとあの仕事はいくら高給でも精神をやられそうで(実際、その方は精神的にきつくなり、転職された)、やりたくないなぁ、と思ったものだ。

 日本も国際化、というのであれば、もう少しいろんな面でゆるくなっていかないともうもたないんじゃないか、と思う。何か問題があった時に声をあげるのはよいことであるが、行政サービスとか公的機関に苦情を簡単に言い過ぎて、無駄に防御的対応がなされる、という場面が増えてきているようにも思う。

 日本人の国民性、というのも、本当にそうなのかと時に疑問に思ってみるのもよいことで、きれい好きについても、イザベラ・バードの記録を見ると、明治時代の人々は今の日本人の目には不潔としかいいようがない生活をしてたりしたわけで。

 元々多様性のあった国だったはずだが、近代化の過程で効率の名の下、少々やり過ぎていろいろと無理が生じていて、そろそろ行き過ぎを反省し、揺り戻しの時期に来ているのではないのかな、と。

 ちょっと雑ですが、梅雨明けの待ち遠しさから思うことを書いてみました。