「チェルノブイリ」カテゴリーアーカイブ

レニングラード原発2号炉で蒸気漏れ事故が発生か

 こちらのインターファクス記事によると、現地時間の12月18日14時頃、タービン建屋で蒸気漏れが発生し、原子炉を停止した。原因は低圧蒸気配管の欠陥とのことで、周辺の放射線状況に変化はないとしている。

 こちらの公式サイトによると、INES(国際原子力事象評価尺度)でレベル0の事象と見ているようで、安全性に問題なしとしている。

 こちらのラジオリバティの12/19の記事によると、レニングラード原発の街であるソスノヴイ・ボールでパニックが起きているとのことで、街を出るものや銀行からお金を引き出すものも出てきていており、ヨード剤の需要が高まっている、とある。

 こちらのVKontakteというロシアのSNS内のソスノヴイ・ボールのグループを見ると、原発関連の投稿も上がっているが、パニックというほどではないようにも見える。

 ただ、同記事で、事故当時、風はフィンランド湾の方に流れており、ソスノヴイ・ボールに流れなかったのはたまたまそうなっただけ、という意見も紹介されている。

 では、フィンランドではどうなっているか、リアルタイムに放射線状況が見えるサイトはないかと探したところ、こちらにそれっぽいサイトがあり、適当にフィンランド南東部の地点をクリックしていくと、どうもちょうどその蒸気漏れのあった12月18日の午後に0.1~0.2μSv/h程度ではあるが、それらしい上昇が見られる。

フィンランド最南東部に位置するHAAPASAARIという街の12/18の空間放射線量率の変化
フィンランド最南東部に位置するHAAPASAARIという街の12/18の空間放射線量率の変化
フィンランド最南東部に位置するHURPPUという街の12/18の空間放射線量率の変化
フィンランド最南東部に位置するHURPPUという街の12/18の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの1週間の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの1週間の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの一ヶ月間の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの一ヶ月間の空間放射線量率の変化

 一応、年単位で見ると、それぐらいの上下は時々あるレベルのようであり、今回たまたま高めになった、と見ることもできるが、時間が符号しているので、いくらかの漏れはあったんではないか、とも思えるのだが、どうだろうか。

HAAPASAARIの1年間(2015年)の空間放射線量率の変化
HAAPASAARIの1年間(2015年)の空間放射線量率の変化

被曝者互助団体ゼムリャキのタマーラ・クラシツカヤ代表と地区病院小児外来病院チェルノブイリ科主任ベスパーロヴァ医師が来日

 チェルノブイリ原発労働者の街・プリピャチ市の元住人たちが立ち上げた被曝者互助団体「ゼムリャキ」の代表を務めるタマーラ・クラシツカさんと、チェルノブイリから避難者が多数住むデスニャンスキー地区の小児中央外来病院チェルノブイリ科主任医師のスヴィトラーナ・ベスパーロヴァさんが来日されます。

 11月下旬から12月上旬にかけて、各地で講演会や交流会を開かれます。今、検索してみて見つけた公開情報より、場所や日時などをまとめておきます。

11/23 東京講演会「チェルノブイリからゲストを迎えての研修会&交流会」

日時:2015年11月23日(祝) 開始14:00~16:45(開場 13:30)
会場:主婦会館プラザエフ:BF2クラルテ(〒102-0085東京都千代田区六番町15)
   アクセスJR 四ッ谷駅 麹町口から徒歩1分・東京メトロ 四ッ谷駅から徒歩3分
参加費:無料・申込不要

http://starsdialog.blog.jp/archives/47927918.html
https://www.facebook.com/kirakiraboshinetjapan/posts/905599046191768

11/28 大阪講演会「チェルノブイリのその後、そして未来」

日時:2015年11月28日(土) 13時開場14時開演
場所:石切ホテルセイリュウ
近鉄奈良線「石切駅」下車、南出口より南へ徒歩約5分。
近鉄東大阪線「新石切駅」下車より上り坂を徒歩約15分。
シャトルバスは新石切駅発・石切駅発 それぞれ 13:15、13:30、13:45 (15分おき)
チケット代:1000円

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=698246546976963&set=a.214831331985156.55627.100003748735646&type=3&permPage=1

12/1 岡山講演会「ウクライナからゲスト招き講座「チェルノブイリから29年」」

日時:2015年12月1日(火)19:00~20:30
場所:岡山市立京山公民館2F第1講座室
住所:岡山市北区伊島町2-9-38
岡山駅東口バスのりば 7番のりばより乗車 「武道館口」下車 徒歩5分

http://blog.livedoor.jp/sakatakouei/archives/51830829.html

12/6 神戸講演会「チェルノブイリからのたより」

日時:2015年12月6日(日)14:00~15:30
場所:カトリック神戸中央教会
住所:神戸市中央区中山手通1丁目28-7
http://catholic-kobe.org/tunagari/images/katudo/talking.pdf

 上記以外に福島や広島・宇部などにも行かれるようなので、関心のある方はお問い合わせ下さい。

(※注:ロシア語読みの場合、お名前はそれぞれタマーラ・クラシツカヤさん、スヴェトラーナ・ベスパーロヴァさんとなります)

チェルノブイリ原発由来のセシウム137はすでに半減した、といえるのではないか

 さて、子供を寝かしつけたところで、この間に一つ投稿しておきます。

 産経で「チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険」という記事が出ていて、その記事について、ベラルーシの部屋ブログで言及されている。あまり、変に危険を煽るのはよくないという主旨には同意で、産経はロシアにネガティブな印象を与えるニュースを他所よりも比較的多めに報道しているようにみえるので、その辺りを各自で補正しながら読むとよいのではないかと思っている。

 上記ブログ記事中、チェルノブイリ原発由来のセシウム137がそろそろ半減、ということに言及されていて、なるほどと思い、私も計算を試みてみたのが、間違いがあったら、指摘歓迎です。

 セシウム137半減期を30.1671年として、チェルノブイリ原発事故発生日の1986年4月26日から30年と0.1671年後というと、ちょうど0.1671は2/12=0.1666に近い数字であり、ほぼ30年と2ヶ月後ということになる。ざっくり2016年6月25日あたり、ということになる。

 しかし、多くのセシウム137が出現した日は事故発生時ではない、ということを考慮に入れないといけない。セシウム137はウラン235の分裂で生じる核分裂生成物で、ルビジウム95と共に生成される(ちなみに、ルビジウム95はいくつかの崩壊を経てモリブデン95になる)。ただし、ここで説明があるように、核分裂で生じるセシウム137はごく少数でほとんどは別の核分裂生成物が壊変してセシウム137となることが多いようだ。とはいえ、セシウム137になるまでの半減期は長くとも数分みたいなので、ここでは無視してよいだろう。

 とすると、ウラン235がいつ核分裂を起こしたか、その日付が問題となるわけだが、核分裂生成物ではないセシウム134と核分裂生成物から出来るセシウム137の比率が分かると、おおよその日付分布が分かりそう。セシウム134は核分裂生成物から出来るセシウム133が中性子を捕獲してしまって出来るので、セシウム134の比率が高いとより長く燃料が使用されているという傍証となる。

 というわけで、調べてみたところ、チェルノブイリ原発事故でのセシウム134と137の比率は0.55とのことで、だいたい1~2年程度、ということになるようである(この辺りの計算は正直理解が浅くようわからん)。

 ということで、おおよそ1984年のいつかあたりから1986年4月26日までの間に出来たセシウム137が放出されたとするとだいたい2015年ぐらいから2016年半ばぐらいに半減期を迎える、ということになる。そして、私の雑な計算によるとその期間の中間はだいたい9月あたりになるようなので、この記事を書いている10月14日現在で、チェルノブイリ原発由来のセシウム137は全体としていえば、すでに半減した、ということになるのではないか。

 もうちょい色々調べて精度の高い計算をしてみたかったのだが、実力不足でこれ以上は断念します。こういうの得意な人、どなたかやってくれないかなー。

スベトラーナ・アレクシェービッチがノーベル文学賞を受賞

 2015年のノーベル文学賞に『チェルノブイリの祈り』などで知られるベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが選ばれた。著作の多くは日本語に翻訳されており、今、新品は入手しにくくなっているようだが、直に増刷されることだろう。

 国内での報道では、毎年恒例の「村上春樹は受賞を逃した」の記事が多いが、氏の発言を報道しているところもいくつかあったので、ピックアップしておこう。

「母国とその文化への賞」=アレクシエービッチさんが喜び-ノーベル文学賞

「私ではなく、私たちの文化、歴史を通して苦しんできた私たちの小さな国への授賞だ」
「全体主義体制は妥協を強いるが、それに屈する必要はない」
「バレエや文学など人間的なロシアの世界は好きだが、スターリンやプーチン(大統領)は好きではない。彼らはロシアをおとしめてしまった」

 実際の記者会見では好きではない人の名前として「ベリヤ、スターリン、プーチン、ショイグ」を挙げている。ベリヤの残虐非道ぶりについては、Wikipediaのベリヤの項などを参照。ショイグはロシアで1994年から2012年まで非常事態相を務めた人物で、現在は国防相の地位にある人物。

 2011年4月に東京外大の沼野恭子教授の依頼で「チェルノブイリから福島へ」と題するメッセージを寄せた、という記事が中日新聞で出ている。

原子力時代 脱却すべきだ ノーベル文学賞作家 震災直後にメッセージ

 広島、長崎の後、チェルノブイリ事故後、人間の文明は別の発展の道、非核の道を選択すべきだったのではないだろうか?

 原子力時代を脱却すべきだ。私がチェルノブイリで目にしたような姿に世界がなってしまわないために、他の道を探すべきだ。誰もいなくなった土地、立ち並ぶ空き家、畑は野生の森に戻り、人が住むべき家々には野生の動物たちが住んでいた。電気の通っていない電線が何百と放置され、何百キロもの道はどこにも行き着かない。

 テレビをつけると日本からのリポート。福島ではまた新たな問題が起きている。私は過去についての本を書いていたのに、それは未来のことだったとは! 

(全文はこちらの下の方で読めます。)

 ノーベル平和賞候補にも名前が上がっているノーヴァヤ・ガゼータ紙のこちらの記事によると、政府からの祝福のメッセージについて、最初の記者会見の時点でモスクワの文化大臣からあったものの、ベラルーシからは来ていない、とのことで、ベラルーシに自分はいないがことく振る舞われている、としている。

 ただし、確認すると、一応、ベラルーシ大統領の公式サイト上では、こちらで祝福のメッセージが出されており、受賞がベラルーシとその人民に寄与することを望み、作家の健康と幸福、祖国ベラルーシのための新しい創作の達成を祈る、としている。さすがに無視はできないということなのだろうが、素っ気ないメッセージであり、通り一遍感は否めない。

 こちらで受賞後の最初の第一声の映像が見られる。ここでウクライナについて触れていて、祖母も母もウクライナ人で、ウクライナが大好きであり、ウクライナのマイダンに行って、天国の百人の写真の前では涙が出た、と当時を思い出したのか、やや声を上ずらせつつ語っている。

 ウクライナのポロシェンコ大統領もFacebook上で祝福メッセージを寄せ、「どこにいても、どんな言語で話し、書こうとも、ずっとウクライナ人のままだ!」と述べている。

Нобелівську премію з літератури отримала Світлана Алєксієвич, родом з Івано-Франківська.Де б ми не були, якою б мовою не говорили і не писали – ми завжди залишаємось українцями!Вітаю!

Posted by Петро Порошенко on 2015年10月8日

 スベトラーナ・アレクシェービッチ公式サイト(?)はおそらくこちらのようだが、連絡先はドイツの住所になっており、古い情報かもしれない。このサイトでは経歴や出版物についての情報が英語とロシア語で読めるようになっている。さらにこちらのbooksのページでは英語版やドイツ語版・フランス語版(ただし、一部だけ?)が読めるし、こちらからは「チェルノブイリの祈り」や「戦争は女の顔をしていない」などのロシア語原文がそのままPDFで読むことが出来る。

 私の場合、ロシア語はいくらか読めるとはいえ、読むのに日本語の何倍も時間がかかってしまうのだが、せっかくなので、翻訳の助けを借りつつ、少しでも原文で味わいたいところで……。

ダークツーリズムについて 長島愛生園を訪れたときの話など

 ダークツーリズム:「負の遺産」を旅しよう 専門雑誌創刊という記事が出ていた。

 私はもう少し若かった頃、「観光」という行為に違和感を覚えていた時期があり、その時は観光よりも「観暗」「観闇」の方に心惹かれていた。まだダーク・ツーリズムという言葉があることは知らなかったが(Wikipediaのダークツーリズムの項によると、この言葉は1996年に提唱されたのだそうで)、当時、オウム真理教のサティアン詣での観光客のことで批判的な意見が出ていて、あまりそういうことを表立って言える雰囲気ではなかったと思う。

 記事によると、創刊号は長島愛生園についての特集があるようだが、ここには私も瀬戸内を自転車旅行をしていたときに「一旅行者」として行ったことがある。次の日の予定は前の日の晩に地図を眺めて決める、というような行き当たりばったりの旅行だったため、ちゃんと計画して行ったわけではなく、園までの経路が上り下りが結構あるようなぐにゃぐにゃの山道で思っていたよりも時間がかかり、到着した時にはもう日が暮れようとしていたと記憶している。

 当地を訪れたのは、2000年問題のデスマーチで大いに疲弊した後、会社を辞めて自分を取り戻すために自転車旅行に出た時のことなので確か2000年年代初頭だったと思う・・・と書いて、写真が残ってないか調べたところ、一枚だけ撮ったのが見つかった。生活の場でもある園内の様子を撮るのはさすがに憚られ、案内図だけ撮影したのだろうと思う。

長島愛生園案内図の看板
長島愛生園案内図の看板

 私は事前情報なく訪れたため、まずは事務所に行って、園内に足を踏み入れてもいいのかどうか尋ねたところ、どうぞどうぞ、という感じだったので拍子抜けしたが、とにかくいきなり入所者の方に出会っても挨拶程度にして、礼を失した態度を取らないように気をつけていたのを記憶している。

 園内では歩いている人は一人もみかけなかったが、視力をなくされた方のための盲導鈴(駅や図書館などの公共スペースで一定間隔で鳴っているピンポーンのチャイム)代わりのラジオがあちこちで鳴っていたのが印象的だった。この場所ではNHKが、他の場所では民放の○○局がなどと決まっていて、散歩中に自分が今どこにいるのかが分かるようにするためのものだ。

 園内を回っているとき、時々、他県ナンバーの車が数台通ったのも記憶に残っている。私が訪れたのは2002年だったが、当時からすでに「観光」の対象地ではあったようだった。

 島の周辺で人々と話すと、メディアなどでは聞こえてはこないような話も耳にした。よくある「逆差別」のような話でここに書くほどのことでもないので書かないが、まあいろんな声があるものだなぁ、と思った。

 ダークツーリズム自体にいろいろ意見はあるだろうが、その場に行ってみるとその後も関心が持続する、という効果は確実にあるので、私はダークツーリズムには肯定的である。事前学習は最低限はしておくべきだろうが、あまり構えなくてもいいと思う。まずは現地に行ってみて、出来れば現地の方にお話を聞く、というだけで十分だと思う。

 ただ、こうしたダークツーリズムで難しい面があるのは、体験者に話を聞くことはとても大切なのだが、ほじくり返してまで聞くべきではない、ということで、実際、ハンセン病患者の方が「一見」の訪問者に胸の内を述べることに対し、葛藤が生じることがあるという話を聞いたことがある。一見の訪問者に自分の人生の大切な部分を少しの時間で語り尽くすことなど出来るものではない。その方は訪問者に語ったその日、眠ることができなかった、という。

 とはいえ、そうしたことに配慮しつつも、重く感じすぎて無駄に避けるものよくないと思うし、迷ったらまずは行ってみる、ぐらいの「軽さ」で現地に足を運ぶのもよいことだと私は思う。

 よもやと思って、Googleストリートビューで見たところ、長島愛生園も訪問出来てしまうことがわかった。人間回復の橋を見ると、私が行った時は橋の手前の道路の真ん中に管理人のいる建物があったが、今はなくなっている。

 こうしてストリートビューで行った気になれる時代であるが、行ってみないと分からないことがたくさんあって、長島の場合だと、周辺との距離感とか、瀬戸内の気候の良さ、盲導鈴という音など視覚以外で感じるものはストリートビューからはつかめない類のものだろう。

 今、思い出したが、原爆投下の日に広島に行った時、灯篭流しの灯籠を子どもたちや観光客が作っている脇で地元の方と思われる方がスタッフに対し、「原爆の日はもっと厳かにお祈りするべきだ。こんな賑やかなイベントにするもんじゃない」という主旨のことを主張していた。その気持ちはわかるが、後世に伝えていく場合、ある種の「陽気さ」がないと続かないと一方で私は思っている。チェルノブイリ支援に携わる方も同様に「楽しさがないと続けられるものではない」ということを言っておられた。

 ついでに言っておくと、福島の観光地化については、総論では賛成だが、私はやはり、東京からこの話が出て来るべきではなかったと思っている。こういうのは体験者自身の止むに止まれぬ気持ちから自発的になされるべきであって、すでにこういう形で遍く知れ渡ってしまうと、同様のプロジェクトを発案して始めたいと思っても、二番煎じ感が出てしまい、運動も盛り上がらないことになりはしないかと危惧する。もっとも「東京も体験者であった」と言われると、福島から遠く離れた関西人としては、確かにそれはそうだが、となってしまうのであるが。

 ただ、あずまんは今もチェルノツアーを継続してるみたいで、事前準備の手間やら何やら考えるとまったくペイしない事業だと思うが、ようやってはるなと思う。ゲンロンのチェルノツアーの本も類書がなく、チェルノブイリについてほとんど知識のない人が現在のチェルノブイリの現状を知るとっかかりとしてはよい本だとも思ったし。ゲンロンの福島本は全体として私にはいただけなかったが、一部の著者コラムによい文章があり、全否定するものではない。ただ、どうしても「東京のお洒落文化人が福島をネタに妄想を膨らませてみました」感を田舎者としては感じないわけにはいかず、心穏やかには読めなかった。それぞれの方はそれぞれ真摯になされているつもりなのだろうけれど。

 話を戻すと、私が行った時はまだ出来てなかったが、「長島愛生園歴史館」が2003年に出来ていたようで、今は学びの場としての整備が進んでおり、さらに、「日生から長島愛生園をめぐるクルージング(参加無料・要申込)」というスタディツアーもあって、ちょうど数日前の8/29に第一回目が実施され、「長島愛生園が初のクルーズ運航 隔離追体験や人権侵害の歴史学ぶ」という記事が出ている。どうも今後、継続して実施される予定はないようであるが、出来ればこうした試みが続いて欲しいと思う。