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紹介状なしで大病院にかかると初診時保険外併用療養費(初診時の選定療養費)というのがかかるようになった

 最近、山に入り始めているのだが、すぐに腕や手首周りに発疹が出た。ウルシのヤブを不用意になぎ倒したりしていたため、かぶれたのだろうと自己診断し、痒くて痒くて仕方なかったのだが、ググると2週間程度で治る、ということだったので放置していた。

 しかし、一部はマシになりつつあったものの、手首の下部分が赤黒く鱗状になってきたため、慌てて受診することにした。手首の下部分は長袖を着ていたとしても、その部分がボタン留めになっていて、いわば「穴」になっているため、そこは特に症状がひどくなったようだった。

 電話してみてわかったが、皮膚科のある個人医院は軒並み盆休み休業中で、仕方なく遠方の総合病院に行くことにした。

 結果として、症状からすると虫(毛虫)刺されが主因でウルシなどのかぶれとの総合作用だろうとのことで、「ネリゾナユニバーサルクリーム」というステロイド薬を処方された。まだ塗り始めで、効いている実感はないが、クリームをぬったため、ひっかかないようになったので、治りがいずれにしても早まるだろうとは思う。

 ところで、総合病院に紹介状なしで初診でかかる場合、「初診時保険外併用療養費」というのが別途かかる、ということを今回初めて知った。総合病院には祖母や子供の付き添いでしょっちゅう行っていたが、病院嫌いということもあって、めったに行かないので、こういうのがあるとは知らなかった。

 病院側に聞くと、どうも最近始まったらしく、さらにググると政府広報に紹介状なしで大病院を受診すると特別の料金がかかります。 診療所や病院を適切に使い分けましょう。 というのが2016年4月6日付で出ていて、4月から「義務化された」という情報もある。

 これは主旨としてはわかるし、私もずっと総合病院にはかからずに個人医院にかかるようにしているが、私のような事情に疎い人間もたくさんいるだろうから、あらかじめ受付時にでも、こういう療養費がかかる、というのを一言いってもらえるとありがたかった。私の場合、その説明を受けたら、少し我慢して近所の皮膚科のあるところにかかったはずで、こういう無駄な出費は抑えられたはずなので。

 私が行ったところは2160円だったが、病床数の多い大病院になると5000円とか徴収されるところもあるようで注意しないといけない。私は今回懐を痛めたので、忘れないとは思うけどw。

オバマ大統領の広島スピーチ中の”gassed to death”は「ガス室で死んだ」と訳すべきなのか

 昨日書いたエントリーオバマ大統領の広島スピーチを聞いて感じたことに対し、以下のようなコメントをいただきました。

「数年の間で6千万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと何ら変わりのない人たちが、撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、投獄され、飢えやガス室で死んだのです。この戦争を記録する場所が世界に数多くあります。」この中の「ガス室で」の「室」が余計です。原文にはありません。訳者はアウシュビッツなどを想起したのでしょうけど、広島は毒ガス製造をした大久野島(おおくのしま)のあるところ。仮にオバマさんが頭に置いていたのはアウシュビッツなどだとしても、大久野島で毒ガスを作らされた方たちが健康被害にあって十分な補償をうけていないことを知っていたら、原文にない「室」などつけられないと思いました。

 ざっと読みなおしたつもりでしたが、この部分は気づきませんでした。ちょっと興味を持ったので、各社どのように訳したか調べてみました。

・「ガス室」と訳した社
朝日日経

・単に「毒ガス」と訳した社
毎日NHK産経読売ハフポスト時事河北福島民友

 他にもあるかもしれませんが、傾向としては、原文に忠実に訳した社が多かった、ということになりそうです。

 ロシア語通訳の米原万理著『不実な美女か貞淑な醜女か』ではないですが、翻訳はわかりやすくしようとするとどうしても「不実な美女」寄りになって、意訳することになってしまい、原文にはっきりそう書かれていないことも訳す場合が出てきます。

 今回の場合、オバマの念頭にあったのは、その後に「無人の収容所」と言っていることから、やはりナチスによるホロコーストのことかと思われます。ただ、新井さんのおっしゃりたいことも分かります。

 私も十数年も前ですが、瀬戸内を自転車で旅行している時に大久野島の近くを通ることになり、訪れることにしました。そして、行くまであまりよく知りませんでしたが、毒ガス製造をしていたため、戦時中は地図から消された島となっていて、少なからぬ方が秘密裏に毒ガス製造に携わっていたことを知りました。(今はうさぎの島となっていて、癒されますが)

 朝日新聞社の訳は、「微妙な言い回しも含め厳密にチェックしたもの」と関係者が述べているので、おそらく、複数人でのチェック体制を通過して出されたものなのでしょうが、毒ガス兵器の犠牲者はホロコースト犠牲者以外にも存在しますし、日本国内の場合、それが広島県内だった、ということを考えると、確かに配慮があってもよかったのかな、と私も思ってしまいますね。

 スルーされるかもですが、ツイッターでその方に意見聞いてみますかね。

オバマ大統領の広島スピーチを聞いて感じたこと

 オバマ大統領広島訪問のニュースを見てたら、オバマと直接話すことになった被爆者の森重昭さんが感極まったのか、涙ぐまれて(ご本人も「舞い上がっちゃって」と後におっしゃっていた)、図らずも大統領とハグすることになった。このシーンは事前に用意して出来るものではない。私もつい涙ぐんでしまった。

 そして、ニュースでのスピーチを聞き、やはり全文をちゃんと聞かんといかんな、ということで、日本語字幕付きの映像がまだ出てないようだったので、テキストの原文と日本語訳を横目に見ながら、今、聞いたところ。

 核兵器というものへの言及のために、人類の歴史が語られたりもするが、やはり、以下のようなところはオバマ大統領ならではなのではないだろうか。(以下、スピーチは朝日の全文訳より。原文はこちらなど、日本語通訳抜きの英語スピーチ映像はこちら

私たちはここに、この街の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努めます。目にしたものに混乱した子どもたちの恐怖を感じようとします。私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。

 アメリカの大統領が広島の当時の子供たちが感じた恐怖を追体験する言葉を述べている。こんなことはこれまでになかったことで、歴史的な演説なのだ、と思わずにいられない。

私たちは、人間の悪をなす能力をなくすことはできないかもしれません。だからこそ、国家や私たちが作り上げた同盟は、自衛の手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性は減らすことができます。

 プラハ演説の時にも「生きているうちは無理かもしれないが」と述べていたが、それでもこうして繰り返し、核兵器廃絶を訴え続けることが重要なのだ、ということを身を持って示していて、こうした部分もオバマ大統領ならではないかと思う。

すべての命は尊いという主張。私たちはたった一つの人類の一員なのだという根本的で欠かせない考え。これらが、私たち全員が伝えていかなければならない物語なのです。それが、私たちが広島を訪れる理由です。私たちが愛する人のことを考えるためです。朝起きて最初に見る私たちの子どもたちの笑顔や、食卓越しの伴侶からの優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。私たちはそうしたことを思い浮かべ、71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。

 この部分は「TOMORROW 明日」を想起させるが、原爆を投下した側の国の一番の責任者がこうした言葉を述べたことは、いろんな意見はあるだろうが、やはり感動せざるをえない。これに続き、以下のように述べる。

亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです。普通の人たちは、このことを分かっていると私は思います。普通の人はもう戦争を望んでいません。科学の驚異は人の生活を奪うのでなく、向上させることを目的にしてもらいたいと思っています。

 この部分は原爆のことを述べているのだが、私はどうしても福島やチェルノブイリ原発事故に思いを馳せてしまった。

 ところで、この「普通の人たち」というのは、ちょっと意図がうまく掴めなかったのだが、どういうことなのだろう。オリジナル・スピーチでは「Those who died, they are like us. Ordinary people understand this, I think.」となっていて、この”I think”の言い方が、なんだか原稿にないのに付け足した感があったのだがどうだろう(そんなことはまずなさそうだけど)。戦争をしてはいけない、ということが理解できない「普通じゃない」人のことが念頭に置かれているのか、それとも、核兵器なんてなくせるわけないっしょ、な現実主義者どもが念頭にあったのか。

 冒頭、被爆した日本人のみならず、朝鮮半島出身者や捕虜のアメリカ人にも言及しているのも見逃せないない点だと思った。

 最後の締めは以下の言葉。

世界はここで、永遠に変わってしまいました。しかし今日、この街の子どもたちは平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が「核戦争の夜明け」ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです。

 「なんて尊いことでしょうか」というのも、とてもオバマの思いが伝わる部分だった。「道徳的な目覚めの始まり(the start of our own moral awakening)」とは、ちょっと高邁な理念だが、これもオバマらしいんじゃないだろうか。

 もちろん、優秀なスピーチライターがいらっしゃって、大枠、また、エピソードの詳細などは彼らが作っているんだろうけど、それでも、全体として、オバマ大統領の考えがしっかりと細部にまで埋め込まれている演説じゃないかと思った。

 多くの被爆一世の方々が高齢になり、自らの体験談として話せる方が少なくなってきているが、直接被害受けた方々が生きているうちにアメリカの大統領が来た、そして、それがオバマだった、ということは、幸運だったと思う。

 オバマは勇気を持って、広島を訪問し、こうして「勇気を持とう」という言葉を残していった。たまたま、前エントリーで「勇気を持つことが大切」だと書いたのだけど、蛮勇でもなく臆病でもなく勇気を持つのは簡単ではないが、少しでもよい世界になるように、心がけたいと思う。

トランプ支持が広がる今、アフリカ人始祖から親子三代の黒人奴隷の物語を描いたテレビドラマ『ルーツ』を見る

 アレックス・ヘイリー著『ルーツ』をテレビドラマ化したのがBSで放映されてたのを運良く録画でき、やっと見終わったところ。少しずつ見ていたのだが、最後の方は一気に見る、という私的によくあるパターンw テレビドラマ「24」で黒人大統領が登場し、その後、実際にオバマというアメリカ史上初の黒人大統領が誕生した今、黒人に対する差別を実感として理解できない世代が登場してるんじゃないかと思ったり。

 以下、ネタバレ大いに含みますが、このドラマの場合、ネタが分かると面白さ半減とかにはならない類だと思うので、そういうのは意識せずに書きます。

 英語の勉強をしているとキング牧師の”I have a dream”の演説を読む機会が訪れ、結果的に、公民権運動というのを知ることになる。なので、意外とあの時代のことはある程度、今の若い人にも知られてるんじゃないかと思うが、奴隷制の時代のことはなかなか知る機会がなく、私自身ももやっとしている。アフリカから奴隷船で運ばれ、リンカーンの奴隷解放宣言まで長く奴隷状態にあった以上のことはよく知らない。

 アメリカ南部には行ったことがなく、その空気感はよくわからない。アメリカ西部旅行中に店やドミトリーの宿などで黒人と何度か話したが、普通にナイスガイたちで、一度、トイレでションベン引っ掛けられそうになったりしたけど、印象としては白人からのアジア人に対するしょうもないちょっかいや言動の方が記憶に残っている。

 ドラマについて、まず思ったのは、どこまでが史実に即していて、どこからがフィクションなのか、ということで、この辺り、原著者はfact(事実)とfiction(創作)を合わせたfaction(ファクション)という言葉を用いて、ノンフィクションとフィクションの中間物であると述べている。得てして、ノンフィクションは背景の理解が難しく退屈になるところがあって、広く訴求させるためにこうした方向性の翻案が必要になるというのは理解できる。これで関心を持ってもらって、もっと知りたくなったら、関連の書籍などで自分で調べればよいわけで。

 アフリカ生まれの第一世代からそのひ孫まで主役級の人物は4人いて、それぞれに個性的で人物造形がうまくなされているし、役者さんも脇役含め、皆よかったが、中でもいちばん強い印象を与えたのが第ニ世代のキジーという女性。このルーツというドラマの主人公を一人あげるとしたら、時間軸上もっとも長く登場する、この女性になるだろうし、彼女の受ける仕打ち、またそれに対する行動や毅然とした振る舞いは多くの人に感銘を与えたようで、キジーという名前を付けるのが一時流行したらしい。

 特に幼少時から友達として過ごした白人のお嬢さんが手のひら返しをし、さらに何十年ぶりかで再会した時も知らん振りをされた、というエピソードは痛切で、その関係性をよく物語っている(キジーはきっちり仕返しもするわけだが)。ドラマ中、自分が白人であること以外に取り柄のない(というかそれを取り柄といってよいのか?)、と言いたくなるような憎たらしい白人が何人も出てくるが、アメリカの国内問題の多くは結局、このダメ白人問題なんじゃないか。さっきも書いたが、旅行中に嫌な思いをしたのは大抵白人がらみだったと思うし、根底にどこか抜きがたい差別意識があると感じた。エスタブリッシュメントっぽい白人と話してても、どこか「アジア人と話してるオレってリベラルだろ」的なんをちょっと感じたり。いや、こちらが卑屈すぎるんかもしれんが。

 「ルーツ」で検索してたら、こんな言葉が出てた。

ないから生まれるんだ。
中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた。
日本人は勇気がないから武士道が生まれた。
アングロ・サクソン人はずるいからフェアプレーの精神が生まれた。

 それに対して、それは各民族の理想が掲げられてんじゃね的なリアクションもあったが、アングロサクソンについてはちょっと当たってるかも、って思った。時々思うのは、スペインが世界制覇したまま、近代に突入していたら、全然別の世界になってたんとちゃうかな、と。アメリカ大陸で現地人との混血に向かい、白人だけの国を作らかなったスペイン人と、インディアンや黒人コミュニティーと隔絶した社会を作り上げたアングロサクソン人。表向きは正義と言いながら、自分に都合のよい正義だったりするその言動。中高時代にサッカーをしててすんなり理解できなかったのは、ユニフォーム引っ張ったり、手で邪魔したりして、ちょっとぐらいは悪いことをしてもいい、というルール。今の資本主義社会もその辺をうまく理解して合法的に悪いことしたもんが勝ちってことになってて、パナマ文書問題の根底にもそれがある。

 話がずれていったが、元に戻すと、トランプ支持者ってのは、このドラマに出てくるようなワル白人だったりするんじゃないかと。ヒスパニックの増加に怯え、黒人やアジア人が普通に社会の中で重要な地位を占める時代についていけず、取り残された人々。ただ、このドラマの中のワル白人の中でも、多少はマシな白人(法には従う意志は一応ある保安官など)も出てくるし、さらに興味深いのは、主人公たちの黒人コミュニティーに入り込む白人夫婦が一組いたこと。こういうことが実際によくあったとはとても思えないが、彼ら自身も生きるのに精一杯な貧困状態にあり、ヒューマニティからとかそういうのではなく付き合っているところなど、それが逆にリアリティがあるようにも見える。彼らはこのドラマの中で重要な役割を演じていて、ただ単に黒人を解放したらおしまい、とはならず、そうした憎しみの連鎖を断ち切ることが大切であることを示している。

 アメリカは21世紀も最も重要な国であり続けるだろうし、もっとアメリカの歴史を知っておかないといかんなと改めて思った。

安田純平さんが無事に解放されることを祈る

 安田純平さんと思われる動画がFacebook上に投稿され、ニュースになっている。映像はこちら。(追記:この映像は現在見られなくなっている模様)

 ツイッターでどのように話題になっているかYahooリアルタイム検索で見てみると、こんな感じ。

WS000038

 どちらかと言うと、揶揄する声がやや上回っている感じだが、こうした「自己責任」を声高に叫んで何かを言った気になる類のリアクションはもうずっと日本ではよくある光景なので特に驚きはしない。ただ、こうした世相にあっても、ぬくぬくとして居心地のよい日本を出て、世界で何が起きているのかを自分の目で見て確かめ、伝えようとするフリージャーナリストがいることをありがたいことだと思う。

 私は職業ジャーナリストではないけれど、震災後、フリージャーナリスト界隈の人たちと知り合う機会が何度か有り、安田純平さんとも東北某所でお会いした。というか、もうゆうてもええと思うが、遠目からではあるが、福島第一原発を見に行った時に同行されたのが安田さんだった。

 その後、何度かお会いする機会があり、いつも身なりが整っていてイケメンな安田さんだったのが、今回の映像の中ではボサボサ頭になっていて、疲労のにじむ変わり果てた姿はとても痛々しい。でも、ともかく無事に生きていることが分かり、うれしく思う。

 こちらに「安田純平さんの安否は今どうなっているのか」という雑誌「創」の記事が出ていて、ジン・ネットの高世仁さんが安田さん拘束後から今年1月までの経緯を語っておられるので、今回の映像公開にどういう背景があるのか知りたい方は一読をおすすめします。また、5ページ目以降には安田さんがイラク人質事件後の2003年8月号に同誌に寄稿された記事「新聞社を辞めて 戦場に行った理由」が掲載されていて、組織ジャーナリスムの枠内で記者生活を続けることの困難が語られている。

「多くのメディアが「公明正大」「客観」と言う言葉を未だに使いたがるのはこっけいだ。組織ジャーナリズムの中にいるかぎり、記者は取捨選択に組み込まれる。」

 という事態は今も継続していて、公平中立なんてありはしないし、出来もしない、という諦めから出発すべきなのに、その言葉に自縄自縛状態になっていて、今はさらに無駄に洗練されつつあるんじゃないか、とまで思ってしまうほど。

 個人的な話をすると、安田さんは、我々の結婚にちょっとした影響を与えたらしい。私は詳細はよく知らないのだが、私には何か安田さんがこのまま帰ってこない、ということはちょっと困るなぁ、という気持ちがある。

 そうした私のどうでもいい個人的事情はともかく、安田さんには是非無事に帰ってきてほしいし、「自己責任」論が目立つ中にあっても、心ある人には解放を求める声を上げ続けてほしいと願う。

(※2016.3.20文章一部変更しました)