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1971年滋賀県大津市生まれ。大阪外国語大学ロシア語科除籍。IT業界で働きつつ、2006年よりチェルノブイリ被災地で「ナロジチ再生・菜の花プロジェクト」、被災者互助団体「ゼムリャキ」を取材。

ラグビーのドロップゴールについて思うこと

 今朝、ラグビーワールドカップ準決勝「南アフリカvsニュージーランド」の試合を見た。点差はたったの2点で、あと一本PGかDGが決まっていれば南ア勝利となったが、ボール所有は6:4でNZで、さらにトライの数ではNZが2に対し、南アは0であり、試合としてはNZが押していたといっていいだろう。ただ、南アの守備がよくて、いくつもあったピンチを切り抜けていた。

 今回のラグビーワールドカップで知ったのは、主審とキャプテンのコミュニケーションが大変重要だ、ということで、日本の南ア戦やサモア戦では主審とのコミュニケーションが吉と出たような試合だったようだ。(スポニチの記事 「リーチ「英語力が勝因」 新主将は主審と良好な関係を築ける人材を」

 この準決勝の試合では、南アがうまく審判とコミュニケーションを取っていた、ということか、ニュージーランドの反則が多かった印象で、南アがうまく反則を誘い、トライで引き離されてもペナルティゴールで着実に3点ずつ加点してニュージーランドを追い込んでいった。特に端っこからの難しいの2本を含め、5本すべて成功だった、という南アのキッカーのポラード選手の正確さはすごかった。ちなみにこの選手はW杯後に日本でプレイするらしい。(記事「南ア代表の21歳司令塔、ハンドレ・ポラードが短期契約でドコモ入り!」)

 テレビ解説でも触れていたが、前半はノートライだったもののよい守備をしつつ、着実にPGで加点していた南アのペースであったが、後半開始少ししてからのNZのドロップゴールで流れが変わったような。

 ラグビーの試合を見ていて、ドロップゴールをやられると、ちょっと置いて行かれた感が残る。トライは爽快感があるし、PGは反則に対する代償で理解できるのだが、ドロップゴールは何かそれまでの試合の流れを断ち切ってしまう。トライまであと少しなのにそこで3点狙いにいくんか、というような。サッカーでいうと、ゴール前にロングボールを放り込んだら、なんか入ってしまったみたいな感じに近いあっけなさがある。

 しかし、これもラグビーの味の一つなのだろう。正直言って、トライを望む観客の興をそぐことになると思うが、相手に勢いがあるときなどにこれをやると効果的なのかもしれない。流れが悪い時にちょっとした怪我を痛がって時間を浪費するサッカー選手みたいなもんで。

 ラグビーの歴史上、トライは元はコンバージョンゴールの権利取得のためのもので0点だったそうだが、ドロップゴールはそうしたサッカーから派生したゴール主体ラグビーの名残なのかもしれない。

 そういうわけで、私のような「にわか」はドロップゴールに対し、よい印象を持てないが、それでも、このルールを失くしたほうがいいとまでは思わないし、これはこれでおもろいルールだと思う。ただ、3点もいらんのんとちゃうかとは思う。2点に減らすなんて案は出てないのかな。

 英語記事だが、Rugby World Cup 2015: New Zealand progress to final after seeing off spirited South Africaはいろいろとデータが出ていて、見せ方がうまくなるほどと思った。日本国内でもこれぐらい力をいれた記事がこれから普通に読めるようになるのか、各種メディアの対応にも注目したいところ。

親がいないところでは子供は遠慮しながらグズるのか

 さて、子供が朝の二度寝タイムに入ったので、育児メモを少し書いておく。

 ここのところ、平日の昼間、私は家にいないので、子供は比較的平静だったが、昨日は一日相手をしてやったところ、またベタベタに戻った。トイレに行こうとしても、泣いて引き止めることがあり、さすがにそういうのまでは対応しないのだが、泣かれたときの対応の仕方がまだよく分からない。

 何か他に楽しげなことに気を取らせると大抵はそちらに熱中し始めるので、最近は楽しみを「小出し」にして、ぐずった時はそういう小さな楽しみで気をそらせるようにしているが、小出し用のストックがなくなることもあり、対応せざるを得ない場合もあるなど、なかなか大変である。

 ついこの間、2歳ぐらいの子供を一時預かった人の経験を聞いたのだが、その子はその人にとっては甥っ子であり、よく懐いてはいるのだが、やはり親に対してのグズリ方とは違う、いくらか「遠慮した」グズリ方をしていた、とのことだった。ちょうど、うちの子供も長く両親の元を離れていたが、そういう遠慮をせざるを得なかったのかも、とも思い、しばらくは好きにぐずらせてやろうと思っている。

 もっとも、それなりに「躾」をしていく必要もあるので、少しずつ厳しいこともゆうていくことになるだろうが。

 一歳児なんてまだまだ何も分かってないだろう、と思っていたが、こちらの言うことをこちらが思っている以上に理解している可能性があるようで、あまり下手なことは言わない方がいいようだ。まだ親が理解できるような意味のある発語は10種類程度にすぎず、二語文などはまだまだ先の話だろうが、理解できる言葉はごくごく適当に言ってだが、リアクションから想像するに100はもう超えているように思う。昨日は、「これを探してきて」とその物の絵を指差しながらいってみたところ、やや戸惑いつつも探しに行ったので、ちょっと驚いたものだ。

 子育てについての掲示板などをウェブ・サーフィングしていると、いつしか我が子の自閉症や発達障害を心配する書き込みが相当数あることに気づくことになる。私自身、子供一般についてよく知らないこともあり、自分の子供がそういう気があるのかあまり関心もなかったが、あまりにそういうのが目につくので、「自閉症 特徴」などで調べるとうちの子供にもよくよく当てはまる事柄もあることに気づき、ちょっと焦った。

 もっとも、こういうのは得てして誰にでも当てはまるようなことも含めて書かれていて、血液型と性格を絡めるような言説同様、あまり気にしない方がいいだろうとすぐに思い直した。

 高齢の父親の子供はいくらかなりやすい、というようなことはあるようであるが、だからといって診断される前から取り越し苦労をしても仕方がないし、そのような診断をされたとしても、そのときから注意事項に気をつけて暮らしていけばよいわけなので、今は基本的には気にしないようにしている。

 子育ての苦労は「オムツ替え」とか「食事の世話」とかいろいろ大変だろうなぁ、と昔は多分思っていたはずだが、実際のところ、そういうのはもう日常に組み込まれていて、大して大変だとは思わない。むしろ、何度か書いてるが、情報が多すぎて判断に迷うことがよくある、ということの方が大変だったりする。かといって昨日まではOKだったことがNGになったりすることもよくある現代にあって情報を遮断するわけにもいかず、今後も情報に振り回されることになるだろうが、そういう経験をへることで、少しずつ自分たちの方針が見えてくる、という効果もあるので、ぼちぼちと情報も追える程度のゆとりを持ちつつ暮らしていきたいところだが、実際のところ、諸事情あってなかなか大変である。

先週はみっちり子供の相手をした

 先週は仕事を休んで、一人で子供の世話をすることになった。1ヶ月強、子供と会っていない期間を経て、いきなりみっちりと2人で過ごすことになり、どうなるか不安があったが、大過なく過ごすことが出来た。ただし、出迎えた時も非常に素っ気ない態度だったし、その当日中はやや距離がある感じだったが、翌日ぐらいから徐々に通常に戻っていった。

 いくつかの点で成長のあとが見られた。以前は食事などの時の場所が一定しなかったが、今回、食事の時はイスに座る、ということを覚えたようで、いつまで続くかわからないが、おやつなどもできるだけ所定の場所で食べるようにし始めた。また、人見知りを比較的しない子供であったが、人見知りをするようになった。ただ、親とその人との距離感を見定めつつ、一定時間経過すると慣れるようではあった。

 以前もいくらかあったが、大きな変化はいわゆる「抱き癖がついた」こと。昔の子育てでは抱き癖がつくので、抱っこをせがまれても抱っこすべきでないとされていたが、最近は求められれば、抱っこしてやる、ということになっている。基本的に、要求に対して無視するのは大人の場合同様、よいことではないだろうから、毎回、しっかり答えるなくてもいいので、何らかのリアクションはすべきだと思っていて、抱っこも同様にできる範囲で対応はしているが、ここ数日の抱っこ要求はちょっと度を越していて、よほど寂しい思いをさせてしまったのだろうか、とちょっと反省しているところである。

 もしかしたら、理由は別のところにあるかもしれないので、慣れてきたら、時には適度にあしらうこともしていこうとは思っているが、このあたりは様子を見ながら、ということで。

 他に、やや言葉が進んだところがあり、鉄板の絵本である「いないいないばあ」を読んでとせがまれることがよくあるのだが、この言葉に近いのを言えるようになっていた。「ないないない・・・バッ」って感じだが、これはうちの子供的には偉大な進歩で、これからもっと話し始めると面白くなりそう。

 1歳後半だが、すっかり赤ちゃんの雰囲気はなくなっていて、時々少年の表情が垣間見えることもある。これから保育園にも通わせようと思っていて、少しずつ親の知らない一面が増えていき、男親としては頼もしいと思えるが、女親的には寂しさもあるようで。

 ここ数日みっちり過ごしたこともあり、先週末は久々に3人で過ごしたのだが、男親の私の方にやたらとベタベタしてきたのが興味深かった。遊んでやるのが私の方が多いからだろう、といわれたが、これも少しずつ元に戻っていくことだろう。男女平等の世相に反するかもだが、やはり子供は女親の胎内で育ち、生まれてきて、さらに生後もその多くは母乳で育つわけで、特に乳幼児の間は女親の方が子供にとっては近い存在である、というのは実感として思うことである。

 ここのところニュースチェックもままならない日々だったが、久々に子供とどっぷり過ごし、その感想などを書いてみました。

チェルノブイリ原発由来のセシウム137はすでに半減した、といえるのではないか

 さて、子供を寝かしつけたところで、この間に一つ投稿しておきます。

 産経で「チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険」という記事が出ていて、その記事について、ベラルーシの部屋ブログで言及されている。あまり、変に危険を煽るのはよくないという主旨には同意で、産経はロシアにネガティブな印象を与えるニュースを他所よりも比較的多めに報道しているようにみえるので、その辺りを各自で補正しながら読むとよいのではないかと思っている。

 上記ブログ記事中、チェルノブイリ原発由来のセシウム137がそろそろ半減、ということに言及されていて、なるほどと思い、私も計算を試みてみたのが、間違いがあったら、指摘歓迎です。

 セシウム137半減期を30.1671年として、チェルノブイリ原発事故発生日の1986年4月26日から30年と0.1671年後というと、ちょうど0.1671は2/12=0.1666に近い数字であり、ほぼ30年と2ヶ月後ということになる。ざっくり2016年6月25日あたり、ということになる。

 しかし、多くのセシウム137が出現した日は事故発生時ではない、ということを考慮に入れないといけない。セシウム137はウラン235の分裂で生じる核分裂生成物で、ルビジウム95と共に生成される(ちなみに、ルビジウム95はいくつかの崩壊を経てモリブデン95になる)。ただし、ここで説明があるように、核分裂で生じるセシウム137はごく少数でほとんどは別の核分裂生成物が壊変してセシウム137となることが多いようだ。とはいえ、セシウム137になるまでの半減期は長くとも数分みたいなので、ここでは無視してよいだろう。

 とすると、ウラン235がいつ核分裂を起こしたか、その日付が問題となるわけだが、核分裂生成物ではないセシウム134と核分裂生成物から出来るセシウム137の比率が分かると、おおよその日付分布が分かりそう。セシウム134は核分裂生成物から出来るセシウム133が中性子を捕獲してしまって出来るので、セシウム134の比率が高いとより長く燃料が使用されているという傍証となる。

 というわけで、調べてみたところ、チェルノブイリ原発事故でのセシウム134と137の比率は0.55とのことで、だいたい1~2年程度、ということになるようである(この辺りの計算は正直理解が浅くようわからん)。

 ということで、おおよそ1984年のいつかあたりから1986年4月26日までの間に出来たセシウム137が放出されたとするとだいたい2015年ぐらいから2016年半ばぐらいに半減期を迎える、ということになる。そして、私の雑な計算によるとその期間の中間はだいたい9月あたりになるようなので、この記事を書いている10月14日現在で、チェルノブイリ原発由来のセシウム137は全体としていえば、すでに半減した、ということになるのではないか。

 もうちょい色々調べて精度の高い計算をしてみたかったのだが、実力不足でこれ以上は断念します。こういうの得意な人、どなたかやってくれないかなー。

「シベリア抑留」が記憶遺産になったことの是非はさておき、この悲惨な出来事についてもっと知ろうとするきっかけになればそれでいいのではないか

 「シベリア抑留」なども記憶遺産に 日本が申請という記事が出ていた。

いわゆるシベリア抑留などに関する資料は、旧ソビエト軍に連行されシベリアなどに抑留された人や、戦後、旧満州などから引き揚げた人、合わせておよそ66万人が京都府舞鶴市の舞鶴港に到着する船で帰国を果たしたことから舞鶴市が記念館を設けて保管しているものです。抑留中の体験を書き残した日記やスケッチのほか、帰還を待つ家族の手紙や引き揚げ船の乗船名簿など570点に上ります。

 ちょうど、9月5日のETV特集で「沈黙を破る手紙~戦後70年目のシベリア抑留」が放送されたのを録画していて、見ていた時だったので、このニュースはタイムリーだった。この報道だけでは、やや簡素に過ぎるので、自分の知る範囲で背景をメモしておきます。ちなみに、直リンはしませんが、この番組名で動画検索すると何か見つかるかもしれません。

 シベリア抑留の一般的事実についてはWikipediaの項などを参照してもらうとして、まずは番組で取り上げられたことで興味を引いた点を書いておくと、表題の「手紙」について、ETV特集の内容紹介には以下のように記述されている。

アメリカとの冷戦下にあったソ連が、共産主義のプロパガンダのために放送していたという国営ラジオ放送。そのラジオ番組を通じて、大阪に住んでいたひとりの青年と、抑留されていた元新聞記者とが偶然にもつながれ、700通にも及ぶ希望の手紙に結びついたのだった。

 戦後も非人道的抑留を続けるソ連を非難する声があがり、ソ連にはそれを軽減したい思惑があった。そうした中、ソ連の日本語プロパガンダ放送に従事させられていた元新聞記者の木村慶一さんが抑留者が無事に生きていることを伝えたいと提案し、1947年9月、抑留者の消息を伝えるラジオ放送が実現した。1日に4回のニュース番組の最後の5分間を使って、名前と住所が1日に60人ほど読み上げられた。

 この放送は日本でも聞くことが出来たようで、たまたまこれを聞いた大阪府守口市の坂井仁一郎さんが、当時まだラジオは誰もが持っていたわけではないため、抑留者の帰国を待つ家族の元には届かないだろうと考え、毎夜カタカナでメモをし、住所を調べ、家族に自費ではがきで伝えたのだという。

 当時、政府も傍受していたものの黙殺した。そうした中、民間人の2人の「伝えなくてはならない」という強い思いで、消息すらつかめない家族の無事をあの冷戦の時代に伝えることが出来た。

 そして、この手紙をきっかけにして、今、語らないとなかったことになってしまう、という危惧をもって、語り始めた方もいるという。

 シベリア抑留からの帰還者は、抑留中の思想教育で感化された方もいて、抑留者だったというだけで「アカ(共産主義者)」呼ばわりされることとなり、就職などで不利になることが多く、話しても得になることはなく、多くを語ることはなかった。また、戦争を命からがら生き延びたとはいえ、さらに、戦後もソ連兵に執拗に追われて撃ち殺されたり、シベリアでの過酷な生活で亡くなる方が続出し、そうした地獄のような日々を送ってきた人にとって、そうした体験を平穏に暮らす人に理解してもらうのは無理だ、との思いもあったという。

 放送では触れられていないが、シベリア抑留者の複雑な一面として、戦中の階級がそのまま抑留生活に持ち込まれたことから、上官との間で拭いがたい憎しみの情が生まれてしまった、ということがあり、それは今も残っているのだそうだ。そして、「赤に染まった」ことにしないと大変な目に合うことから、密告が横行し、人間不信が広がっていった。

 『帰還証言:ラーゲリから帰ったオールドボーイたち』という自主制作のドキュメンタリーがあり、上映会のお手伝いをしたことがあるが、証言者の皆さんは皆高齢化していて、次々に亡くなられているとのこと。語る機会がなかなかなかった帰還者たちにとっての「精神的支柱」にもなっている監督さんだが、そうした対立の和解はどうしても無理なようだ。

 映画の内容については、これだけ人の死が簡単なものなのか、というエピソードが次から次へと語られ、それが80以上の高齢の男性の独特の語り口で語られるため、生々しさが軽減されるが、壮絶な話ばかりで、圧倒される。自分の映像もそうだが、映像編集のプロではないため、どうしても「きれいに仕上がった」映像にするのに限界はあるが、この映画は内容がすごいので、長尺でも見続けることが出来る。

 私がシベリア抑留について最初に知ったのは「ある〈共生〉の経験から」の石原吉郎を通してであるが、香月泰男の絵画など、シベリア抑留生活を伝える作品が残されており、今回のことがきっかけとなって、より多くの人に戦争の悲惨さを後世に伝える、こうした作品がもっと知られるようになればそれでよいのではと思った。