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「保育園落ちた日本死ね」騒動で感じてたことなど

 今月も一時保育に子供を預けていて、14日しか預けられないので、いろいろ諸事情考慮して先週はお休みしていたが、今週から再開。保育園に入れるのがこんなに大変なことだというのは子供を持つまで知らなかったが、保育園に入れたい人がもっと簡単に入れられる社会にしていかないと、少子化問題は解消できんだろうな、とやっぱり思う。少子化問題は今の子育て世代の結婚問題が主で、男性がこの稼ぎでは養えないから結婚しない/出来ない、というのが最大の問題、というような指摘もあるが、多方面から解消に本気で動いていかないともう無理なんじゃないかと思う。

 さて、はてな匿名ダイアリーの保育園落ちた日本死ね!!!が話題になっていたが、私は毎日ではないが、気が向いたらはてなホッテントリ(hot entry)をチェックすることがあって、この保育園の投稿がホッテントリに上がってた時にざっと読んでたけど、ここまで世論を盛り上げることになるとは想像もしなかった。あの手の投稿はよくされてるし、中には内部関係者じゃないか、というような具体的な提言を盛り込んだエントリーもあって、匿名ではあるが、読ませるやつも時々出ている。もっとも概ね、匿名ダイアリーのは面白く無いのが多いのだが。

 あの投稿に関しては、安倍政権の一億総活躍なんちゃらを揶揄しているところがあって、そういうところが気に入らなかったのか、特に「日本死ね」に過剰に反応する人たちがいたけど、そこはあまり重要なところじゃないし、ネットスラングとして「氏ね」という言葉はよくある表現で、そこに突っ込んでる時点でネットリテラシーの低さを露呈してるだけなんじゃないか、なんて思ったりしていた。

 しかし、この保育周辺に漂う諸々の面倒臭い感じはどこから来るんだろう。多分、平等性を過度に重んじた結果、そうした「保活」にまつわるエトセトラにアクセス出来る、どちらかというと経済的・状況的に恵まれた人たちが得をする仕組みが出来あがってしまっており、かといって、このがっちりと堅固に組み上がった仕組みを崩すのは至難であって、この立ちはだかる壁を前にして感じる絶望感というか、諦観というか。

 こうした仕組みづくりに携わる層はいったいどういう人たちなんだろう、と思うことがある。別に悪意を持ってこういう仕組みづくりをしているとは思えないし、自己の責任の範囲で、逆に言えば責任を追求されないように防御的にそれぞれが振る舞った結果ともいえるが、それぞれの立ち位置でやるべきことをやっていたらこうなった、って感じなんじゃないかと思う。

 今出来上がっている仕組みはそれなりに理由があってそうなっていることが多く、仮に多くの人が時代に沿ってないと薄々感じているような仕組みでも、それをやめるとこれこれこういう問題が出てきて、ってことになって、結果として、大本は触らずに応急処置的に対応することになり、ただでさえ複雑な仕組みがさらに複雑化していく。そして、そうした複雑な仕組みを読み解いて、自分の状況に応じて適切に判断できる層はなんとかしのいでいけるだろうけど、日々の生活に追いまくられてそれどころではない人たちはそんなことをやってる余裕はなく、ますます情報格差が広がるばかりだ。

 記憶によれば、中流幻想の只中にあって、いやすでに日本はそうじゃないんだということを私に最初に認識させたのが「不平等社会日本―さよなら総中流」という本だった。2000年出版の本だが、この時点ではまだ今のような格差の問題は今ほどは出ていなかったように思う。さらに、格差固定社会なんて言葉も出てきたりしたが、気になるのは、そういう発言する人たちは概ね、格差の上の方にいる人たちで、様々な数値からそういう問題を読み解けるんだろうけど、実態をどの程度、自分の問題として捉えているのか、などと思わなくはない。

 塾歴社会という本を読んだところなのだが、塾とか私の知らない世界だが、やっぱりこんな感じなんかー、というのが感想。私などはオール公立で、いろんな家の子がいるようなところで育ってきたのだが、こういう世界で子供の頃から生きてると、シンパシーを感じる範囲がとても狭くなってしまうんじゃないだろうか、なんて邪推してしまう。自分と似たような境遇にある人にシンパシーを感じるのは人として自然なことであるとは思うが、自分のお仲間さえ楽しく暮らせていけたら、他は知ったこっちゃない、ってメンタリティーのまま大人になって、そういう人たちが様々な制度づくりに携わっているのだとしたら・・・。私などは彼らにとってお仲間に入れてもらえなさそう境遇だし、私も彼らにシンパシーを感じることは困難だが、それでも同じ時代を生きるものとして、一緒にやっていかなくちゃいけない。具体策など思い浮かばないのだが、こういう社会になってしまって、これからどう生きていけばよいのか、途方に暮れる。

 なんか全然まとまってないエントリーですが、このまま出しときます。

シングルファーザー体験中だが、こんなんやるもんじゃない

 さて、子供が早めの昼寝に入ったので、つらつらと最近の育児日記をひとつ。

 ここのところずっと父子家庭状態になっていて、職場と保育園と家の3点往復運動を繰り返す毎日。数日おきにスーパーなどに行ったりするが、ほぼ単調といってもいい日々が続いている。とはいえ、子供が日々昨日とは違う何かをするので、単調ではないのだが、毎日気づいたら寝る時間で朝起きて、あまり考える暇もなく、日々が過ぎていく状態が続いている。

 子供を一時保育にあずけているので、帰宅時間は早めなのだが、帰宅して、食事の準備をしつつ、食器片付け、朝の食器洗い、洗濯、散らかったおもちゃの整理などをし、食事を一緒に取って、食休みに映像なり絵本などを読みつつ、そのうちうんちをしたりするので、慌てて風呂の準備をして、うんちの後始末などをし、風呂に入り、上がったら、肌のケアをし、牛乳を飲ませ、部屋を暗くして少し遊ばせた後、歯磨きをして、就床の時間、という感じ。

 就床後、すぐに寝る日もあれば、1時間以上グズグズとする日もあって、なかなか対応する側も大変。こちらもいろいろとすることがあって、就床後にしようと思っていることが出来ない場合もあり、相手がある場合は待ってもらったりすることもあって、何かに追われるような日々が続いている。

 そして、朝が来て、すでにその時点で遅刻なので、急いで嫌がる子供に着替えをさせ、食事をさせる。寝起きで最初は進まない食事だが、食べ始めると割りと食べる場合も多いので、なかなかに時間が読めない。まだオムツは取れないのだが、さあ出発という時にウンチをしてることがわかったりして、さらに時間がかかる、というのはザラ。ゴミ出しの日にはゴミをまとめて出すとかしているとあっという間に時間がさらに経過する。

 誰でもいいからせめて家の中で子供の相手をしてくれる人がいてくれたら、と思うが、核家族化が完了した今、なかなかそうはいかない。そういう意味で子供に兄弟がいる、というのはそういう役割をお互い担ってくれるので楽になる部分はあるのだろうか。経済的にはただでさえ大変な上にさらに負担がのしかかるので、プラマイでいうとどうなるんかわからんが。

 書いてて思ったが、もしかしたら、もはや地縁血縁は頼れないと見切って、ちょっとした支援の必要を感じているファミリー同士でつながれるような、昔の「長屋」的な生活を望む人が増えているのだとしたら、そうした場が提供されれば、参加したいと思う家族が一定数いるんじゃないか。

 あと、離婚経験者に聞くと、あまり子供のためだからといって我慢するのもよくない、とのことで、子供に我慢してる姿を見せたり、親の笑い声の一つも起きないような家で過ごすのはどうか、というのだが、こんな状態では笑う時間もなかなか取れやしない。せっかく作った食事をいとも簡単にベー、と吐き出されると普段温厚な人でもかなりイラつくはずだし、こちらが家事をしている最中に大声でぐずられると、あーもーなんやねん、ってなって、つい怒り気味になってしまう。

 今はちょっと鼻づまりと咳がひどいので、かかりつけ医の診察を受け、薬をもらってきたのだが、最初の対応をまずったのか、どうしても飲んでくれない薬があって困っている。砂糖混ぜたり、コンデンスミルクにまぶしたり、それ用のゼリーを買ってきて試したりしたが、もうスプーンに赤いゼリー状の液体が乗っている、というだけで、逃げ出す始末。ただ、私も自分で舐めてみたが、かなり薬特有の味が濃く、後味も口に長く残るので、こうなってしまうのも仕方ないかなとも思う。幸い、症状は快方に向かっているので、今回は大目に見てもいいと思うが、無理にでも飲ませないといけない場合もあるだろうから、今後、そういう場合のためにスポイトか何かを用意しておこうかと思っている。

 というわけで、父子家庭の大変さを身を持って体験し、やはり離婚とかはせんほうがいいなぁ、と実感しているところ。そもそもがせんほうがいいわけだが、やっぱりせんほうがいいんじゃないかいなと。

子どもの成長に応じて、親の心配の種類も変わっていく

 いつの間にか子どもの靴下がえらく小さくなっているのに気づき、この日曜に西松屋に行ってきた。最近、自分で靴下を履きたがるようになっているのだが、簡単ではないようで、成功した試しがない。店頭で商品を見てると、自分で履くためのトレーニング用靴下なんてのが売ってて、引っ張るところにつまむ部分があり、引っ張り上げやすくなっている。物は試しとこれを購入(季節ものなのか、めっちゃ値下げされてたってのもあるが)。

 その後、一回りして帰ろうとしたところ、おもちゃ売り場、特に車や電車のコーナーでロックオン。いつもはさりげなくどんどん進むとついてきたのだが、自我の芽生えか、自己主張が始まり、一歩も動く気配がない。あれやこれやのおもちゃに熱い視線を送っている。元々ひとつぐらいは買ってやろうと思ってたので、気に入ってそうなやつのうち安価なのをひとつ手にとってレジに進んだのだが、それでも一歩も動こうとしない。ちゃうねん、こっちがほしいねん、という感じではなく、もう少しそこで眺めていたい、という感じだったのだが、そんなにゆっくりもしてられないので、かつぎあげてレジに行こうとすると、店内全体に響きわっているんじゃないか、というような叫び声をあげて抵抗したのだった。子供用品店だから理解してもらえるが、通常の店なら虐待の誤解を受けるレベルで、ちょっと先が思いやられる。

 今日は、保育園でタンコブを作ってきた。お友達と押し合いしてじゃれてる内にちょっと背中を押されてベッドの角に打ち付けてしまった、とのこと。保育士の先生はとても恐縮されていて、こちらが恐縮するほどだったが、こういうのは子供同士のことなのでお互い様で許容するようにしないと。しかし、子どもを預かる立場というのも大変なことで。

 もう一つ、思ったのは、こちらの子どもが他の子を怪我させてしまったら、親としてどうしたらいいのか、ということ。相手の親に謝りにいかなくてはいけないのか、タンコブ程度なら許されるが、出血するほどの怪我だったらどうするか、などなど、あまり過剰に構えなくてもいいが、今後、それなりの心構えが必要で、この類の心配をこれからもずっとしていかないといけないのだ、ということに改めて気づいた。

 変なもので、うちの子が怪我をする側でよかった、とまでは思わないけど、逆じゃなくてよかった、とちょっと思ってしまったのが正直なところ。本人はそんなに痛がる様子もなく、コブもそれほど痛々しいものではなかった、というのもあるが。

 私は3,4歳ぐらいのころ、近所の子供たちと一緒に電車ごっこをしている時につまづいてしまい、コンクリートの角におでこをぶつけ、タンコブどころか、骨が見えるぐらいの怪我をして、血をポタポタと道路に落としながら、歩いて家に帰り、「血が出てもた」と親に報告したことがあって、その言い草がおかしかったのか、その後も長く兄たちにからかわれ続けたのだが、それはともかく、子どもはそうやって怪我をしながら、いろんなことを学んでいくもので、喧嘩なども度を越したやつはあかんが、そうやっていろいろと経験しながら学んでいって欲しいと思った。

男性が育休が取れないことと日本人男性が他人の子どもをあやさないことに何か関連があるのではないかと思えてきた

 この前のNスペで「ママたちが非常事態!?~最新科学で迫るニッポンの子育て~」というのがあった。「子育てがつらすぎる!なぜこんなに不安で孤独なの?私って、母親失格?」という母親たちの悲鳴から、「核家族化が進み、夫も多忙で不在がちな中で、母親一人がわが子に向き合う孤立した子育て=“孤育て”。その孤独感に耐えられず、「ママ友」と呼ばれる母親同士のつながりを求める日本特有の社会現象も起きています」とのことで、それに対し、様々な科学的分析をなされていた。内容は例えば、こちらのサイトなどで要約されているので、どうぞ。

 この中で特に私の興味を引いたのはチンパンジーと比較して人類は「共同養育」を基本とする、というところ。チンパンジーは出産後5年間、母親がつきっきりで子育てするが、人類は1年ごとにでも産めるようになっていて、それは共同養育のおかげなのだという。例えば、「木の実を取りに行くから、私の赤ちゃんちょっと見といてー」と仲間に預けることが可能で、子育ての負担が母親だけに集中せず分散される、とのことだった。そして、年上の子どもが小さい子の面倒を見るのも当たり前、ということだった。

 日本では今や、孤育てが当たり前になっているが、祖母によると、祖母の子供時代、尋常小学校などでは子どもが小さい子をおぶって学校に来る風景が当たり前だったらしい。さらに、戦後でも私の集落ではこうした共同養育に近い状態がしばらくは残っていたようで、お駄賃目当てではあれ、子どもが小さい子の面倒を見るのが当たり前となっていたようだ。

 こうした風習はおそらく子どもの数が少なくなるにつれ、必要性が低くなり、子どもが子どもの面倒を見る、というようなことがなくなっていったと思われる。そして、核家族化の進行とともに、子育ての時に頼りにできるのは近くに住む母親だけ(いない場合は保育園その他を駆使)、という状態になってしまったのではないかと思う。

 そんな中、「育児をしない男を、父とは呼ばない」というキャッチコピーのついたSAMのポスターが話題となり、父親の育児参加が促されるようになった。1999年のことだったようだ。その後、イクメンなどの言葉も生まれ、父親の育児参加が少しずつではあるが広がってきている。

 さて、ここで表題に戻ると、年末年始の子連れ海外旅行から帰国して感じたのは、日本では子どもを見てあやしてくる人が少ない、ということだった。ただし、女性は若い学生みたいな人からおばあちゃんまで時々いる。が、男性からあやされたことはほとんどなかったと思う。一度、あやしてきた人がいて、お~、と思ったが、東アジア系の外国人だった。

 これは何を意味するのか。以下、思いつきで言ってみるのだが、日本では痴漢冤罪という奇妙な事件が時々発生する。そして、そうした性犯罪者に間違われないために、男性陣はいろいろと小さな工夫をしているはずだ。満員電車に乗らないのが一番なのだが、そういうわけにもいかない場面があり、つり革を両手で持つ、とか、できるだけ混雑していないところに移動する、とかの対策、またはそれこそ「痴漢冤罪保険」をかけとくのもあり、という信じられない状況になっている。そして、これと同様に、子どもに「みだりに」話しかけることで変質者と間違えられる可能性があることも、意識的ではないかもしれないが、危惧している人も結構いるのではないだろうか。

 私は大人と一緒にいない子どもには基本的には話しかけない(話しかけられた場合や迷子とかは別だが)。しかし、大人と一緒にいる場合でも、基本的には話しかけることはない。なぜか、というと、自分でもよくわからないが、すでに「そういうもの」という社会的規範があるように感じているからだろう。これは、子どもに限らず、「知らない人にはむやみに話しかけない」という現代日本の風習が元にあるのかもしれないが。

 こうしたことは、結局、大人になる過程で他人の子どもと接する機会がほとんどないことが原因の一つではないか、と思えてきた。ほとんど子どもや赤ちゃんと接した経験がないのに、いきなり赤ちゃんの世話とか、相当に難易度が高い。また、イクメン圧力がいくらかあるとはいえ、むしろ、まだまだ社会全体に、男は子どもに関わるな、という無言の圧力があるようにも思う。デキる男が仕事のキャリアを積み上げ、昇進の機会を伺う時期に半年とか一年育児休業しまーす、なんていうと、あいつは出世レースから外れよったな、ってなるのではないか。この辺は全然実情知らんので想像。

 しかし、子育て世代にとって1年というのはかなり長い。その間にライバルが仕事をして、差をつけるなんてこともあるだろう。だからといって、育休取った場合も出世に響かないように人事評価すること、などと行政が通達を出したところで、企業側では、はいそうですか、とはならんだろう。育休取っても遅れを取らない、または、育休のうちに仕事の幅を広げられるようにする仕組みが必要で、多分、この辺りは在宅仕事、または子連れ出勤が可能となるような社会にすることである程度はそうしたギャップが緩和されるのではないか、と期待したいところなのだが。

 今の大人の多くが他人の子どもに慣れていない、ということについて、私の場合は、ずっと子どもが苦手というほどではないが、子どもに注意も関心も払うことはなく、接し方もよくわからなかった。その後、甥っ子や姪っ子と接するうちに、いろいろと子どもとのつきあい方を学んだような気がする。ただ、今でも他人の子とどう接していいか、よくわからないところがある。

 うろ覚えの記憶だが、大学だったかで、保育園の赤ちゃんや子どもの世話をするような課題があるところがあって、学生時代にそういう経験をしておくのはいいことだなと思った。一定期間子どもと接した経験があると、その後の子育てでその経験が大いに役に立つのではないかと思う。

 男性が育休取れない、という話に戻ると、話はもっと単純で、単に育休を認可する側の上司の年齢層がまだ男性の育児参加当たり前の世代ではないため、というだけの話のような気がしてて、もう少し時代が経つと一気に育休取得率は上がるんじゃないかと思ったりもする。

 あと、今、記憶を絞り出しているのだが、日本で男性が子どもをあやさない、というのは100%ではもちろんなく、今までに何度か私の子どもをあやす男性に遭遇したし、外国でも男性が気安く子どもをあやす場面は、通りすがりの人とかたまたま隣に座った人とかの場合、あやさない人の方が多かった。そして、外国でも女性の方が男性よりも他人の子どもにアクションを起こす率は高いとはいえそうだなぁ、と思い直したりしている。日本が特殊かも、という仮説で論を進めてきたが、そうでもないんかもな、とも思ったり。

 ともかくいえることは、子どもは一人で育てることは出来ない、ということで、今現在、家に嫁さんがいない状態なのだが、それをしみじみと実感しているところ。早く帰ってきてくれー、という思いでなんとかしのいでる感じだ。まあ、ここのところいろいろあって、帰ってきても○○だったりするのだが、それはともかく、子どもは早く母親に会いたいだろうし、母親も子どもに会いたいだろうし、あと少しの間、なんとかがんばるしかない。

「育休って何?」な零細自営業者が育休について思っていること

 自民 宮崎謙介氏 女性関係報道で議員辞職願提出というニュースが出ていた。

衆議院京都3区選出の自民党の宮崎謙介衆議院議員は、男性の育児参加を促したいとして、国会議員である妻の出産に合わせて、今の国会中に育児のための休暇を取る考えを示していましたが、今週発売された週刊文春で、妻の出産直前に、ほかの女性と不適切な関係を持っていたと報じられました。

(NHKニュース)

 私は零細自営業者であるが、育休などは当然なく、休んだらその分、おまんまの食い上げである。そういうのは所与の条件として、この立場を選択していて、その代わりに仕事を選ぶ自由、仕事がない期間に怯える自由などを享受している。

 ただ、自営業者の育休という問題がクローズアップされたことはよかったとは思う。この議員に同情の余地はないけど。

 こちらの記事に以下のような自民党谷垣幹事長の発言が出ている。

「自営業者には育休の制度はなく、育児休業しようと思ったら、いくらでも本人の判断でできる。基本は国会議員も同じだ」と語った。宮崎氏は国会議員の育休を定めるよう衆議院規則を見直すことを目指しているが、谷垣氏は制度化に慎重な考えを示した。

 これは正論ではあるが、日本の現実の中で育休が取れている自営業者などほとんど皆無に近いだろう。十分とはいえない育児環境でそれぞれが使える手があれば可能な限り使いながらなんとかやりくりしているのが現状だろう。そして、そうした中でどのように育児環境を改善できるかを検討し、実行していくのが政治家の役割のはずだ。一応、氏は抜かりなく「育休を取りやすい社会をつくるために運動するのは意義がある」とも述べてはいるが、及び腰であるという印象は拭えない。

 ただ、勤め人の育休取得率などみても、特に男性の取得率が1~2%ということになっていて、いくら制度を整えても、なかなか取れていない実態がある。こちらの厚労省による「事業所の育児休業取得者割合」(PDF)を見ると、業種により結構異なっていて、建設業などは男が5.19%と比較的高めだが、女性は69.6%と全事業所平均の76.3%を下回っているとか(育児休業者の実に4割が男性!)、医療・福祉はさすがに男女とも高め(男3.22%、女89.2%)とか、興味深い実態が垣間見れる。数パーセントで高めってどうなん、とは思うが。

 もう一つ、興味深いのは、事業所規模が5~29人の会社での女性の育休取得率が低く、4割は取得出来ていない実態があり(30人以上の事業所規模だと9割が取得できている)、中小企業特有の「取り難さ」があることがうかがえる。個人にかかる負担が大きく、なかなか代替が利かないためだと推察されるが、育休を取得すると職場復帰できないのではないか、と思わせる雰囲気が会社にあって、職を失う不安から育児休暇取得に踏み切れない場合もあるのではないかと思う。

 制度があるのに、取らない方がおかしい、というのは正論だが、このご時世、今の会社を去って、さらによい待遇で再就職できる見込みは少ないと多くの人が思ってしまっていて、なんとなくそうした空気に抗えないのだとしたら、本当に日本は物質的には豊かになったが、全然幸せではない社会になってしまったものだと慨嘆したくもなってくる。

 代替が利かないため、というのも、人手が足らなくて、という場合も多いだろうが、別に中小企業における社員の代替不可能性という問題もあって、ある機械や仕組みがその人でないと動かせない状態になっている、なんてことがあり、マニュアルなども作られることはなく、その結果、その人は育休を含めた長期休暇は取れない代わりに、会社の中で必要な人材という立場を守ることが出来る、という按配。これは処世術の一種だが、非生産的で非効率的であり、こういうのを許容する社風のあるところはさぞや風通しが悪いのではないかと思う。

 個人的には今の日本には雇用の流動化がもっと必要なのではないかと思っているのだが、そういう時代はよほど日本の経済状況が急激に悪化しない限りはやってこないのではないかと思わせる。今の就活には「うちでは採用しなかったが今後のご活躍をお祈りします」と最後に締められる不採用通知を意味する「お祈りメール」というのがあるが、実際、別の会社に行ったほうが間違いなく活躍できる人材が不適材不適所で燻っているという例が多いのではないだろうか。

 もっとも、こういうの根っこには「将来不安」というやつがあるわけで、特に今は「未来は今よりよくなる」という希望がまるでなく、衰退社会で生き抜いていかないといけないので、余計にしがみつく結果となっているようにも思える。

 私はビルの谷間でダンボールを敷いて寝たこともあって、まあ一人なんとか生きていくぐらいはなんとかなるやろで生きてきたが、ここに来て、育児をするという思ってもみなかった人生航路に行きつき、さすがに身を持って、育児にまつわるエトセトラに関心をもたざるを得なくなった。なんでこんな「孤育て」状態に私を含めた多くの親世代が陥いることになってしまったんだろうと常日頃から疑問なのだが、このような時代が到来するのがわかっていたのに社会システムを変更しようとしてこなかった先行世代を恨む気持ちを持ちつつも、誰かのせいにしても仕方がないので、いつもの結論だが、それぞれがそれぞれの持場でなんとかかんとかしのいでいくしかないんだろうな、と思いつつ……。

 私の場合、今行ってるところに「子連れ出勤認めて~」と契約ごとに要望を出しているが、聞き入れられる見込みはほぼない。ただ、保育園の都合で短時間勤務が認められ、今、週5日6時間労働という形で働いている。こちらの要望を100%認めてもらうことはできないが、言ってみるだけは言ってみる価値はあって、あまり恐れずに言うてみてはどうなんだろうか、と思うのだが、空気を読む技術が日本人は無駄に高いので、なかなか言い出せないものなのだろうか。

 空気を読まないようにしてたら、本当に空気が読めなくなってきたのが私なのだが、いいんだか悪いんだか。ちょっとした弊害はあるとは思うが、自分なりに気を配る注意をしていれば、なんとかなると思います(無責任モード)。