「身辺雑記」カテゴリーアーカイブ

こちらが聞いてないのに話し続ける人、あるいは、アウトプットの効用

 仕事をしていて、どうにも袋小路に陥って先に進めなくなった時に、誰かにヒントをもらおうとして、相談相手に現状を説明し、どこでスタックしてるかを述べているうちに自分で突破口を見つけてしまうことがある。頭の中だけで考えているときは思いつかなかったのに、誰かに聞いてもらうことで自分の中で整理がつき、どこに問題があるのかがクリアになるものらしい。結局、聞かされた側は相槌を打っただけで一言のアドバイスすらしていないのに問題が解決したらしいので、まあええか、となり、こちらはあっさり自己解決したバツの悪さを感じつつ、時間を取らせたことを謝って、席に戻ることになる。

 もちろん、逆の場合もあって、こちらとしては相槌を打つだけだが、ちょっとひっかかる部分があるとその相槌の感じが多少は変わっているはずで、そういう微妙な空気を双方が感じ、解決策に自然と近づいていくことになるのだろう。

 こうした効果は、カウンセリング効果と似ているのかもしれないが、結局、仕事においてそのようにその場を共有することで得られる何かは間違いなくある。

 しかし、これをもって在宅勤務を否定する方には個人的には与したくはない。やはり、同じ空間を共有することはよい面もあるが、集中してまとまった仕事をやりたいときなどに、こうした「ちょい聞き」をされると、思考の流れが中断されるので、仕事のクオリティが下がる可能性があり、全体として悪い結果を生むことにもつながるともいえるだろう。仕事の性質にもよるが、定期的に会う時間を作るようにすれば、在宅勤務は十分可能だと思っている。

 ここで表題の話となるのだが、世の中にはこちらがあからさまに話を聞いていないことがバレバレなのに、話を続ける人というのがいて、なぜそういうことができるのか、自分なら相手のそういう素振りが見えると、心が折れて、適当なところで話をやめてしまうことになるのだが、と長年疑問に思っていた。その後、歳を重ねるうち、結局、話している本人は別に聞いてもらうことに主眼はなく、自分が話すことそれ自体が重要なのであって、そうやって自分の中でいろいろと情報(場合によっては感情)を整理しているのだな、ということに気づいた。昔は聞いてなくて申し訳ないなぁ、という気持ちがいくらかあったが、今はそういうものとして、適当に流せるようになった。

 とはいえ、ただ一方的に話す、というのは、基本的には迷惑行為といってよいかと思うので、ほどほどにしないといけないだろう。自分はどちらかというと聞き役に回りがちなのだが(リアル知人からツッコミを受けそうだが、流しますw)、話すことを含め、アウトプットの重要性を軽視してきたように思う。

 私はあまりアウトプットしてこなかった人間だが、アウトプットすることの効用は、こうしてブログ記事を書いたり、ツイートしたりすることで自分でもよく認識できるようになった。記憶の定着がいいとか、アウトプットすることで情報をいただけることもある、など、実用面があるし、インプットにもよい影響が出てくるのは間違いない。ネットではロムが基本の人が多数派なんだろうけど、アウトプットの効用は大きいので、最初は小さな一歩でいいので、何かしらアウトプットしていくといろいろいいことがあるかもしれません。

かなり久々の健康診断を受けに行政の健診に行ってきた

 考え方は人それぞれだが、フリーになってから私は健康診断はほとんど受けてこなかった。健康には全く自信はないので、そんなことではまずいのであるが、実のところ、職場で強制的に定期健診を受けさせられる、とかでないと、行政から案内が来てもまず行こうとしないもので。

 健診を受けなかった理由としては、無駄に短く生きるつもりもなかったが、かといって無理に長生きするつもりもなく、また無用の検査を受けたくない、というのもいくらかはあって、結局のところ、めんどくさい、というのが一番大きかったんかも。

 しかし、この年齢で子供が生まれたこともあり、安吾のいう「親はあっても子は育つ」、つまり、親はなくても子は育つし、あっても育つもの、だとはいえ、やはり、成人するまではなんとか健康に留意して、「教育を受けさせる義務」は果たさんといかんな、との思いが芽生えつつあり。

 町の健診なんて行ったことがないので、一度行ってみるか、という好奇心半分で行ってみたのであるが、受付から始まって、次は測定、次は採血、などトロコテン式にどんどん流される方式で、問診と検診で2,30分ほどの待ちが発生する以外はほぼスムーズに流されていった。

 私の住む滋賀北部は南米からの日系人が働く工場が多い、という土地柄を反映し、日本語の掲示以外にスペイン語とポルトガル語の表記もあった(英語・中国語はなし)。ということは通訳の方もどこかに待機してたのかもしれない。

 もう何年も健診受けてないので、最新の健診事情を知らなかったのだが、検便の方法がえらい変わっててちょっと驚いた。昔風に小さなプラケースに爪楊枝かなんかで詰め込む式ではなく、先端がギザギザになってる細い棒状のものでこそげとり、100円ライターほどの大きさの専用容器にしまい込む方式で、ごく少量で検査できるようになっていた。ただし、2日分必要で危うく忘れるところだったが。(※アイキャッチ画像参照)

 また温水洗浄便座(つまりウォシュレット・シャワートイレのことだが、この2つの商標以外に言いやすい総称はないものか)が家庭に普及している現状を反映し、水の張った水洗トイレでも便を簡単に取れるような配慮も万全。

トレールペーパー
(※うんち坊やがこちらへどうぞと示す★に向けて噴射する仕様)

 バリウムを飲んでの胃がん検診というやつも初めて受けたのだが、あんな具合にDJよろしくマイクパフォーマーの指示に従って、右に左に転がるものだとは思わなかった。あとで胃の中でバリウムを回すためだと知ったが、日本中でみんながあんなことをやらされてると思うと、ちょっとしたおかしみを感じたり。

 しかし、「バリウム 健診」でググるとこういうサイトが一番目に表示され、やはり皆さん被曝は気になっているようで。

胃バリウム検査で癌になる?

 リスクと早期発見という効用のトレードオフというやつだが、現状は受けたい人が受けられるわけで、少しでもリスクを減らしたい人は毎年受けない、という選択肢もありかと。
(追記:過去に胃潰瘍をやった方などは、胃カメラを飲む、とのこと。今は非常に技術が進んでいて、かなり楽に受けられるらしい。)

 採血後、止血のために3分待つ間も抜かりなくアンケートを取られるのだが、隣のおばちゃんがその役をしてて、世間話しながら答えてると、「インターネットアクセスしてますか? スマホ持ってますか?」という設問があって、なんじゃそら? スマホ? ええ持ってますけど何か、とか思ってたら、行政としても健診受診率向上が至上命題となっているのか、健診を受けてもらうための広報にネットが使えるかどうか検討しているのだそうで。

特定健診受診促進キャンペーン
(※「健診を受けて5000円分の商品券を当てよう!」に目が眩んで受けたわけやないんやで。ほんまやで。ほんまやって!)

 正直なところ、こうした健診で病気を早期発見できる可能性はそれなりにはあるんだろうけれど、実際のところどうなんだろう、とちょっと思ってしまうのは仕方のないところで。血液検査などは比較的機械的に出来るが、人間の判断力がからむ場合どうなのか。技術者倫理として特段別け隔てしたりはしないだろうが、「病気の可能性が高い」と本人が思ってる場合、チェックする側もそれなりに気合を入れてチェックするが、病気の可能性が高くなさそうな人の病状はそういう先入観を持ってやってしまったりはしないのだろうか。このあたりはそれこそ「当たり外れ」がありそうな気がするが。

 ともあれ、アンケート項目にもあったが、健診には自身の健康状態に関心を持つきっかけになる効用があるのは間違いのないところで、この機会に自分自身の日常生活を見直すきっかけにはなった、ということで。

草刈り人足

 毎年、この季節になると自治会で草刈り人足が行われる。「河川愛護」という名目で、草だらけの河原に降り、みんなして草刈機で伸びに伸びた草を刈っていくのだが、遠目に見ると一様に見える河原も、ところどころに岩があったり、流木が草に隠れてたりして、草刈機の刃がひっかかることがあって、なかなか気を遣う。

 刃がひっかかると刃を傷めるというのと、草刈機が暴れて危ない、というのと、「カチン」という嫌な音が鳴る、などなどで、できるだけ刃をひっかけないようにしたいのだが、あんまり注意深くやっていたのでは作業が進まない。なので、それなりのスピードを維持してやっていくことになるわけだが、ずっとやってると疲れて注意散漫になるし、他の作業者と重ならないように周囲に目を配る必要もあったりなどで、ただ延々と草を刈る作業ではあるが、いろいろとコツがある。

草刈機の刃
(※草刈り用の刃。そこそこの太さの枝も切れるが刃が傷むので切らない方がいいみたい。コンクリや石のあるところではナイロンヒモで草をしばき倒すやり方だと楽にできるのでそういう作業をしたい場合は刃を付け替える。)

 私などはせいぜいこの日と他に2、3日家の周囲の草を刈る程度なので、草刈機の扱いに慣れた頃にシーズンが終わってしまい、毎度、使い慣れないうちはいらんところに力が入ってしまって無駄に疲れてしまうのだが、草刈りの達人たちは私のように無駄に振り回したりせずに上手に身体を使って刈っていくので、難しい斜面などはそういう方々が担当することになり、私は比較的平坦なところをダーっとやっていくことになる。

 この草刈りが河川愛護とどう結びつくのか、疑問がないわけではないが、こうして河原に降りて作業をすると、かなり上流部ではあるにもかかわらず嫌でも目につく様々な種類のゴミを見るにつけ、やはりポイ捨てはいかんなぁ、というありきたりではあるが、ごくまっとうな感慨に浸れるのも効用といえば効用で。

 河原をやったあと、100m四方ぐらいのまあまあ広い耕作放棄地もついでにみんなで草刈りするならわしになっていて、ここは凹凸が少ないので比較的楽ではあるのだが、とにかくだだっ広いので、これはこれで大変ではある。

イノシシの遊び場
(※イノシシの遊び場。ツイッターで大学の後輩が教えてくれたのだが、「沼田場(ヌタバ)」というのだそうでウィキペディアによると「体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びる場所」とのこと。確かにちょいと立ち寄りたくなるイノシシのスタバってとこかもw)

 都市部と比べると地域でこうした共同作業をすることは多いのだと思うが、それでも昔に比べると回数は減っているはずで、こういう時に地域の人といろいろと話すのもそれはそれで有意義ではある。あまり村のことには関われていないが、いろいろと村にも常時動きがあって、一住人としてそういうのを知るのも大切なことで、今後もこういうのはサボらずに出来るだけ参加するようにしていきたいところ。

草刈機の取手
(※草刈機の取手部分はいくつかの形状があり、私のは斜面をやるのに向いているのだが、あまり有効に使えていないw)

※アイキャッチ画像は刈るに忍びなかった花。ハチやチョウが蜜を吸いに来ていた。

なぜブログを書くのか

 諸々あって、ここのところ、ブログを書く気持ちの余裕がなく、全然更新出来てなかった。赤子の世話とウクライナ大統領選周辺事情を追っていた、というのもあるが、別件で少々面倒なことがありまして。投稿の仕方すら忘れかねないので、クセをつける、という意味で雑感をば少々。
(アイキャッチ写真は特に意味なく抹茶です)

 ブログを始めたのはなぜかと改めて考えると、明確な説明付けは出来ないことに気づいた。前から始めたかったが、始めるまでの諸々がもう面倒で、ずっとToDoリストの中に埋もれている状態だったのを、ちょうど一ヶ月前のGWにおもむろにこのToDoをサルベージした、というのが、このタイミングで始めたことのとりあえずの説明にはなるが、では、なぜそもそも始めようと思ったのか。私のネット歴は1995年からで「○○のホームページ」みたいなのはいくつか作ったが、何らかの情報を出すためであって、自分の意見を表明するため、というわけではなかった。

 40年以上生きてると、特に社会に対してガンガン発信してるわけではない市井の方々が卓見を持ってることに遭遇する機会は多く、むしろ発信力の高い方々が「ポジショントーク」なんかで悪目立ちする様を見るにつけ、いろんな生き方があるものだなぁ、という乾いた感慨に浸ったりもするのだが、その人達だって、実際はそういうキャラとして割りきって商売に利用してるだけだったりするのだろうし、やはりそれはそれでこの世知辛い世を泳いでいく一つの方法なんだろうと納得したりもする。

 私は自分が卓見を持っているとまでは言わないけれど、様々な事柄について、ひと通りまとまった意見を表明しておくのも悪くないのではないか、と思うようになった。どうしてもネットでは「香ばしい」意見が話題になることが多く、そうしたものを読む機会が多くなりがちだが、たとえ多くの人の目に触れなくても、そうした意見を出しておく、ということは大切ではないかと思う。

 ツイッターでも連ツイで意見を表明することは可能ではあるが、別に細切れに140文字という制限のあるツイートという形で表明しなくても、ブログなどで一つの塊の文章で表現すればよいわけで。実際、ツイッターアカウントを持つ人の多くは別途ブログなどまとまった情報を出すハコも持っていることが多いように思う。

 あと、私はどうしても「世代論」にとらわれてしまうところがあって、この人口減少社会にあって、こうなることが予想できたのに有効な手を打ってこなかった上の世代に対して大いに文句を言いたい気持ちがあり、また同世代に対してはなかなか考えが聞こえてきにくいが諸々意見交換をしたいし、若い世代には私みたいな大人にならないよう反面教師にでもしてもらえれば御の字かw、などと思ったりしている。

 実名で俗に云う「香ばしいこと」を書くのは、匿名の有象無象が寄ってきて大変、と実名アカの人たちが嘆いているのを時々見かけるが、毒にも薬にもならないような駄文を連ねていても仕方がないという面はあり、炎上リスクを避ける努力はしつつも、それを恐れすぎるのもよくない、というところかなと。

 まとまった時間が朝しかとれないのであるが、夜に書くような文章を書いてしまったw またぼちぼち投稿していきますので、時々見に来てやってください。

水道水中の残留塩素測定月間

 まだ、まったく読まれていないブログだが、赤子のお風呂&授乳が終わったスキマタイムを狙って、小ネタをひとつ。

 限界が近づいてきている我が集落では、行政がやるべきことの一部を自治会が代理で行うことで、ただでさえ足りない収入のちょっとした補助としている。自治会費は一時期は月1万円になっていて、年金生活者から苦情が相次いでいたが、下水道や共同アンテナの問題が解決され、侃々諤々の議論の末、値下げとなった。しかし、それでも月5千円となっていて決して安くはない状態が続いている。

 今月、私が担当しているのは水道水中の残留塩素検査で、毎朝、テストキットを使って測定している。やり方はこの残留塩素(遊離) 共立パックテスト(PDF) の通り。これは濃すぎても薄すぎてもいけなくて、毎日一応、台紙を見ながらチェックしているが、だいたい0.2前後になっていて、異常値になったことはない。そんな簡単に異常になったら困るけど。

水道水中の残留塩素チェック
上のヒモを取って、空気を抜き、水を吸い込む

残留塩素テストキット
測定結果

 この測定とともに、気温・水温を測定して、天気・色度・濁度とともに用紙に記入して、終了。これを一ヶ月ずつ続け、次の人にバトンタッチする。

 だいたい同じ時間に測定することになっているらしいのだが、つい忘れてしまってやや遅れる日もあった。私のような勤め人でも、一ヶ月程度ならこれぐらいの手間であれば行政に代わってやることは問題ないレベル。都市部でこういう試みをやってるところがあるのかどうか知らないが、声の大きな反対者が、やめさせそうな気がするが、どうだろう。なんぼ税金払ってると思っとるんじゃ~、ボケ~、とかなんとか。

 すでに衰退局面に入りつつある日本では、私の住んでいる地域のような辺境が自然と「先進地域」になっているようで、こうした試みがごく普通になるともう少し税金の使い道もマシになっていくんではないかと思ったりするのだが。

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<<追記>>
 一度、まったく色が出ないことがあり、これは大変だ~、と焦ったが、再測定するとちゃんと色が出た。間違えて前日の水で計測してしまった、というオチだった。一晩静置すると塩素が抜けるので、毎晩水を汲んでおくという知人がいたが、自分で計測してみて実感として理解できた。水道水程度の塩素なら健康に害はないようだが、塩素臭が気になるなら一晩置いた水を使うのがいいみたい。
一晩置いた水は塩素抜ける

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<<さらに追記>>
こちらのサイト によれば、「“汲み置く”ことではなく、“直射日光に晒す”ことが重要」ということらしい。