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軽減税率について一プログラマとして思うこと

 この前、アラフィフのおっさんで集まってだべってたときに「軽減税率導入はないだろう。全国のじっちゃんばっちゃんのやってる小さな食料品店でどうやって対応するの」ってな話になって、そんなもんかなー、と思ってたが、あっさりと自公合意で進みそうな気配。

 私は軽減税率は今回の自公合意のような恣意的に区分けが発生してしまう仕組み自体に大きな問題を抱えていると思うし、めんどくさそうなのは軽減しとけ、とばかりに、今回のように黙らせたい新聞だけは特別に入れといたるわ、みたいなことになっていくわけで、軽減税率自体に反対である。

 ちなみに新聞業界のいいぶんはこちら

 あと、個人的には、一介のプログラマとして、食品が絡む販売管理ソフト作ってる人で軽減税率に賛成の人ってどれぐらいいるんだろうか、なんて思ってしまう。元々それなりに出来上がった「枯れたソフト」で運用がなされている場合、せっかく安定運用されているのに、軽減税率が導入されるだけで、そのソフトは使えなくなってしまうのだが、そういう無駄にかかる事務処理経費の日本全体としての損失をどの程度見越して今回の決定をしたのだろうか。

 もちろん、これをビジネスチャンスと見るべきなのかもしれないが、動機が不純すぎるし、世の中には現実として、もうあまり手を掛けたくないソフト、というのもあるわけで、今更大昔のコードを読み込んで、軽減税率に対応させるのは、仕事として何の面白みもなく、このまま本当に軽減税率が実際に導入されるようなことになったら、全国でまた無駄にプログラマたちが疲弊することになるだろう。

 ただ、今回、公明党がここまでダダをこねるのは、何かそれに見合う見返りがあるからじゃないか、と邪推していて、私は、軽減税率では最終的に折れてやるから、他の公明党としてやりたいことを自民党に飲ませるための方便じゃないか、という気がしていた。しかし、導入合意ということで、そうではない、ということになるようなので、ではなぜいろんな人がスジワルという軽減税率制度を導入するのか、理解が難しい。もしかしたら、消費税増税を止めるための深謀遠慮が含まれてるのか、とすら一瞬思ったが、これも違うと思うし。

 軽減税率は確かにヨーロッパなどでは導入されているようだが、様々な歴史的経緯があって導入されたようだし、どう考えても、今の日本で導入すべきものではないのではないか、と思う。

 しかし、目的が本当に「痛税感の緩和」なのだとしたら、今回はあくまで据え置きでしかないわけだし、もうどこまで舐められてんの、って感じがするし、仮にこうした軽減措置を組み込むなら、現代日本の最大の課題ともいえる少子高齢化対策として、子育てに関わる費用の軽減をこそ、第一にすべきだと思うが、そういう議論が全然出てきてないようにみえるのも、もう国がそう出てくるなら、わしらにも考えがあるで、的なことをいいたくもなってくる。

 なんだかんだいって、こんな状態でも、私のそこそこ知ってるあの国とかに比べれば日本は天国みたいなもんだが、同じ閉塞感でも日本のはもっとどうにかなるはずなのにくだらない政治のせいでどんどん悪い方向に加速してる感じがあって、とても嫌な気持ちになる類のもので、子供にとって、本当に日本に暮らし続けてていいのか、ちょっと本気で考え始めないといけない、と思う今日この頃であります。

 もっとも、現実的には日本で子育てし続けることになると思ってはおりますが、そうであるがゆえに、行く末を案じざるを得ない。

 ともかくプログラマとしては、しょうもない仕事が増えるのを阻止したいので、なんとか軽減税率導入ぽしゃってくれー、と切に願います。

原節子追悼で放映された小津安二郎監督の『東京物語』を見た

 先週からずっと保育園関係などで奔走中で、ゼムリャキのタマーラさんたちの講演に行けたらと思ってたが、いろいろあって行けなかった。

 そんな中、原節子追悼で放映された東京物語を録画しておいたのを子供が寝た後、見始めた。見てる途中に子供が起きてしまったため、そこで見るのをやめて、翌朝、続きを見たのだが、また子供が起きてきて、抱っこしながらの鑑賞となった。子供は膝の上でまた眠りについたのだったが、後半に入って話が佳境に入り、感涙することしきりで、朝から見るものではなかったかもしれない。

 東京物語はもう何度も見ていて、大枠の筋書きは頭に入っているのだが、昔から「忘却力」が強いこともあって、ストーリー展開を忘れてるところが結構あり、今回も堪能してしまったのだった。前回見たのはいつだったかなと思って、2003年頃から出来るだけつけるようにしている映画メモを見るともう10年以上前で今回で5回目の鑑賞となるようだ。

 メモにはこんなことが書いてあった。

前回見てからまだ数ヶ月にもならないと思うが、前回もそうだったが学生時代に見た時には感じなかったことを感じたと思う。学生時代に涙が出ることはなかったが、もう年を取り、いくつかのやりきれない現実を前にいろんな経験をした後で見るとまた違った角度で見ることが出来る。やはり未亡人役の原節子とは母親役の東山千栄子のやりとりは涙なしには見られない。今の自分の境遇と将来への見通しの無さがどうしてもだぶってしまう。この作品が世界的にも高い評価を得ていることがどう理解してよいのか今だによくわからないが、これからの人生あと何度か見ることになる作品であろうと思う。

 当時は会社を辞めたばかりぐらいで、今後どうやって食べていこうか、というより、どうやって生きていこうかをよく考えていた時期で、しかし、祖母の面倒を私以外に誰も見てくれそうもない状態にあって身動きがとれず、原節子演じる紀子の言う「何かを待っている」状態だったように思う。その後、結局、なぜかチェルノブイリ被災地に行くことになったりし、さらには一生独身で行くつもりが子供が出来て、方向性が大転換されてしまったわけだが、今回は、今まで見た時よりもさらに様々な人生経験を経たこともあり、昔よりも自分的に泣き所が増えていたし、各場面をより深く理解したように思う。

 特に杉村春子演じる夫婦の子供にあたる美容院店主の長女の身勝手な感じは自分の身近でも思い当たる節が大いにあり、祖母の介護をめぐって押し合いへし合いしたことを思い出したりした。結局、独り身で決して暇ではないが「自由になる時間」のある人が損をするような役回りになりがちで、この映画でも未亡人で子供もいない紀子がそうした立場にいる。例えば、葬式が終わって会食しているときに、長女は自分は用事があるため帰京したい旨を述べた後、「紀子さんはまだいいんでしょ」と厚かましくもさらりと言ってしまうあの感じは、聞き覚えがある嫌な感じだ。

 先日、ちょうどこの映画の紀子と同じぐらいの年齢の女性が「何のために生きてるか、ふと分からなくなることがある」などと言っていて、その人も兄弟の間で親の世話に関して意見の相違があるらしく、独身であるがゆえの損な立場にいるようだったが、こういう場合、得な立場にいる者は「暇なお前が面倒見て当たり前」的な態度を知らず知らずのうちに取りがちで、映画の中でまだ若い先生をしている末っ子の京子のセリフのように世の中は「他人同士でももっと温かい」はずなのだが、紀子が言うように「誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくる」わけで、それはそれで真実だったりするのだ。私自身もつい被害者面を強調しがちだが、思いがけないところで他の人に負荷をかけていることに気づかずにいることがままあるわけで。

 小津は東京物語について「親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ」と述べているが、この時代からさらに世代が二つほど進んだ今の目で見ると、離婚経験のあるような人は出てこないし、兄弟仲も決して悪いわけではない。そもそもが5人の子供を育てあげ、そのうち3人が東京へ、1人が大阪へ行ったという老夫婦の話で、映画の中でも述べられているが、この家族はかなり「いい方」なのだ。ただ、映画中で年を取ってから出来たひとり子を甘やかして育てたばかりに、子供から邪険に扱われているという同郷人に対し、笠智衆演じる主人公の老夫婦の夫は、同様に子供の現状には満足していないが欲張ったらキリがないので諦めるしかないと述べる。「東京は人が多すぎる」というのを理由の一つとしてあげているが、「平気で親を殺す奴もいる」というセリフなども、東京物語の時代と今は、さほど変わりはないんじゃないかと思えてくる。

 東京物語は戦後8年目の作品で戦争の影が色濃くあり、それは次男の戦死であり、また、同郷人の服部の子供2人の戦死であり、服部は「もう戦争はこりごり」と言う。現代日本で戦争のリアリティを感じる機会はあまりないが、改めて、戦争を経て今の日本があることを感じたりもした。

 ともかく、様々な観点から気づきを得ることができる作品で、イギリスの企画で監督が選ぶ作品の1位に選ばれた作品であり、外国人がどのような点で本作に感銘を受けているのか知りたくなってきた。今はちょっとその時間すら取れないが、これから調べてみたい。

 あと、『「東京物語」と小津安二郎: なぜ世界はベスト1に選んだのか (平凡社新書)』という本が出ていて、こうした本が出ているのを知ってはいたが、残念ながら未読。旬の今、読んでみようかと思っているところ。著者は大学の映画サークルの先輩の先輩らしく、その方からその存在を知った。また読後に感想を書いてみようと思う。

「2022年フランスにイスラーム政権誕生」という設定の小説『服従』の感想(ネタバレ多め編)

 こちらのエントリーはネタバレを含むので、結末その他を知りたくない方はネタバレ控えめのこちらをどうぞ。

 ひとまず、改行の代わりに、この「服従」という題名の元となったともいえる小説「O嬢の物語」のアフィリンクなどを放り込んでおきます。

 こちらは著者の代表作。名前は聞いたことがあるが、私は未読。

 さて、ネタバレ編です。

 この小説の主人公はイスラム教や政治について無知・無関心、という設定になっていて、序盤・中盤・終盤にそれぞれ1人ずつイスラームや現代の情勢に通じている人物を登場させており、読者はイスラームやフランスの政治状況のことをよく知らなくてもなんとか置いてけぼりにならずに済む仕掛けになっている。そのうちの一人は、小説中でフランス大統領になったイスラム教徒のベン・アッベスをフランス情報機関で十年に渡って監視してきたアラン・タヌールという人物で、彼に政治情勢などを語らせており、前大統領サルコジのUMP、現大統領のオランドの社会党に加え、ル・ペンの極右や架空の政党であるイスラーム同胞党などが織りなす複雑なフランス政治情勢の動きを読み解いてくれる。

 また別の一人は、政権交代後にサウジアラビアのオイルマネーを受け入れることになったパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学の新学長となったロベール・ルディジェという人物で、ソルボンヌ大学の教職を追われた主人公に対し、イスラム教に改宗したこの学長が改めて彼にイスラムの教えを説き、改宗することで職に戻るように説き伏せる。結果、主人公は説得を受け入れ、改宗を決意するシーンで小説は終わる。

 正直言って、彼が改宗を決意する理由がちょっと弱い気がするが、孤独を紛らわすには家族しかない、また、以前の教職に戻れるということが後押しした、というようにも読める。また、主人公が一夫多妻に惹かれたようにも書かれている。

 情報機関出身という設定の人物が語る情勢分析は結構興味深い。ざっくり言ってしまうと、既存の中道右派でも中道左派でもなく、さらに極右でもない選択肢が求められていて、さらに今もフランスで隠然たる影響力のあるカトリックを基盤に持つ人々に対し、穏健イスラームは歓迎される、というもので、カトリック信者は啓典の民として恩恵を受けることになる、ということになっている。

 こんな一文がある。

イスラーム教徒の真の敵、彼らが何より怖れ憎んでいるのはカトリックではなく、世俗主義、政教分離、無神論者たちの物質主義です。かれらにとっては、カトリック教徒は信者であり、カトリックは啓典の宗教の一つです。そこから一歩進ませればイスラーム改宗も可能でしょう。

 対して、同じ啓典の民のユダヤ人について、その大統領は、ユダヤ人のイスラエル移住を期待している、としている。主人公の最後の恋人はユダヤ人だが、この情勢で父母と共に家族でイスラエルに移住している。

 新学長による小部数の雑誌に書かれた「ジャーナリストによって発掘されたら、ずいぶんと厄介な目に遭うだろう」という記事中で「自由な個人主義という思想は、祖国や、同業組合、カーストといった中間的構造の解体に留まっている限りは多くの同意を得られるが、家庭、すなわち人口構造、という究極の構造を変容しようとした場合には、失敗する。そこで、論理的に、イスラームの時代が来る」という主旨のことを述べ、インドや中国については「自分たちの伝統的な文明を保持していれば、彼らは、将来にわたって一神教とは異質であり、したがってイスラームの台頭から逃れられただろう。しかし、インドや中国は西欧の価値観に犯され、彼らもまた終わるべきものになった。」としている。

 少々、イスラーム政権誕生に引き寄せて、筋立てが強引かなと思えるところがあるもの、一笑に付すべきお伽話とも見えないようにみえるのだが、フランス政治に通じた人たちにこの本がどのように受け取られたのか興味がある。

 実際のところ、2022年はもちろん、それ以降も当面の間、フランスにイスラーム政権が誕生する可能性はないと思うが、小説内で以下のように述べている。

『信じがたい』という理由故に困難に直面するのです。というのも、そうした状況を、人々はヒトラーからのパリ解放以来経験していないからです。この国の政治的駆け引きは、余りのも長い間、右と左の対立のみを軸にしていました。その図式から抜け出るのは不可能ではないでしょうか。

 本筋とは関係ないが、フランスの中道左派の社会党の立ち位置がどんななのか、以前より気になっていたが、この小説でもほとんど有効な手を打てないまま、事態がどんどん進行していくのを追認するだけ、というような立ち回りを演じる羽目に陥っている。現実の方も、どうもオランド大統領というのはどうも影の薄い人物だと思っていたが、トッドの本でもこの本でも情け容赦なく無能扱いされており、今回のテロを受けて、どのような策が打てるのか、そういう意見を聞くとあまり期待できないようにも見える。

 全般として、著者の言はイスラームに対し、やや否定的ニュアンスがあるように見えるし、登場人物の一人に「そろそろキリスト教とイスラム教は和解すべきときに来ているのではないか」という主旨のことを言わせているが、十字軍からの1000年の恨みつらみの積み重ねが厳然と存在しており、現実的にはやはり事は簡単ではないと思わざるをえない。

 恐らく、ネットを検索したりすれば、すでにいくつもの論評は読めるのだろうが、まずはそうしたことに影響される前に自分で感じたことを書いておこうということで書いてみた。まだ佐藤優の解説も読んでないわけであるが。

 余裕があれば、そうした論評を読んだあと、もう一つエントリーが書けるといいのだが、気が向いたら、ということで。

「2022年フランスにイスラーム政権誕生」という設定の小説『服従』の感想(ネタバレ控えめ編)

 少し前から『服従』を読み始めていて、あと四分の一ほどで読了というところで、パリでの同時多発テロが発生したのだった。この小説内でも「フランス全土で二十数か所の投票所が午後早く武装集団に襲撃された」(p129)というシーンがあり、現実と小説が私の中で交錯している。

 この小説はフランスがイスラム化する様子を描いた作品、とのことで、近所の本屋にあったので、買ってみたのだった。本の帯には「2022年フランスにイスラーム政権誕生」とあり、中道右派と中道左派の間で揺れ動いてきたフランスにあって、政治的間隙をうまくついて、イスラム教徒である人物が大統領の座を勝ち取る様子が描かれている。

 とはいっても、この本を少し読めば分かるように、主人公の大学の教員としてのとりとめのない日常が主軸になっており、この辺りをそれなりにでも興味深く読めるかどうかが、この小説を最後まで読み通せるかどうかのポイントかもしれない。主人公はユイスマンスの専門家という設定なのだが、私はこの作家(?)についてほとんど知識はなく、また大学の教員の日常にもあまり関心もないため、途中読み進むのがしんどくなりそうだったが、日本でも大学の先生というのは雑用がやたらに多いと聞いていて、フランスでも日本と大きく事情は変わらんのだな、と思ったりしたし、家族がバラバラになっているフランスの現状はフランス的にはごくごく当然の帰結でそれをフランス人たちは積極的に受容していて、様々なパートナーと営む人生を楽しんでいるものと思っていたが、必ずしも皆が皆そういうわけでもなさそうだ、と思えるようになったのも、小説ならではの力といえるだろうか。

 家族、という観点はこの小説では重要なポイントになっていて、40台半ばという独身の主人公の年齢も話の流れにいくらか影響していると思う。

 現代フランス小説などほぼ読むことはないのだが、先日はエマニュエル・トッドというフランス人の本を読んだところであり、あちらはドイツとの関連であったが、こちらはイスラムとの関連が主軸に置かれており、フランスの置かれている現状の多面性を多少は理解したつもりになれた。

 作中、わりとよくフランス人ならよく知ってそうだが国際的には知られてなさそうな固有名詞(テレビ司会者その他)が出てくるが、ページ内に脚注があるおかげで、その固有名詞をもって何をいいたいのか、だいたいはつかめたかと思う。

 この前、トッドの本について書いたエントリー「今更ながら、ドイツと日本の類似性に関心が出てきたところ」でも触れたが、フランスは「家父長制」の名残のあるドイツとは違い、「結婚適齢期に達した子供は自律的な家族ユニットを築くのが当然とされた」とのことで、こうした家族の有り様はそう簡単に変わるものではないだろうが、カトリックの国らしからぬフランスにあって、社会情勢への不安などから宗教への回帰が始まり、「いざという時に頼れるのは家族だけ」というように、あの自由・平等の国フランスで家族の有り様が今後、変容していくのかどうか。もちろん、ことはそう単純ではないだろうが、キリスト教をバックボーンとして生まれた今の西欧的価値観の限界が見えつつある今、フランスがこれからどんな方向に進むのか、ドイツとはまた違った形だが、ヨーロッパの中心で何かが起こりつつあることを感じさせる。

(ネタバレ多め編につづく)

TPP雑感 ~特に農業分野のコメついて~

 TPP大筋合意、というニュースを受け、ネット上では主に著作権に関わる点に関心が集まっていたようだが、私が気になる点は農業分野だ。

 総論として言えば、往時の勢いはないものの、まだまだ当面、貿易立国として生きていかざるを得ない日本としては、TPPのような協定は世界の大勢として受け入れざるをえないだろう。そして、衰退局面に入っており、変わるべきは変わる必要のある今の日本にあって、既得権益にしがみつく一定の層を崩すには、歴史的に見て「ガイアツ」ぐらいしかなく、様々な分野で制度疲労を起こしている日本に対し、そうしたシステムを否応なく更新させるというプラスの面をもたらす面はあるだろう。

 ただ、TPPの参加国で強い影響力を持つ国がアメリカをはじめとするアングロ・サクソン系の国であるところに一抹の危惧があり、グローバル・スタンダードの名のもとに彼らに有利なルールで物事が決められていき、さらに衰退を加速させることにつながらないか、という心配を多くの人が感じているのではないかと思う。

 農業分野に関しては「価格の安い輸入食品が入ってきて、家計が助かる」といった一般消費者目線でのインタビューが盛んに報道されているが、農村のリアリティを知らない都市部の住民的感覚としてそうなってしまうのも仕方がないのかもしれない。コメ農家などが過剰に保護されており、市場経済の波に晒されるべきだ、と感じている都市住民も一定数いるだろうから、今回のアメリカとオーストラリアのコメの受入については、「国内で主食として消費される量の1%の量」程度となっていて、農業関係者以外はあまり警戒していないようにも思う。

 「カリフォルニア米の衝撃 5キロで650円」という記事が出ていたが、安全性が保証されているのであれば、多少味が落ちても購入する、という層(残念ながら現状懐に余裕のない私もその一味である……)には歓迎されるだろう。実際、私はウクライナでよくエジプト米を購入していたが、普通に「ご飯」の味であり、よく食べていたものだ。

 しかし、食糧安全保障ということも考慮に入れておかないといけない。特に主食となる穀物については、いざという時のために、その技術も含めて確実に受け継いでいかないといけない。

 個人的なことをいえば、祖母から受け継いだ田はあるが、私は稲作の技術は持っていないため、近所の方に作ってもらっている。田植えなどで手伝い程度のことをしたことはあるのだが、自分で一からすべてやるには、機械も揃えないといけないし、いろいろと手間ひまかけて世話してやらないといけないわけで、私には今現在、その余裕が金銭的にも時間的にもない。機械は貸してもらうことは不可能ではないが、現実的には機械というのは痛めたりすることもあるので借りる方も貸す方も気を遣うものでなかなか簡単ではない。

 私の周囲を見ると、まだかろうじて団塊世代ぐらいの人たちが作れているが、その下の世代ぐらいからかなり危ういのではないか、と感じている。農業は一年やそこらで立派に収穫なんてことはまず不可能であり、天候不順で不作なんてこともプロの農家でもあるわけで、要所要所で的確に判断して様々なことを実行しないといけないなど、毎年条件が変化し、私の見るところ、かなりハードルの高い事業だと思う。

 また、農業の多面的価値ということも考え合わせる必要がある。20代までどちらかという都市住民寄りであった私としては、都市住民に理解してもらうのは難しい面があると思っているが、水田が担う様々な機能、例えば、潅水機能や景観などは失ってみて初めてわかる類のものではないかと感じる。

 稲作は特に古来より日本各地で連綿と受け継がれてきたもので、この歴史の重みを今の都市住民にどう理解してもらうか。連作障害もない優秀な食物で日本の気候に合っていて、日本人の多くはよくも悪くも主食=米という前提で身体が出来上がっているんじゃないか、などとも妄想することがある。実際、小麦アレルギーは時折耳にするが、米アレルギーは比較的少ないようであるし。

 ちょっと前から「コメをやめる勇気」という本を読んでいる。まだ途中であるが、この日経記者の書いていることも特に経済面から見れば、どれももっともな話で、日本各地で意欲ある農家による「コメからの離脱」の動きがあり、それはそれでよく理解できるし、こういう動きは私も賛成だ。

 私の地域でいえば、今は稲作メインだが、その昔は生糸生産のために蚕を買っていて、桑畑が広がっていたと古老から聞いたことがある。実際、今もその名残の蚕のための木枠なんかが捨てられずに残ってたりする。

 そういうわけで、特にコメだけを聖域化することに躊躇はあるが、広大な面積で日本でよりも遥かに効率的に作ることの出来る、安くてうまいカルフォルニア米などが日本市場を席巻し、日本の稲作農家が特に価格面で太刀打ちできなくなり、廃業していき、その稲作の技術も廃れていく、ということにつながるのではないか、と危惧している。例えば、大豆の自給率は現在6%となっているが、こういう状況になってしまうのではないか。

 ちなみに農水省の大豆のまめ知識によると、「明治32年以降大豆には関税がかけられていました(中略)昭和36年の輸入自由化の際の関税は1kgにつき4.8円(従価13%相当)でしたが、その後ケネディラウンドを経て昭和47年までに0円に引き下げられました」とあり、コメも今は1%でもこれからどんどん拡大していくのではないか。

 コメ農家が日本からいなくなっても困らない、と言われたら、もうそこで話は終わってしまいそうであるが、稲作が日本で今後大規模に縮小していく、という事態に陥った時の悪影響がどれほどのものになるのか、私はちょっと想像できない。水害が今以上に多発するのか、アレルギー疾患が増えるのか、ただ単に耕作放棄地だけが増えていくのか。

 先日、「課題先進地域」とも言われる中国地方の山間部の過疎地域に行ってきたが、まだ耕作放棄地があちこちにある、ということにはなっていなかったように思う。しかし、そういう事態はどうも確実にやってきそうであり、日本各地をコンパクトシティ化するなどしてそれでよしとするのか、そういう方向性に抗うのか、各自の生き方が問われているように思う今日この頃……。

 などなど、えらそうに言ってる私であるが、諸事情で今後、都市部に移住する可能性が高まっており、どのように都市と地方を橋渡しできるか、自分自身のこれからの課題としたいと思っている。

 中国地方の現状については、「農山村は消滅しない (岩波新書)」という本が参考になった。