沿ドニエストルが舞台の小説『シベリアの掟』(ニコライ・リリン著)を読んでの感想(1)

 また、少しずつ読んでいた本を先ほど読み終えたので、メモがてら感想を書いておきます。

 この本は近場の本屋でタイトルに惹かれて、ふと手に取った本だが、どうやらウクライナの隣国モルドバにある未承認国家の沿ドニエストル共和国が舞台の小説ということが分かり、内容がどんなのかもよく知らずに買ってみたのだった。

 読み始めると、どうも犯罪組織の話で、あまりマフィアものとか犯罪小説の話は読まない方なので、うーん、これはちょっと失敗したかも、と思いつつ、そして、翻訳も決して私好みというわけではない文体のようで、読み進むことにやや躊躇したが、そのまま読み進めると、「善良な犯罪者」なる不思議な言葉がよく出てくる小説で、またこの本のタイトルにある「シベリアの掟」に従って生活を営む人々の共同体の中で生きる筆者の分身たる少年が至極まっとうな感覚の持ち主で、語られる様々なエピソードの細部が興味深く、最後まで飽きることなく読み終えることができた。

 この小説の舞台は沿ドニエストル共和国の首都チラスポリ市の西に位置し、モルドバに隣接するベンデル市という街で私もチラスポリに行くときに通った街だ。10万人弱の人口規模の都市で、バスの車窓から見ただけだが、十分賑やかそうな町に見えた。また、沿ドニエストル共和国はモルドバの東部を流れるドニエストル川沿いにあるからこの名称がついているわけであるが、ほとんどの国土はドニエストル川の東側に南米のチリのように細長く南北に伸びる中、ベンデルは例外的に川の西側に位置する街となっている。

 沿ドニエストル共和国はその謎めいた有り様で時々話題になるが、ここに住む人々がどういう経緯でここに住むことになったのかまではあまり知られていないように思うし、私もほとんど知らない。話されている言語がロシア語でロシア系の人たちが多いらしい、という通り一遍の知識しかない。実際、チラスポリでは街で見かける言語はほぼすべてロシア語で、人々の話す言語もロシア語しか聞かなかった。ちなみに他のモルドバの街では決してそうではなく、モルドバ語が話されているのも当たり前だがよく耳にした。

 この本のp73の最後の行から、シベリアの民が沿ドニエストルに強制移住させられる件が書かれており、シベリアの村にいきなり軍がやってきて全員を鉄道で移送すると告げ、「行軍を遅らせる可能性のある者を排除」(つまり殺害)し、村を焼き放ち、シベリアの民を貨車に閉じ込め、彼らが「地獄のような旅」を経てベンデルにたどり着いた様子が描かれている。

 その描写の後、著者による説明があるのだが、個人的に興味深かったので、やや長くなるが引用しておく。

 現在のロシアにおいて、シベリアの民のトランスニストリア強制移住の経緯はほとんど知られていない。気の毒な民がソヴェエト政府だけが知っている理由によって貨車に押し込まれ、広大な国土をあちらからこちらへと横断させられた共産主義時代のことを思い出す人々が、ほんの少し残っているだけだ。

 クジャ爺さまに言わせれば、共産党はウルカを母なる土地から切り離すことで共同体を抹殺しようと試みたが、皮肉なことにそれが逆に共同体を救う結果になった、ということだった。

 トランスニストリアからは、多くの若者が共産党の支配と戦うためシベリアに向かった。列車、船、軍隊の倉庫を襲撃して略奪し、共産主義者たちを大きな困難に陥れた。定期的にトランスニストリアに戻ってきては傷を癒し、家族や友人たちと共に過ごして、またシベリアへと戻って行った。にもかかわらず、いつしかシベリアの民はトランスニストリアに共同体の根を下ろし、この地は第二の故郷となった。

 沿ドニエストルの住人については、ほとんど知識はないのだが、なんとなくインドとパキスタン・バングラデシュやトルコ・ギリシヤのように元々混在して暮らしていたが、なんらかの紛争などをきっかけに帰属意識によって住み分けがなされ、ロシアにシンパシーを感じるモルドバ国内の住人は沿ドニエストルへ、ルーマニアまたはヨーロッパ世界にシンパシーを感じる人はモルドバ側に分かれたんだろうか、ぐらいに思っていたが、多分そういうわけではなさそうである。

(つづく)

Windows8.1からWindows10にアップグレードしてみた

 今日から盆休みに入り、前から通知が来ていたWindows10へのアップグレードをやることにした。自動更新を無効にしていたが、そのレジストリキーを削除して再起動すると、すぐにアップグレード通知が来て、言われるままに進むうちにトータル時間20分ほどで割とあっさりとアップグレードが完了した。以下、簡単なメモを書いておきます。

 事前準備として、以下のことを行った。

  1. 事前情報をウェブで検索
  2. 必要なファイルのバックアップ
  3. WindowsUpdateがすべて適用できてるか確認
  4. ウイルス対策ソフトのWindows10への対応状況を確認

 バックアップに関して、私はCドライブのファイルだけバックアップを取っておくことにした。多くのファイルは別ドライブに保存しているので。あと、普段よく使っているソフトやウイルス対策ソフトなどの常駐ソフトがWindows10に対応しているかどうかの確認は各自の状況に合わせてやっておく必要はありそう。

 タスクトレイのGWXのアイコンをクリックし、ダウンロード状況を確認すると、以下のような画面が出る。

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 「それでは、アップグレードを開始します」と出るので、「同意する」をクリック

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 「今すぐアップグレードを開始」をクリックすると、以下のように進む。

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 「Windows 10の更新を構成しています」が出るので待つ。

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 100%になる。

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 自動的に再起動される。トータルで3回再起動されたはず。

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 アップグレードは3段階に分かれるようで、まずはファイルのコピーから。

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 この画面だと全体で25%進んでいて、ファイルコピーは85%進んでいる。

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 確か、25%過ぎで再起動がかかり、30%あたりで再開したような。機能とドライバーのインストールという第2のフェーズ。

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 70%過ぎで再起動がかかり、75%から設定の構成という第3のフェーズへ。

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 そして、再起動がかかり、起動すると「すぐに使い始めることができます」という画面が出てくる。「簡単設定」に罠(?)的な臭いを感じつつ、いったん簡単設定で進むことにする。

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 背景色がグラデーションで変化する「しばらくお待ちください」の画面。子供に邪魔をされながらのアップグレードなのであった。

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 なんとか、ニュースで見たことある画面が起動したのだった。なんでもこの壁紙写真(Hero desktop imageというらしい)を撮るのに2億ドルかかったなんて話が出てたけど、ほんまかいな。

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 Windows10は世間的にはあまり、大きな話題にはなっていないようだが、以前、私がWindowsを使い続ける理由というエントリーにも書いたように、一応、Windowsの最新OSは抑えておこうか、ということでアップグレードしてみたのだった。ひとまずは普段使いのアプリは動いてるようなので、しばらくダウングレードせずに使ってみます。

祝! ヒマワリ開花

 ふと思い立って、福島ひまわりプロジェクトに参加したわけだが、なんとか開花までこぎつけた。昨日から久々の雨降りだが、ここのところ晴天が続き、ちょっと水をやらないとすぐに葉がしおれてしまうので、毎日の水やりはもはや日課となっている今日この頃、こうして花が咲いてくれるとやはりうれしいもので。

 植物を育てるのは小学校以来である上、草ぼうぼうの小さな畑の草取りから始め、土作りをし、ほとんど一から育てたわけで、試行錯誤の連続でいくつか反省点はあるが、まずはなんとかこのプロジェクトの肝である「種を送る」ことができそうだ、ということで、正直ホッとしている。

 ただでさえ、育児や仕事で忙しいところにこんなことを始めてしまった一つの理由は、実のところ、締め切り効果が大きかったように思う。たまたまこのプロジェクトのことを見て思い出し、あまり考えもなくシャロームさんにメールしてしまった、というのが本当のところで。

 ヒマワリは育てやすい品種、とのことだが、それでもいろいろと迷うことは多かった。今回は畑の「開墾」が間に合わず、植えられる面積が思ってたよりも少なくなり、植え付け間隔を狭めにしてしまったのが反省点で、あと動物対策をしてなかったため、ビニポットから移植したての頃に畑を荒らしに来たサルにまだひょろひょろだったのを何本か折られるなどしたが、無事残りのは育ってくれた。

 意外だったのは、ビニポットでは育ちの悪かったのも、地植えに移植するとそこそこの大きさに育っていること。あと、日当たりによって育ちに差が出ているのもよくわかった。

育ちが悪かったのもそこそこの大きさに育った
育ちが悪かったのもそこそこの大きさに育った

 今回は実験的要素は少なめで、とにかく種が取れるところまで育て上げるのが最大の目的なので、このまま採種のフェーズまでいけるといいのだが。鳥が種を食べに来るという話もあるので、鳥対策ぐらいはした方がよいのかどうか。

 まだ、1割ほどしか開花していないが、あと一週間もすれば、「満開」となるだろう。台風が来るまでになんとか実ってほしいところ。

ヒマワリ開花

どうしたらカートに乗ってくれるのか 《新米パパの育児日記》

 さて、父子生活3日目に突入。母恋しやの気持ちがあるのかどうかはようわからんが、嫁さんとのビデオ通話でつながると、すぐに「ママ」というので、子どもなりに何かを思ってはいるんだろう。

 子どもがずっと便秘だったのだが、昼過ぎに排泄してくれて、子ども自身の調子も悪くない感じだったので、夕方から買い物に出かけた。買い物中、しばらくはおとなしくしていたのだが、ずっとカートに乗せられるのは苦痛らしく、途中でグズリ始めてしまい、これはあかんと抱っこするが、それも嫌らしく、とにかく歩かせろの一点張りで、どうしょうもなく、周囲の迷惑にならないよう歩かせつつ、合間に食品をカゴに放り込むという作業を続けたのだった。

 幸い、まだ売り場の間を歩くだけで満足しており、商品を手にとったりはほとんどしないのでいいのだが、そのうち、おやつ売り場でほしいものをゲットしないうちは一歩も動かんぞ、とかなりそうで怖い。

 しかし、スーパーでおとなしくカートに乗ってくれる方法は何かないものか。現状で出来る事は、手早く済ませるか、一旦店を出て、他の店に行くぐらいしか思いつかない。

 ググるとやはり同様の苦労をされてる親御さんは多いようで、絶対に乗ってくれない子どもも結構いるようだ。そういう場合、片手で抱っこしながらの買い物になりかなり大変。男の私でも二の腕の筋肉が相当に鍛えられた気になれるほどなので、女性だともっと大変だろう。今のところ、商品を触ることは少ないので、まだいいが、触りまくる子どもも多いようで、これからさらに活動的になるとすると先が思いやられる。

 昨日は走り回っていると、少し年上の子どもがあやしてくれた。その子には妹がおり、年下の子の扱いに慣れている様子が伺えた。子どもは子ども同士で視線を交わしており、そうした交流を通じて、いろんなことを学んでいくことになるのだろう。あまり自分よりも年下の子と相対することはなかったが、これから年下の子とも交流するうち、いろいろと視野が広がっていくことも期待できるかもしれない。

子どものしつけはどうしたらいいのか

 一時的に父子家庭になって2晩が過ぎた。昨晩は試しに鉄板の寝かしつけでない方法をいろいろと試したが、なかなか寝てくれずに困った。結局、こちらが先に寝てしまったようで、気がついたら、足元で寝ていたのだった。

 乳幼児は眠たくなると手足が熱くなる、という、犬の尻尾みたいな大変わかりやすい指標があり、昨晩も足が相当に熱くなっていたので、私が寝落ちするのとほぼ同時に寝たのではないかと思っているのだが。

 そういうわけで、特段「寝かしつけ」をしなくても、一応、入眠はしてくれるのであるが、寝入るまで寝室の端から端まで転がりまわる儀式が必要らしく、それにつきあうのもなかなか大変なので、だいたいはユラユラ抱っこなどして寝かしつけることが多い。子どもに睡魔が襲ってきて、コテンと寝てしまうこともあり、そういうときは寝かしつけは不要なので、楽ができる。

 乳幼児の日常の世話は概ね、食事、オムツ、ネンネだけやっておけば、最低限なんとかなる。ただ、猛烈にグズる場合があり、原因がわかればよいが、いつまでたっても泣き止まないときなどは絶望的になる。昨日も何度か執拗にグズる場面があったが、最近は原因が分かることが多いので、いくらかそういう面では楽になった。最近のグズリは概ね、物への執着の場合が多く、自分の物だと思ってるものを取り上げると、癇癪を起こしてしまうことがあり、そういうところは注意している。ただ、かといって、甘やかしすぎになってもいけないのだし、なかなかバランスが難しいところ。

 育児のイロハも知らずに育児生活に突入して戸惑うことばかりであったが、最近はようやくお互いペースがつかめてきたところがある。しかし、いくつかの点でまた試行錯誤が必要なところがあり、例えば、歯磨きなどは、どうしたらうまく出来るのか、まだよくわからない。口をゆすいだりするのはまだまだ無理かと思っているが、今、ざっとググると風呂場で見本を見せるとやるようになるのだとかで、早速今晩からでもやってみよう。

 あと、最近は自分の要望が叶えられないと、エビ反りになって床に倒れこみ両足で床を踏んで抗議の意思表明をしたりするようになったのだが、どこまで要望を聞いてやるか、毎回悩む。シチュエーションによっては、叶えるわけにはいかない場合もあり、そういう場合は悩まないが、こちらがあと数分つきやってやればよさそうな場合などは、チョットダケヨと、いうことを聞いてやってしまうことがある。基本、まだ1歳半であり、叱っても理由がわからないだろうから、何か悪さをしたら、その原因を取り除く、という対応をするようにしているが、その対応にも限界がある。例えば、うちではある机の上に子どもが乗ることを黙認してしまっているのであるが、部屋のレイアウトを変えない限り、乗るなというのは難しい状況になっている。今、ちょっとググってみたが、同様に子どもがテーブルに乗るのは普通らしく、皆さん苦労されているようだ。ただ、何度も何度も繰り返して、乗ってはいけないと教えている家庭が多いようで、うーん、これはレイアウト変更した方がいいってことだな、と反省し始めたところ。

 最近、「毒親」などという言葉が普通に流通するようになり、あまり躾を厳しくしすぎるのも問題という風潮になってきているように感じる。一方、少し前までは社会が他の子どもの躾を許容する空気があったが、最近では親がモンペの可能性があることもあって、他人の子どもを注意できる空気が急速になくなっており、親が全面的に躾を担当しなければならず、こういう精神面は一定の答えというものはないので、判断に迷うことがある。私は、自由放任で育てられ、そのまま何の疑問もなく大人になってしまったようなタイプの人にあまりよい印象を持っていないので、一定程度、親の価値観を押し付けて、反発させた方がよいと思っているが、これも程度問題で、行き過ぎはよくないだろう。

 沖縄に滞在していた時に子どもが子どもらしくしているのを見て、いつから「内地」の子どもはこうなってしまったんだろう、と思ったものだった。多分、大人の社会の規範がまだ機能している、ということなんだろう。同じことはウクライナの田舎でも感じた。大人が他の子どもを叱っている場面を何度か目撃した。蹴りを入れたりして、少々やりすぎではあったが。

 人類の進化の上で、子どもは一定のつながりのある社会の中で育てるようになっているはずで、ここ最近のように個別に親がそういう面まで負担しなくてはならない状況は相当に特異な状況なのではないか。こういうのは都市部の問題で、人間関係の濃い田舎だとまだ機能している、と思う向きもあるかもしれないが、意外と田舎でも同じようなもんだと思う。昔はよかった、と嘆いていても仕方がないし、今あるのは、様々なプロセスを経ての今であり、それなりの合理性はあるだろうから、何とか適応していくしかないのだろう。