ヒマワリ開花から1ヶ月

 東日本で猛威を振るった台風だが、今のところ、今季こちらに何度か来たものの、甚大な被害にはならず、ほとんどのヒマワリも頭を垂れて持ちこたえている。ただ、場所が悪いところで育ったのが花の部分の重みに耐えられずに折れてしまった。1本折れているのは確認していたが、今日確認したところ、さらに数本折れていて、このところバタバタしていて世話が出来ていなかったが、何か支柱にもたれかからせるなどの対処をすべきだったようだ。

 とはいえ、ほとんどは収穫を待っている状態となっていて、あと判断が必要なのは収穫のタイミングぐらいだが、シャロームさんのサイトでは「開花後40日程度で、花托の裏が黄色みを帯びてきた頃が収穫適期」とあり、開花はちょうど一ヶ月前なので、次の連休あたりがちょうど収穫第一弾となりそうだ。

 ついでに植えたトマトとナスについては、よく実がなるのとならないやつがあり、なぜそういう結果になったのかはよくわからないが、今、冷静に考えると、ミニトマト以外はあまりうまくいかなかったようだ。原因はいろいろあるが、施肥のタイミングを間違えた(あるいは足りなかった)ということだろうと思う。

 一応、ゆくゆくは自然農法などにも手を出してみたいと思っているのだが、現実的に考えると、あまり畑仕事に時間が割けないというのもあって、まずは今、主流のやり方でやってみようと思い、始めてみたものの、それですら簡単ではないことがわかった。

 誰もが多忙な現代社会で仕事や日常生活以外のことに時間を割く、というのはなかなかに大変なことだ。映画「そして父になる」で、子供に対し「何でも独りでできるように」という方針で子供と風呂も一緒に入らないという福山雅治演ずる多忙なエリート社員に対し、リリー・フランキー演ずる街の電気屋さんが「何言ってんの。時間だよ。子供は時間」と詰め寄るシーンがある。何でも、この映画の監督自身が多忙でなかなか家に帰れないときに娘から「また来てね」と言われたことがショックで、そのことがこの映画を着想するきっかけとなった、ということらしいが、実際問題、今の日本の現実では仕事が出来る人には仕事がさらに回ってきて、仕事人間になっていくようになっていて、働き盛りと育児期間は重なってしまうので、育児に時間を割くには、いろんなことを「諦める」必要が出てくる。しかし、そんなことでは生き難くなるばかりであり、この悪循環を断ち切らない限り、よりよい社会にはならないだろう。(余談だが、リリー・フランキー演ずる電気屋は育児に多く時間を割く「よいパパ」である一面、慰謝料名目であちこちでガンガン領収書を切りまくる金に汚い印象も残すが、出身は滋賀県という設定らしい・・・)。

 今の今、諸事情あって、当面しばらくの間、育児から「解放」された状態となり、何に時間を割くか、今日久々にToDoリストを眺めながらいろいろと考えていたが、祖母の死後にすべきだったことなどが、まだまだ山のように残っていて、メインは映像編集作業としたいところなのだが、この期間にどれほど進められるか。こんな風にブログ更新してる暇があったら……という声が聞こえてきそうであるが、少しずつでも進めたいとは思っておりますところで。

 ヒマワリから話が脱線したが、ヒマワリの採種まであと一息のところまでやって来た。あとは台風が来たり、鳥に狙われたりしないこと祈るばかり。

開花1週間後ぐらいにこうべを垂れ始めたヒマワリ
開花1週間後ぐらいにこうべを垂れ始めたヒマワリ

うちの1歳半の子供の取扱説明書(2)

 我が息子の取説つづきです。普段おもろいな、と思ってることをいくつかあげておきます。

●「パ」と言って、物を渡す

 特に意味はなし。リアクションしてもらえることを確認するのが目的、と考えられるので、受け取ってあげる。渡されるものは、何かそんなには大切ではない物が多い。散歩中だと道端に落ちている松ぼっくりとか、室内では手近な日用品や床の上のゴミなどが手渡されることになる。ゴミについてはすぐに目の前で捨てたりするのは忍びないが、ゴミはゴミだと教えるためにも、最近はすぐにゴミ箱に捨てるようにしている。

 ちなみに、床の上のゴミを口に持っていく、というのも、まだまだやることがあるので、ズボラな親ではあるが、基本的に床掃除は拭き掃除とかよりはやるようにしている。

●大人を操縦する

 自分がしてほしいことをまだ口に出して言えないため、編み出した技。立っている大人の後ろに回りこんで、膝の後ろ辺りを掴んで方向転換させて、その目的物のところまで連れて行こうとする。スイッチオフされているおもちゃのスイッチをオンにしてくれ、などの要望があるときに使われる。

●音に敏感

 雷や車が通る音など、家の外で聞こえる音に敏感に反応する。トラックのような大きめの音が鳴ると外が見えるところに走って行く。ただ、雷や飛行機の音など空からの音に対しては怖さを感じるらしく、不安そうな顔をする。そういう場合、怖くない、ということを話し続けると安心するようだ。

 当地では、防災無線で外作業の農家のためにまあまあでかい音で11時、4時にサイレンが、正午には音楽が流れるのだが、昼寝中の安眠妨害となっていて我が家では不評。サイレンが鳴ると起きてしまうため、最近はサイレンが鳴ったら寝ているところに飛んでいって、添い寝してやると、また「二度寝」してくれることがあることに気づき、気がついたらやるようにしているが、昼寝の場合は起きてしまうともう寝ない、ということが多いようだ。

●テレビなど映像は好き

 基本的にはまだ映像は見せないようにしているが、親が見ているテレビを凝視していることはよくある。ただし、たまに見せる子供向け番組を見るときの熱視線ほどではない。ネット動画などを見せることもあるが、これらも静かに見てくれるので、忙しい時などには大変便利であり、これから徐々に見せるようにするつもり。ただ、映像の影響力は半端なさそうなので、注意深く見せる番組を選ぶ必要はありそう。

●夫婦げんかしてると笑い出す

 どういう理屈か知らないが、夫婦げんかの最中に子供もハイテンションになり、キャッキャキャッキャと笑い出すことが何度もあった。あと、夫婦の間に割って入って肩をポンポン叩いたりすることもあった。こういう場合、子供は自分に罪悪感を感じたりするものらしく、あまり子供の前で夫婦げんかをしない方がいいとは分かってはいるのだが、なかなか言うは易くってやつで。というか、夫婦げんか自体しない方がいいわけであるが。

 夫婦げんかのない家の多くはどちらかが我慢してる説、というのがあって、私はこの説の信憑性は割りと高いと思っているので、言いたいことはお互い口に出して相手に伝えた方がいいと考えている。一応、世の中には我慢するでもなく夫婦げんかをしないカップルが稀に存在する、というのも実際そうだとは思うが、うちはそういう家ではなさそう、というのは結婚前からわかっていたことなのであった。

●オムツを替えようとすると逃げる

 オムツ交換時の儀式みたいになっているのがこれ。おとなしく替えさせてくれる時もあるが、オムツを外すと一目散に逃げていく。悪い場合、逃げた先でオシッコしたりするので、出来るだけ逃がさないように捕まえるが、振り切られることもよくあり、神経戦が続いている。

●自分の逃げ場を持っている

 逃げる先はだいたい決まっていて、寝室の方かU字型のスペースになっている場所に向かう。U字型のスペースの方はそこに逃げたとしても袋小路になっているため、逃げてもすぐに捕まるのだが、なぜかそこに好んで行こうとするので、そこは彼の「サンクチュアリ」ということにしてやって、よほどこちらが急いでいる時以外は、基本的には親が立ち入れないスペースというような位置づけにしている。我慢強く、こっちおいで、とか言っていると根負けするのか、だいたいは来てくれる。急いでるときは「土足」で踏み入ることもあるにはあるが、こういうのは出来る範囲で、ってことで。


 以上、思いつくまま書いてみたが、おそらくこの多くはこれぐらいの年齢の子供であればやるようなことなんだろうと思う。1歳半あるあるとかあるんだろうか。

 最近はあまり、育児関係の本や雑誌、サイトなどは見ていないが、年齢に応じた対応が必要になるので、定期的に最低限の情報摂取はしといた方がいいのだろう。

 ネットは情報過多で時に私のような育児に無知な親の不安をかき立てるような記述が目について、その真偽のほどを確認するために無駄に時間を消費することがあり、こういう場合は、太古からの人類の歴史に思いを馳せて、自分なりの落とし所を見つけるようにしているが、それでもやはり有用な情報が多くあり、いろいろとピンポイントで情報を発見できる素晴らしいツールなので、必要に応じて、上手に使いこなしたいところ。振り回されることの方が多いが……。

うちの1歳半の子供の取扱説明書(1)

 嫁さんと子供が家を出ていって3日目、今日も静かな朝を迎えました……。帰ってくる予定はあるそうですけど、帰らないかもとか言われておりまして、学生時代以来、人生とは何ぞや、と考える時間が増えたような気がする今日この頃です。

 さて、割りと実用目的(?)でうちの子供の取扱説明書ってのを書いてみようと思います。公開する意味があんのか、ってのはありますが、「パブリック」志向の今の時代ならでは、ということで。もっとも、私はあそこまでやるつもりはないけど。

 というわけで、早速始めます。

●グズった時の対処法

 だいたい抱っこしてやるなどして相手をしてやると止むことが多い。グズる理由は眠たいがトップで、そういう場合はユラユラ抱っこで寝かしつけると寝てくれる。時々オムツが不快とかの場合もあり、うんちは臭いですぐにしたことが分かるし、時々気張っていて、その後、何か訴えるような視線を送るので大抵わかるが、親が気づけないこともあるので、時々ウンチチェックは必要。他にお腹すいたのときにグズることあり。

 その他、「退屈」でグズるときもあるようで、こういう場合は、なかなか大変。普段はいかない場所に連れて行くなどすると落ち着くことがあるが、それでもダメな場合があり、そういう時は最後の手段で、おやつや子供向けジュースを与えることになってしまう。出来るだけ最後の手段は使わないようにしているが、効果てきめんなので、外出時や何か他に用事をしているときなどについ使ってしまうダメ親である。

 他に、おなかが痛い、とかもあるのだと思うが、こればっかりは分からない。大人でも腹具合が悪くなることはよくあるので、子供もあるに違いないとは思うが、仮にそれがわかったとして、どう対応すればよいのやら……。ふと思ったが、夜中になぜか泣き出すことがあり、あれってお腹が痛いとかだったりするのだろうか。

●おもちゃ

 ありがたいことに、うちには貰い物のおもちゃがいくつもあり、遊び道具には事欠かない。お気に入りのおもちゃは日が経つにつれ少しずつ変わっているが、今のお気に入りは車などの直方体の物体で、両手に車を持って床や机の上を動かしているのをよく見かける。

 子育てしてると生まれながらの性差を感じることが多く、やはり男児は車が大好き、というのを肌で感じる。おもちゃだけでなく、実際に動く車も大好きで、車が通ると大抵そちらの方に向いて、見えなくなるまで熱いまなざしを送り続ける。

 小物系では車だが、比較的図体のでかいおもちゃでは音楽の鳴るおもちゃを好むようで、あの玩具のスイッチを入れてくれとせがむこともよくある。その中でも大ヒットはターンテーブルが2個あるDJブースみたいなおもちゃで、嫁さんが某リサイクル店でたまたま見つけたものだが、当初はそんなにお気に入りではなかったものの、月齢が上がるにつれ、このおもちゃの前にいる時間がだんだん長くなった。とにかく日用品でも何でも何か新しいアイテムを手にしたら、まずはこのおもちゃのターンテーブルに乗せて回して眺める、という行為をするようになっている。

 見ていると、ターンテーブルが二つあるため、テーブルの上にある物が予測不能な動きをすることがあり、両方のターンテーブルに物をぶつかるように載せると確かに面白い動きをする。こういうのはある程度遊ぶと飽きてしまうことになりがちだと思うが、この前に座らせておくと他のおもちゃよりも長時間遊んでくれるので、こちらが用事をしているときなどはありがたい存在になっている。

ターンテーブルが2個付いたDJブースみたいなおもちゃ。いろいろ仕掛けが有り、あちこち押すと様々なゴキゲンな曲が流れる。
ターンテーブルが2個付いたDJブースみたいなおもちゃ。いろいろ仕掛けが有り、あちこち押すと様々なゴキゲンな曲が流れる。

 商品名がどこにも書いていないが、なんという名前のおもちゃなんだろうか。いろいろ検索ワードを変えて検索してみたし、類似画像検索もしてみたが、分からなかった。外国製の可能性もあるんかも。

 ちなみにまだ「飽きる」ということは知らないらしく、まったく遊ばなくなったおもちゃは基本的にはなく、どのおもちゃも適度に遊んでいるようだ。

●食事

 明確に常にこれは食べない、というようなものは今のところなく、お腹が空いていたら、だいたい食べる。しかし、昨日食べたものでも今日は食べないとか、その逆とかはしょっちゅうで、昨日食べなかったものでも今日食べることは大いに有り得るので、毎回、食べないかもしれないと思いつつも一応食卓に出してみる、というのが最近分かってきたコツ。

 主食については、パンも食べるがご飯の方がいろいろとこっそり野菜を混ぜることができるので栄養バランス的にはご飯の方が食べさせやすい。パンは気分次第では口にしないことはあるが、ご飯はそういうことは少ない。

 熱いものをやるとベーッと出すので、やはり出来るだけ冷まして食べさせたほうがいいみたい。おいしくないものも出すこともあるが、今のところ、そういうのは少ない。子どもが嫌いな野菜で有名な(?)ピーマンとか人参、ナスなどもご飯に混ぜて食べさせると出すことはまずない。

 関係ないが、ふと、ほうれん草嫌いの子どもに食べさせるために作られたキャラクターのポパイを思い出して、ほうれん草が嫌いってどういうことと疑問に思っていたが、ポパイの「ホウレンソウの缶詰」って実際はどんな見た目なの?を読んで分かった。缶詰という時点で変だと思っていたが、そういうことだったんだな。

●言葉

 まだ、「ママ」以外はほとんど意味のある言葉を話さない。宇宙語を一日に何度かゴキゲンな時に話す。稀に「ネンネ」とか「パパ」「ワンワン」などと言う時もあるが、こちらがパパと言っても、ママと返すなど、母親と父親の間にある圧倒的な差はまったく埋まらず、それどころか開く一方である。

 「オソト」「サンポ」「オムツ」「ジュース」「バナナ」「アマイ」などいくつかの単語は確実に理解している。言葉でサンポというと一目散に玄関の方に飛んで行くし、ぐずっているときに「バナナ」という単語を出すと顔がパーッ明るくなるのでそれと分かる。他にもこういう反応はしないが分かってそうな言葉はいくつもありそう。

●絵本

 もちろん自分ではまだ読めないが、せがむことが多い。出来るだけ毎日何かしら1冊は読むようにしている。うちにはお下がりの絵本がたくさんあるのだが、多くは年長さん向けか小学生向きで、1歳向きの絵本は少なめなので、図書館などで借りるといいのだが、乱暴に扱うことが多いので、躊躇している。絵本は意外とそこそこ高価なので、そんなには買えないが、少しずつでも買ってやりたいと思いつつ。。。フリマとかに出てそうだが、この辺りでフリマはあんまやってないんだなー。

 私は絵本はほとんど読まずに育ったので、絵本の効用はあまり実感としてよくわからないが、あれだけ推奨されているし、悪いこととは思えないので、もっと年齢にあったものをやはり読んでやらないといかんのかもと、書いてて思った。

(つづく)

子育てについて思うこと 「親があっても子は育つ」

 我が家は私も嫁さんも他の家の子供についてよく知らないので、うちの子供がよその子供に比べてどうなんか幾分気になるものの、どこがどうだとかよく分からない。散歩してて出くわす同じ集落の人たちの言から、年齢の割に身体つきがまあまあしっかりしてるらしいことは分かるが、まだ話したりは出来ないので、どんな子なのかまだようわからん。

 親としてのささやかな願い(?)はあまりお互いに依存しすぎないようにし、時期が来たら自立出来るように育って欲しいし、こちらも可能な限りそうなるようにサポートしようと思っている。ただし、あまりに距離を取り過ぎるのもよくないだろうし、しんどい時はしんどいと弱音も吐けるようにもしておきたいところ。

 方針としては、過保護でもなく、自由放任でもないところで、親がある程度、方向性を押し付けることでそっちに向かうもよし、反発するもよし、ぐらいを考えている。

 最近思うのは、子育てはどうしても自分自身が育ってきた環境が大きく影響してしまう、ということで、私自身が5人兄弟の4番目という、現代日本ではかなり特殊な環境下で育っていて、自分の育ち方を自分の子供の子育てに適用してもいいのか悪いのか、ちょっとまだ答えは出せていない。

 一般的にはまだ1歳半程度の段階で個性がどうとか見極めるのは早過ぎるので、基本的にはしつけはせいぜい二段階程度にして、紙を破ったり、ティッシュを散らかしたりするようなのはアカンといいつつも大目に見るが、道路で車に向かって飛び出すとか、アツアツのやかんやストーブとかに手を伸ばそうとした時など本気でアカンやつは、ややきつめに言う、という程度にしている。こんなんでええのんかもようわからんが。

 しつけについて、ロシア語圏では「日本では3歳まではうるさくしつけせずに自由にさせて育てる」という神話が広がっているらしく、何度か聞かれたことがあるが、何なんだろう、あれは。「三つ子の魂百まで」がねじまがって解釈されて伝わっているのか。

 ただ、自分で実際に育ててみて、結局、それに近いことを自分がしている、という自覚がある。好奇心旺盛ということはよいことであり、その芽を摘むようなことは出来るだけしないようにしたい、というのがあり、包丁やお湯など危険なものがあるキッチンスペースや風呂・トイレ・玄関などには入れないようにしているが、それ以外は割りと自由にさせている方だと思う。

 都市部在住なら同月齢の子供がわんさかいるだろうから、うちの子が比較的どうなのか、よくよく分かってしまって、焦ったりするのかもしれないが、幸か不幸か、そういう環境になく、あまりそういう方面では心配することはない。ただ、保育園に行きはじめている同月齢の子供はすでに他の子供とのふれあいに慣れている、というのはあって、うちの子供はまだまだ子供同士でのコミュニケーションはうまくできない、ということには気づいているが、また別の日、街中のショッピングゾーンにある子供スペースで積極的に他の子供に働きかける姿勢が見られるなど、外向性があるのかないのか、その時の気分で変わるようで、まだよくわからない。一般的には3歳ぐらいまでは子供同士で遊ぶというのは出来ないとされているみたいなので、焦らなくてもいいと思っている。

 核家族化が進み、子育てが孤独な「孤育て」になってしまって、社会と切り離され孤立感を深める親は実際多いだろうと思う。保育料やベビーシッター料金を払えば何とかなるが故に、実親であっても気軽に頼りにくい空気感がある。ネットのおかげで同じ悩みを共有できる仲間を見つけることは可能だが、実際に彼らがオムツ交換などをしてくれるわけもなく、共働きの場合、どちらかが病気したり、仕事で缶詰になったりしてしまうと、もう生活破綻の瀬戸際に立つ、ということになる。もし片方が仕事で身動き取れない状態の時にもう片方が病気になったらどうなるのか。今のところ、幸いなんとか切り抜けられているが、いつそんな事態が来るとも限らず、なんだか薄氷の上での生活が続いているような実感がある。

 私は自分自身が比較的抱え込んでしまうタイプだからという理由にかこつけて、抱え込まないように予防線を張る、ということを普段からせっせとやっているような気がしているが……、歳を重ねて、自分的にちょっとこれは厚顔無恥かもなぁ、というようなことでも許容するようになったように思う。

 最近「子育ち」という言葉が用いられるようになっている。「子育て」ではなく「子育ち」。ググるとこんな文言があった。

以前、「子どもを産まないと決めた」という若い女性と話したことがあります。「子どもを育てるという重い責任をとりたくない」と彼女は言いました。

「子どもを育てる」という言葉の響きには、とても大きな責任が含まれています。もちろん子どもを育てるのは一大事業です。でも、そのことを怖れることはありません。子どもは生まれてくるもの、そして育つものです。

 私も長い間、自分自身が子育ての責任などとても背負えるような人間ではない、と子供のない人生を想定して生きてきたが、こうして子供を育てるようになった。坂口安吾はかつて「親がなくとも、子が育つ。ウソです。/親があっても、子が育つんだ」と書いた。この考え方は別に最近生まれた考え方ではないが、ようやくこうした考え方が世間一般に浸透してきているようで、よい傾向だと思う。こういう考えがもっと一般的になると、多くの人が子育てに対し過重な責任感を背負わないようになるだろう。こういうマインドに訴えるのって、意外と少子化対策でかなり重要なことなんじゃないかと思うのだが。

 実は今回は「うちの子の取説」みたいなのを書こうとしたのだが、なんだかあさっての方向に行ってしまった。次回はもっと具体的なのを書きます。

ダークツーリズムについて 長島愛生園を訪れたときの話など

 ダークツーリズム:「負の遺産」を旅しよう 専門雑誌創刊という記事が出ていた。

 私はもう少し若かった頃、「観光」という行為に違和感を覚えていた時期があり、その時は観光よりも「観暗」「観闇」の方に心惹かれていた。まだダーク・ツーリズムという言葉があることは知らなかったが(Wikipediaのダークツーリズムの項によると、この言葉は1996年に提唱されたのだそうで)、当時、オウム真理教のサティアン詣での観光客のことで批判的な意見が出ていて、あまりそういうことを表立って言える雰囲気ではなかったと思う。

 記事によると、創刊号は長島愛生園についての特集があるようだが、ここには私も瀬戸内を自転車旅行をしていたときに「一旅行者」として行ったことがある。次の日の予定は前の日の晩に地図を眺めて決める、というような行き当たりばったりの旅行だったため、ちゃんと計画して行ったわけではなく、園までの経路が上り下りが結構あるようなぐにゃぐにゃの山道で思っていたよりも時間がかかり、到着した時にはもう日が暮れようとしていたと記憶している。

 当地を訪れたのは、2000年問題のデスマーチで大いに疲弊した後、会社を辞めて自分を取り戻すために自転車旅行に出た時のことなので確か2000年年代初頭だったと思う・・・と書いて、写真が残ってないか調べたところ、一枚だけ撮ったのが見つかった。生活の場でもある園内の様子を撮るのはさすがに憚られ、案内図だけ撮影したのだろうと思う。

長島愛生園案内図の看板
長島愛生園案内図の看板

 私は事前情報なく訪れたため、まずは事務所に行って、園内に足を踏み入れてもいいのかどうか尋ねたところ、どうぞどうぞ、という感じだったので拍子抜けしたが、とにかくいきなり入所者の方に出会っても挨拶程度にして、礼を失した態度を取らないように気をつけていたのを記憶している。

 園内では歩いている人は一人もみかけなかったが、視力をなくされた方のための盲導鈴(駅や図書館などの公共スペースで一定間隔で鳴っているピンポーンのチャイム)代わりのラジオがあちこちで鳴っていたのが印象的だった。この場所ではNHKが、他の場所では民放の○○局がなどと決まっていて、散歩中に自分が今どこにいるのかが分かるようにするためのものだ。

 園内を回っているとき、時々、他県ナンバーの車が数台通ったのも記憶に残っている。私が訪れたのは2002年だったが、当時からすでに「観光」の対象地ではあったようだった。

 島の周辺で人々と話すと、メディアなどでは聞こえてはこないような話も耳にした。よくある「逆差別」のような話でここに書くほどのことでもないので書かないが、まあいろんな声があるものだなぁ、と思った。

 ダークツーリズム自体にいろいろ意見はあるだろうが、その場に行ってみるとその後も関心が持続する、という効果は確実にあるので、私はダークツーリズムには肯定的である。事前学習は最低限はしておくべきだろうが、あまり構えなくてもいいと思う。まずは現地に行ってみて、出来れば現地の方にお話を聞く、というだけで十分だと思う。

 ただ、こうしたダークツーリズムで難しい面があるのは、体験者に話を聞くことはとても大切なのだが、ほじくり返してまで聞くべきではない、ということで、実際、ハンセン病患者の方が「一見」の訪問者に胸の内を述べることに対し、葛藤が生じることがあるという話を聞いたことがある。一見の訪問者に自分の人生の大切な部分を少しの時間で語り尽くすことなど出来るものではない。その方は訪問者に語ったその日、眠ることができなかった、という。

 とはいえ、そうしたことに配慮しつつも、重く感じすぎて無駄に避けるものよくないと思うし、迷ったらまずは行ってみる、ぐらいの「軽さ」で現地に足を運ぶのもよいことだと私は思う。

 よもやと思って、Googleストリートビューで見たところ、長島愛生園も訪問出来てしまうことがわかった。人間回復の橋を見ると、私が行った時は橋の手前の道路の真ん中に管理人のいる建物があったが、今はなくなっている。

 こうしてストリートビューで行った気になれる時代であるが、行ってみないと分からないことがたくさんあって、長島の場合だと、周辺との距離感とか、瀬戸内の気候の良さ、盲導鈴という音など視覚以外で感じるものはストリートビューからはつかめない類のものだろう。

 今、思い出したが、原爆投下の日に広島に行った時、灯篭流しの灯籠を子どもたちや観光客が作っている脇で地元の方と思われる方がスタッフに対し、「原爆の日はもっと厳かにお祈りするべきだ。こんな賑やかなイベントにするもんじゃない」という主旨のことを主張していた。その気持ちはわかるが、後世に伝えていく場合、ある種の「陽気さ」がないと続かないと一方で私は思っている。チェルノブイリ支援に携わる方も同様に「楽しさがないと続けられるものではない」ということを言っておられた。

 ついでに言っておくと、福島の観光地化については、総論では賛成だが、私はやはり、東京からこの話が出て来るべきではなかったと思っている。こういうのは体験者自身の止むに止まれぬ気持ちから自発的になされるべきであって、すでにこういう形で遍く知れ渡ってしまうと、同様のプロジェクトを発案して始めたいと思っても、二番煎じ感が出てしまい、運動も盛り上がらないことになりはしないかと危惧する。もっとも「東京も体験者であった」と言われると、福島から遠く離れた関西人としては、確かにそれはそうだが、となってしまうのであるが。

 ただ、あずまんは今もチェルノツアーを継続してるみたいで、事前準備の手間やら何やら考えるとまったくペイしない事業だと思うが、ようやってはるなと思う。ゲンロンのチェルノツアーの本も類書がなく、チェルノブイリについてほとんど知識のない人が現在のチェルノブイリの現状を知るとっかかりとしてはよい本だとも思ったし。ゲンロンの福島本は全体として私にはいただけなかったが、一部の著者コラムによい文章があり、全否定するものではない。ただ、どうしても「東京のお洒落文化人が福島をネタに妄想を膨らませてみました」感を田舎者としては感じないわけにはいかず、心穏やかには読めなかった。それぞれの方はそれぞれ真摯になされているつもりなのだろうけれど。

 話を戻すと、私が行った時はまだ出来てなかったが、「長島愛生園歴史館」が2003年に出来ていたようで、今は学びの場としての整備が進んでおり、さらに、「日生から長島愛生園をめぐるクルージング(参加無料・要申込)」というスタディツアーもあって、ちょうど数日前の8/29に第一回目が実施され、「長島愛生園が初のクルーズ運航 隔離追体験や人権侵害の歴史学ぶ」という記事が出ている。どうも今後、継続して実施される予定はないようであるが、出来ればこうした試みが続いて欲しいと思う。