「田舎暮らし」カテゴリーアーカイブ

毎年恒例の河川愛護清掃に参加

 地区で毎年春に行う河川愛護清掃に今朝参加した。それなりに上流部だが、空き缶やペットボトルなどポイ捨て系のゴミとか、家庭ごみなどがやはりある。あと、マルチなどのビニールゴミや農地仕切り用の波板など、農業関連のも多い。

 今日聞いたのは、もっと上流部の地区だと、洗濯機とかテレビとかの家電系も出てきて大変らしい。特にこうした大物家電は有料化されたこともあり、不法投棄はあとを絶たないようで。

河川愛護清掃_ゴミ
河川愛護清掃_ゴミ1 小物が多いが傘なども
河川愛護清掃_ゴミ2
河川愛護清掃_ゴミ2 ビニール袋を手にそぞろ歩く
河川愛護清掃_ゴミ3
河川愛護清掃_ゴミ3 3時間延長とあったので、石油ファンヒーターの一部か? しかし、そんなもんまで不法投棄するか
河川愛護清掃_人形
河川愛護清掃_ゴミ4 首なしの人形。元はなんだったんだろう。

 いつも参加して思うのは、ゴミをポイ捨てしないでおこうとか、流れていかないようにしないといけないな、などと思うようになるので、清掃自体の意味もあるが、啓発の意味も大きそう。子供の時からこういうのに参加しておくと、ポイ捨ての罪悪感半端なくなるので、いいことかと思う。強制参加をいやがる人もたくさんいそうだが。。。

近江県、琵琶湖県? 滋賀県の県名変更についての個人的意見

 私の住む滋賀県の県名変更が話題になっている。

滋賀が「近江県」に? 県名変更案に県は複雑

 しかし、私の周囲で話題になっているのは聞いたことなく、個人的にはあまり関心が持てない。というのも、私は滋賀県最北部に居住しているが、県立図書館など、県立の施設は最南部に集中していて、正直なところ、滋賀県民であることのメリットはほとんど感じられない。最北部県民としては、県名変更などどうでもいいから、この南北格差をどないかしてくれ、というのが本音だ。

 首都移転の話だと、候補として出てくるのは、岐阜、三重などなどで、根拠はやはり真ん中だから、というもの。それでいくと、県庁は真ん中当たりがよいわけで。彦根ぐらいなら、下道で一時間程度でいけるので我慢できるが、大津までは南部の渋滞もあって、ちょっと車で行く気になれない。ついでにいうと、鉄道だと大津で下車する理由はなく、大阪や京都まで行くことになる。

 もっとも、大津に県庁所在地が置かれたのは、明治新政府の彦根藩への嫌がらせ、という話もあり、また、ネット情報では、別の説として、新幹線の駅を設置させなかった彦根在住勢力の陰謀なんて話もあるが、この辺りはちょっとよくわからない。

 先日、神戸の北、兵庫県の中山間部に行ってきたのだが、行き交う車も少なく、人影もまばらで、京阪神地区のベッドタウンとして発展を遂げる滋賀県南部なんかよりも、「同じ境遇」にある感じがしたものだ。多数決が支配する今の世の中では過疎地域の声はかき消されてしまうので、こういう地域同士で連帯していかないといけない時代なんじゃないかと思ったりしつつ。

篠山の武家屋敷群
人影もまばらな篠山の武家屋敷群・・・

 ここで、道州制、という話になるわけだが、道州制になると、過疎化に拍車がかかるという話も確かにある。しかし、いずれにしても、このままでは未来が見えないわけで、コストが膨大にかかるだろうが、個人的には長い目で見て行政コストが削減される道州制には賛成かな。今の時代、都道府県という単位はちょっと中途半端な大きさなようにも思うし。

 とはいえ、当面、そう簡単に道州制に移行できるとは思えないし、現実的に都道府県という単位はそれなりに機能し続けていくことになり、この中でなんとか解決策を見出していくしかないだろう。書いてて途中で気づいたが、明日は県議会選挙だった。現状追認するだけのような候補者でない未来を見据えた候補者に投票したいもので。

 候補者の皆様のご健闘をお祈りいたします。

篠山線廃線跡
一部にレールがまだ残る篠山線の廃線跡

地域再生の現場でのよそ者の意見

 先日、オコナイという祭りに参加した時に、普段はここに居住していないが、行事や草刈り人足の時などだけ顔を出される方と過疎化が進む地域の今後について話す機会があり、いろいろと考えさせられた。

 その方はこの地域で生まれ育った方で、子育てもしばらくはここでしていたが、子どもの教育のことなどなどで街に移住された(ちなみに滋賀県内での人口移動はほとんどがより京阪神に近づく形となる北から南への移動となっている)。

 その方曰く、地域の今後については、自分が実行部隊として関わることが事実上無理であり、そういう状態で意見を述べるのは無責任の誹りを免れず、自分としてはここに住む人たちが決めたことをとにかく応援していきたいと思ってる、ということだった。

 私は、うーん、とうなってしまった。そこまで「重く」考えていることに驚いたのだった。意見を言うことはむしろいいことだと思ってもいるので。「ここから出た(逃げた?)」という負い目があり、そうした感覚になるのか、とも思ったのだが、私なんかよりも深く地域に関わってきた分、見えるものも違っているのだろう。

 一応、私も子どものときから夏休みや冬休みになるとここに来て、大半の期間を過ごしていたものの、住み始めたのは 20代後半からで、しかも長期に出たり、一時、住所移転などもしたりしていたので、常時居住者とは言い難く、消防団なども免除してもらっている立場であり、地区の何年にも渡る長期間の事業や試みに積極的に関わることはしてこなかったし、今後もちょっと難しいと思っている。そういう立場なので、私も基本的なところはその方と同感なのだが、ここのところ、歯が抜けるように地区の中心的メンバーが亡くなったり、居住地を街に移す動きが出てきていて、このままでは本当に地域消滅の事態を私が生きているうちに迎えてしまうのではないか、という危機感が芽生え始めたところである。

 折しも、中央では「選択と集中」という名のもと、無駄にコストのかかる過疎地を切り捨てようとする動きが出ており、内外からじわじわと消滅の脅威にさらされているのが実情である。

 こうした中、どのように地域の今後を決めていくのか、住人の方でも焦燥感はあれど、どう動いていいのかわからない、というのが正直なところではないかと思う。ここでも行政や外部の有識者、大学関係者の方々が地域を盛り上げようとこの地域にコミットする動きが出ているものの、地域の方では危機感はあるが、「よそ者」(あえてこの言葉を使う)とどのように接していけばよいのか、決めかねている面もあって、事態は流動的である。

 このあたり、事態は「心理戦」の様相を呈している、という話もあって、将来が見えない状態が続くと、前途ある若い世代や子育て世代が見切りをつけ、さらに地域消滅を加速させてしまう可能性がある。そして、その動きがすでに始まっているように思う。

 私自身、身一つであれば、ここをベースにして生きていこうと思っていたのだが、はからずも妻子を養う立場となり、子どもの教育や嫁さんの仕事のことを考えるとここに住み続けるのはちょっと現実的ではない、と考え始めているのが正直なところだ。

 では、どうしたらいいのか。このまま地域が消滅するのを手をこまねいて眺めているしかないのか。

 私はやはり地域外の人を巻き込んだ動きを始めないと未来がない時期に来ていると感じている。長らく地域のことで動いてきた方いわく、この地域では都市部などからIターン者を受け入れようにも、そうした土壌がまだ出来てない、とのことで、空き家に地縁のない人を受け入れるにも、家の仏壇をどうするのか、隣近所のつきあいや役を同様にやってもらうのか、などなど、いろいろと現実的な課題がある。特にここの特色は「真宗地帯」と呼ばれ、地区の行事が宗教行事と一体化しているところがあって、都会の人の感覚では受け入れがたい面もあるのではないかと思っている。もっとも、その辺りは事実上、外部の人がそれぞれの「嫁さん」「旦那さん」という形で集落に入っていて、すでに多数派となっており、配慮や遠慮があって、もはや昔の田舎のイメージにあるような「参加強制」はほとんどなくなっているのが現実なのだが。

 オコナイの場では、さらに、ここには住んだことはないが時々村の行事に参加する方も議論に参戦してきて、もう少し広い視野で物事を見てはどうか、という上から目線的なことを言ってきたので、3人で激論になったのだが、3者の間に大きな溝があるのを感じざるを得なかった。

 結局、外の人の意見はそれはそれでもっともで立派なものが多いのだが、現実的かどうかという点では必ずしもそうではなく、いかに住人の意見に耳を傾けて、受け入れ可能な案を出せるかにかかっているんじゃないかと思う。とはいえ、せっかくの意見を無碍にし続けていると、村のことを思って関わっている人も、なんでこんなに思っているのに、報われないのか、という「片思い」状態に耐えられず、自然と足が遠のいていく、ということになりかねず、それは双方にとって不幸なことだろう。

 外部の人が自分の意見を受け入れてもらうようにする手っ取り早い方法は足繁く通うこと、これだけで多分十分なのではないかと思う。そして、草刈り人足に参加するなどして「一緒に汗をかく」こと。そうすると、この人の言っていることは村の未来にとって少なくともマイナスではなさそうなので、一丁乗ってみるか、という気にさせられるんではないかと思う。

 私は山間地で水量も豊富なこの村で、今年から今まで難しかった集落内の用水路整備への補助金が出るようになったとのことで、小水力発電を導入してみたいと思っているのだが、どこまで主体的に関われるのか、と問われるとなかなか……な状態で自分の課題も山積みな中、そんなことに手を出せる状態ではないのだが、出来る範囲の模索はしていきたいと思っているところ。

 ふと、ここで福島の状況にも似たようなことが言えるじゃないかと思ったのだが、また今度ということで。

47都道府県を踏破した私の生涯経県値

 私が学生だった頃はまだ今ほどは海外旅行は当たり前ではなかったと記憶するが、外国語大学に行っていたこともあって、私の周囲には海外長期滞在経験のある人が普通にいた。話を聞いてると、そういう人の多くが日本のことをより深く知ろうとしているように感じられ、それなら先に日本のことを知ってから海外に行く人がいてもいいじゃないか、と思ってしまって、あるとき、私は47都道府県すべてに足を踏み入れてから外国に行くことに決めてしまった。気軽に海外に行ける時代にこんなことをしても何のメリットもないと思うので、若い人にはおすすめしないが、実際のところ、学生時代の私は、お金がなくなったら働く、というような生活をしていて、格安海外旅行がまだ一般的ではなかった時代の当時の私にはそれだけのお金をかける価値が海外旅行にはなかった、というのが大きかったように思う。

 そういうわけで、47都道府県すべて踏破したのが30歳のときだった。出張で山梨に出かけたとき全都道府県踏破するためだけにわざわざ首都圏を横断して最後の未踏破県であった茨城県に行ったのだった。その1年後、初海外でロシアに行き、その後は毎年のように外国に行くようになったが、子供が生まれ、こういう生活もできなくなりそうで。47都道府県すべて踏破したといっても、やはり通っただけという県は印象が薄く、国内旅行もしていきたいと思う今日この頃。

 自分的にちゃんと訪問できてない県を調べるには「経県値」というサイトが役に立つ。私の生涯経県値はこんな感じで
「184点」となっている。

 ほとんどの県が「4:宿泊」の県で、「0:未踏」も「1:通過」もないが、「2:接地」の県が一つだけあり、それが宮崎県。「3:訪問」(宿泊なし)の県は秋田・群馬・鳥取・佐賀の各県。目的地への通過県が多いような。滋賀県も多くの人にとってはそんな感じの県なんかも。

 経県値をはじき出すのにちょっと時間はかかるが、やってみると改めてこうしてちゃんと訪問してない県が浮かび上がるので、空き時間のあるときにでも調べてみてはいかがだろうか。

「限界集落維持のコストは 国土交通省が検証へ」の記事の感想

 年末年始は10ヶ月の赤子が初めての風邪をひいて、その世話をしたりしていたのだが、さらに手押し車を使ってあちこち暴走ならぬ「暴歩」を初めており、ひとり歩きする日も近そうで、去年の年末年始同様、部屋の模様替えと掃除で終わってしまった。そんな中、こんなニュースが出てたので、日頃思ってることなどをつらつら書いてみます。

限界集落維持のコストは 国土交通省が検証へ(NHK) 1月2日 4時13分

限界集落維持のコストは 国土交通省が検証へ
人口減少が深刻な過疎地で持続可能な集落の在り方を探ろうと、国土交通省は東北の4地区をモデルに集落を中心部に移した場合に維持する場合と比べてコストがどれだけ節約できるかを具体的に検証することになりました。

住民の半数以上を高齢者が占め、存続が危ぶまれているいわゆる「限界集落」は国の調査で全国400か所以上に上り、中でも東北地方は50か所と中国・四国地方に次いで人口減少が深刻な過疎地が多く、集落維持のコストが課題となっています。
このため国土交通省は、集落を維持する場合と中心部に移しコンパクトな街づくりを進める場合のコストを比較し、実際の集落をモデルに検証することになりました。
具体的には集落の維持にかかる道路や上下水道の費用やバスやゴミ収集車などのコストと、集落の移転に伴う費用を比較し移転でどれだけ節約できるのかを分析することにしています。
モデルとなるのは宮城県栗原市、青森県むつ市、秋田県湯沢市、それに山形県小国町の4地区で、国土交通省は現地調査をし、ことし3月までに報告をまとめます。
こうした検証は全国で初めてだということで、東北地方整備局の安田吾郎企画部長は、「限界集落の問題は、住民の合意形成が難しくなかなか解決に向かわないが、『コスト』を見える形にすることで、集落再編を進める貴重なデータにしたい」と話しています。

 ちょうど最寄りの数少ない新刊がいくらか読める書店に『地方消滅の罠』という本があって、著者の山下祐介氏の『東北発の震災論』を興味深く読んだものとして、関心分野でもあり、購入して、半分ほど読んだところなのだが、『限界集落の真実』の著者でもある氏の問題意識は自分には何かと示唆に富んでおり、興味深く読んでいるところ。

 この本では主に元岩手県知事の増田寛也氏の話題の著書『地方消滅』に対する批判という形で論が展開されているのだが、「選択と集中」という言葉に潜む「選民意識」をあぶりだした上で、対案として「多様性の共生」という概念が提出されている。過疎地の住民として、著者の問題意識はほぼ共感できるものなのだが、いかんせん「多勢に無勢」感が強く、結局のところ、現代日本で多くの人が住む首都圏をはじめとする都市部、さらに言えば、東京在住の人たちの耳にはほとんど届かないか、届いても実感を持って共感されるものとはならないのではないか、という諦めにも似た気持ちを抱かざるをえない。

 私は東京に住んだ経験がなく、東京から出たことがないというリアル知人が非常に少ないため、たまに、そうした人と会って話したりすると、地方人の常識との乖離に驚くことがある。とはいえ、そういうずっと東京に住んでいた人に地方の実態を把握してほしい、というのもちょっと無理な注文なんじゃないかと思ったりもする。

 昨年末、「またまたエコノミストの予測外れる GDP下方修正発表に記者からどよめき」というようなニュースがあり、様々な「大人の」制約でこうした予想がなされた、という話もあるが、エコノミストの多くが東京在住で地方の実態が見えてないからじゃないか、と言われたりしていた。

 今回の記事も地方の実態など眼中にない中央官僚の「限界集落は国を維持していく上でコストがかかって邪魔なので、とっとと移住しろ、田舎者ども!」という考えが背景にあるのではないか。いや、まあ、官僚の秀才の皆さんもそこまで意識的に悪意を持って考えてるわけではないんだろうけど、こうした住んでいる人の気持ちなどお構いなしに「コスト」で測るという発想は「選択と集中」の「選ぶ側」に立つもの特有の何か(要するに先の著者もいっていたが「エリート主義」)が見え隠れする。

 増田寛也という人物については官僚出身だが、岩手県知事をやってたぐらいなんで、地方出身者なんだろうな、と勝手に思ってたが、どうも東京生まれ東京育ちの生粋の東京人のようだ。(Wikipedia 増田寛也

 私は全都道府県に足を踏み入れたことがあり、結果、一番変わった人が多いところが東京で、別の言い方をすれば、東京は日本で最も多様性に富んだ街という、「日本の首都は東京です」以上ではない感想を抱いたのだが、東京人を集団としてみたときに、エゴイズムをむき出しにする都会人の集まりに見えてしまうのは地方人の僻みなのか。

 滋賀県には一部「三大都市圏」に入らない地域があるのだが、私はその地域に住んでいる。とはいえ、京都・大阪・神戸、さらに名古屋に普通列車で日帰りできるところに住んでおり、これで田舎もんとは片腹痛いわ、と突っ込まれることもあり、私が中国・四国地方や東北の限界集落の実態を本当に理解できているか心許ないのではあるが、こうした中央から忍び寄る魔の手から逃れ、いかに生き延びるか、我々地方人もそれぞれの立ち位置でできることをしていかないといけないんじゃないかと思う。